―石井英明氏の足跡から―    
                             柿山 朗(元外航船員)

一、昭和30年代の息吹き
① 大阪海員クラブ「赤道」 

 戦後、戦闘的な海上労働者の拠点として海員クラブが各地の港に置かれた。寄港船員や失業船員のための宿泊所でもある。設置は戦前のボーレンのような存在を根絶させる目的もあった。
現存するのが大阪安治川沿いにある大阪海員クラブである。
 その管理を務める渡辺照子さん(94才)から贈って頂いたのが、昭和31年(1956年)から7年にわたり発行された機関紙「赤道」(1~46号)である。
 この時期は三池争議(59年)、安保闘争(60年)と重なる。労働運動、大衆行動が高揚した時代を背景に「赤道」でも、現場船員が作り出す多くの活き活きとした活動が紹介されている。次はその好例である。


② 胸を張る若い衆(赤道38号)
『N港のことだ。出港が昼過ぎだというのに9時になっても甲板員3人と機関員4名が昨夜から帰らぬという。それぞれがトランクなどを持って行った気配があるというので船内では騒ぎになった。
彼らが上陸前、事務長に給料の前借を要求したが、事務長は、お前らには取りまえがない、と頭から拒絶、みんなふくれていたこともわかった。この事情が船長やちょうど来船中の課長の耳にも入った。ともかく二航士以下が探しに出かけた。
 足取りをたぐってまもなくボロ旅館を突き止めた。ところがこの7人、昂然と「要求があるから船長・機関長に旅館にきてもらいたい」とやったものだ。叱るどころではない。ともかく帰船しなさい、いやだ、要求をどうする、ともんだ挙句、帰船してから不満、要求を善処する、不利にしない事を約束させ昼頃に帰った。  
 そして、課長を前にこの若いもん達は臆せずに言った。給料の前借をさせてくれ、甲板部上長は古ワイヤーや荷粉の金をポケットしている。上長の態度は横暴で仕事が過重だ、等々。
 彼らの言い方はまとまりもなく不満も単に日常茶飯のそれだ。だが物おじしない面々には課長、船長の説教もあまり通じない。 
 暴露された上長の非行などは共同生活では明るみに出れば決して小さくない。「生意気だ、首にしろ」と息巻いていた連中も一気に若い者に呑まれた格好となった。むろん強制下船させるにも、交替が直ぐあるような会社ではない。7人とも乗ったまま今に至っている。』
 この騒動の報告者は次のように結ぶ。「船内秩序の形式主義と非民主的ありかたに反抗した血気の7人の侍が、課長などの権威に対して堂々と不満を曝け出したことは尊いと言えないだろうか」。
読後感は痛快のひと言である。海上労働を知る者なら若者たちに共感するだろう。


二、若潮丸争議
※若潮丸:戦時標準船改E型貨物船、山田海運所属(四国船主)、870トン、飯野海運チャーター、荷主中越パルプ
① 要求提出 於大阪港
      (赤道38号)
 昭和36年(1961年)、未組織船で自ら労働組合をつくり、待遇改善に挑戦した例がある。若潮丸争議の中心人物は操舵手、石井英明氏。
 争議のきっかけは労働災害。3月の凍りつくような北海道室蘭港で、同僚のH操舵手が誤って船倉に転落し、重傷を負うという事故が起こった。ところが会社は一銭の見舞金も出さず、逆に不注意者呼ばわりしたのである。次の要求項目は船員の場合、安全闘争が人権闘争と通底することを示す。
『①25人定員を守り3人以上欠員にするな。
 ②食料は船団並みとし、有給休暇中は食料金を支払え。
 ③手紙を開封するな。
 ④船内へラジオ、将棋、蓄音器、レコード月2枚支給せよ。
 ⑤旧軍隊の毛布を直ぐ取替えよ。⑥大部屋に防熱、換気を施せ』
 要求提出の前に予定通り若潮丸船員労働組合の結成を宣言した。会社は重役を船に派遣して交渉に入り、それから8時間事実上の出航拒否となった。
結局、要求の多くが認められた。だが、賃上げについては、検討の時間が欲しい、という会社の言い分を認め、出港拒否を解くかどうか。これは、投票の諾否で決めることにした。結果は、出港拒否を解くことへの賛成票が多かった。
 石井は次のように述べる。
『賛成が多かったことは、交渉に不慣れな闘争という限界が現われた。僕が解くな、と重役の前で叫んだのに対してあとで皆がよく言ったとほめてくれた。
 近く会社解散のうわさもあり、身分保障とともに3千円賃上げは再度強く闘うつもりだ』。
 石井は仲間たち数人と海員組合加入の活動を既に始めていた。
だが、海員組合との連絡は船長と機関長の妨害により果たされないまま、本船は出港した。


② ストライキ 於串木野港 
       (赤道39号)
 悔しさのうちに大阪出港から2週間が過ぎた。室蘭から鹿児島県串木野港に向かうボロ船若潮丸は、銚子沖で時化にあい、ガタのきている発電機は、ついに焼け故障。船内は真っ暗、海上も闇夜で羅針盤も見えない。機関長は船長に叱り飛ばされ「ワシはやめる」と言い出した。
 船はようやく串木野港に入った。若潮丸船員労組は『もうこんな危ない船には乗れない』という全員の決意をまとめ、停船ストに突入した。
 念願だった海員組合との連絡も取れた。ところが、鹿児島支部からやってきたオルグは、意外なことをしゃべった。
 「とにかくストをやめて船を出しなさい。そして全員が海員組合に入れば良い。団体交渉は俺たちに任せてくれ。戦標船問題は中央で解決していくことになっている。どうしても聞けんというなら勝手にしたらいい。そのかわり他所に就職できなくなるぞ」と脅し、引き上げた。
 若潮丸労組は、総評鹿兒島地評にも支援を求めた。支援労組の数は続々広がり、若潮丸には数多くの赤旗が林立し、弁当やカンパが届けられてきた。
 ストに入って3日目、組合と話し合うといっていた会社は、手のひらを返し、「職務不履行」を理由に全員解雇を通告した。
 海員組合は若潮丸の船長、機関長と一航士、さらには山田海運の他の2隻の船員を組合に加入させた。そのうえで、八洋会の労働協約を調印し、ユニオンショップを結んだ。そして山田海運に対し、石井ら若潮丸乗組員の解雇を要求した。
 海上保安庁も、巡視船を横付けし、「退去しないと強権を発動する」と脅迫し、会社は暴力団をもってスト破りの攻撃をかけてきた。だが、若潮丸船員たちの結束は崩れなかった。
 こうしてスト11日目、追い詰められた会社は荷主の中越パルプの斡旋で団体交渉に応じ、「解雇撤回、スト中の賃金支払い、希望下船(退職)者には手取り給2カ月プラス1万円の立ち上がり資金を支払う」ことで急転妥結した。闘いは勝利したのである。だが、船員のほとんどは下船し、他の船会社へ職を求めて散っていった。
以上が「若潮丸争議の経過である。


三、解雇撤回闘争
① 突然の解雇とその理由

 その後、石井はフィリピン航路の材木船、名光丸(名古屋汽船)に乗船していた。
 61年7月16日突然、会社から下船命令がきた。名古屋の本社へ行くと海務部長はいきなり、首切りを通告した。
 理由は「君は若潮丸事件の張本人であり、海員組合からの申し入れもあって雇うことはできない」というものだった。
 連絡を取り合ううちに若潮丸で一緒に活動した他の5名も解雇されたことが分かった。何故そうなったか、やがて判明する。
 次のような文書が全国の船会社と海運局職安あてに配布されていたのである。
「若潮丸事件は、海上労働運動の中で最近には例のない事件です。当時の関係者の氏名を送付します。特に重要人物と見られる6名は、今後組合に加入することは拒否するので、ユニオンショップ会社に就職することは出来ませんから厳重な配慮を必要とします」。差出人は全日本海員組合。
産別労組の力は強く、企業は恐れる。一方では労組が、労働者の生活を奪うことも容易に可能なのだ。 
石井は、他の5人の支持を得た上で、闘う決意を固めた。


② 裁判開始と支援の広がり
 石井は61年の暮れ、名古屋地裁へ「従業員地位保全、賃金支払仮処分」を申請。しかし地裁は「石井と会社の雇用契約は3カ月の臨時雇用であった」「若潮丸との関係は証拠不十分」とし、申請を却下した。
 だが、石井は屈せず沖へ向かって訴え続けた。大阪だけで訪れた船は1500隻にのぼる。
単に石井個人の権利を守ることだけでなく、昼夜なく7つの海で働き続ける海上労働者が、会社や組合に対しても自由にものが言える船員社会を、海員組合の民主化を、という石井の訴えは沖の労働者の支持と共感を得た。
 石井を何より喜ばせたのが、短期間の乗船に過ぎなかった名光丸乗組員たちの「復職要請」の署名だった。これは、のちに法廷へも持ち込まれた。
「石井君の闘いを守る会」が結成され事務所は、前述の大阪海員クラブに置かれた。


③ 高裁勝利と海組全国大会
 65年9月29日、名古屋高裁は判決を下した。
「本件解雇は無効、会社は61年8月以降の賃金を支払え」。
 石井はゆったりと勝利の喜びにひたる暇もなく、神戸へ急いだ。全国大会の会場で代議員や傍聴者へビラを撒くためである。
 大会代議員たちは、彼の肩をたたき、握手を求め喜んだ。
 その中に裁判で証人を引き受けた青山昭元、村中一也、柿本春吉など大勢の仲間たちがいた。
 大会3日目、越智清次郎代議員は、高裁の判決文を読み上げたあと、「石井君の組合加入拒否を撤回せよ。彼の従業員としての地位は裁判所さえ認めている。執行部は彼の乗船を妨害してはならない」と追及した。
 だが、答弁に立った和田春生副組合長は「石井君は組合を誹謗し、分裂行動をとり、組合の厄介にならぬと言明した。判決と組合決定は無関係である。石井君が過去の誤りを認めるならば組合加入を認める」と述べた。
必死で言い逃れたことは誰の目にも明らかだった。


④ 争議に勝つ条件
 裁判の後も、石井の脳裏から離れないのは、体を張ってともに闘った仲間と、船員たちを苦しめた若潮丸のようなボロ船の存否だった。
 解雇は撤回されたものの戦争末期に粗製乱造された戦標船の廃止にはつながらなかった。ではどうしたら良かったのか。
 若潮丸争議を最後にまとめたのは、中小船主の山田海運ではなく、荷主の中越パルプとオペレーターの飯野海運だった。力を持つ背後資本を引っ張り出すこと、全ての戦標船の船員が団結し、一斉に声を挙げること。石井は争議に勝つには、真の産別労働運動が、不可欠だと確信したに違いない。

 参考文献 
*「赤道」大阪海員クラブ
*若潮丸事件 名古屋高裁判決
*関西争議団物語 労働旬報社編集部編 
      (次号に続く)