緊雇対で中小労船社はつぶされた!

山口喜春(元富士汽船職場委員

はじめに
 私は1984年12月から1990年12月まで約6年間、外航中小船主労務協会(以下中小労協)の富士汽船(現商船三井オーシャンエキスパート)に所属し、職場委員として陸上で勤務していた。
その間、組合活動を通じて緊急雇用対策(緊雇対)の渦中に身を置き、大手中核の専属会社(中小労船社)とその所属船員が消耗品のように切り捨てられたことが納得できなかった。
 海上生活29年、楽しかったこと、苦しかったこともあったが、外航船員に襲いかかった緊雇対の経験だけは、未だに痛恨の思い出として残る。当時の専属会社がおかれた状況を回顧し記述する。


専属会社の成り立ちと実態
 1963年7月、長期海運不況が続くなか、海運会社の集約を前提とした海運再建整備二法が国会で成立し、6社(日本郵船、商船三井、川崎汽船、ジャパンライン、山下新日本汽船、昭和海運)を中核会社とするグループが編成された。
 その傘下に大手基幹産業(荷主)の海運部門の色合いが濃い系列会社と、船舶のみを保有する専属会社が組み込まれた。この他に集約に参加しない三光汽船、東京タンカー、弱小船主等非系列の船社があった。
 MO(商船三井)グループには、系列会社として第一中央汽船と日本海汽船があり、専属会社には、関東地区(三井船舶系)に新栄船舶、馬場大光商船、富士汽船、板谷商船、丸ノ内汽船が、関西地区(大阪商船系)に明治海運、松岡汽船、乾汽船、沢山汽船、大阪船舶などがあった。これら専属会社は中小労協に加盟していた。
 専属会社のうち資産があった会社を除き、自己資本船は少なく、また、オペレーターとして営業をもつ会社はわずかで、その営業権も次第にグループ親会社へ吸収された。数社が上場会社であったが、親会社が大株主であり、そのほとんどが親会社からのドロップ船を管理していた。
 新造船建造を願っても、資本力がないため親会社の許可なく建造は難しかった。また、専属会社にとって海務担当役員などの重要ポストは、ほぼ親会社から送り込まれていた。
 専属各社の役割は、親会社のドロップ船の管理・保守・整備はもとより、安全運航に資するため船員を雇用・育成・配乗する海上技術者集団として、グループ親会社発展のために貢献することだった。
 船員の賃金・福利厚生は中央協定で決められた最低ベースの内容がほとんどだった。ちなみに船員費(労務費)が大手中核会社と比べ、8割以下で抑えられたためであろうが、親会社の「生かさず殺さず」のさじ加減で存続していた。
 1975年頃からコスト優先論が常に叫ばれ、「国際競争力の確保」の名目で、日本籍船の売船(便宜置籍船化)→外国人船員配乗→再用船(チャーターバック)された仕組船や新造の仕組船を投入するなど脱日本人船員化が顕著になり、専属会社にとって危機が迫ってくる。
 そうした中、わが社の経営は基本的には先に述べた他専属会社と同一であるが、大株主はMOと三井物産で若干MOの方が株式保有率は高かった。海上従業員の雇用人数は常に低く抑えられたため、当然管理船も少なかった。
 管理船以外に仕組船(パナマ籍)を数隻保有し、韓国等へ裸用船していたが、当社乗組員との混乗はなかった。管理船一隻につき仕組船二隻を保有すると採算が合うと、担当役員は海上従業員へ説明していた。
 1980年代以降、新採用は全くなかったが、混乗化を視野に入れていたのか、部員の海技士免状取得研修は熱心で、免状取得者に対し職員への登用はあった。


海員組合「減量やむなし」の誤った取組み
 この当時、世界的な船腹過剰が続くなかで、わが国外航海運は3部門(定航定期船、不定期船、タンカー)同時に赤字が続いていた。しかし、わが国の船社や商社・金融リース会社は、こぞって新造船を発注しバルカーなど504隻、採算が悪化していた三光汽船だけでも125隻のハンディーバルカーを建造していた。
 これでは過剰船腹に拍車をかけるだけで海上運賃の回復は見込めず、三光汽船は1985年8月、当時としては史上最大の負債を残して倒産した。
 1986年になると船腹過剰による海運市況の更なる低迷、プラザ合意による急激な円高等々多くの悪材料が重なり、債務超過寸前となったジャパンラインが大幅な船員削減を中心とした合理化案を組合に提示。以後昭和海運、山下新日本汽船、新和海運など大手海運会社を始め、中小船社から合理化提案が組合に続々と出された。いずれの提案も金融主導で従業員の徹底した削減整理が最大の目的だった。
 こうした状況下、船主協会は海造審で「外航船員1万人の合理化構想」を発表した。この時期陸上では、米国の要請に応えた中曽根内閣の「規制緩和政策」により、日本電信電話株式会社の民営化、国
鉄の分割民営化が進められていた。
 1986年開催された海員組合定期大会は「減量やむなし」か「徹底抗戦」かで審議は深夜にまで及び、最終的に僅差で「減量やむなし」の本部提案が可決され、以後人員の削減に向けた組織内審議に入った。
 土井一清組合長はじめ組合幹部は、船主主張のコスト論に押し切られ「ある程度の減員でなければ政策支援も受けられない」「エクセプト・ワン(海員だけ別)にはなりたくない」と「合理化=減量やむなし」へと見通しもない中、妥協していった。
 そして組織内の6カ月に及ぶ雇用対策委員会の審議を経て、その後、臨時汽船部委員会を開催し「減量やむなし」路線を決定する。この汽船部委員会でも再び激しい論議が交わされ、ある中小船社の職場委員は「首を切られるのは俺たち現場の仲間だ。首を切られる心配のない執行部員は退場すべし」と切羽詰まった発言があり印象に残っている。
 結局「黒字会社は緊雇対をやらない」「一度実施した会社は二度目を認めない」との本部答弁があり、NYK、MOを始め外労協の黒字会社の職場委員は減量やむなしに賛成していった。本部案に対し賛成と反対の差はあまり大きくなく、ギリギリの賛成票で本部案が可決された。
 この方針を受け組合は、外航二船主団体(外労協・中小労協)との間で「本人選択による特別退職制度」と「雇用開発促進機構」の設置の2本からなる緊急雇用対策を1987年3月に合意し、黒字会社を含めほとんどの船社で緊雇対が実施された。
 専属会社は海運再建整備法で位置づけされ、海員組合に守られてきた一面もあるが、この誤った緊雇対の対応により、親会社の横暴な戦略と圧力で船社ごとつぶされることになる。
 本来産業別組合として将来の船員社会を見据えた闘いをするべきところ、船員の犠牲の下で解決を図ったことは今でも許せないと思っている。


中小労協職場委員等の動き
 賃金闘争、ボーナス闘争では中小労職場委員は、ほとんど連日のように東京地方支部に集まり会合を持ち、定期的に学習会を開催するなど団結を深めていた。近代化船の推進、混乗船の導入等職場の縮小などが進むと、部員の職場確保に危惧を抱くだけでなく、船員社会は今後どうなるのかと夜遅くまで懇談しまとまっていた。
 しかし、緊雇対が始まると、親会社から自社役員を介して圧力が強まり、特にNYK系列の中小労職場委員は、団結を阻害されるような圧力を感じ、東京地方支部に顔を出せない状況におかれたりした。
 それでも心ある職場委員は組合によく顔を出し、学習会に参加するなど精一杯の努力が続けられた。しかし、組合の方針が「減量やむなし」では、団結して闘うことに困難をきたし、職場委員を代表とす
る現場の力を結集できず、各社バラバラの対応(親会社の方針通り)を余儀なくされた。
 この間、東京地方支部では職場委員と支部執行部員とで「地区闘争委員会」を設置し、「地区闘ニュース」が発行されていた。会社の「肩たたきは許さない」と、「マンガ入りイラスト」「緊雇対Q&A」など大型壁新聞が作成され、全船に配布・周知されていた。

職場委員が主に編集した当時の「ちくとう」より

わが社の肩たたき
 会社側は緊雇対期間(富士汽船の場合1987年10月~1988年2月)に入る前、三地区(本社会議室、口之津地区、石川県富来地区)で予備員集会を行い、①海運界および会社の現状、②組合との「本人選択による特別退職制度」に合意した内容、③希望あれば転職の斡旋をする等の説明を行い、退職者を待つ姿勢で開いていた。また、内地への入港船にも訪船して船内集会を開催し合意内容を周知していた。会社側は社長か海務担当役員が出席した。
職場委員としては、退職勧奨をチェックするため全集会に参加し、現場が受けた生の声を聞き組合支部に報告した。
 ところが、いざ緊雇対に突入するとMOから「退職者の数をできるだけ多く出せ」と強力な圧力があったのか、系列他専属会社と競わされることになり、船員の首切りがあからさまになっていった。
先ず船長がやり玉にあげられ肩たたきにあった。ユニオンショップから除外された組合員でない船長を、個別に会社へ呼び出し退職を強要したのだ。どんな説得をしたのか不明だが、退職後の転職先を約束したのだろう?悔しくて涙も出たろうが40代の船長5人が全員退職した。
 このことを最大限に利用して、「やめるも地獄、残るも地獄」等いまにも会社がなくなるような、不安をあおる宣伝をばらまいた。地元に帰っても転職先があるわけでもない。情報が少ない中、家族共々動揺は計り知れなかった。会社は転職先(内航、陸上等)を用意し、強引に退職人数を多く出そうと必死だった。現場船員に職場委員が「残れば雇用は確保される」「一緒に残ってがんばろう」と言っても不安と疑心感はぬぐえない。
 こうなると会社に不信感を抱き嫌気する者が職員で多く出た。加えて外航全船社に進む緊雇対の様子もわかりだし、苦渋の選択をしてやめる者が出始めた。在籍船員130余人のうち緊雇対が終わった段階で70人弱となり、5割近くがやめてしまった。退職船員の内訳は部員より職員の比率が高く、全世代に亘っていた。(残った船員をプロモートさせ、合併するまで安全運航に支障はなかったが!)
 緊雇対後、MO系列の専属会社のうち、明治海運、乾汽船等資産があり独自路線を歩むオーナー会社とMOとの結びつきが弱い会社を除き、1990~1991年にかけMOを入れた組合との協議で、二社に集約合併された。ドライカーゴを積載する会社IMT(日本海汽船、新栄船舶、馬場大光商船)と、エネルギー部門を積載する会社IET(松岡汽船、沢山汽船、富士汽船)だった。
 集約にあたっては各自の退職金は清算せず、中小労の協約を適用することは合意された。二社の業務内容はMOのドロップ船を管理・配乗する単なる船舶管理会社すなわちマンニング会社並となり、資産はほぼゼロとなった。
 ちなみにわが社の海上籍である陸上勤務員は三井近海汽船へ移籍された。


 おわりに
 中小労船社がつぶされただけでなく、船員社会を壊滅へと追い込んだ緊雇対は、外航船員1万人以上の犠牲(緊雇対期間中のみ)で終わったが、その傷跡はとてつもなく大きい。
 緊雇対を強行して以来30年余が経過したが、今では外航船員が陸上勤務中を含めわずか2200名という。2000年以降、官労使は船員の後継者育成と確保に力を入れていると聞くが、船員数は増えず緊雇対の後遺症は次世代まで続いている。
 今でも大きな疑問が残る。海員組合は、なぜ産別組合として将来を見据えた実効性ある闘いができなかったのか。「減量やむなし」=「人員削減」では、組合員が結集し団結は生まれず闘いもできない。
産業は残っても魅力ある職場とそこに働く人間が残らなければ、いずれその産業基盤は弱体化し、若者が海上労働に目を向けなくなるのは現状を見れば分るだろう。
 海員組合は、組織内方針として外航二船主団体全社的な人員削減を容認する前に、
①海造審に戻し徹底した政策
論議をし、貿易立国としてあるべき海運政策を求めるべきだった。
②外航海運全船社に合理化を
波及させることなく、経営危機にある船社は個別で対応すべきだった。
③人員削減がやむをえないと
しても実力行使を念頭に、背景にいる船社・金融などを引き出し、人員削減を撤回させるべきだった。
④そして何よりも国民世論に
海運と船員の存続を徹底して訴えるべきだった。
等々痛感・反省する。
 組合が「本人選択による退職制度」を決め、後は個人の選択に任すでは、何のための組合か。運動も闘いもない組合では、現場組合員は離れ、その存在に価値は見出せない。
 緊雇対で外航船員が大幅に切り捨てられて以降、海員組合の求心力と組織力の低下、そして組織運営の混乱と低迷が続くのは、ご存知の通りである。


   (2022・2・27)