後世に残したい船員の記録
    — イラン・イラク戦争 —

赤塚 宏一(元大阪商船三井船舶船長)

はじめに
〈後世に残したい船員の記録〉

 第二次世界大戦の戦没船員については多くの記録や追想録や経験談が残され、資料も整備され、犠牲となられた船員の皆様の霊をいくらかでも慰めている。しかし大戦後の船員の苦闘については、まとまった記録としては少ないと言わざるを得ない。
 今またペルシャ湾を始めとする中東海域での国際的緊張が高まる中、戦後の国際紛争に巻き込まれた船員の記録は是非残しておきたい。
 そうした思いから、私は、日本海洋政策学会誌第9号 (2019年11月) に『報告 第二次世界大戦以降の国際紛争と日本関係船舶』を投稿し、掲載された。これは2014年10月~2016年9月に掛けて実施された日本海洋政策学会の課題研究「日本における集団的自衛権行使の場合の日本関係船舶保護措置及び外国船舶に対する臨検等の強力措置」のための資料として調査したものである。
 報告には関係年表も添付したが、学会誌は厳重な字数制限があり、これに収めるために相当カットせざるを得なかった。年表は勿論論外であった。
 このため、私自身としてもっとも関心の深いイラン・イラク戦争は書くべきことの半分も書けていない。戦後の歴史の中でも、多くの先輩・同輩・後輩が経験したイラン・イラク戦争について、もう少し資料を当たり記録をまとめたいと常々願ってきた私にとって、大きな心残りとなっている。
 ここに、海洋政策学会誌に掲載した「報告」の中の「1・6 イラン・イラク戦争」を、極めて不十分であることを知りつつ、そのまま引用して羅針盤の読者の皆様に供したい。
 願わくは皆様の体験談、あるいは情報を是非聞かせて頂き、戦後も絶えず国際紛争に巻き込まれ、苦闘してきた船員の記録を協力して完成させ、後世に残したいと思うからである。

私自身の経験から
 私自身も1960年代、70年代、80年代の船乗りとして国際紛争とは無縁ではなかった。
 1967年6月に勃発した六日間戦争とも呼ばれる第三次中東戦争(1967年6月5日~6月10日)によりスエズ運河は1967年6月6日に閉鎖され、以後1975年6月5日に再開されるまで10年間にわたり通航不可能となった。
 スエズ運河閉鎖直前、最後の南航船団(地中海から紅海へ)の一隻として辛うじて運河を通航した松戸山丸の運河航行中の動静電報を中継した大峰山丸(商船三井所属 タンカー)に二等航海士として乗船しており、松戸山丸の電報を受信した時の船内の緊迫雰囲気をよく覚えている。松戸山丸は私が次席三等航海士として同じ航路、すなわち東回り世界一周船に乗船した船である。
 イラン・イラク戦争時はペルシャ湾航路の雑貨船に監督として乗船し、またその後陸上勤務中の1985年には戦争たけなわのバグダッドに出張もした。日本から石油掘削や石油精製所で使用される大口径の鋼管の陸上輸送監督としてヨルダンのアカバ港に出張し、その間にイラク石油公団の責任者に挨拶に行ったのである。戦時下であるから、空港は厳正な管制下にあり、深夜しか発着出来なかったのを覚えている。しかし街中は軍人の姿こそ多く見受けたが、戦時中という雰囲気ではなかった。
 またイラン・イラク戦争の末期となる1987年には日本船主協会のロンドン駐在員となり、英国船主協会が主催するペルシャ湾の安全航行対策のセミナーに参加し、英国海軍からイラン・イラク双方の戦闘機や爆撃機の種類、その見分け方、ミサイルの種類などについて講義をうけて、本部に報告した記憶もある。
そうした経験からも、私は、前述の日本海洋政策学会の研究課題に大きな興味を持つことになった。

課題研究に参加したいきさつ
 「報告」を引用する前に、日本海洋政策学会の研究グループに私が関わることになったいきさつと、「報告」の概要を説明しておきたい。
 課題研究グループは阪大の真山全先生をファシリテーターとして、専修大学の森川幸一先生、東北大学の西本健太郎先生、防衛大学校の石井由梨佳先生、海上自衛隊の吉田靖之二佐(当時)であった。いずれも国際法、海洋法の権威である。このような高度に専門性の高い課題研究グループに一介の船長である私が入ったのは次のような理由がある。
 2005年当時、私が神戸大学の監事であった時、旧知の海洋政策研究所の寺島紘士所長から声が掛かって、日本財団の主催する「総合的海洋政策委員会」の委員となった。この委員会が発展し、2008年には日本海洋政策研究会となり、さらに2011年には日本海洋政策学会と名称を改め、今日にいたっている。この研究会の発起人に名前を連ねたことから、日本海洋政策学会に関わり、課題研究グループにも関わってきた。
 日本海洋政策学会の現会長は東大名誉教授の奥脇直也先生で3人の副会長、16人の理事もわが国を代表するような海洋法・国際法学者、海洋学等の諸先生が名前を連ねている。この学会は創立10年と日は浅いが、今や日本の海洋政策を研究する学会として、その存在感は大きい。
 海洋政策と言っても社会科学系だけではなく、文理融合の学会である。それは学会誌9号の目次を見てもよくわかる。
 少々長くなるが挙げてみると、「洋上風力発電の現状と課題」、「排他的経済水域での軍事活動」、「埋蔵文化財包蔵地としての東京湾海保をめぐる問題」、「海底鉱物資源開発における保護参照区と影響参照区の目的の変遷」、「南シナ海問題の外交交渉」、「沿岸漁業由来水産物における漁獲・陸揚げ、販売情報の漁業管理への活用可能性」、「沿岸域多段階管理システムの適用可能性と課題ー大村湾を事例としてー」、「海底鉱物資源における海洋環境保全への配慮方法の考察」、「港湾海象観測網による沿岸防災や海洋状況把握への貢献」、それに拙稿などが並ぶ。
 海を職場としてこられ、海に強い関心を持っておられる羅針盤の読者の皆様にとって、何か興味のあるトピックがあるのではないだろうか。
 さて、前述の課題研究グループでは極めて専門性の高い議論が行われ、到底私が議論に直接加わるようなレヴェルではなく、もっぱら一般商船の運航の実態などの資料や情報の提供、そして戦後国際紛争に巻き込まれた日本関係船舶の調査などに関わった。
 この「報告」は前述のように課題研究グループの参考資料として用意し、また関係年表も作成した。しかし、ファシリテーターの真山先生から学会誌に投稿して、関心のある方々の参考になるようにしたらどうかとのお話しを受けた。学会誌に投稿し受理されるには何よりも記述が正確ではなくてはならず、私のようなこれまでに学会誌には2,3回しか投稿したことの無いアマチュアにはかなりの難行だった。引用文献に今一度当たり出所を明確にし、論理的でなければならない。これについては真山先生手ずからご指導下さり、また脚注や用語の適切さなどは真山先生門下の博士課程吉良学生にチェックをお願いした。
 そうして出来上がった「報告」は、以下の構成となった。

はじめに
1 日本関係船舶に影響が生じた主要事例
1・1 日本占領期における近隣諸国
による日本漁船等の拿捕・抑留
1・2 朝鮮戦争
1・3 ベトナム戦争
1・4 第二次印パ戦争
1・5 中東戦争
1・6 イラン・イラク戦争
1・7 フォークランド(マルビナ
ス)戦争
1・8 湾岸戦争
1・9 イラク戦争
2 日本関係船舶の安全対策等
2・1 日本関係船舶の安全対策
(1)乗組員の安全確保と会社の安全配慮義務
(2)船主・海運会社及び海員組合の取り組み
(3)国際協調
2・2 戦争保険
(1)概要
(2)中東戦争及びイラン・イラク戦争時の戦争保険
(3)船主責任相互保険組合保険(P&I保険)
おわりに
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以下、「1・6 イラン・イラク戦争」の全文を引用する。

「イラン・イラク戦争」
 イラン・イラク戦争でも宣戦布告の有無は必ずしも明確ではないが、ここでは1980年9月22日のイラク空軍によるイランの航空基地爆撃をもって開戦とし、1988年8月20日安保理事会決議598号受諾をもって終戦とする。イラン・イラク戦争では、タンカーをはじめ一般商船に対する苛烈な攻撃が行われ、そのことは「タンカー戦争」とも呼称されている。
 開戦当日、イラン軍統合参謀本部は、いち早くホルムズ海峡を含むペルシャ湾のほぼ全域を交戦区域に指定すると宣言し、「すべての船舶のイラク諸港への物資輸送は許可しない。ペルシャ湾内を航行するすべての船舶はイラン軍の指示に従い指定航路を守る」ことなどの警告を発した。さらに、イラン政府は「ホルムズ海峡は無闇に封鎖はしないが、イラク及びそれを支援する国の船は停止させる。これをやめさせようとしても、イランは海峡を死守する」と繰り返した。
 しかし、イランのバニサドル大統領は1980年10月13日、ワルトハイム国連事務総長に書簡を送り、「ホルムズ海峡の自由航行に関する国際法及び同慣習法の責務を遵守し、敵対国との関係における権利行使は別として、国連旗を掲げた外国商船ならば、同海峡の安全航行を保証する」ことを約束した。
 他方、イラク側は、盟友の湾岸諸国の意向もあって、「ホルムズ海峡は国際海峡であり、その自由航行は確保されるべきである。もしそれが阻害されたなら、イランに対し実力で安全確保に乗り出す」という態度をとり、船舶通航完全遮断という最悪の事態は回避された。その結果、保険料は上昇したものの、しばらくの間自由航行について支障はなかった。
 イラン・イラク戦争期間中、ホルムズ海峡は閉鎖されなかったが、1982年7月、イラク軍機がイランの石油積出港(カーグ島など)やイランの石油を積んだタンカー等を攻撃し、イラン軍機がイラク系タンカーや船舶を攻撃したことから、1983年1月4日、イラクがイランの商船2隻を破壊したことを皮切りに外国船を巻き込んだ「タンカー戦争」に発展した。
 被害船舶数はもっとも戦闘の激しかった1985年から1986年の間に約130隻にのぼった。しかも、米ソのほか主要国の海軍が関係国の船舶護衛に乗り出すなど、湾岸は「タンカー戦争」の海と化した。それがピークに達したのが1986年である。この「タンカー戦争」では、日本関係船舶も大きな影響を受けた。
 この「タンカー戦争」の舞台となったペルシャ湾において、イラク軍が攻撃を行った目的は、①ペルシャ湾に戦火を拡大することで国際社会、なかんずく戦争に対し傍観者的態度を取ってきた湾岸諸国や、死活的利害を有する西側諸国を戦争に巻き込み、世界的規模での和平に向けての動きを作り出し、イランに停戦を強要すること、②イランの石油輸出を妨害・阻止して経済的な締め付けを加え、その戦争継続能力を減殺することでイランに戦争を終結・停戦を強要することであった。
 1987年に入ると「タンカー戦争」はさらにエスカレートし、米ソを巻き込んだ「ペルシャ湾戦争」へと拡大する。
 すなわち、同年5月17日、バーレーン沖で、米のフリゲートがイラク軍のミラージュFー1の誤射で大損害を受ける事件が発生すると、これを契機に米国は、ペルシャ湾での船舶(特に西側諸国のタンカー)の航行の自由を確保するため、クウェートの要請を受けて同国のタンカー護衛に同意すると同時に、ペルシャ湾への本格的介入を前提に、中東艦隊の増強を決定したのである。
 これに対しイランは、西側諸国のタンカーなどへの攻撃を続行し、イランの港湾や海上油田基地への米軍の攻撃に備える措置として、シルクワーム地対艦ミサイルの配備、小型高速艇、爆装した無線誘導ボート、機雷などを用いたゲリラ戦法で徹底抗戦の構えをとった。そして、実際に、米国とイランの間で小規模な武力衝突が連続的に発生し、両国間の緊張が高まった。
 こうした状況のなか、1987年7月20日、安保理事会は全会一致でイラン・イラク戦争の即時停戦を求める決議を採択し、国連事務総長による調停活動が行われた。イラクは国連事務総長の調停を歓迎したが、イランは、まずペルシャ湾での戦闘停止を実現することを要求し、これを拒否した。
 イラクは、1982年6月にイラン領から撤収して以来、停戦を希求していたが、イランがこれに応じないので、ペルシャ湾での「タンカー戦争」により西側諸国などを巻き込むことで停戦の機会を待っていた。
 一方、イランはペルシャ湾での西側諸国の介入さえなければ、その継戦能力(石油の輸出と武器の輸入の確保)を維持しつつ、イラクに消耗戦を強要し、執拗な戦いを継続する考えであったとみられる。
 しかし、翌1988年7月3日ペルシャ湾を航行中の米艦によるイラン国営航空機655便誤認撃墜から2週間後、結局イランはホメイニ師の「毒を飲むより辛い」との言葉をもって停戦決議を受け入れることとなった。
1988年まで継続したこの戦争において、日本関係船舶の被害状況について記録されているものについては、1980年9月22日、「かめりあ」(17、040総㌧、油送船、乗組員26人)が、シャトルアラブ川をバスラに向け航行中、イラン軍の銃弾130発を被弾し、乗組員1名が軽傷を負い、同年9月24日には、「からたち丸」(7、073総㌧、重量物運搬船、乗組員24人)が、戦闘の激化により救命ボートでの退船を余儀なくされた。
そして、2日後の9月26日には、「箱崎丸」(23、669総㌧、コンテナ船(1、178TEU、乗組員26人)がウムカスル港に接岸中、陸上荷役設備にロケット弾を被弾し、荷役不能となった。また、本船もミサイル1発を船腹に被弾し破孔を生じたが、「かめりあ」、「からたち丸」同様、人身被害はなかった。
その後の「箱崎丸」については、被弾した当時の乗組員の交代として乗船した一等航海士の手記がある。当時の緊迫した状況を記録した貴重な資料であり、一部を抜粋する。

[資料2]箱崎丸航海士手記-「イラン・イラク戦争の思い出」
 (森明生「イラン・イラク戦争の思い出」赤塚宏一編『神戸商船大学航海科七期生 卒業50周年記念文集』(2012年)35-37頁。原文ママ)
 『さて、第二次世界大戦の他に、私にはイラン・イラク戦争の体験がある。1980年9月にイラン・イラク戦争は勃発したのだが、その時たまたまウムカスル入港中だった、当時、日本郵船のコンテナ船箱崎丸は、ミサイル一発を船腹に被弾、港内に閉じ込められてしまった。私はその箱崎丸の交代要員として四ヶ月間を該地で過ごしたのである。
 私が乗船した時は、船腹にぽっかり穴が開いていたし、積荷のコンテナの一部も壊れていた。そんな中、乗組員は戦争が終わるか、あるいは逃げ出すチャンスがあれば、十名で船を動かし、同じくペルシャ湾の港、デュバイに行く使命を帯びていた。(中略)
 記録によると、乗船日は1981年の3月28日となっている。その日は小雨降る寒々した気候だった。しかし、二ヶ月もすれば本当に水銀柱が50度Cを超す様な気候に変わった。汗は、すぐに乾くので感ずることはなく、ただ皮膚に塩が付くことで知る状態であった。まさに大きなかまどの前に立った感じである。
 私は暑さには絶対強い、と自信をもっていたし、船内は何とか一部冷房もできたので、耐え忍ぶことが出来たが、長期の滞在には過酷な環境であることは確かだった。
 一航士だから、実質、船内全体を取り仕切っていた。穴の開いた船腹の溶接復旧作業もした。しかし、最大の任務は、本社との定時連絡である。当初、頼りにしていた本船の衛星電話が、当局によりシールされ、使えなくなったため、週に一、二度、バスラまで電話を掛けに行くのである。その時に代理店に寄り、乗組員の手紙を出したり、受け取ったり、時には賄いの人(チーフコック)と、バスラの町で野菜や肉、魚の調達もした。水は、当初は本船のものが使えたが、少なくなるにつれ、ボイラー用水として残すことが優先となった。ウムカスル停泊中も、補水は可能だったが、口に含めば分かるほど塩分が多く、とても飲用となる代物ではなかった。飲用分として、最後は浴槽や、ありったけのポリバケツに、本船の水を別に貯めおくことにした。日が経つにつれ、浴槽の水には青い藻が浮くようになったが、この上澄みを柄杓ですくい、沸かして、冷まして、飲用に使った。それでも、腹をこわすようなこともなく飲めたのだから、人間はかなり頑丈に出来ている。
 ウムカスル港近辺では、それ程戦闘は激しくなく、滅多に砲弾が飛んでくるようなことは無かった。私が実際に体験したのは、三度くらいだったように思う。時々、高射砲を撃つ音が聞こえ、轟音と共に、敵か味方かわからないが、ジェット機が飛来することはあった。バスラ方面では、毎夜、花火のように照明弾が上がっているのが見えていた。戦時下のこと、夜ともなれば、船内の照明は最小限とし、灯りは外部に漏れないように、窓は厚手のカーテンやダンボール紙で覆っていた。
 私は毎日、早朝の四時前には起き、微かに聞こえてくるVOA(Voice of America)の短波放送からの情報入手に努めた。皆が揃う朝食時に、少しでも話題を提供したい、と思っていたからだ。今でも鮮明に記憶に残っているのは、1981年6月7日、イスラエル空軍機がイラクの原子力施設を空爆したというニュースだ。核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエルが自衛目的を理由に、イラクに先制攻撃を行ったのだ。(中略)
 戦争そのものより、バスラまでタクシーで行く時に、交通事故に遭うことの方が怖かった。一見きれいな土漠(砂漠とは云えない)の中の道を、バスラまで(約60㎞)猛烈なスピードで飛ばして行くのだ。タクシーは一見、大型の外車、しかし、実はオンボロで、床から地面が見えるものや、つるつるのタイヤのものなど、危なっかしいものばかり。タクシーを拾う前には、その中で、もっともよさそうなものを選ぶようにはしていたが、似たりよったりだ。それでも、道のどこに、でこぼこがあるかを運転手もよく知っており、その手前に来ると、スピードを落とす等の注意はしていた。
 ある時、私がバスラから帰ると、コンテナヤードのゲート前にミサイルが着弾して大騒ぎになっていたことがあった。本船の乗組員も、私の帰りが遅いので大変心配したようだが、私は交通事故に会うこともなく、またミサイルに触れることもなく、本船を三代目の一航士に引継ぎ、無事帰国出来たのである。
 戦争に巻き込まれてから一年後、箱崎丸は、海上保険会社に保険委付され、乗組員は全員無事帰って来たようだ。私は帰国後の報告会で、この戦争はまだまだ続くこと、本船の脱出は、機雷も敷設されている上、川底に泥も堆積し、実質通航不可能であること等々、そこに居続けることには意味が無い、との思いから全員帰国を主張したが、受け入れられることはなかった。後日、私たちは、会社が積荷も含めた船舶などの権利を、保険会社に移転し、保険金全額を取得するための保険委付に、一年間を要することを知り「むべなるかな」と思い知ったのである。』

 なお、「箱崎丸」は1982年1月8日保険会社に全損委付され、〝1981 Sold to Astarte Carriers Ltd., Panama and renamed ‛Crescent‚ 〟との記録がある。
 その後戦争が激化するに従い各国船舶の被害も増加したが、日本関係船舶及びその他の船舶の被災状況の主要なものとしては、1985年2月18日に〝Al Manakh〟 (クウェート籍、32、534総㌧、コンテナ船、商船三井配乗による同社日本人乗組員25人、)がコンテナ1、446個(20FT換算)を積載しバーレーンよりアブダビ向け航行中、同日15:35(現地時間)アラブ首長国連邦の北方、25ー38N、53ー01Eで(イランのF4機と思われる戦闘機からの)ロケット弾4発を被弾し、乗組員の1人が死亡し、他1人が負傷した事例や、同年9月20日、「東豪丸」(23、286総㌧、コンテナ船、日本人27名乗組)が、ホルムズ海峡入口にてイラン海軍による臨検を受けた後、拿捕された事例などが挙げられよう。本件拿捕の理由は、イラク向け食糧インスタントラーメンを積んだ40フィートコンテナ2本が戦時禁制品とされたからであった。   
 この他にも多数の日本関係船舶が被弾等の犠牲となった。紙幅の都合上、全てを詳述することはしないが、タンカー戦争が激化した4年間の民間の船舶の被害は、各種資料に基づいて推定すると下表のとおりであった。

[資料3]
イラン・イラク戦争における被害船舶隻数(鳥井順『イラン・イラク戦争』(第三書館、1990年)508頁。括弧内はタンカー)

 戦争全期間を通しては海運情報筋によると546隻が被害(406隻が被弾ともいう)を受けており、333人が死亡し、317人が負傷したと言われる。うち日本関係船舶は19隻が、日本人船員は2人が犠牲となった。
 また、1985年1月3日発表のデクエヤル国連事務総長の「ペルシャ湾を航行中の民間船舶に対する両軍の攻撃に関する報告書」は国際海事機関の報告書に基づくものであるが、これによると1984年6月1日より12月31日の7ヶ月間に攻撃を受けた民間船舶33隻、43人死亡、17人負傷という。
 1985年から1987年にかけてはイランによる臨検・拿捕も頻発した。詳細の報告書は日本船主協会の船協海運年報1986年等に詳しく掲載されている。(以上学会誌より引用)
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おわりに
 以上引用したのは「報告」の一部である。全文を掲載するのは学会誌の版権の問題もあり出来ないが、興味のある方は私(captka@kud.biglobe.ne.jp)に直接照会して戴きたいと思う。船乗りが協力して、戦後も国際紛争の中で船員が苦闘してきた記録を後世に残していきたい。
(2020年2月11日)