柿山 朗(元外航船員)

第一章 軍の論理
第二章 民の論理
第三章 溶け合う軍と民
(1) 軍事機能の民営化
(2) 商に揺れる民
(3) 強制と任意のはざまで
(4) 湾岸戦争と民間船
(5)「下船の自由」という権利
(6)「下船の自由」を巡る対応
(以上、前号まで)

(7) 旗と国家
① 船籍と船員の国籍

 コンテナ船ALMANAKH号がイラン航空機からロケット弾攻撃を受け、藤村憲一操機長が死亡したのは85年である。同船の船主はユナイテッド・アラブ・シッピング(UASC)というイラクを含む湾岸6ヵ国で設立された会社である。船籍はクウェート、船員の配乗は商船三井とUASCとの労務提供契約により行われていた。
 当時ペルシャ湾内は、このような労提船、リベリアやパナマ船籍の便宜置籍船、日本籍船が混在して航行していた。
 一方、乗組員の国籍は全員が日本人の船、日本人と外国人の混乗船、日本の支配船でも全員が外国人の船など様々な形態が存在した。
 見逃せないのは、ALMANAKH被弾以降、船籍や船員の国籍により安全海域の範囲や夜間航行制限などの安全対策が異なるようになったことである。
 イランイラク戦争(1980~1988年)の半ばまでは、カーグ島の原油は日本、欧州向け大型タンカーへ直接積み込まれていた。
 しかし、戦争の終盤になると、イラクのミサイル攻撃に晒されたため、先ず、5万トンサイズのシャトルタンカーで、カーグ島からペルシャ湾口のホルムズターミナルへ運ばれた。そこにはストレージタンカーと呼ばれる超大型タンカーが碇泊しており、原油は一旦その船へ移し替えられた。
 そして、日本や欧州向けの船は、ストレージタンカーに接舷してカーグ島の原油を積み込んだ。つまり、危険度の増加に伴い、掛ける手間を増やしたのである。
 危険度の最も高いシャトルタンカーの乗組員は中東からの出稼ぎ船員とフィリピン人。こうした船員へは、他船の数倍の危険手当が払われたと言われている。彼らがどのような伝手でそうした船に乗ったかは不明である。
 碇泊するストレージタンカーの多くは韓国人やインド人。その後の、比較的安全な航海が日本や欧州の船員であった。危険度と出身国は連動し、本来は平等であるべき人間の生命にも値段が存在することを示している。
 ペルシャ湾内を航行中、VHF無線を傍受しているとイランのガンボートや空軍ヘリから誰何(すいか)を受ける日本人船員の応答を幾度となく聴いた。労提船や便宜置籍船では船名を告げた後、必ず「ジャパニーズ オンボード」と付け加えられた。切羽詰まった状況の時は、何度も繰り返されていた。私には、「撃たないでくれ」と哀願しているように聞こえた。
 それは船籍と国籍が切り裂かれた者たちの悲鳴だった。

②「日の丸」安全神話の崩壊
 1987年5月の白昼、サウジアラビアのカフジ港へ向けて航行中の「秀邦丸」がイランの襲撃を受ける事件が発生する。柿並船長の報告(海員同年8月号)によれば、『2隻の武装ボートがいつものように船名、国籍、行先を確認するために近寄ってきたと判断した。だが、60メートルまで近付き本船の様子を窺ったあと突然、数発のロケット砲と機銃掃射を受けた。』とのこと。日本船であることを確認した上での攻撃だった。
以降、日本船の被弾が相次ぐが、理由の一つは、米国がイラク支援で全面的に参戦したことから、安保条約で同盟関係を結ぶ日本も狙われるようになったことである。集団的自衛権が行使されると、日本船はさらに危険にさらされることは、言うまでもない。
 資料(防衛研究所紀要第20巻第2号2018年3月参照)は、米国の戦争への介入の経緯を次のように説明する。
 『開戦以来、イラクへ巨額の資金援助を行っていたのがクウェートである。同国船舶のアメリカ船籍への変更とその護衛について米国が同意し、レーガン政権が公表したのが1987年5月17日である。これはアーネスト・ウィル作戦と命名された。この2日前には、イラク空軍のミラージュ戦闘機がアメリカのフリゲート艦「スターク」へ2発のエクゾゼミサイルを発射、乗員37名が死亡する誤射事件が発生し、それまで軍事介入に慎重な米国議会の空気も一変したとされる。
 以降、レーガン政権は米国海軍中東艦隊に対して「準臨戦態勢」を下令、空母コンステレーション派遣やイージス艦の増強を決定した』
 もう一つの理由はイランの革命防衛隊の存在だ。イラン駐在経験のある日本郵船・田川丸の船長(氏名不明)は共同のFAXニュースで『仮にイラン政府が日本船への攻撃を止めるように言っても彼らは対日感情で行動している。政府に注文を付け、時には反発し独自の動きをする』とコメントする。
 戦争は感情を狂気へと昂らせ、理性という心のブレーキを壊す。
 『日本はイラン、イラク双方との友好国であり、日の丸を掲げていれば撃たれない』。この確信から日本人の乗るタンカーは、船体外板と甲板上に、上空からも分かるよう大きな「日の丸」を描いた。1987年5月は、「日の丸」の安全神話が崩壊したターニングポイントとして記憶される必要がある。
 船主団体である外労協87年7月7日の「ペルシャ湾情報」では「もうこうなったら撃たれないようにして行くことは無理だから、撃たれても死なない、怪我をしないように対策をたてて、決死の覚悟で湾奥に就航するしかないと思うが如何だろうか」と発信する。

③ ナショナリズムの風
 87年10月、「危険があっても船員は行け」とする二つの記事が立て続けに「海上の友」に発表され波紋を呼んだ。先に掲載されたのは谷初蔵海技協会会長(元東京商船大学学長)の発言である。「日本船の必要性に国民の納得と支援を求めよ」と題する。
 『今までは経済安全保障論を有力な根拠にして政策支援が行われてきたが、今後はそれは期待できない。今までは安全保障の上に、経済とか総合という言葉がついていたが、そういうものは取り払った文字通りの安全保障、言い換えれば国防上の問題だ。安保で日本船を支援しても、いざという時日本船は危険区域へ行ってくれないのではという危惧もあるようだが、それは船主や船員が「日本船は行きます」とはっきり言わないからだ。海上輸送の使命感について国民に明言しなければ、国民の納得は得られない』と語る。
 もうひとつは「ペルシャ湾の日本船を守れ」という評論家・村松剛氏のインタビュー記事である。
 『日本船が無防備の状態に置かれたら、日本の船員がペルシャ湾への入湾を拒否するのは当然のことだ。入湾拒否が長期になれば、いつまでも備蓄を取り崩すわけにいかず、残された道はただ一つ、自分の国の船を自分で守ることを考えなければならない。船も国土の一部である。自衛艦を派遣して、日本船を守ることを真剣に考えなければならない。

海上の友誌
1987年9月号
海上の友誌
1987年10月号

 ペルシャ湾の日本船を守ることは正にシーレーン防衛ではないか。日本は今そのことを真剣に考えなければならないのにみんな逃げている。新聞をみても平和を外交努力で実現してほしい、などと言っているが日本の外交努力でイ・イ戦争が終結する筈もない。日本は戦後40年、自分で守ることを考えずに、ごまかしてやってきた。しかし、そうはいかない状況が目の前に来ていることを認識すべき』
 村松氏の提言では、民間商船の危険が増すことは明白であり、それはイランイラク戦争では実現しなかった。だが、その後の30年の歩みをみれば、戦後初めての海外派兵であるペルシャ湾への掃海艇派遣、海賊対策として自衛艦が派遣された結果、ジブチでの戦後初めての海外基地建設につながっている。
 海事広報協会は運輸省管轄の公益財団法人である。この時期のこれらのキャンペーンは、国が一定の思惑をもって企画したとしても不思議ではない。
 ナショナリズムの風が吹く時、軍と民は容易に溶け合う。

④ 国と官僚たちの本音
 「葬られた危機―イラク日報問題の原点」というテレビ番組(名古屋テレビ制作)が話題を集めている。取り上げられた題材は、1990年にイラクのクウェート侵攻により始まった湾岸戦争で、中東貢献船という名のもとに米軍支援物資を運んだ「きいすぷれんだあ」号である。本船は「武器弾薬を積まない」、「積荷内容の通報」などと並んで、「協力相手国である米国の指揮命令下には入らない」、「戦闘区域には入らない」という日米政府の了解のもとで就航した。
 ところが実態は、入湾前のオマーンで輸送部隊将校が乗り込み米国の指揮下に入れられ、戦闘海域である東経52度以西の港、ダンマンへ入港した。安全だと言われて行った先が、イラクのスカッドミサイルを米軍の迎撃ミサイルパトリオットが撃ち落とす戦場だったという内容である。
 ところが、それに対する運輸省の対応を聞かれた元海上技術安全局長の戸田邦司氏は、『船は動いているし、いちいちそれで船を止めたり、行先を変えたりできない。突発的なことだから有り得る。ああそう、というくらいのはなし。国会に公開して良い話なんかひとつもない。知らせないで済むことなら知らせない』と答える。
 安全確保について、外務省元北米局長の松浦晃一郎氏は『現に被害が出ていないから安全だったということですよ。具体的には安全は船舶会社や米軍に任されていた。危険かどうかは現場で判断するしかない、むしろ東京で判断するほうが危険です』と語る。
 中山太郎元外相は次のように総括する。『民間船の派遣自体が戦争に参加した、ということですよ。いろんな経験を国民がして脱皮していくことだ。そういう意味では(安保法の成立した)今の日本は成長した』。
 橋本船長からの報告書は、「極秘・無期限」の判を押され、今も外務省の奥深く眠っているという。

 ⑤ 飛び交う「ありがとう」
 イランイラク戦争当時、石油連盟は「石油海峡、運ばなければならない。だから、通らなければならない。ありがとう。石油を運ぶ男たち」という意見広告を各新聞に出した。多くのタンカー船員は「ペルシャ湾からの石油輸送にたずさわる船員の皆さんへ」と題する感謝状を総理大臣から貰った。私もその一人である。
 湾岸戦争時には、サウジアラビアのカフジへの掃海艇派遣について石油連盟、船主協会、アラビア石油は海上自衛隊に感謝を表し、海員組合は組合長名で、掃海艇へ慰労の電報を送った。
 今、ソマリア沖の海賊対策について海員組合は自衛艦の出国式で「守ってくれてありがとう」の横断幕を掲げて見送る。更に昨年の総選挙では中谷、石破、浜田や小野寺等の防衛族議員が組合推薦候補者として名を連ねる。
 本年の海員組合の活動方針案では「はじめに」で、「われわれ船員は、戦没した船員の諸先輩に対する天皇皇后両陛下の長年にわたるご厚情に改めて感謝し、その御心(みこころ)を決して忘れることはない」と記す。
 私には、「ありがとう」という私的な謝意に用いられる言葉が、産業、国民の代表、自衛隊、労働組合や天皇などの公的な組織間で容易に多用されることへの違和感がある。
 同時に「気持ち悪さ」も感じる。私が思い当たるのは、皇国海員同盟が1938年に謳った「日本主義・産業報国・皇国の発展」という時局に迎合した綱領である。労働組合会議を脱退した海員組合は、海員協会とともに皇国海員同盟を結成。翌々年に海員組合は解散させられ、海運報国団へと移行した史実に行き着く。

⑥それぞれの拠って立つべきもの
 作家・城山三郎は自ら徴兵猶予を申し出て、海軍の特別幹部練習生となる。彼が配属される予定先は、「人間機雷」と呼ばれる兵器を使う伏龍部隊。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破する戦法であった。
 戦争末期の本土決戦では、先ず特攻機が米軍機動部隊に体当たりし、輸送艦が接近すれば人間魚雷回天や特攻艇震洋などの水上特攻部隊が迎撃、そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍特攻隊の役目であった。それは既に多くの特攻機を失い、練習生たちが余剰となるこの時期に彼らを「有効に活用」するために考案された戦術である。
 城山三郎は次のように書く。
 『八紘一宇とか大東亜共栄圏とかの大合唱、それは非の打ち所のない理想のように見えたが、実態はどうだったか。国をあげての大合唱のおそろしさ、愚かさ。その意味では、私たちが戦争から学んだ最大の教訓は、大合唱に付和雷同してはならぬということである』(1975年8月1日・東京新聞)
 彼には「旗」という詩がある。
 旗ふるな/旗ふらすな/旗伏せよ/旗たため/社旗も校旗も/国々の旗も/国策なる旗も/運動という名の旗も/ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命、と続く。
(城山三郎の昭和・佐高信著・角川文庫)

 哲学者・鶴見俊輔は、戦時下で米国の「日本人戦時捕虜収容所」に収監されていた。米国政府役人に「日米交換船が出る。のるか、のらないのか」と聞かれ、その場で「のる」と答えて日本に帰ってきた。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍を志願して軍属・通訳としてインドネシアやシンガポールに配属された経験を持つ。
 『なぜ、日本にもどるのか。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが「くに」である。法律上その国籍をもっているからといって、どうしてその国家の考え方を自分の考え方とし、国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。私は早くからこのことに疑問をもっていた。
 この国家は正しくもないし、必ず負ける。負けは国を踏みにじる。その時に「くに」とともに負ける側にいたい、と思った。』
 『なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためは同じであるとどうして言えるのか。国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にはいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか』と問う(思い出袋・岩波新書)。そして、ひらがなの「くに」と漢字の「国」を峻別して使った。

 また、「戦没船を記録する会」立ち上げの中心を担った海員詩人の中原厚(元国洋海運操機手)は、「家」という詩の中で次のように書いている。
 国・家と呼ばれるもの/何故 国に家を付すのか/国と称すべきものを/ついもたなかった我らの/寄りべのなさについて/深い嘆きがある/血縁の絆の輪のなかに/かつて存在したもの、と続く。(詩集 海・その聖なるもの 青木印刷)
 彼は予科練に入るが、結核で除隊される。『弟は海員学校を出て石原汽船の「はあぶる丸」に乗ってすぐ、フィリピンのホロ島で船と一緒に海の藻屑になった。16歳だった。戦死の知らせが来た時、親父は気丈に振舞ったけど、お袋が流した涙は今も忘れられない。 
 遺品も何もなくて、きっと信じたくなかったから、愚痴も何も言わなかったのだと思う。後に弟は、船と運命を共にしたのではなく、エンジンの故障でホロ島に上陸して、村人との戦闘で軍人と一緒に死んだことを知った』(羅針盤2号・海風気風 参照)
 中原は死んだ弟の悟という名を息子に付けた。彼にとって「国」に対置する拠りどころは、血縁の絆だったのだろう。

⑦ 船員の1987年と現在
 1987年3月には、希望退職者への割増退職金の支給、離職者の受け皿機構の設置などの緊急雇用対策が労使で合意された。その後、半年間で1万人が海上を去る。雇用不安をテコに船員社会が瓦解したのである。
 本号では船員にとっての1987年を切り取って描いた。1年という短期間の、船員社会という小さな部分に過ぎないが、それでも雇用・生活への不安が存在し、ナショナリズムに煽られるとき、否応なく戦争とどう向き合うか個人の責任で試された。その縮図が拡大され、30年経た現代のテーマになりつつある。
 年末には新元号が発表され、来春には天皇即位と退位の儀がある。 
 その翌年は東京五輪である。国民の一体感が鼓舞され、無数の日の丸が振られる中で国難が煽られ、改憲が待ったなしの課題としてテーブルの上に乗せられるであろう。 
 ふたつの饗宴の熱狂が去った後に待ち構えるのは、深刻な経済不況と誰の目にも明らかな財政破綻であろう。
やがて一人ひとりが戦争への入り口に立たされるのは間違いない。 
 時代を見つめ耳を澄ませ、抵抗のための準備をしよう。先ずはそれぞれの拠るべきものを確認することから始めよう。
(次号に続く)

イラン・イラク戦争の日本人配乗船舶被害(『海員』91年8月号より)
1.PRIM ROSE 276,424DWT タンカー ジャパンライン乗組み
 84年7月 ジェット機により2発のロケット攻撃を受ける。乗組員は無事。
2.AL MANAKH 32,534GT コンテナ 商船三井乗組み
 85年2月 4発のロケット攻撃。操機長が被弾して即死。
3.CROWN HOPE 21,691GT プロダクト船 大洋商船混乗
 86年11月 ガンボートからの攻撃。乗組員は無事。
4.コスモジュピター 238,770DWT タンカー 新和海運乗組み
 87年1月 イラン艦艇のミサイル攻撃。乗組員は無事。
5.秀邦丸 258,079DWT タンカー 東京タンカー乗組み
 87年5月 小型高速艇からのロケット攻撃と多数の機銃掃射。乗組員は無事
6.DIAMOND MARINE 223,595DWT タンカー 日本郵船乗組み
 87年9月 イランの2000トン級軍艦から艦砲と機関銃攻撃。乗組員は無事。
7.日信丸 180,305DWT タンカー 日正汽船乗組み
 87年9月 小型高速艇からロケット攻撃。乗組員は無事。
8.日晴丸 236,426DWT タンカー 日正汽船乗組み
 87年9月 5隻のガンボートにより攻撃。乗組員は無事。
9.WESTERN CITY 236,426DWT タンカー ジャパンライン乗組み
 87年9月 ガンボートから機銃とロケット砲による攻撃。乗組員は無事。
10.LIQUID BULK EXPLORER 12,960DWT ケミカル イイノマリン混乗
 87年11月 小型武装ボートがロケット弾を発射。乗組員は無事。
11.MARIA Ⅱ 2,845GT 液化ガス 共和海運混乗
 88年3月 フリゲート艦からロケット弾3発と機銃掃射。日本人1名が死亡。
12.ACE CHEMI 4,072GT ケミカル 水島商運混乗
 88年5月 高速武装ボートからロケット弾7発。乗組員は無事。
1984年のタンカー攻撃開始以降,各国の船舶390隻が被弾,死者310名(うち日本人2名)