草崎真古刀(くさざきまこと)
(元日正汽船・船長)

はじめに
 私の50数年の人生の中で絶対に忘れてはいけない(忘れられない)出来事があります。
2011年3月11日の東日本大震災です。
 毎年3月11日が近づく度に、また日本各地や世界で発生する地震等の自然災害のニュースに触れる度に当時の経験を振り返りますが、10年以上が経った今でも発災時の映像、音や匂いなどは忘れることができません。
 私はVLCCの船長として、ペルシャ湾から25万トンの原油を運ぶ航海に従事し、大分港で半分揚荷し、残りを仙台で揚荷している最中に震災に遭遇しました。
 地震発生時、どんな大時化とも異なる、経験したことのない猛烈な揺れと振動に、急きょ荷役を中断し沖へ避難することにしました。しかしパイロットは手配できず、防波堤の灯台を遥かに超える水の壁と海底がはっきり見える程の猛烈な引き波が交互に押し寄せる中でタグボートも近寄れずに断念。津波に翻弄される中で、全ホーサー切断、他船や瓦礫との接触、船体や船尾管など数々の損傷。何度ももう駄目だと諦めかけながら、必死の思いで自力脱出することができました。
 奇跡としか言いようがなかったのですが、後日、勤務会社より指示を受け、日本船長協会の「Captain」誌に掲載頂く形で作文を提出しました(平成23年6・7月号)。しかし、投稿にあたりページ数の関係や諸事情により書くことをためらったことが沢山あります。
 この度、「羅針盤」への掲載のお話を頂戴しましたので、思い出せるすべてを改めて書き留めたいと思います。
 すべて忘れたくても忘れられない内容で、「こうだったら…」や、「あのようにしていれば…」という「たら・れば」の後悔ばかりですが、10年以上経って話が大げさに膨らん
でいることは一切ありません。

一、後に知った陸上作業員の死
 まずは、どのように後悔しても後悔しきれない内容です。
 地震発生後、本船を離桟させるために津波が襲来する寸前まで桟橋設備の回収作業を行っていた数名の陸上作業員が逃げ遅れ、津波に巻き込まれて亡くなりました。
 ショアラダーの回収を試みる際、本船のクレーンで甲板から5メートルほど上に吊り下げたショアラダーの上に数名の陸上作業員が居ることを私は認識していました。
 現場一航士の「何とかします!」と言う報告とは正反対に上手く回収出来るようには見えませんでしたが、私には「陸上設備を放り投げて離桟する」と宣言する勇気がなく、いつ来襲するか分からない津波に怯えながら傍観するしかありませんでした。
 どうすることも出来ないまま時間だけが過ぎ、押し寄せた津波によって船が動き始めた時、吊り下げられたショアラダーの上を陸上の方へ走って逃げていく作業員を一瞬目にしました。
 しかし、その後は自分たちのことで精一杯の状況となり、数名の作業員が所在不明であることを聞いたのは命からがら港外へ避難し錨地に落ち着いてからで、その作業員が亡くなったことを私が知ったのは、震災から数か月後に再入港した時でした。
 着桟作業中、桟橋に慰霊碑のようなものが建っているのが船橋から見えたので関係者に尋ねたところ、「あの時に亡くなった方の慰霊碑です」と告げられました。
 私は直ぐにでも桟橋へ下りて行き、慰霊碑に手を合わせたい思いに駆られましたが、それを察した関係者から、
「キャプテンの気持ちは分かりますが、ここではあの時のことには当たらず触らずの雰囲気になっていますので、お気持ちだけで結構です」と言葉は柔らかいですが、何の事情も知らずただ感情的に手を合わせたいと思ったことを窘められ、取り返しのつかないことになっていたことに気づかされました。
 この時点では既に「作文」を会社に提出し、「そこそこ良く書けている」との評価を貰い、「無事に避難出来た」ことを手放しで喜び、まるで自分の手柄であるかのように有頂天になっていました。しかし、その陰で何があったのかを知るに従い、会社の指示とはいえ調子に乗ってあのような「作文」を書いたことすら後悔するようになりました。
 そんな中、会社から、「作文の内容を基に講演のような形で話をする場を設けたいという海運関係者や商船関係の学校がある。誰もが経験できることではない。是非お受けするように」との指示がありました。
 しかし「作文」を書いたことすら後悔し始めていた私は、「本船を離桟させるために亡くなった方がいる。まるで自分たちの手柄のように声高に話すことではない。亡くなられた方の身内や知人、関係者が得意気に話す私の姿を見たらどう感じるでしょうか? 『お前らを助けるために…』、と私なら必ずそう言う。例え会社の指示でも絶対にお受けしない」と頑なに拒否し続けました。
 私の後悔は「たら・れば」です。迫って来る津波をいち早く見つけたのは船橋に居た私です。
 走って陸上へ逃げたのでは間に合わないことを判断できたのも私です。
 あの時どうして「デッキへ飛び下りろ」と言えなかった(言わなかった)のか? 5メートルの高さから甲板の上へ飛び下りればケガをしたでしょう。でも、亡くなることはなかった筈です。
命にかかわる緊急事態に遭遇し咄嗟の判断を求められる状況下、100%正しい決断を下すことは神業だと思います。
判断を誤って考えとは正反対の結果を招くことはあり得ることだと思いますが、一瞬の判断遅れ、気の迷い、遠慮やためらいが招いた最悪の結果は一生の後悔を残すことを痛感しています。
 以降、常に落ち着いて正しいと思われる判断をすることを心掛けて乗船勤務してきましたが、果たして出来ていたのかどうか、またこれからも出来るのかどうか。

船橋から見た海面、漂うコンテナや瓦礫の数々
草崎氏提供

二、訪船中の一航士家族のこと
 判断の正否話ではもうひとつあります。
 仙台では一航士の奥様がもうすぐ1歳になる娘さんを連れて訪船していました。
 発災後に緊急離桟することを決定した際、一航士が「家族を直ぐに下船させたい」と進言に来ました。一瞬間があったと思いますが、直ちに私は「降ろすな!」と指示しています。
「理由」
*構内から出る方法があるのか? そもそも構内から出られるのか?
*1歳の子供を連れて何処へ避難するのか? 逃げる途中で津波が来たら?
*携帯電話が繋がらず所在不明になるおそれがある。
*音信不通になった家族を案じ、一航士は職務どころではなくなる。
*家族を船に残し、目が届いていれば仮に何かあったとしても諦められるのではないか?(無責任ですが)
 私は自分の妻を降ろす気は全くありませんでした。
 今でもその一航士(現船長)は機会のある度に以下のように話してくれます。
 「あの時キャプテンがちょっとでも迷ってしまったら自分の判断で降ろしていた。
 こちらが何か問う前に降ろすなと指示頂いたので間違っていないと思い従った。私の家族はキャプテンに助けて頂いた」
 くすぐったくなるような褒め言葉ですが、一方で会社からの訪船者には直ぐに降りろ!と指示しています。
 後になって思えば、何かあったときに責任を負い切れないという身勝手な考えだったのでしょう。
 強制的に本船を降ろされた訪船者は迫る津波の中、命からがら螺旋階段を駆け上り、高台まで逃げたと聞きました。
 ひとり居た女性はハイヒールのまま、後ろから「早く登れっ!」とお尻を押されながら駆け上ったそうです。
人 伝の話ですがその方は、「キャプテンに無理やり降ろされた」と話したとのこと。
 結果的に本船は一航士の家族にとって、電気・水・トイレ・シャワー、空調の効いた部屋とベッド、食事と何よりも頼りになる亭主がそばに居る避難所となりましたが、私の身勝手な判断で命の危険に巻き込んでしまいました。
 結果だけで判断の正否を言って良いものか? 今でも疑問です。


三、「たら・れば」の数々
 以下は「たら・れば」を含み、前回の「作文」では記載できなかった内容です。

1.時間調整しなければ…
 本船は震災を回避できた可能性がありました。
 当時、満船復航海時のシンガポール海峡通過は原則として日中、夜間の通過は会社と相談のうえでの船長オプションが会社のルールでした。
 当該航海では、シンガポール海峡通過が日没間際となる試算であり、VLCCで初めて船長職を執る私は途中で暗くなることを嫌いました。
 また機関長に相談したところ、「時間調整で停めてくれるなら実施したい整備作業がある」とのことだったのでマラッカ海峡西方で時間調整のためドリフティングを実施し、1stポートである大分の着桟が1日遅れました。
 もしこの時間調整を実施せずに日没間際となってでも海峡を通過していれば、大分入港は1日前倒しとなり、2ndポートの仙台は3月10日夕方、または11日午前中に出港していたでしょう。
 海峡通過の途中で暗くなることが理由とはいえ、実行し得るベストを尽くさなかった結果であったと思います。

2.上陸中の外国人乗組員の不安
 発災時、上陸中の乗組員が数名いました。
 直ちに安否を確認しなければならないところですが、彼ら(比国人)は携帯電話を持っておらず確認する手段がなく、離桟前に下船させた船員担当の訪船者に安否確認を依頼するしかありませんでした。
 しかし高台に避難した船員担当者も被災者であり、乗組員の安否確認どころではなかった筈です。
 幸い一部の乗組員は地元の住民と共に高台へ、また通船バス乗り場に居た乗組員はバスの運転手さんが自宅に避難させて下さり全員ことなきを得ていました。
 後に彼らから聞いた話では、地震が発生し何がしかの放送が流れていたが、日本語での内容は理解できず途方に暮れていたところ、通りかかった方が一緒に来いという素振りだったので高台の神社へ上って行き助かったとのこと。
 一方、通船バスの運転手さんの自宅に避難した乗組員は食事まで提供頂き、後日、船員担当と合流するまでの間とても大事にして頂いていました。
 言葉が通じず、事態が呑み込めない外国人にとって不安極まりない出来事であったと思います。
 これ以降、上陸する乗組員には、
*どこそこの会社の何丸という船で、どこの桟橋に入港している乗組員であること
*日本語が分からないこと
*本船・会社・代理店担当者の電話番号を記し、何かあれば連絡してほしいこと
*非常事態で避難されるのなら一緒に連れて行って欲しいこと
などを英語と日本語で記載したカードを持たせるようにしました。
 他社船では当然なさっていることかと思いますが、恥ずかしながら勤務先の社船ではそのようなケアは全く行っていませんでした。
 この上陸中の乗組員の安否については錨地停泊中に、「どこそこの避難所で全員所在を確認した」という情報を会社から得られ安堵したのですが、後に聞いた話では全くのデタラメで、会社の誰がどこから得た情報を本船に流してきたのか分からずじまいでした。
 本船も混乱していましたが、状況が分からない本社でも混乱を極めていたようです。
 非常時にこそ情報の整理・統制が大切だと感じました。

3.非常時の連絡は?
 非常時の連絡という点では以下のような話があります。
 発災直後は乗組員の安否や本船状態の確認、緊急離桟の準備で混乱し、状況を本社へ連絡することなど全く頭にありませんでした。
 水先人が手配できず自身で離桟させる必要に迫られて初めて「会社に連絡しなければ」と気づき電話をしたのが最後、津波にもまれ始めてからはこちらから連絡する余裕も、会社からと思われる着信を取る余裕もなく、船長室にかかり続ける電話に私の妻が応答しなければならない状況でした。
 また、離桟の協力をお願いした船員課長(船長)が見かねて電話係のような恰好になってくれましたが、頻繁に鳴り続ける電話に腹が立ったのでしょう、VDRに次のような音声が残っていました。
 「うるさい! 今は本船から連絡している状況ではない! 落ち着いたらこちらから連絡する! ガチャン!!!」
 本社ではTVに映し出される津波の映像を見て気が気ではなかったのだと思います。
 震災以降、本船と本社間での緊急連絡訓練が頻繁に実施されるようになりましたが、シナリオ通りに電話やメール、ファックスを使って実施される訓練では全く現実味がなく、必要な情報を誰がどのような方法で確実に伝達するのかが毎回訓練後の課題となっていました。

4.妻と娘に重なった偶然
 私的な内容ですが、仙台に訪船していた私の家族のことを記します。
 仙台入港日の10日は私の妻と長女が訪船していました。
 妻は出港日の12日に帰宅する予定でしたが、大学入試の面接を控えていた長女は11日午後には帰宅しなければならず、長距離の移動になることから仙台~伊丹の飛行機を利用する予定でした。
 ところが11日の朝食中に長女が突然、「やっぱり新幹線で新大阪まで帰る」と言い出したのです。「時間がかかるから飛行機にしなさい」との妻の言うことは聞こうとしませんでした。
 一度言い出したら人の意見を聞かない長女ですので、「そこまで言うなら…」と、仙台市内を観光してから新幹線に乗ることにして妻が仙台駅まで送って行きました。
 仙台市内を観光して長女を新幹線に乗せた妻は、天気が良いので松島観光に行こうと思い立ち仙石線で移動を始めたのが12時過ぎでしたが、移動の途中で突然吹雪になったこともあり、「寒いので帰ろう」と思い直し船に戻ったのが13時頃だったようです。
 もし予定通りに二人で仙台空港に行っていれば津波で孤立、あるいは空港線の電車内に取り残され、あるいは松島観光に出かけていれば津波に巻き込まれていた可能性があったでしょう。
 結局、長女は東京駅を出発した直後に発生した震災の影響で緊急停車した新幹線内に数時間閉じ込められ、妻は本船上で震災に遭遇したのですが、突然、新幹線にすると言い出した長女、吹雪になったので予定を変更して帰船した妻、どちらも単なる偶然ですが不思議なものを感じます。
 新幹線に閉じ込められた長女には、もうひとつエピソードがあります。
 遠距離を移動する長女のことを想い、妻はグリーン車をあてがいました。緊急停車した新幹線内で、震災の発生を携帯電話のニュースなどで知った長女は、仙台港に居る親のことが心配になり泣き出してしまったそうです。(本人談)
 そこへ、同じ車両に乗り合わせていた俳優の西田敏行さんが、「お嬢さんどうしたの?」と声をかけてくれ、事情を話したところ、「それは心配だね。でもきっと大丈夫だから…」と気にかけてくれたとのこと。
「あの人は間違いなく良い人だ!」は、長女の感想です。


  
5.乗組員、関係者に感謝
 津波に揉まれた本船はワイヤーやホーサーをプロペラに巻き込み、スターンチューブが破損した影響でLOが流れ出し、主機を運転すると海水が機関室側に流れ込んでくる状態でした。
 仮修理を行う喜入港までSLOWで走っては停まり、停まってはSLOWで走りを繰り返し、喜入までの長時間を寝ずの番をしてくれた機関長を始め機関部の皆様には本当に頭が下がりました。
 津波で22本すべての係船索を失ったうえに、係船ウインチのブレーキライニングもすべて焼き切れてしまい喜入に行っても着桟は出来ません。
 本船が喜入に入港する数日間で、不足する係船ワイヤーを手配し納入の手続きをしてくれた本社や船具屋の手際の良さに感謝してもし切れず、また3月の寒さが残る中を暗くなっても甲板照明を点けて遅くまで作業してくれた乗組員には、今でもどのようなお礼を言っても足りない気持ちです。

6.ウエスでオムツ作り
 喜入到着を目前に控えたある時、一航士が真剣な表情で私の部屋に来た際は家族の具合でも悪くなったのかと息を吞みました。
 「キャプテン、大変言いにくいのですが代理店に依頼して下さい。錨泊したら子供用の紙オムツを持って来て欲しいです…」
 数日で帰宅する予定だったために紙オムツが底をついたとのこと。取りあえず多少の汚れなら我慢して使っているが、さすがに限界とのこと。
 どうしたものかと悩んでいたところ、機関長から「白ウエスを切ってはどうか?」と提案があり、「それだ!」とばかりに甲板部全員で白ウエスでオムツ作りをしたことも、ようやく笑い話にできるまでになりました。

7.泣き出すのが関の山の私
 やっとの思いで喜入に入港しても、それで終わりではありません。
*喜入で揚荷を終えた後に、入渠地まで走る為のスターンチューブ仮補修とそれに伴うバラスト調整、その他付帯作業
*直径42mmの係船ワイヤー計22本の巻き取り、焼き付いたブレーキライニングの交換
*荷役設備の作動・安全確認、荷役準備
*残っていたカーゴの受け入れを許可して頂いた喜入基地への事情説明
*管区海上保安署への事情説
 明
*仙台で上陸し、所在不明になっていた乗組員のケア(仙台から秋田へ→日本海経由で大阪→喜入まで移動)
*入渠準備
 乗組員は皆、苦情ひとつ言わず必死でした。
 私は仮修理港である喜入に錨泊し、工務担当の監督が舷梯を上って来るのを見て、「良かった。これで助けて貰える」と思った瞬間、ポロポロと泣き出すのが関の山でした。


おわりに
 後日談ですが、喜入港で下船した一航士の奥様は帰宅途中に親戚宅に立ち寄った途端に発熱。しばらく親戚宅で寝込んだそうです。現実とは思えない大変な災害を目の当たりにして緊張していたのでしょうね。
 話は発災直後、本船が津波にもまれている最中に戻りますが、窓から見える状況に一人で居るのが恐ろしくなった私の妻は、一航士の奥様と娘さんを船長室にお連れし、仙台市内で購入したお菓子でお茶していたそうです。それぞれの場所で皆さんが色んな経験をされたことを知ったのも後々になってからです。
 私がCaptain誌に投稿した「作文」によって、「船長だけ」が注目される結果となりましたが、陸上作業員と乗組員一人一人が、それぞれの持ち場で与えられた以上の働きをしてくれたことが、本船が無事に避難出来た要因であり、10年以上経った今でも忘れることが出来ない(忘れてはいけない)経験であると考えています。

 私はあの「作文」以降、自分から進んで震災の話に触れることは避けてきました。それは先に記した「取り返しのつかない後悔」があったからです。
 最近では入港する先々で「あの時の船長ですね⁉」と問われることもすっかりなくなり安堵もしていました。
 しかし、今回このような機会を頂き、熱いものが喉元を通り過ぎたからこそ、自らの経験をしっかり思いだして突然発生する自然災害に備えることが大切だと改めて考えています。


(2022・2・15)