柿山 朗(元外航船員)

一、船員(職業)特殊性論
 著者は第Ⅱ部とⅢ部で船員の特殊性とその軽減策を具体的に記しているためわかりやすい。
①船員職業の特殊性を構成する三要素とは
 海という厳しい環境に影響されること、長期連続の航海ということ、大量の貨物と多数の船客を運ぶということを指す。船員職業の特殊性は人間性阻害をもたらす要因である。これらの軽減策は国民的な課題として解消しなければならない。
②特殊性とシーマンシップ
 これには、コインのように表と裏がある。筆者によれば、表とは特殊性が船員にとって不利益性があっても、それを努力で乗り超えたとき、その人は素晴らしい人物になり得るということである。裏とは船員の不利益性が軽減されず、船内が労働法規制の効力がない無法地帯に変質し人間性阻害が起きることを指す。
 船員職業の特殊性のコインの裏側の諸点を可能な限り軽減して、人間性を取り戻すことができるようにする。国や船社による施策展開と労働組合(海員)の力が不可欠であると述べる。
③もうひとつの海上の特殊性
 本誌には「内航おしゃべり広場」という投稿欄がある。
毎号のように寄せられるのは「前の会社を辞めたのは雰囲気が嫌。5人しかいないので、朝から晩まで顔をあわせる。毎日がストレスだった」「若い子が辞めて他社に行くのは上司の人柄とか船内の雰囲気」「ガミガミいう年配者がいないから人間関係が良い。他社に移る気はない」「やっぱり船は人間関係」等々。
 海は広く、船は狭い。内航ばかりでなく、外航も似たような環境にある。船員職業の特殊性に加えても良いと思われる。

二.モーリシャス沖座礁事故
 *この項、羅針盤32号参照
①事故原因調査報告
 3年前、貨物船「WAKASHIO」が座礁し、大量の重油が流出した。本年9月運輸安全委員会は調査結果を公表した。「詳細な海図がないにも拘わらず、スマートフォンの通信圏内に入る目的で航海計画を変更し、島に接近したことが事故原因」とした。
 インド人船長は、乗組員らのスマホの電波を受信する目的で島に接近するよう指示した。モーリシャスばかりでなく、マラッカ通峡後、スマトラ島に接近するなど、スマホの電波を受信するため陸岸への接近を繰り返していたという。
 更に事故原因として挙げたのが、衛星電話を用いた通話料金が高額な上、同船には定額課金制で高速データ通信ができる機器がなかったということである。
 コロナ禍のこの時期、乗組員とその家族が互いの安否を確認したいと思うのは当然のことである。著者の言葉を借りれば事故の原因は「船員のモノ化」にある。「船員職業の特殊性の軽減策」が講じられていれば、防げた事故だ。
②FOC(便宜置籍船)の今
 「WAKASHIO」の用船者は商船三井、運航管理は長鋪汽船、船籍と船主は、パナマのOKIYOマリタイムという典型的な便宜置籍船であり、実質的な船主は商船三井である。
 だが、商船三井と長鋪が記者会見を開き謝罪したのは事故から14日後、しかも会見で見せた商船三井の立場は、あくまでも用船者としての弁明だった。
 商船三井は、本船のAISの航跡のチェックや正午報告をチェックしていたのか、本船の状態を把握していたのか、多くの疑問がある。
 用船者と船が繋がるのはAUDIT(内部監査)を除けば、安全チェックリストなどの無数のペーパーで、人と人ではない。FOCへと腕を長く伸ばし過ぎた結果、指先が見えない、労働現場が見えていないのではないか。
 その後、事故を最後まで問題視し、活動したのは、FOC問題ではなく燃料油による海洋汚染を危惧する国際環境団体だったことを付記する。
③徳を失ったグローバル化
 本年6月28日の朝日新聞に「グローバル化の果て」と題するインタビュー記事が掲載された。語るのは政治学者の牧原出(いずる)さん。
 「ベルリンの壁の崩壊後の30年、世界に何が起きたか。グローバル化により富の偏在が進み固定化、徳の失墜と無関心、民主主義が劣化した」と警鐘を鳴らす。一方で、「富や情報が一部の人の意向に左右されるというこれまでの世界観への疑問も強く発せられ始めている」と言う。
 私が着目するのは、「徳」の一字である。不正義なFOC船は、「旗国との真正な関係」に戻すべきである。
 大手3社のコンテナ事業会社「ONE」は、コロナ禍の中、海運バブルで儲けたようだが、ここにも徳は無い。水モノといわれる海運の収益の浮沈に翻弄され、どれ程船員が苦渋を舐めたか。
 80年代、船員制度近代化を経て緊急雇用対策があり、「希望退職」が募られた結果、一万人の外航船員は「絶望退職」し海を去ったことを忘れられない。
不正義があれば、疑問を投げかけ、怒りの声を挙げることを自分に課していきたい。


三.人間性回復の闘い
①船員の特殊性の軽減との関係
 60年代のこの時期、船舶の自動化、大型化や専用化など技術革新と合理化が急速に進んだ。
その結果、船舶の運航はタイトになり、船内労働は強化され、休息時間は削られていった。
 これに対して、定員と就労体制を明確にし、休暇の改善、時間外労働や夜間労働の規制、船内食生活の改善。それらを求めることが人間性回復だった。
 「人間性回復」と「船員職業の特殊性の軽減」は同義語であり、同じベクトルを向く。
②72年、三ヶ月の長期スト
 学校を卒業後二年目、大阪・堺でタンカーの伊勢丸乗船中に約半月ストライキに参加した。
 何度か友誼組合ということで全繊同盟に所属する泉南の女性組合員たちとのボーリング大会への誘いはあったが、上陸してのビラ配りすらない静かなストだったと記憶する。
 だが後に長期ストには、現場船員たちの怒りと闘いの前史があったことを知る。
 65年のストライキ、組合幹部である和田、金子へのリコール運動。船舶通信士労働組合の結成。71年の労使交渉の否決による南波佐間組合長の退陣などである。
 長期ストの後、オイルショックで小山海運、私が在籍した照国海運等々の倒産があり「脱日本人政策」としてのFOC混乗が始まる。
山本泰督氏は「伝統的労使協調路線と決別し、経済民主主義の推進を内容とする革新路線を選択したのは71年から77年までの6年間を指す」とする。(経済経営研究年報・35号)

四.ネオコン的船員教育政策
 本書とは別に、15年前の「海員」海事時事欄に著者による題記の時評が掲載されている。
 船員教育研究機関では、統廃合とともに(天下りと業界代表の発言力が強い)国によって別途設立された理事会の政治性を含めた方針により、教育機関の縮小方向への加速、国家と産業界のニーズを強く打ち出せるようになったことへの危惧が述べられている。
 更に、周辺事態法成立以降は日本のネオコン的政策は憲法改正という総仕上げの段階へ入ったと危機的な情勢を語る。
 ネオコンとは、米国新保守主主義者のことで、彼らの考える自由と民主主義という価値観で、脅威に対しては軍事的攻撃も辞さない考えを持つ。経済政策としては規制緩和、民営化など市場重視の新自由主義政策の展開である。
 2007年の国交省交通審議会の中間報告で、日本の「非常時等」における日本籍船と日本人船員の規模を450隻、5500人としたうえ、トン数標準税制などの「アメ」を匂わせながら検討を進めることになった。内航船員不足への対応では退職自衛官の活用などが列記されている。


五、船員にこだわって生きて
*最後に自分の事を少しだけ書くことをお許し願いたい
①「なじみの仲間のつくり方」
 大島商船高校(高専)入学から間もなく60年、最近まで現役船員を続けてきた。長い経験から言えば、最も安穏に過ごせたのが「なじみの仲間となじみの船」に乗っている時だった、と思う。隅々まで知り尽くした船に乗るのが安心で安全であるのは言うまでもない。大切だが難しいのは仲間との関係性をどう築くかということである。私の実践例を紹介する。
 なだしお裁判(潜水艦なだしお・第一富士丸との浦賀水道での衝突事件)で知り合ったゼネラル石油労組の友人からこの労組の職場綱領を知った。
 第一項は「能力による労働者管理に反対し、互いに競争しない。一人ひとりがすべての仲間のためになるかどうかを、職場で常に判断しながら行動する」である。
 私もこれに倣い、船内で長い時間をかけ、試行錯誤をしながら、皆で論議して次の綱領を作った。
「腕をきたえ汗をながし、誇りをもって働こう」「選別や差別を憎み仲間を裏切らない」「どんなことでも皆で決める。少数意見を大事に」。
 船には組合活動をする上では、利点がある。例えば当直者以外はいつでも集まれる。作業着寄こせから○○さん解雇反対まですべてが職場要求となり得る。
 本誌・編集長の竹中さんの解雇撤回闘争は、日本郵船が相手の困難な闘いだった。勝利の決定打は、船の仲間であった辻、橋本両機関長や浦山司厨手の証言だった。
いつの時代も労働組合運動を担保するのは、職場での団結である。団結の基礎は、人と人の繋がりに他ならない。
②新船員政策について
 本書のこの章には「船員教育機関の再構築」がある。読みながら遥か昔を思い出した。
入学後、最も嫌だったのが夜中、寮内での上級生である本科3年生による下級生への「説教」という名の暴力。
 全く勉強には身が入らなかった。通知表にはいつも「商船学校生としての自覚がない」と記されていた。落第して当然だったが、私のクラスは落第イコール退学だった。理由は一級下のクラスからは、制度が変わる高専生だったからである。こうして幸運にも落第を免れた。
 真面目に取り組んだのは本科三年の文芸新聞部長だけ。この年の1月に起きた「ぼりばあ」遭難事故が私の書いた最後の記事だった。4月、晴海での「進徳丸」乗船式へ急いだのをよく憶えている。
4年目は専攻科生として練習船、汽船と帆船が半々で、それぞれに遠洋と沿岸航海実習が含まれていた。
 5年目はアップさんと呼ばれる半年の社船実習。私が乗ったのは大阪・中小労の萬野汽船。
 そこで見たのは船陸の壁、職部の壁、甲機の壁だった。練習船と社船の違いを発見する貴重な体験だった。
 最後の半年は学校へ戻り、国家試験の準備をして卒業。劣等生だが何とか甲二航に合格した。
 サンドイッチといわれる教育制度で救われた。本科と違い専攻科では倦むこともなく多少は船乗りらしくなったと思う。私にとっては得難い制度だった。
③商船教育の行方
 その後、外航では日本籍船の減少に歯止めをかける、という名目で国際船舶制度ができた。
 最終的には日本人船機長の配乗義務も消えた。船尾に日の丸を掲げていても日本人の乗らない船の出現である。その結果、外航日本人船員の海技の伝承もやがて途絶える。瀬戸内の海辺に立つ母校の校門に刻まれた「商船」の2文字もいつか削り去られるのであろうか。
(終わり)