吉田 敏長(海員組合元京浜地方支部長)

 さる4月18日、海員組合元京浜地方支部長の吉田敏長さんが逝去された。享年89歳。
 吉田さんは1930年(昭和5年)東京都に生まれ、明石国民学校高等科を卒業後の47年に東京港運に入社。同時に全港湾東京支部に加入し、乗船の傍らオルグ活動の中心となって活躍。49年、GHQの指示で東京港運が解散し小川運輸に移籍した後も現場船員として全港湾の活動に力を入れる。
 全港湾東京支部が解散した後の57年、請われて海員組合築地支部執行部員に。その後、横浜支部、川崎支部等を経て京浜支部長。外航船員雇用促進協議会に出向し職務を終える。
 退職後も海員組合職員OB会会長、退職船員の会「鴎友会」会長、戦没船を記録する会副会長などを務めた。
 自ら組織化した協和海運の組合員が近年解雇された時には我がことのように心配して励ましに赴くなど、終始現場船員に寄り添う、温厚な人柄の中にも信念の宿る人だった。合掌。

 以下、出版会「海に生きる」の了解を得て、共著「海に生きる」に掲載された吉田さんの手記「わが闘争記」を転載します。


17歳で全港湾に加入

 私が初めて労働組合の組合員になったのは1947年9月、17歳の時であった。

 港湾船に乗っていた私は全港湾東京支部に加入、和田春生流に言えば闘争至上主義の組合であった。早速青年行動隊の一員に指名され、自転車にアジビラ・機関紙などを載せて東京港に散在する各分会(企業別)に配布したり情報伝達に汗を流したことから組合活動が始まった。

 時には未組織の職場にも足を運びオルグ活動に従事した。乗船の合間にやることなので毎日ではないが、労を惜しまずオルグ活動を繰り返すことは決して無駄ではなく、組織は徐々に広がって行った。

 私は全港湾本部から出向してきた書記さん(大学生)からも本を読むことをすすめられ「蟹工船」「太陽のない街」、社会主義関連の本などを何度も読み返した。毎月発行される「平和」という小冊子にもよい記事が多く載っていた。

 いつの間にか、よく本を読んでいる私がオルグ活動の中心になった。この時の経験が後日、海員組合の執行部員になった時に生かされた。

 1951年、歩合給が中心であった職場に退職金制度を作ろうという声が高まり、5年勤務で7万5千円の退職金制度を新設する要求書を経営者団体の東京港運協会に提出した。港運協会にとっては寝耳に水で、退職金制度を作ることなど毛頭考えていなかった。したがって交渉は最初から難航して双方の主張は歩み寄る余地はなく数回の交渉で決裂、ストに突入した。

 既に朝鮮戦争が始まっており、米軍輸送に従事する部門はストを除外したため、会社側は米軍からの収入でなんとか持ちこたえられたようだった。しかし貯金もあまりない一般組合員にとって長引くストは深刻であった。

 しかし、そこは義理と人情の世界、他労組からのカンパで細々と食いつないでいた。スト突入3カ月、誰一人として脱落者もなく、組織は維持されていた。

 ところが、経営側もさるもの、「労働協約にない退職金制度を要求し、交渉がまとまらないからと言ってストに突入したことは違法だ。違法ストだ」と東京地裁に訴状を提出した。スト中の組合員全員を対象にストによる損害を支払えというもので、訴状は配達証明付きで個々の組合員全員に郵送された。

 受け取った組合員は「被告」と書かれているだけでビビッテしまった。法律上原告と被告になるのが当たり前だが、それだけで浮足立ってしまったのだ。

 一般組合員の動揺は抑えようもなく、これを機に様相はガラッと変わってしまった。分会によっては全員脱退するところもあり、収拾がつかなくなった。全員残留したのは書記長を選出していた郵船運輸(日本郵船系列)、社長命令で不当労働行為を一切しなかった大東運輸(川崎汽船系列)と私が在籍していた小川運輸(大阪商船系列)の3社だけになってしまった。組織の3分の2以上が脱退してしまい、一旦脱退してしまうと躍起になってオルグしてもどうしようもなかった。

 東京支部は残った組合員を集めて協議した結果、次の条件で収めることにした。①会社は裁判を取り下げる、②残った組合員は一切解雇しない、③全港湾東京支部は解散する(無条件降伏)、ということで終結した。

 その後は親睦会を各社別に結成、労働条件の改善が行われた。東京支部は解体したが、全港湾横浜支部は健在であり、それなりの成果を上げていたのでそれを参考にして労働条件交渉が行われ、ある程度実績を上げることができた。会社側も再び全港湾復活を恐れ、甘やかしている面もあった。その後退職金闘争で最初に脱落した会社の中から海員組合に加入する企業が出てきたり、賃金闘争でストに突入する会社も現れた。

海員組合の執行部員に

 海員組合は御用組合と決めつけていた私も考えを改めねばと思っていた頃、執行部員の宮城鶴松さんがオルグに来られ、ぜひ海員組合の執行部員として組織活動に協力してほしいと要請された。同じ頃、元大阪商船の船長である小川運輸の横浜支店長から呼び出され、支店長室で膝詰めで説教された。人格的にも立派な人であった支店長の要請でもあり、受けることにした。

 私は1957年3月1日付けで海員組合東京築地支部の執行部員として勤務することになった。採用の際、和田春生組織部長から全港湾時代に勉強のために通っていた法政大学の労働学校本科について、左巻きの教育だと中傷されたが適当に対応した。給与については細かく聞いていなかったので、まさか乗船中の3分の1以下になるとは思ってもいなかった。初任給は1万3千5百円、家賃3千円を払うと残りはわずか。幸い貯金があったので何とか生活は維持できた。あとは割り切って仕事をすることにした。

 幸いオルグ活動は経験もあり、全港湾の青年行動隊時代の経験も生かされて組織も少しずつ進展した頃、病気療養中の関谷義男さんが復帰された。関谷さんは難しい理論も手に取るように分かり易く教えてくれ、一緒に現場を回ってオルグすると、自然とこの人から学ばねばという気になったものだ。

 私たちの努力の甲斐あって5社しかなかった組織は10社になったが、支部長とは折りが合わず、1959年1月に横浜支部(現関東地方支部)に転勤になった。関谷さんから横浜には田中正八郎さんがいるから彼から学ぶことが多くあると教えられた。

 ところが横浜勤務の最初の日から支部の雰囲気に愕然とした。朝出勤すると外船(米船)乗りが支部を占領?している。当時アメリカの海員組合は米国に帰港しない米国船に、米国人と同じ賃金を支給するのであれば外国人の乗船を認めていた。そのため海員組合が表向きは離職登録者を中心に人選して労務提供船として配乗していた。たまたまその内の一隻が日本に寄港し交代の時であったためか多くの離職者が支部に押しかけ、賃金が日本船の倍以上の船に乗せろと押しかけていたのであった。

 朝出勤した私たち執行部員は支部長と次長2人を除いて早々と訪船ボートに移動し、その日の訪船計画を協議し、それぞれ在港船に向かった。午後訪船から帰ると外船乗りは帰った後で支部は静かになっていた。

 横浜支部に勤務した日から艇長の郷田平八郎さん(元日本郵船の甲板手)からいろいろと教えて貰った。特に人柄から学ぶことが多かった。

 最初の仕事は田中さんを中心に内航の大手、上野運輸(内航船約200人・平水タンカー150人)の組織化であった。労働条件は組織船より若干高く歩合給制度で決められていたため組織化は極めて困難であったが、支部全体が全力を投入して努力した結果、なんとか組織化に成功した。

 私は主として平水タンカーを中心にオルグ、平水船は昭和油槽船が組織対象であり、内航船と異なり組織船の方が条件がよかったのであまり苦労なく組織できた。

 あの頃の支部には活気があり、「自分の給与は自分で稼げ」という空気もあった。仕事の帰路割勘で居酒屋で200円のふぐちりで酒を飲みながらよく談笑した。そこには同じ釜のめしを喰う仲間という雰囲気があった。特に艇長はオルグ活動で夜遅くなることも多かったが一言の苦言もなく献身的に協力してくれた。そればかりか「この部員さんは信頼できる」という艇長の囁きがオルグ活動に計り知れない効果を発揮した。未組織船の組織化に次々と成功したことにオルグの成果は明らかだった。特にタグボート、平水タンカー、内航船など艇長が直接乗組員と話ができる船では効果が大きかった。

 当時(1960年頃)横浜港ではタグボート4社中2社が未組織。米軍雇用のタグボート3隻、起重機船2隻、Yタンカー1隻は海員組合が3分の1、外船労が3分の1、未組織が3分の1。平水タンカーも鶴見輸送の平水(75名)等が未組織だったが、全執行部一丸となって努力した結果、次々と組織化することができた。

タグの「同情スト」で協和海運を組織化

 私は、「協和海運は全港湾に最後まで残ったTさんとOさんとを中心に再び全港湾に結集できればそれも良いが現状では全港湾の再組織化は難しいのでは? この際海員組合に加入することはできないか」と常々考えていた。当時タグ4社の完全組織化が終わった直後であり、タグの乗組員同士は接点が多く、彼等からも海員組合の活動について好意的な話もあり、協和の船員も海員組合を見る目が変わって行った。

 1964年頃だったと思う。パイロットが経営している協和海運は金持ちだったから、玄関にはタカリを追い払う用心棒がいて入れてくれない。そこで山下公園の石垣伝いにぶら下がりながら休憩室にもぐり込んでオルグ。その成果もあって協和のボートマンの90パーセントの加入に成功し、早速水先人会の労務管理会社である協和海運にユニオンショップ制を含む労働協約の締結を申し入れた。全港湾のストに対抗して勝利した経験を持つ水先人会は調印を拒否したため、私たちは協和の組合員にストを指令した。

 会社の抵抗は予期した通りで、これを打開するのはタグ4社の同情ストしかないと考えた私は、日ごろの訪船活動からタグ乗組員の支持を得られる自信があったので、支部執行委員会でタグの一般投票を提案、支部の空気も誰の反対もなく承認された。予想通り98パーセントの賛成でスト権を確立して水先人会にタグボートのストを通告。すると、タグの協力がなければ業務ができない水先人会は態度を豹変、一遍に解決した。現場と執行部員の信頼関係の勝利ではなかったかと今も自負している。

 横浜の組織化が終わったあと、自信を持った組合員は執行部のオルグに全面的に協力し、1年以内に東京港、千葉港のパイロットボート全員の組織化に成功した。こうして東京湾のタグ・パイロットボートの完全組織化が完了した。

 その後協和海運はストで対立した組合員との感情的対立を緩和すべく、日本郵船の初代職場委員であった石井福太郎さんを採用して、労務管理を一任した。石井さんは立場は会社側であったが、組合員に対しては極めて好意的に対応、個人企業では初めての適格企業年金制度導入に全面的にご協力をいただいた。懐が深い上に、船員に対する思いやりが厚く、在籍10年で他界されたことが惜しまれてならない。

 それ以外にも組織拡大の話をすれば限りないが、郷田艇長はじめ他社組合員の献身的な協力、人間と人間との信頼関係が底流にあったからこそできたことを、忘れてはならないと思う。

タグ組合員が必死で第10雄洋丸を曳航

 私は東京湾で起きた第一宗像丸、ていむず丸、大日丸など数多くの海難事故に直接関係した。中でもLPGタンカー第10雄洋丸とリベリア籍の便宜置籍船パシフィックアレスが浦賀水道で衝突した事故は忘れることができない。

 事故の直後、海上保安庁の巡視船「まつうら」の船長今野宗郎氏の写真入りの記事が朝日新聞に載った。

 『燃え続けるタンカーをえい航した巡視艇「まつうら」船長今野宗郎。「ワイヤよ切れるな、そればかりを祈っていました」日やけした顔に、微笑を浮かべながら淡々と語る。両手にこぶしをつくって、きちんとひざの上。時折、伝声管から届く報告に、テキパキと指示を与える。最後に「おい気をつけろよ」の一声。「おやじ、ですよ」、乗員の一人がささやいた。

 爆発を繰り返す第10雄洋丸を横須賀沖から千葉県富津沖へ曳航した。「命令を受けて、中堅幹部らに命を預けてくれ、と。みんな黙ってうなずいてくれました」。平穏な日常生活では時代錯誤とも思える言葉が、死と隣り合わせの海の上ではまだ生きている。熱気と煙の中、切れたワイヤを張り直すなど悪戦苦闘の末、雄洋丸を富津沖に座礁させた。「爆弾を運ぶような心臓が締め付けられる気持ちでした」。27年海上保安庁入りしてから巡視船など海上勤務がほとんど、3年ほど、海上保安大学校の助教授をしたが、「やはり海の上でないと落ち着かなくて」。(中略)今回のような救援活動のほかに、海上の交通整理、密輸や船上殺人、傷害事件の捜査、救急車兼パトカー兼交通白バイ、といったところ、横須賀を基地に東京湾中を走り廻っている。』(朝日新聞、1974年11月14日版)

 しかし、この記事には大きな「偽り」があった。実際には、保安庁はすぐタグ会社に協力を依頼。重役が反対する中で自ら任務を買って出たタグ乗組員が、燃え盛かる火の中を雄洋丸によじ登り、一度切れたロープを再度よじ登って曳航に成功したからだ。

 当時、組合本部の組織局主任、土曜会会長でもあった私は土曜日を利用して親睦ソフトボール大会を主催し、夕方横浜に帰り着いた。駅のホームから海の方をみたら空が真赤になっている。「これは船の事故だ」と直感し、京浜支部に直行、管理人に事務所を開けて貰い早速タグボートに電話を入れると、燃えている雄洋丸に向かっている最中だった。日本海洋社の大安丸・大成丸の2隻のタグボートは保安庁や消防艇の放水の中で雄洋丸の船尾に接舷、直接船体を手で触って温度確認した後、4名の組合員が甲板に乗り移ってロープを取り付けて曳航を開始。6時間にわたる奮闘の末に富津沖に座礁させ、横須賀市に大被害が及ぶことを防いだのだった。

 私はすぐにそのことを朝日の「声」の欄に投書、朝日からは「まつうら」の記事と異なるため私の投書は事実と違うのでは?という問い合わせがあった。私は即座に「巡視船の船長の話こそ事実と違う。記者をタグに訪船させ取材するよう」依頼した。タグを取材した朝日は19日の記事で「民間引き船、間一髪曳航。海の男14人決死の作業、「うちの船がやらなければ、被害はもっと大きくなる」、火の玉漂流船暴走を回避」「東京湾、お寒い海の防災体制。海上保安庁が独力でやるのは困難」と大きく報道した。

 最初から、民間のタグボートの懸命の努力の結果曳航に成功したとなぜ言えないのか不思議だった。保安庁も事実を知りながら「まつうら」の船長談話をなぜ黙認したのか? タグ乗組員の必死の救助が報道されず、腹が立つこと甚だしかった。

 第10雄洋丸はその後も燃え続けて危険な状態となったため、富津沖から太平洋に向けてタグで曳航を開始したところで再度爆発炎上して漂流、最後は保安庁の要請により海上自衛隊により撃沈処分された。この時も組合員は必死で職務を遂行したのだった。

 最後に笹木先生のことについて触れたい。

 私が最初に先生をお見かけしたのは横浜支部に転勤した時でした。支部事務所の入り口の書棚に誰でも持って行けるよう海員・船員しんぶんなどが置かれていたが、背広を着た紳士が毎月定期的に来ていろいろ物色して持っていかれるので、先輩の田中正八郎さんに聞いてみたら、商船大の笹木教授と教えられた。その後、毎年組合大会の2階席で熱心にメモを取っている姿を見て、尊敬の念を抱いたものでした。

 やがて関東船員地方労働委員会の労働者側委員に任命された私は、先生と直接お話をする機会が訪れた。1985年から5年間、当時東京地方支部長だった堀内靖裕君とともに、公益委員であった先生から、常に船員の立場に即したご指導をいただき助けられたことを忘れることができません。

(2014年5月)