「船員にこだわる物言い」(雨宮洋司・著)

柿山 朗(元外航船員)

一.著者にとって大切な事
①商船船員は軍人ではない

 海軍の予備軍人に位置付けられた商船船員。二度と同じような目に合わせてはならない、これは絶対に譲ることができない。
 船員社会の再生には平和憲法下の海運・船員社会の再構築が必要だと述べている。
②船員の特殊性の把握と解消
 船員自身の人間としての幸せ度を高める方向で、少子化時代に向かう若者や歯を食いしばって頑張っている現役船員のための施策にする必要がある、と訴える。

二.戦争と世代
①著者の世代

 1940年(昭15年)生まれの著者は、厳密にいえば「焼け跡派」という戦争を記憶として残す最後の世代なのかもしれない。
 理由は、戦中派の定義を調べると「大正末期から昭和初期までに生まれ、青少年期を第二次世界大戦中に過ごした年代の人々を戦前派、戦後派に対していう」とあるからだ。
 時代背景と私の名前、神国日本を信奉した父、父との調和を目指した母の夢、海軍船員からの距離感の醸成、戦後の貧困な国民国家の時代等、パーソナルヒストリーが語られる。著者にとっての戦争は幼いとは云え、身体を通じて得た「記憶」の中に残る。
 1949年生まれの私などは完全な戦後派で戦争は「歴史」として自ら学ぶことでしか始まらない。そこに世代による大きな違いがある。
②戦中派への敬意
 「定年直前まで、現場で血のにじむような努力をして去っていった。その真面目な働き」、「船員労働の実態を知り尽くした人たちによる船内平和と安全への執念」。「先輩船員たちの個人的な思い出として」航行中、自衛艦に遭遇しても敬礼を絶対にオーダーしなかった船長。
 著者がアフリカでの荷役中に瀕死の重傷を負った時、人間味あふれる対処をとってくれた先輩、中東での荷役中現地の作業員に追い回された時、身体を張って間に割って入り助けてくれた甲板次長等々。
こうした記述は著書の随所に見ることができる。
③戦中派の退場
 戦中派の最後を昭和5年(1930年)生まれとすると終戦時は15歳である。
 1984年の海造審の中間報告はFOCなどを日本商船隊の一部と認め、混乗導入を求めた。翌1985年は、プラザ合意の円高により日本人による日本船の運航は困難とされ、外航では緊急雇用対策として大量の船員の首切りが始まる。
 この年、30年生まれの船員は55歳となり、特例で船員年金を受けることができたから、この世代の多くが希望退職募集に応じ、船を去った。残った若手船員からは高度成長と日本海運の興隆期を過ごした彼らへの「怨嗟」も聞かれたが、戦中派船員による、著者の言う「日本的」判断だったと思う。
 だが、喪ったものも大きい。島原半島、能登半島や新潟村上など船員を育む風土から船員志望の若者がほぼ絶えた。この点はどうしても指摘しておきたい。
④少年船員たちの犠牲
 手元に少年船員募集のビラがある。『ルソン島、米奴殲滅の天王山。船が要る、船員が要る。父兄と教導者は海上輸送拡充の緊迫を知れ。満14歳以上は直ちに船上特攻隊員たれ』(船舶運営会船員局、昭20年1月29日発行)。
 戦没船員6万のうち2万人は20歳未満の少年船員である。戦没の時期は8割以上が昭和19年から昭和20年8月までだ。戦争末期に多くの少年船員=戦中派が犠牲になったことは間違いない。
⑤わたしにとっての戦中派
 1980年に始まったイランイラク戦争は8年間続いた。84年春、私の乗る昭洋海運・VLCC伊勢丸は用船先の丸善石油から原油積みのためイラン・カーグ島へ向かうよう指示を受けた。当時のカーグ島は積み荷桟橋で荷役中のタンカーがイラクのミサイルで被弾する危険な状態だった。だが、海員組合は外国船の様子を見ながら安全な状態が続いた場合は、カーグ島への就航を認めていた。
 伊勢丸はカーグ島の手前に位置するラバン島の陰に投錨した。
 二航士・船内委員長の私は船内大会を開いた。議論が沸騰し整理がつかない中、W操機長(ナンバン)が「平和な国からひとりとして犠牲者を出してはいけない。軍隊は船員を守らない」とひとこと言った。バシー海峡での戦闘で肩から背中にかけて大きな傷を負っていることを乗組員は皆知っていた。 船内大会はカーグ就航拒否を結論とした。
 私は船内大会が終わると船橋へ戻った。私に代わり当直をしていたI船長は「ストップアンドゴーとかゴーアンドストップとかまるで言葉あそびやな」と組合方針を批判し、「ワシが責任を取るから、思い切って何でもやれ」と、私の迷いを吹き払うように励ましてくれた。
 私は荷主の丸善石油、会社と海員組合への決議文の送付を決断した。それから三日後、サウジ・ラスタヌラへの積み地変更が決まった。
 I船長は北朝鮮・新義州からの引き揚げ者だった。憲兵だった父親は家族を日本へ帰し、敗戦の混乱の中、自らは自決したと聞いた。私は戦中派であるW操機長とI船長を忘れない。


三.アジアにおける共生
①船内での共生

 著者は、混乗船における船内での優位なルールとして、仕事上は「安全をキーワードに強制力を伴う実践」、一方船内生活では「互いの人権を尊重することを基本にした合意形成への努力」の2点をあげる。
 そして、今必要なことは、人権を尊重し、軍事力に封印してグローバル社会における日本人船員の平和的なセンスの提示だと説く。
②富山における「共生」の実践例
 著者は富山商船高専に文系の新学科「国際物流学科」の新設に尽力する。この学科の特徴は、英語は必修とし、ロシア語、ハングルと中国語を選択必修としたこと。更に英語圏に加え環日本海諸国(ロシア、中国、韓国)へ出掛けての異文化体験学習の履修を求めたことである。
 この目的は、学生たちが近隣アジア地域の人々との共生を肌で感じながら学ぶ機会となるようにしたものだ。そのうえ学生の自立心を養うため引率教員なしで実施することにした。
商船高専から富山大教育学部へ転籍した著者は付属小学校の校長を兼任することになる。ここでは環日本海域の付属小学校教師間の交流事業が行われる。
 関係者に共通していたものとしてリアリズムを根底に、共生社会の理解、国際的感性、チャレンジ精神の3点を挙げる。
③海洋市民育成論の必要性
 「共生」と並んで「海洋市民」という言葉が著書には頻繁に登場する。海洋市民とは「国民の心に芽生える海・船に親しむ基礎・基本の形成であり、それが海という国際舞台を背景にした日本人の真のリーダーシップにつながる人」と定義する。
 そこに、私は商船学を研究し長年船員教育に携わってきた筆者の強いこだわりを見る。「共生」と「海洋市民育成」は海に平和がなければ成り立たないと私も思う。


四.平和への危機感
①「再考」について

 羅針盤「38号」には、「船員と平和憲法の関係について」というサブタイトルを持った文章「再考」が掲載されている。
 この文は「風詠社」発行の著作には無い部分である。そこには政治状況についての著者の強い危機感が感じられる。
 例えば、政府が憲法の改正を避けて第9条の改憲解釈で集団的自衛権行使を可能にし、平和安全法という名の新安保法を策定したことに関して、いよいよ2016年度予算では、商船船員の海上予備自衛官補任命とフェリー確保のための特殊会社設立に踏み切ったこと。
 抑止力論で互いが疑心暗鬼になって軍事力増大の競争に陥り、互いの国民感情の憎悪をあおった末に、双方が防衛という名の軍事関連予算を増加させ、福祉や教育に回す予算を減少させていくこと等々。
 これからの国民国家は、武力に頼らず、共生の概念を念頭に置き、あくまで互いに個人を尊重することから湧き出る人間の英知によって、国際間の争いごとに決着をつける長期で忍耐強い姿勢が一層重要だ、と説く。
②同志国フィリッピン
 本稿では共生という言葉が多用されている。富山での実践例のように共生には他者との違いを認め合うという前提がある。
 一方、同志という言葉は本来、人と人の繋がりで使われる言葉であり今や死語だが、更に輪をかけた同志国という単語には強い違和感がある。
 岸田政権は、同志国と呼ばれる国の軍隊に対して防衛装備品を新たに無償で提供するという。名付けてOSA(安保強化支援)。これまで発展途上国の福祉や民生の安定に協力するために行われてきたODA(政府開発援助)と真逆の方針への変更である。
 日本が真っ先に同志国と名指したのはフィリピン。1980年代半ば2万数千人を擁した外航日本人船員の実乗船者は、今は千人を割り込む。代替として乗船しているのは、主としてフィリピン人船員だ。
 ドント・メイク・アス・チューズ(米・中を選ばせないで)と訴える彼らを一人として海の藻屑にしてはならない。


五.戦後も絶えない「海の藻屑」
①TAJIMA号事件

 日本入港前の台湾沖で、日本郵船が所有し共栄タンカーが運航するVLCCで起きた殺人事件である。日本人二航士がフィリピン人船員に殴打され、海へ放り込まれた。
 この船はパナマ船籍であることから日本の司法権は行使できず、パナマ当局の出方を待つことになる。二年後、パナマ裁判所は無罪を言い渡して容疑者は母国へ帰った。人を殺めれば罰を受けるという、当然のことが否定された。便宜置籍船化の結果起きた悲劇である。
 2003年7月、国会で刑法が改正され、日本人以外の者も刑事管轄権の適用が可能となった。外国人との「共生」の難しさの例として、悲劇を繰り返さない戒めとして二航士・榛葉泉さんの名は記憶されて良い。
②ぼりばあ丸沈没事件
 1969年の1月5日、ぼりばあ丸が千葉県野島崎沖で折損し、沈没した事故である。
 事故から一週間経ち、行方不明者の生存の可能性が絶望となった頃、ジャパンラインの岡田社長は「今回の事故は沈む筈の無い船に起こった信じられない不幸な出来事だった。会社に事故の責任はないが、今後の家族対策に万全を期す」と述べた。
 遺族補償について会社と組合は密議し、「特別見舞金」として支給することを決めた。見舞金とした理由は、「この海難では会社に責任はない」というものだった。こうして裁判を始めた6遺族と20遺族は別々の道を歩くことになる。
 しかし翌70年には、ぼりばあ丸と同じ20次計画造船の事故が、海域もほぼ同じ野島崎の東方海上で相次ぐ。かりふぉるにあ丸もその中の一隻である。
 手抜き溶接、検査機関からの指摘や勧告の無視を指摘しながらも、海難審判の裁決は、沈没原因と責任の追求を放棄した。
 「魔の海域」、「謎の海難」といわれた海域はただの「経済優先・人命軽視」の海だった。

次号では著者が追求する「船員(職業)特殊性論とその克服について」をテーマとしたい。


(続く)