当時の組合の対応と反転(便宜置籍船対策に着手)

山下昭治(海員組合元執行部員)

 緊急雇用対策(緊雇対)の労使協議が始まる前年(1985年)の日本の外航船員は3万人。4年後、各社の緊雇対が終了した時は1万1千人に減り、その後も歯止めは掛からなかった。
現在の日本人船員社会に多大な影響を与えた緊雇対。「その総括が船員社会や組合にとって一番重要」との、当時の東京支部長堀内靖裕さんの指摘を受け(25号海風気風)、本誌はこれまで職場委員・高橋二朗さん(26号)、組合執行部員・中本槇夫さん(27号)の手記を掲載してきた。今号は、当時組合東京支部の日本郵船班で奮闘した山下昭治さんにお願いした。(編集部)

1.私にとって緊急雇用対策とは
①私が経験したこと

 緊雇対が実施された1987年は、私が海員組合の執行部員になって6年目の41歳の時で、東京地方支部の郵船班を担当していました。
 私の見た緊雇対は、日本籍船と日本人船員で海上輸送を担ってきた日本の外航海運が、国際海運の急激な環境変化の中で、パナマ・リベリア籍などの便宜置籍船とフィリッピン人船員等の外国人船員に切り替えられていく、荒々しく日本人船員を削減する大合理化でした。
 貿易摩擦による急激な円高により1ドル360円から150円時代へと急転回し、日本船社も競って便宜置籍船建造に走り、国際海運市場は未組織外国人船員が乗組む便宜置籍船によりマーケットが形成されていきました。船主からは、大量の不経済船削減提案が相次ぎ、余剰船員論、国際競争力喪失論が飛び交い、経営危機に陥る船会社も出る中で、船員の雇用を守る任にある海員組合の責任は重く、1985年当時の堀内地方支部長以下、皆、緊張の毎日だったと記憶しています。
 「緊急対応」の申し入れがあった時などは、担当班だけでなく、現場の在籍専従執行部員を含め経験豊富な執行部員も入った執行部会議で夜遅くまで激論を交わし、打開策を模索し、方針を打ち出しあたってきました。逆風の中の守りの活動で、後退を余儀なくされることの方が多かったと思いますが、皆やりがいをもってやっていました。


②緊雇対の中央合意
 1982年、私が海員組合に入る時、当時の永井東京地方副支部長から言われたことを忠実に守ってきたことがあります。それは、どんなに執行部活動が忙しくても、出てくる問題に必ず自分の意見をもって発言することでした。
 しかし、緊雇対という重要問題で、なぜか私は意見表明をして決定に参加した記憶がありません。緊雇対は、当時の土井組合長をトップとする中央執行委員会が雇用対策委員会に諮問し、雇用対策委員会が纏めた答申に基づき中央交渉ではなく、船員政策協議会の下に設置された特別委員会で合意されたと記憶しています。組合の機関承認は合意の後だったと思います。
 緊雇対は、希望退職や就職あっせんを柱とする時限的措置を、産別対応として全外航分野に導入するもので、各社の緊雇対の実施の是非についてはもちろん支部交渉にゆだねられていましたが、労使双方が外航海運に緊雇対が必要と判断し合意した意味は重いものがありました。
 労使双方が判断した「減量やむなし」合意に抗してこれを支部交渉で突破することは並なことではありませんでしたが、それでも支部は活路を求め果敢に取り組みました。船主は、本部と支部の団結を分断する楔として緊雇対を利用し団結を削いで行きました。
 本・支部間で徹底して議論を尽くし、機関決定をしたうえで中央交渉に入っておればこうした分断は最低限避けることができたのではないかと思います。
船主の合理化戦略、組合分断戦略を何故当時の本・支部の組合幹部は見抜けなかったのか、残念でなりません。産別組合の大失敗でした。


③株主配当を維持する日本郵船に緊雇対は認めない
 当時、私は、郵船班を担当する執行部員で、本部から赴任してきた北山班長の下に、私、石森執行部員、夏木在籍専従執行部員の4名で担当していました。中央合意の緊雇対を分析の上、当時、配当体制を堅持していた日本郵船には緊雇対は認めないとの方針で、東京地方支部と職場委員は固く団結しました。
その年の臨手交渉は日本郵船を含め各社とも難航しました。船主は、去るも地獄、残るも地獄の絵図を描いて見せようとしたのです。
 しかし、執行部員も職場委員も会社の廊下にエアマットを敷いて泊まり込んで回答を迫りました。船員界の希望の灯を消してなるものかと気概に皆燃えていました。妥結額に不満は残しながら、海陸船員の雇用と生活を守る闘いに支部も職場委員も悔いはありませんでした。
 後に、交渉の効率化を唱え、徹夜交渉は無駄な労力ではないかとする意見が労使双方から聞こえるようになりましたが、当時は、「雇用と生活を守るか」「とられるか」の闘いであり、交渉の効率化とは次元の違う交渉だったと思います。


崩された団結
 現場船員の支持を得て、職場委員とともに頑張ってきた雇用と生活を守る方針も、徐々に外堀が崩され、日本郵船の団結が崩されていく現実を見るはめになったことは執行部員として慚愧の念に堪えません。
積極的に現場に入り、団結を固めきれなかったのは、支部の力不足であり、誠に申し訳なかったと思っています。
 船主は、「本部が減量やむなしと認めているのに、何を言っているか」と分断を煽りました。時間の経過とともに支部幹部も緊雇対では受動的となり反撃力をすっかり削がれていました。
当時、私のことを陰で船主は「ジャマシタ」「ダマシタ」などと言って情報交換していたようですが、私は一切気にしませんでした。こんな時だからこそ船主から良く評価されることなどあってはならないことだと思っていました。

⑤緊雇対実施の合意後も闘いは続く
 配当を続けていた日本郵船にも緊雇対の実施が合意され、全国各地区で労使合同説明会が開かれました。組合は、退職希望者の優遇措置を決めたが、「退職を希望しない人の雇用は組合の総力を挙げ守る」と説明すると各地区で動揺が起きました。「組合が減量に同意している」との前宣伝がいきわたっていたためでしょう。
 会社の説明と組合の説明のニュアンスの差があり対立する場面もありましたが、支部も職場委員も堂々と組合方針を説明しきり、支部と職場委員は団結し、現場を励まし続けました。
 東京地方支部では、出光タンカー、東京タンカー、雄洋海運、日邦汽船、太平洋汽船、旭海運、日本海商は中央の緊雇対には参加しませんでした。


⑥肩たたきは許さない!
船員の権利を守る活動

 緊雇対が実施されると、合意内容を捻じ曲げ、「退職勧奨」、「肩たたき」、「退職を強要」する会社が後を絶ちませんでした。
 肩たたきを発見すれば、支部は緊雇対を中止させるなどの対抗措置をとりました。中小労協加盟各社の職場委員たちは、毎日誰かが支部に来て、情報交換しながら「肩たたきは許さない!」と船員の権利を守る運動をにぎやかにやっていました。「肩たたき防止10ケ条を特集したニュース」は現場から喜ばれ「大ヒット」でした。まだまだ船員の権利を守るたくましいエネルギーが満ち溢れ、これには誰もが励まされました。
 太平洋汽船の肩たたきは、専任のヒットマンがあたるすさまじいもので、支部は「ヒットマンの解任」と離職させられた船員の「復職」を認めさせましたが、離職者の流れは止まりませんでした。
数年後、太平洋汽船は、船員やめない運動のリーダー役だった一等機関士竹中正陽君を職務怠慢をねつ造して解雇し、現場と長期間分断を図りました。彼は船員の権利を守るため労働委員会や裁判闘争で闘った結果、会社は全面敗訴し、謝罪のうえ解決金を払い、海上復帰を認めました。
 この他にも、会社説明会に行ったら、ホテルの個室に引きこまれ、退職願に印鑑を押すまで帰らせない等の悲痛な声が届き、執行部員や職場委員が、現場に、会社に直行し身体を張って止めさせたこともありました。
緊雇対は、船員にとっては、荒々しい人減らし合理化の嵐でした。その不安は手術台に乗った時の気持ちと同じだったと思います。

(当時の東京支部「ちくとう」表紙)


⑦緊雇対終結宣言!
 その後の組合大会で緊雇対の終結宣言を聞く田尾汽船局長のうれしそうな、それでいて心持ち寂しそうな複雑な顔が忘れられません。「これで本当におしまいにしてほしい」と言って、汽船局長を退任して行かれました。
 ここで本当に終結させるためには「減量やむなしの流れを断ち切る闘い」が必要でしたが、その後も長期間にわたり日本人船員の減少傾向は止りませんでした。


⑧去るも地獄、残るも地獄との闘い
 「緊雇対終結宣言後」も船員の減少傾向は止まらず、裏で牙をむき続ける船主の思惑が透けて見えました。
 1990年、現場船員に希望のもてる労働条件を求め、組合は春闘体制を整え、悪乗りし、なお地獄絵を描き続ける船主を相手に、交渉決裂まで押し上げましたが、再交渉の末、若干のプラスで妥結しました。「地獄絵は許さない」熱いエネルギーが組合、職場委員、現場にはありました。
 春闘終結後、突然私は、船員制度近代化協議会に異動する辞令を受け取りました。不本意な辞令でしたが、近代化協議会で再起を期しました。

2.組合の反転
①便宜置籍船対策に着手

 緊雇対が始まった1987年当時は、世界の海運は、便宜置籍船が運賃市場を席巻し、悪貨が良貨を凌駕する時代に入っていました。日本海運も急速に便宜置籍船への比率を高め、日本籍船に伍する状況でした。
組合は、「船員を取り巻く環境は厳しい」とおかれた現状を分析するだけでなく、そうした状況を打開するため便宜置籍船対策等を打ち出し、荷主や海運資本に対し強力な交渉力をもって船員の待遇改善、安全確保、権利を守る新たな労働運動を再構築することが求められていました。
 その点、欧州諸国の組合は、すでに便宜置籍船の急増により自国人船員の雇用、条件への悪影響が無視できないところになり、復権を期して国際運輸労連(以後、ITFという)とともに便宜置籍船にITF協約を締結させ不公正競争を排除するキャンペーン活動に入っていました。
 日本でも、1984年、横浜港で初めて港湾労働組合の協力を得て、ITF協約を締結していない便宜置籍船に抗議し荷役ボイコット活動(以後、FOCキャンペーンという)を実施し、世界中にこのニュースが飛び交ったと言われています。横浜港に続き、大阪港、神戸港、東京港でもFOCキャンペーンが成功し、組合の反転が準備されていきました。
 私は、1990年本部組織部勤務となり、1995年にはITFコーデイネーターにつき、便宜置籍船対策に係わる機会を得ました。


②便宜置籍船主の反撃
 1987年、緊雇対が始まった年、日本のFOCキャンペーンを敵視した船主側は、東海商船を代表バッターに仕立て、海員組合によるFOCキャンペーンは違法行為であるとしてキャンペーン活動を潰すための損害賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提訴しました。
 裁判所は、組合のFOCキャンペーン活動は、「日本国憲法28条(団結権、団体交渉権、団体行動権)の保障の対象である」と判決し、1999年、判決は確定し、FOCキャンペーンは合法的根拠をもつことになりました。
 1988年の緊雇対の最中でも、港湾労組は毎年毎回欠かさずFOCキャンペーンに参加するとともに、東海商船裁判でも次々と証人に立ち、適正な海運・港運秩序を構築するため、海員組合の活動に理解と協力を惜しみませんでした。海員・港湾の共闘関係にまで連帯活動を高めてくれたことを決して忘れてはいけないと思います。
 国際的労働運動として、日本の海員組合と港湾労組の行うFOCキャンペーン活動は適法な労働運動としての地位を確保し、日本船主が支配する約2000隻を超える便宜置籍船の8割以上をITFと組合の承認協約で組織し、外国人船員は本組合の非居住特別組合員となり、組合の交渉力は強まりました。
反転の準備は、緊雇対を生き抜いてきた海員組合、港湾労組、ITFならびに外国人船員供給国組合との良好な連帯 に支えられ強化される新しい時代へと移っています。


③連帯の時代に思いを馳せる
 国際海運の中で生きていくためには、日本人船員に軸足を置きながら、外国人船員の権利を守る活動もまた船主国組合としての海員組合の責務だと思います。
 また、日本の港に入港するすべての未組織便宜置籍船にITF協約を締結させる国際連帯活動は、荷主国日本の海員組合と港湾労組に世界から寄せられている期待ではないでしょうか。ITF協約改定国際交渉にすでに船員供給国組合と海員組合は参加していますが、日本の港湾労組も参加する時代はすぐそこに来ているのではないでしょうか。
 一方では、海員、港湾に新たな攻撃も準備されているように思われます。
今の時代を強く生き抜くためには、海員モンロー主義を排し、国際的・国内的連帯活動を組織しないでは、グローバルな荷主や港湾資本、海運資本、金融資本にもまともに立ち向かえません。
緊雇対という修羅場を生き抜いてきたすべての皆さん方のこれからの活動に期待しています。海上労働者、海運・港運労働者の復権を目指し奮闘されることを期待しています。連帯の分断には決して乗らないでください。
(2021、6、20)