―ひとの痛みはわが痛み―

柿山 朗(元外航船員)

一、海員産別の軌跡

①外航船員の大量解雇
 外航船員社会の崩壊は、75年船主協会会長・日本郵船社長の菊池庄次郎の「仕組船認知論」から始まる。
 翌年の年頭の挨拶で同氏は「職場委員を通じて組合員の中に企業意識を徹底させる」と語った。こうして外航日本人船員の大量解雇が始まり、87年海運労使は緊急雇用対策に合意する。 
 中央交渉で人員整理を認めておきながら、強制的な肩たたき・解雇は認めないという組合方針の矛盾。
 会社対個人という構図から組合員は逃れようもなく、労組組合員としてではなく企業従業員として海を去った。肩たたきに応じた者は自己責任とされた。

② 産別組合の基盤の崩壊

〇産別協約、産別賃金の放棄
 2002年に外航労働協約から産別最低賃金と企業横断的賃金体系の項目が削除された。戦後一貫して続いてきた賃金の中央交渉が廃止され、賃金体系から諸手当までが各社交渉に委ねられることになった。
 これは、各人の能力や業務成果への会社の査定を前提にした賃金制度への変質を意味する。これでは組合員同士が団結できない。

〇雇用の産別協定の廃止
 外航の雇用協定は、雇用の一般方針のほか各社、系列そして船団との協議で守ることが記され、日本郵船、商船三井など系列親会社の雇用責任が明記されていた。72年の90日スト後に激増した海外への売船の歯止めとして取り決められたものである。
 船舶の処分に当たって海員組合の押印がなければ、運輸省の窓口は海外売船を認めないという強い規制力が背景にあった。
 だが、2003年に協定が撤廃され、海運版「使用者概念の拡大」は、終止符を打つ。

③ 海員産別の内実はあだ花
 「本当の労働組合」=世界標準の産業別組合の種は、日本で育つうちに、世界で見ることがない土着の花を咲かせてしまった。それは咲いても実を結ばない「あだ花」だった。この土着の花こそ企業別労働組合である。
 戦後日本の労働運動は企業別組合と決別することが出来なかった。理由は、企業別組合は年功賃金、終身雇用制とともに、日本的労使関係を支える柱だったからである。』(木下武男著・労働組合とは何か・岩波新書)。 
 60年代の現場組合員は、リコールや協約妥結を否決することで組合幹部を追い詰めた。
 さらに民社・同盟路線や日本生産性本部からの脱退を迫り、政党支持の自由を勝ち取った。 
 72年には90日におよぶ「人間性回復ストライキ」で闘った。 
 現場組合員が目指したのは真の産別労組だが、企業主義は土着だけに根が深かった。海員組合は、カタチは産業別組合だが内実は「あだ花」であり続けた。

二、関生支部の合いことば

一面共闘・一面闘争
 関生支部の組織基盤は、中小の生コン業者である。セメントメーカーと大手ゼネコンの下流に位置し、交渉力が弱く原料調達価格や販売価格を買い叩かれる。しかも企業同士が互いに競争関係にある。小規模の従業員組合を結成しても、労働条件の改善は難しい。 
 そこで生コン運転手という共通の職業を持つ労働者が結集し、個人加盟の産別労働組合を作った。さらに、経営者に対し、独禁法適用除外の共同組合の仕組みを生かして中小企業協同組合の設立を促した。
 こうして関生支部は、使用者としての生コン業者とは徹底して闘う一方で業者と共闘もした。

② コンプラ活動は使命
 建設現場では、手抜き工事や法令違反が横行し、労働災害が絶えない。企業利益を優先し、いのちや健康を犠牲にする価格競争が、こうした犯罪的な不正を再生産しているのである。
 95年の阪神大震災では、新幹線や高速道路のコンクリート建造物の倒壊原因が、安売り競争による欠陥生コンにあったことが明らかになった。
 コンプライアンス活動の目的は、ゼネコンの価格ダンピングと品質軽視を規制することで適正価格を実現することにある。
 自社はもちろん、組合員のいない会社の建設現場へも行き、法令が順守されているか点検し、違反を見つければ、会社へ是正を求める。産業全体の労働環境を改善するための活動である。企業内部からの活動だけでは是正が困難だからだ。

③ 嘆くな、組織せよ
 竹信三恵子著・旬報社の「賃金破壊(第7章 国を訴えた日)」は西島大輔さんを実名で描く。
 検事は繰り返し西島さんの妻に電話し、「このような活動をしていると釈放されないかも知れない」と脅した。家族を利用して思想の転向を迫るやり方は、戦前の特高の手法として知られるが、戦後憲法の下で復活しているのだろうか、と竹信は述べている。
 大阪中央生コン事件で逮捕され、45日間拘留された西島さんは、一番悔しかったことは「接見所でアクリル板越しに弁護士から会社の解雇通知を見せられた時」と語った。
 父親が不在の間、健気に振舞っていた子供たちだが、裁判所の傍聴席で泣いているのを西島さんは見ている。 
 解雇通知を見せられた時以上に、子供たちの涙が彼を奮い立たせたに違いない。名古屋での交流集会で「今だけ、金だけ、自分だけのちっぽけな自分を変えたのは関生支部だった」と語った彼は、厳しい弾圧の中で2名の組合員を新たに獲得した。

ひとの痛みはわが痛み
 関生では自分が雇われていない企業であっても、同じ組合員である仲間が踏みにじられていたら、身体を張って支援する。
 企業の中では少数派でも、企業の外から仲間が駆けつける。そこに産別労組の特徴と有位性がある。こうして「ひとの痛みはわが痛み」のスローガンが生まれた。
 弾圧の中、やむを得ず労組を離れた700名の組合員は、逮捕された仲間へ申し訳ない気持ちで一杯であろう。だが、逮捕された組合員たちは、名古屋での学習交流会で「なぜ闘うかと言えば、組合を離れた仲間たちがいつでも帰って来られるような居場所作り」と語る。「ひとの痛みはわが痛み」は健在である。
 想起するのは、去るも地獄残るも地獄と言われた中で首を切られる者と切られなかった者が心を一つにして闘った戦後最大の労働争議「三池闘争」だ。

三、内航の未組織船員

① 内航海運のXデー
 内航海運は、国内の輸送貨物量の4割以上を占める基幹産業である。 
 20年の海事振興連盟の勉強会で、森隆行・流通大教授は「外国人労働者の内航海運への導入問題」をテーマに講演した。
 「内航海運への外国人船員導入を求める主張ではないが、カボタージュ規制(国内海上輸送の自国籍船限定)を堅持した上で、外国人船員導入に関する議論の必要性はある」と述べた。さらに「船員不足が特に深刻な一部中小船主の間では、外国人船員の導入を望む声が聞かれるようになった」とも語った。
 内航船員不足の理由は、大型、小型を問わず、非人間的な生活と労働が宿痾のようにまとわりつき、若者が来ても居つかない。半数以上が50歳代以上であり、やがて枯渇するのは見えている。
 内航の小型主力船型である499屯型などの船の乗組員は海員組合からも放置された未組織船員である。 
 このまま放置すれば、外航船同様に、多くはアジアなどの船員となりかねない。その日の到来をXデーと呼ぶ。

② 関生型労働運動を内航へ
 セメントメーカーとゼネコンをオペレーターと荷主と読み換え、協同組合を零細・未組織船主へ、適正価格を運賃・傭船料とそれぞれ置き換えれば、一面共闘・一面闘争は、そのまま内航海運の闘いに通じる。
 ゼネコンには解決できない根本的な矛盾がある。生コンを買い叩こうとすれば(ストに参加しない)アウト業者から買うことになる。ところが生コンというのは形や結果が残るから、半年、1年経てばすぐ品質がわかる。相手の中には、大きな矛盾がある。
 安全・安心の生コンを提供するため関生では、組合が自前でコンクリートの研究所を作り、「マイスター塾」を開き技能やモラルを高める努力をする。
 関生には小企業の経営安定、労働者の雇用安定、品質確保を三位一体で実現するという産業政策がある。「品質管理」を「安全運航」と置き換えれば、ここでも内航への転用が可能である。
 船員が関生型労働運動に学ぶことは多い。産別を名乗る以上はその産業と働く人に責任を持つ。産業のありかたについて代案を出し、展望を示すことが必要だ。

四、外航船員のいま

① 組合・職場委員への期待ゼロ
 羅針盤37号では「ルールに締め付けられる船内」という外航船長へのインタビューが掲載されている。
 SMS(安全管理システム)、アルコール規制そしてコロナ禍とルールに締め付けられ窮屈な船内の様子が余すところなく語られている。
 かつて5万人を超えた外航に乗る日本人船員数は2千人を切った。陸勤者等を除くと実乗船者は千人以下である。
 船長は「日本人船員は、食事が終わると個室に入りパソコンに向かう。カタフリはほとんど見られない。コロナに限らず、若い人が辞めていく率は増えているのが現状」と言う。

② 枯渇に近づく日本人船員
 「日本人船員は混乗を通じ、その優秀な技術をもってSEAN船員を指導し、その懸け橋になってほしい」(菊池庄次郎、「海運・混乗にかける私の夢」カレント・77年1月)。半世紀を経て、菊池氏の夢は砕け、外航船員を志した若者の夢も失望へと変わった。いまや海技の伝承は不可能となりつつある。
 先進海運国で最も自国船員率が低いのは日本で6%、突出して高いのがドイツの66%である(2006年調査)。ドイツでは産別労組とその産業の使用者の中央組織が交渉をして労働協約を結ぶ。その結果は、産業全体へ一律に適用される。労働者は産別組合へ個人として参加する。
 長く困難な闘いの中で勝ち取った成果である。

③ 外国人船員にとっての労組
 前記の船長によれば、以下が各労働団体へのクルーの評価である。
 「JSU(海員組合)への期待は全くない。なぜ月40ドルも取られなければならないのか。
 AMOSUP(フィリピン労働組合)は、マフィア、労働組合とは思っていない。ITF(国際運輸労連)は前者とは違う。イザという時の駆け込み寺とみて信頼している」。
 飯嶋雄二さん(元ITF東京事務所長)は、「メキシコシティ・ポリシーはITFのFOC対策の到達点だ。とりわけ非居住特別組合員には、組合内での発言権、投票権、委員会への参加権などの体制を保障すべきだが、6万人にのぼる非居住特別組合員への充分な説明がないように思われる」と、外国人船員の組合活動が保障されていないことを危惧する。

五、海員産別の連帯運動

船員版人の痛みはわが痛み

〇ジャパンライン闘争
 1985年の年末、会社から出された合理化案は、「①JSLの千人は全員解雇。②そのうち400名はJL本体へ戻す。③残りのうち希望者はJLフリートに期間雇用で残す。④その他は完全退職。⑤希望退職の調査を行うが、最終的には会社が決定する」。というもので、実質的には指名解雇提案だった。 
 それに対して次のような船内大会決議が寄せられた。「会社存続のためなぜ我々が犠牲にならなければならないのか。我々は一体である。一部の為に一部を犠牲にすることはできない。全員でできるところまで頑張って駄目なら倒産も仕方ない」。
 注目するのは、JL本体へ戻れる安泰の立場にある400名が、希望者全員が戻れない限り解決はない、と述べていることだ。

〇大日インベスト闘争
 緊急雇用対策により海員組合員が下船した後、組合神戸支部は一転して「第二会社への移籍と全員の期間雇用化」で会社と合意する。 
 一方、船舶通信士労組は分会員7名の投票による意思確認を行い、池田晃通信長の「赤石丸」下船拒否のストライキに入る。「たったひとりのストライキ」として、テレビや新聞で取り上げられた。 
 海員組合員も黙ってはいなかった。先頭に立ったのは船内委員長、二機士・皆川慶一さんである。彼は際立った行動力の持ち主だった。全国に散在する組合員を訪ねて全員の意思を統一し、六本木の組合本部では土井組合長に面会して窮状を訴えた。その結果期間雇用化を阻止することができた。
 海員と船通労の組合員同士が所属組織を越え連帯し、怨みと怒りをバネに人間の誇りをかけた闘いだった。

② 海上労働の特殊性 
 この項で紹介した「船員版・ひとの痛みはわが痛み」は2例だがもっと多くの事例が存在しているはずだ。
 なぜなら、海上労働の特殊性に由来する。船は労働の場であり、共同生活の場でもあること。  
 常時、自然への恐怖と危険に共通してさらされているからだ。
 「ひとの痛みはわが痛み」とする自覚がなければ、船員という職業は本来的に成立しない。

③ 戦前の産別運動から
 大内義夫さん(船舶通信士)は、戦前から仲間と産別労組結成のプランを練っていた。共産党員であり、エスぺランティストでもある彼は、労働運動の世界標準に通じていた。
 生前、若い私たちに対し戦前の産別組合の運動について、次のように繰り返し語った。
 「100円以下では乗らないというワンハンドレッド運動や失業者の乗船順位の厳密な遵守。スキャップ(抜け駆け)がでると所属企業は違っていても船まで押しかけて強引に引きずり降ろした。労働組合とはもともと希少な雇用機会を分かち合うための実践組織。産別組合ではたとえ企業は違っても同じ組合員であるということを忘れてはいけない」

六、労組弾圧は戦争への道

① 近づく軍靴の響き
 「関生労組を支援する会」は北海道から九州まで自然発生的に結成された。互いに連帯メッセージを交わすが、最近、目立って多い文面は「戦争は労組弾圧から始まった。戦前の轍を踏んではならない」という趣旨である。ミサイル配備、敵基地攻撃論や核共有論等々に対する共通の危機感からであろう。

② ニーメラー牧師の警句
 ナチスが共産主義者を連れ去ったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者でなかったから。彼らが労働組合員を連れ去った時、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。彼らが私を連れ去ったとき、私の為に声をあげる者は誰ひとり残っていなかった」。
 「関ナマ東海の会」は、名古屋・栄や金山で街宣活動をする。私はマイクを握るとき、ニーメラーの警句で通行人へ呼びかける。  

(終わり)