全日本海員組合元教宣部長 藤丸 徹

 2014年7月、政府(自民党・公明党)は従来の憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権を容認する閣議決定を行った。自国が攻撃を受けなくても、密接な関係のある他国(具体的には米国)への攻撃に対して参戦できるというもの。
 翌年9月には、自衛隊法の改定など一連の安保法制を強行採決し、2016年3月29日より施行した(翌月1日に「ナッチャンワールド」と「はくおう」の防衛省への用船契約が発効、併せて船員予備自衛官制度が発足した)。
 これに対し、全国19の裁判所で、23件計6200名の原告による集団訴訟として「安保法制違憲訴訟」が提起された(詳細は安保法制違憲訴訟の会ホームページ)。
 以下は、原告の一人である海員組合元教宣部長・藤丸徹さんの陳述書です。
  ・・・・・・・・・・・・・・

東京地方裁判所 御中
全日本海員組合元教宣部長
 藤丸 徹
陳 述 書
 私は、1966年3月国立小樽海員学校航海科(現小樽海上技術学校)を卒業、外航船社に入社し翌67年2月より外国航路の船員として乗船勤務しました。以後、海技大学校での再教育を経て航海士となり十数年の船員生活の後に、全日本海員組合の執行部員として定年まで組合活動に従事しました。
全日本海員組合は、主に船員を対象とした個人加盟の産業別単一労働組合で上部団体としては連合と国際運輸労連に加盟し、現在日本人組合員数約2万3000人と外国人船員が組合の非居住特別組合員として約5万9000人が登録されており(2016年7月現在)、この人たちの労働条件の交渉も行っています。 
 私は、海員組合の大阪、東京、神戸、横浜など地方支部の転勤を重ねながら組合員の雇用・労働条件の維持、向上に向けた労働運動を続けながら、最後の勤務は東京六本木にある組合本部の教宣部長(広報室長)として定年を迎えました。

1 想像を絶する船舶と船員の戦争被害
 1941年12月8日、太平洋戦争の開戦と同時に日本軍は一斉に東南アジアに侵攻作戦を開始しました。開戦に当たって日本は二つの戦争目的を掲げていました。第一は「自存自衛」、つまり日本民族の生存をかけた自衛のための戦争であること。第二は「大東亜の新秩序建設」、つまり白色人種の植民地支配からアジアを解放し日本を盟主とした新しいアジア人の政治・経済圏「大東亜共栄圏」を作ることとされていたが、実際はアジアの盟主になる事でした。
 資源に乏しい島国日本の先の戦争は、まさしく海上補給戦といわれ船舶輸送力が戦争の勝敗を決しました。
1941年12月の真珠湾攻撃開始直前のわが国の船舶保有量は、500総トン以上の船舶の合計で約650万総トン、英・米に次ぎ世界第3位の保有量でした。その後、戦時中に急遽建造した船舶(約340万総トン)や拿捕船(26万総トン)などを加えると戦時中の船舶保有量は1000万総トンを超えました。
 太平洋戦争の開始前、1937年7月の盧溝橋事件を期に日中戦争が本格化するのに伴い、政府は輸送力の強化と優良船員を確保することを目的に船員法を改訂、臨時船舶管理法の公布などで戦時海運統制を強化し、最終的には船舶と船員の国家による一元的管理の布石を敷いていました。
 以降、海上輸送力を全面的な戦争遂行体制に組み込むべく、200本以上の海事関連法規を制定・公布して米英蘭との全面戦争に突入しました。
 戦前の帝国陸海軍は極端な精神主義に偏重し、陸軍にあっては白兵決戦主義、海軍にあっては戦艦大和や武蔵に代表される大艦巨砲主義・艦隊決戦主義が支配し、著しく科学的合理性に欠けた軍事戦略が支配していました。東南アジア全域から広大な南西太平洋海域に戦線の広がった戦争戦略の中には、兵站輸送の必要性から陸海軍による船舶の獲得競争はあっても輸送船を護衛するという発想はありませんでした。
 一方米国は大日本帝国の経済的・地政学的本質を見抜き、戦争開始直後に通商破壊作戦・無差別商船隊攻撃を発令し、特に油タンカー攻撃に主力を注ぎました。
 1942年6月のミッドウェイ海戦、ガダルカナル島争奪戦の敗北を境に制海権を失ってからの米国のウルフ・パッキング(狼群)作戦と呼ばれる3~5隻の潜水艦による輸送船壊滅作戦は驚異的な効果を発揮し、わが国商船隊を徹底的に破壊しました。
 その結果、戦争による喪失船舶量は500総トン以上の船舶で約890万総トン(2534隻)、500総トン未満の小型船、漁船、木造機帆船その他を合わせると1万数千隻以上に達し、国富被害率の総平均25%に比べ、船舶の被害は88%と突出しました。(1949年「経済安定本部」発表の『戦争による国富被害状況』による)
 1940年に交付された船員徴用令などによって根こそぎ動員された戦争による船員の犠牲者すべての把握は困難ですが、観音崎灯台の麓に奉安されている船員の死亡者数は6万600人余となっていて(日本殉職船員顕彰会奉安数による)、漁船や小型船にいたっては正確な記録は整理されていません。
戦没船員がより悲惨である特徴に、「生きて虜囚の辱めを受けず」とした戦陣訓や玉砕で名高い帝国陸海軍人の死亡率をはるかに上回り2倍以上の43%であることと、もうひとつは年少者が際立って多いことがあげられます。この背景には、海員養成所、商船学校などの各種船員教育機関が『戦時特例』によって養成期間を大幅に短縮、大量かつ短期即席養成で徴用船に乗り組ませたことによるものであります。
 戦没船員の年齢別分布を見ると、10代の死亡者が19,046人(31・43%)と突出しています。国民学校高等科を卒業し普通海員養成所の短期養成を2カ月で終え、乗船まもなく戦没した船員は享年14歳の若さでありました。
 戦争による船舶ならびに船員の被った犠牲の1~2例を紹介します。
 1944年に建造されたばかりの新鋭船・玉津丸(9590総トン)は、8月6日内地各港で軍需物資を満載し門司を出航、伊万里湾でヒ71船団20隻に編入されマニラに向け出航しました。18日、荒天・濃霧の中バシー海峡に差しかかり船団は米潜水艦に捕捉され僚船は相次いで魚雷攻撃により沈没。玉津丸は視界不良の中を全速で航行するも未明の4時30分、米潜水艦スペイドフィッシュが発進した魚雷2発が右舷中央に命中して4分後、煙突から蒸気を噴き出し、最期を告げる汽笛を吹鳴しながら戦没。船員138人中135人、将兵4500人中4406人が戦没しました。
 31日、護衛艦から「ガランビ岬東方海上ニ玉津丸便乗ノ陸軍将兵約2000名ノ漂流ヲ発見、救助ヲ開始スルモ限度アリ、至急駆逐艦2隻ノ増援ヲ頼ム」と緊急電報が発信されました。すでに救助され僚船・能登丸船上の便乗者となっている同僚たちは無線を聞いて声もなく絶句。海上に投げ出された約2000人の船員・将兵は、時化の海で12昼夜、飲まず食わずで1メートルの青竹につかまり漂流していました。
 この中の一人、私が組合活動に参加して間もない頃の先輩・石田次男近畿地方支部長(故人)から、同船団に編入され沈没した帝亜丸に乗船し遭難した体験をよく聞かされました。
 笠置山丸(1923年建造、2420総トン)は、1942年陸軍に徴用されフィリッピン方面に就航していました。44年9月24日コロン湾で第38機動部隊艦載機の空爆を受け船長以下3名が戦没しました。11月10日、サンフェルナンド沖でも空爆を受け操機長以下8名が戦没しましたが運航を続け、翌11日には荒天で座礁したにも関わらず乗組員は船を維持していました。しかし11月24日~25日、米航空母艦エセックスとラングレの艦載機の空爆で船体は破壊し、放棄されました。残りの乗組員21名はルソン島に上陸し山中に逃れるも、米軍や原住民の襲撃を受け全員が落命してしまいました。
 戦争を開始して以来、こうした船舶の悲惨な事例は至るところで発生しました。
 生き残った船員の平均遭難率は214%で、殆どの船員は同僚の死体と油と血の海に投げ出された経験を持って終戦を迎えました。

2 戦争と船員にかかわる戦後の歴史と経緯
 戦後わが国の一般市民は、平和憲法に守られ戦争の加害者にも被害者にもなることはありませんでした。しかし外航船員や沿海・遠洋の漁船船員にとっては、各国間の戦争や武力紛争とは無縁ではいられません。
 戦後直後の船員を待ち受けていた最初の任務は、海外に残された軍人軍属・一般邦人約640万人の引き揚げ、更には中国大陸や朝鮮半島から強制連行された人々約130万人の送還、合計約770万人の輸送活動でありました。
 稼動可能船舶は払底していたので米船215隻、約100万総トンの貸与を受け「マッカーサー元帥の命令により」船員は乗船し復員・送還業務に従事しました。日本沿岸には無数の機雷がとりまく中、船員はまたしても命を賭して危険きわまりない海に乗り出していかなければなりませんでした。その結果、船員は戦後だけでも186隻、778人の犠牲者をだしながら「民族の大移動」を完遂し、引き続き戦後復興の先頭にたって輸送活動に従事しました。

朝鮮戦争
 1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争では、米軍を主力とする国連軍の兵站を担うべく米国軍事海上輸送部の要請により約70隻、34万総トンが動員されました。中には米軍貸与のLST(戦車揚陸艦)で復員業務に就いていてそのまま、隣国の戦争の勃発により朝鮮海域に就航する船舶もいました。
 有名な仁川上陸作戦では、LST47隻が兵站を担い、その中の37隻のLSTは日本人船員により運航されていました。
ガダルカナルの飢餓の戦場で生き残った船員や何度も戦火の海に投げ出された船員もいて「やっと生き残った俺には家族もいる」、「こんなことなら船を降りる」、「戦争が終わって何年になるのか」と激論となり船内でも大反対となったようです。しかし当時の運輸大臣から「現地指揮官の命令に従え」との指示があり、やむなく業務に就かざるを得ませんでした。
 国会では「朝鮮戦争に日本人は参加していないのか。もし参加要請があったらどうするか」との野党質問に対して、吉田首相は「そのような仮定の質問にはお答えできません」と答え船内ラジオの放送を聞いていた船員たちから「俺たちがここにいるではないか」と怒号があがったとの事です。また民間商船の戦争加担を国会で質問された当時の吉田首相は「あくまでも民間の商契約である」と答弁していました。
 当時、占領下では政令325号があって米軍(進駐軍)の占領政策に都合が悪い事態に対しては占領目的違反とされ、「朝鮮戦争反対」などのプロバガンダや朝鮮への船舶の就航拒否などしたら即座に政令違反で逮捕・沖縄送りの重労働が課せられました。
 兵隊、武器弾薬、生活物資など戦争に欠かせないあらゆる物資の輸送に従事した日本人船員数千人(1万人という説もある)、さらには朝鮮沿岸の機雷除去作業に従事した海上保安庁の掃海艇30隻の「動員」なくして、国連軍の戦闘は不可能だったのです。その結果、56人の船員などが死亡しました。(2016年10月8日朝日新聞朝刊)

ベトナム戦争
 1961年より始まったベトナム戦争でもMSTS(米船運航㈱、米軍海上輸送司令部の指揮下にある)に雇用されている日本人船員は、米軍の軍需物資の兵站活動に従事しました。一方民間商船も「用船契約」として危険な海域に就航し、ベトナム戦争に動員された日本人船員は1400人と言われています。
 当時、MSTSに所属LSTに乗っていた組合でのかつての同僚・五味実さんは「米軍基地から基地に物資を運ぶだけ」との説明を受け乗船勤務についていました。実際には、戦車・砲弾などの武器弾薬から化学薬品(枯れ葉剤)、食料、衣類などの米軍物資を積んでヘルメットや防弾チョッキを常時着用しながらメコン川を遡行し、航路筋では砲攻撃が日常の激戦地に何度も就航していました。
 戦況がピークに達した1967年7月、4万人の兵と戦車100両を投入したジャンクション・シティー作戦の兵站に従事しメコン川を遡行中、同僚の古屋久弥さん(当時50歳)は川岸から直撃弾を受け死亡、4人が重軽傷を負いました。(2015年10月11日放送のBS1スペシャル)
 1964年11月3日 米船運航㈱のLST-117号の斎藤賢三甲板員が、南ベトナム・ダナン港で上陸、帰船途上に兵士に誰何され、逃げようとしたところを射殺された事件を始め、米軍が北ベトナムヘの本格的爆撃を開始し特殊戦争から局地戦争へ拡大した以降、メコン河遡航中の船舶が直撃弾や至近弾を受け船体・ブリッジに被弾した船舶は枚挙にいとまがありませんでした。
 海員組合はベトナム就航船に対して①就航見合わせ区域の設定 ②危険手当(1人1航海につき被弾2万円、至近弾1万円)を確認 ③ 乗組員の就航に対する意思の尊重などを協定しました。 また戦争が激化するのに伴いトンキン湾北緯17度以北への配船を見合わせ、さらにはベトナム沿岸(通称ジョンソン・ ライン内)に就航する乗組員に特別区域手当を設定(内容は全米海員組合の決めたものと同額)し、被撃手当はそれまでの倍額、停泊港被撃には150ドル、船舶被撃には100ドルを支払うことなどを逐次確認して就航しました。
 ベトナム戦争によって6人の日本人船員が死亡、負傷者も多数発生していますが実態は不明のままとなっています。

イラン・イラク戦争
 イラン・イラク戦争の勃発した1980(昭和55)年当時、わが国の原油の対外依存率は99%、その中でも中東の依存率は78%となっていて、日本と中東を結ぶオイルロードはまさしくわが国経済活動の死活を制する生命線でありました。
 戦争勃発の9月22日、イランとイラクの国境付近の海域には日本郵船所属のコンテナ船「箱崎丸」(2万3669総トン)、大洋商船所属の貨物船「かめりあ」(1万7040総トン)、東京海事所属の貨物船「からたち丸」(7073総トン)などの日本船が着岸もしくは航行していました。
「箱崎丸」は、ウムカッスル港にて荷役中に戦闘が始まり岸壁設備が破壊され荷役不能、本船にもミサイル1発が被弾、船腹に破孔が生じたことから付近は大混乱となり港外脱出は不可能となりました。
「かめりあ」は、シャトル・アラブ側をバスラ港に向け航行中に銃弾130発を被弾、船員1名が軽傷しました。
「からたち丸」は私の所属していた会社の船で、イラク向けの建設資材を満載してバスラ港に停泊していました。24日、「河口付近にある製油所のタンクがイラン空軍の攻撃を受け噴煙は本船上空を覆いただならぬ様相を示した。加えて爆発炸裂音が轟き、周辺河中に水柱があちこち上がった。飛来する弾丸や破片が鋭い金属音をあげて船上を飛び跳ね、船体に弾痕が生じ始めた」と同僚の矢島泰輔通信長は記しています。(海員組合機関誌、海員2003年8月号)
 当初は、被弾の危険を避けるべく全員が船内の中心に身をすくめていたが、危険が去らずやむなく救命ボートで乗組員全員が脱出、付近に落下する砲弾の合間を縫って上陸し窪地や用水路に身を伏せて眠れぬ夜を過ごしました。心身ともに疲労する中、やっとの思いで代理店員と接触しホテルに避難、数日後に帰国しました。翌春2月、保守要員として本船に派遣された2名の機関長・士は、ホテルから本船まで死体が散乱する道路を往復しながら機器の保守・管理に努めますが、市内への空襲・砲撃は止まることはなく結局、上記2隻と同様に本船も船体を放棄せざるを得ませんでした。
 8年間続いた同戦争では、イラン・イラク両国軍による中立国船舶をも巻き込んだ無差別攻撃により、407隻(546隻との説もある)の船舶が被弾攻撃され333人の死者、317人の負傷者をだすという世界の船員にとって悪夢のような事態でした。
 日本人船員の乗り組む船舶は、中立国・非交戦国表示を徹底し、船体の舷側や甲板上には巨大な「日の丸」を描き、必要に応じて昼間航海や船団航行をするなどして万全の体制で就航しました。また、船員居住区には土のうを積み上げ,ヘルメットや防弾チョッキを着用して可能な限りの安全対策を講じて対処しましたが、狂気の支配する戦場では日本人船員の乗り込む船舶も例外とはなりえませんでした。
1984年には、ジャパンライン所属のタンカー「Plimrose」(27万6424重量トン)がペルシャ湾を航行中、航空機によるロケット攻撃を受け被弾したのを始め4隻が被害を受けました。
 1985年には、商船三井配乗のコンテナ船「Al Manakt」(3万2534総トン)が同じく航空機による攻撃を受け4発が被弾・炎上し、乗組員は必至の消火活動に従事、藤村憲一操機長1名が死亡、ほか1名が負傷したのを始め、3隻が被弾や臨検・拿捕にあった。
 その後も、タンカーの「秀邦丸」、「コスモジュピター」「日信丸」「日晴丸」などの日本船舶の被害は続き、イラン・イラク戦争によって日本船は12隻が被弾し、2名の命が失われました。
 海員組合は、外航船社と①領海内にある船舶の早期脱出を図る、②日章旗を掲揚する、③北緯29度30分以北に就航させない、④乗船に当たっては本人の意思を尊重する事などを取り決めました。しかしタンカー会社乗組員にとって「乗船拒否」は生活自体が成り立たないことを意味します。また仮に下船を希望しても別な同僚が乗船しなければならず忸怩たる思いで原油輸送に従事していました。
 浮遊機雷が流れる海域で、船舶の臨検、拿捕、威嚇などは日常茶飯となる中で船員は懸命にオイルロードを維持していた当時、国内は株価や土地価格の高騰などでバブル景気でした。テレビは24時間放送が続き、ネオンサインが煌煌と街中を照らし、「ジュリアナ」などに代表される踊り場で若い男女が踊り狂っている、日本全体が省エネなどという意識もないまさしく狂乱の時代でした。

湾岸戦争など
 8年間続いたイラン・イラク戦争が終結した2年後の1990年(平成2)年8月2日、イラクのクェート侵攻により湾岸戦争が勃発しました。政府の強い要請により、中東貢献策の一環として日本船舶による物資輸送の協力が求められました。
 海員組合は、一切の武器弾薬、兵員など直接戦闘行為に供する物資の輸送はしないこと、乗組員個々の乗船拒否権を完全に保証することなどを盛り込んだ協定を締結して、日本人船員の乗り組む船舶2隻が、建設資材等を積載してサウジアラビア方面に2航海就航しました。
 そのうちの一隻「きーすぷれんだー」号の橋本進船長の報告によれば、マスカット港で陸揚げ予定のトラック150台がダンマン港への陸揚げ変更となり移動、ダンマン港に入るとイラク軍のスカッドミサイルが飛来し、これをイラン軍のパトリオットが迎撃、船の上空で大爆発が起こって周辺にいた多数の兵士が、荷役中の「きーすぷれんだー」号に血相をかえて逃げ込んできました。ダンマン港はまさに戦場そのものだったわけで、乗組員にとっても大変危険な状況でした。
 その他にも、1984年に始まった第一次中東戦争から数次に及ぶ中東戦争、キューバ危機、インド・パキスタン紛争、フォークランド戦争など船員が戦争・内乱・紛争などに関わった事例には事欠きません。

3 安保法成立後、民間船員が事実上の強要で予備自衛官補にさせられる事実と危険性
 昨年9月一連の安保法制が一括採択されました。
 安保法制が公布され施行されたことによる船員にかかわる具体的な動きとして本年3月、民間会社「高速マリントランスポート株式会社」(以下マ社という)と防衛省が自衛隊の自衛隊員や武器弾薬、その他の戦争資材を常時輸送することを目的とした契約があります。
 マ社は、防衛産業を扱う商社・双日(株)を筆頭に、新日本海フェリーや津軽海峡フェリー、リベラなど8社の共同で有事や訓練の際に米軍や自衛隊を運ぶ特別目的会社として本年2月19日に設立されました。
 契約期間は平成37年12月までの10年間で、金額は250億円。船員の雇用・配乗は、「ナッチャンWorld」が東洋マリンサービス、「はくおう」は、ゆたかシッピングが担当するようであります。前社は津軽海峡フェリーの、後社は新日本海フェリーの子会社で、「ナッチャンWorld」は今年10月1日から、「はくおう」は来年4月1日から任務に就く契約となっています。
 契約は「事業契約書」の他に、「基本協定書」「入札説明書」「提案書類」「民間船舶管理事業・業務水準書」などがあり、輸送内容は、①自衛隊の訓練のために必要な輸送、②自衛隊の任務遂行のために必要な輸送、③公的機関のための輸送等(国が発注する在日米軍の輸送役務等)、の3点とされています。そのほかに、「事業者の義務履行に支障を及ぼさない範囲において」、マ社は「収益事業」を行うことができるようになっています。
 そして、平時の「収益事業」「訓練のために必要な輸送」「公的機関のための輸送」は、「船舶安全法に基づき輸送すること」、つまり、海技免状を持った船員が民間船員として商業輸送を行う。防衛出動・有事の際は、「自衛隊法に基づき海上自衛隊が運航」し、通知後遅くとも72時間以内に出港できる態勢にすることが義務付けられています。
 重要なのは、防衛出動命令(予測される場合も含む)が出された際には、「船舶を裸用船し予備自衛官を含む自衛官で運航する」「事業者は、予備自衛官及び予備自衛官補である本事業船員の確保を促進するものとする」(水準書)としている点です。
 さらに「予備自衛官等である本事業船員については、できる限り1号船舶(ナッチャンWorldのこと)の運航に従事できるようにしておくこととする。加えて、1号船舶の船員について、予備自衛官又はその希望者であることを確認して雇用する」(同水準書)と、はっきり義務付けられている事です。
 海上自衛隊には、大型カーフェリーを運航できる有資格者が少なく、予備自衛官(民間船員)なしには運航不可能なのが現状です。
 中谷防衛大臣(当時)や防衛省・国土交通省など政府側は、「予備自衛官になるかは船員の任意」、「会社側の問題で、防衛省としては関知しない」との発言は事実と異なり、船員の予備自衛官化のレールが完全に敷かれているのです。
 「ナッチャンWorld」は本年10月1日までに船員を「積極的に確保する」ことが義務付けられており、「はくおう」も含めて既に乗組員は確保されています。
 なお事業契約書には「都合により、予備自衛官を希望しないで、1号船舶の船員となった者については、国及び事業者双方は、その希望を尊重し、国は予備自衛官に採用しないこととする」と、「本人希望を尊重」するかのように記載していますが、「予備自衛官又はその希望者であることを確認して雇用する」ことと完全に矛盾しています。
 船員が新会社に船とともに移籍もしくは新たに採用されるにあたって、「予備自衛官又はその希望者であることを確認」されたら船員は断り切れないのが現状で、船員の事実上の徴用・強要であります。
 「業務水準書」第2章1の(3)に記された「本事業船舶の満たすべき性能等の要求水準」では、総トン数、積載トン数、速力、航続距離などに加え、「危険物積載」として、国連番号UN0006、UN0168などが記されています。
 UN0006は砲用完成弾、UN0168は弾薬で、実戦兵器の積載を表で具体的に指示しています。同表には船橋保護装置として「船橋前、側部防護板を有すること」も記されています。また「防衛出動等運航後」の項では、①国は、自ら事業者が指定する造船所まで船舶を回航する、②国と事業者は、双方で本事業船舶の損傷等を確認し、損傷等確認書を作成する等と規定されており、まさしく殺し殺される実弾の飛び交う戦場に赴くことを前提としています。
 さらに、当面の航行区域は「近海」となっていますが、「事業者は、本事業船舶が臨時変更等により外航を行う場合を想定して、関係官庁との調整のうえ、外航に必要な本事業船舶の改造仕様やソフト面(国際安全管理コード《ISMコード》に則った安全管理システム《SMS》など)での必要な対応策を検討」し、「対応可能な措置を自ら講じる」ことが義務付けられています。
 「事業契約書」は計120条、別紙を含めて170ページに及ぶ膨大なもので、防衛省が長期間にわたり水面下で民間船舶の活用を練っていたことが分かります。
 契約書第20条(監視職員)では、「発注者」すなわち防衛省が監視職員を任命し、自衛隊員や武器弾薬その他を運ぶ際、「請求、勧告、通知、確認、承認、承諾、指示、要請又は協議」して「要求水準の達成状況を監視」するとされています。
 自衛隊の任務の遂行すなわち戦闘行為に支障がないよう、あらゆる危険な状況のなかでも指示命令に従わせることができることになっていることから、われわれ船員は、戦前の船員を塗炭に苦しめた船舶保護法を想起します。
 船舶保護法は、200本近い海事関係の戦時法令のひとつで、1940(昭和15)年3月に制定されました。第1条では「船舶を保護するを以て目的とす」とされ、軍人が船舶に乗り込み「臨機必要なる指示を為す」として指示監督し、船員が指示に従わない場合は懲役を含む罰則が定められていました。
船に乗ったことがなく、商船運航のノウハウやシーマンシップを全く知らない軍人が、船長の上位に立ち、船舶運航の全般すなわち針路・速力、船体の維持管理から積み付け、人員配置や労務管理まですべてにわたって指示・強要しました。無謀な軍人の指揮命令の結果、多くの船員が犠牲になったことは前述した通りです。
 このように安保法制の公布・施行に伴い、われわれ船員にとって戦争に加担させられる脅威は極めて現実的な動きとなってきています。

4 船員の職業的特殊性からくる戦争加担の危険性と脅威
 わが国は、原油(輸入率100%)、天然ガス(98%)、石炭(100%)などのエネルギー原料も、鉄鉱石(100%)、ボーキサイト(100%)などの工業原料、さらには衣食住に関連するものでは綿花、羊毛、ゴムなども100%、大豆(93%)、小麦(88%)、砂糖類(72%)、木材は70%が外国からの輸入(総量約8億トン)に頼っています。(いずれも船主協会編、「2016日本の海運より」)
 食料自給率(カロリーベース)は39パーセントで推移し依然として外国に依存しなければ食生活が守れない状態が続いています。
 一方で日本は、自動車や電気製品などさまざまな工業製品を生産し、世界各国に輸出(総量約1・7億トン)することで経済と国民生活は成り立っています。外航海運は、こうした貿易の99・7%を担っており、まさに島国日本の生命線であります。
 しかし一旦有事となれば、こうした現実にあるわが国の経済的安全保障が守られるでしょうか。戦前・戦中の歴史が示す通り戦争ともなれば「敵対国」は、わが国の貿易通商路を破壊することは目に見えています。資源が少なく各国との輸出入貿易で成り立っている極東の島国は、物理的にも戦略的にも戦争ができない国であることは歴然としています。
 政府は「民間人には安全なところでの業務に従事」し、「あくまで後方支援に従事」と繰り返し答弁しますが、一体「安全なところ」とはどこを指すのでしょうか。海には安全な海域はありません。
 陸上の戦争ルールを定めた国際人道法(戦時国際法)の陸戦法規では、「攻撃は軍事目標に厳しく限定されなければならない(ジュネーブ条約追加議定書1の第52条)」とし、かつ軍事目標の範囲を極めて限定しています。
 降伏した兵士、捕獲者、戦闘不能者、衛生兵や宗教要員、文民、学校、病院などの医療施設、歴史遺産、芸術品、礼拝所、住民生活に必要な食料施設、作物、灌漑設備、ダム、堤防、原発、民間防衛団体の要員などを攻撃したり、都市に対する無差別絨毯(じゅうたん)爆撃は違法として禁止しています。これらを攻撃すれば国際刑事裁判所で戦争犯罪人として訴追される対象となっています。
 一方の海戦法規では、一般商船が敵国の軍事目標とされるケースとして「軍艦や航空機によって護衛されている商船」さらには「武器弾薬や兵員を輸送する船舶」と明確に規定されていて、非交戦国・中立国の船舶であっても戦争当事国の武器弾薬を積載している場合は攻撃対象に該当します。海戦法規では、民間商船といえどもほぼ例外なく臨検・拿捕の対象となり、場合によっては無警告・無差別攻撃の対象となる過酷な規定になっています。
 安保法制の制定によって、われわれ船員が危惧しているのは、民間商船が「軍事目標」そのものになることです。

5 おわりに
 私が初乗船した1967年頃は、戦後もまだ20年程しか経っていない事から戦争経験者が多数船に乗っていました。日本を離れて南下し、バシー海峡(台湾とフィリピンの間)に差し掛かると、甲板上から花やお酒などを海上に捧げお祈りする先輩船員が何人もいました。また汽笛の長音一声を吹鳴し戦没者を弔う船長もいました。戦時中、徴用され船とともに戦没していった先輩、同僚たちへの鎮魂のお祈りでした。
 若い私は、まだ歴史も知らず不思議な思いで眺めていましたが、その頃、船内でのカタフリ(船員用語で雑談のこと)で、戦争経験のある先輩船員の話しを良く聞かされたものです。
 この海域では何丸と何丸がやられ何百人の船員が死んだとか、何昼夜も泳がされたとかの話でした。
 現在、外国航路に就航する日本商船隊は約2700隻、それを動かす外航船員は3000人弱となっていて乗組員の95パーセントは外国人に依存しています。一旦、国際情勢が急変・悪化し身の危険を感じた際に、外国人船員がどこまでわが国の経済活動と国民生活を維持するシーレーンを確保してくれるでしょうか。東日本大震災による福島第1原発の爆発事故があった際、彼らからは「下船、帰国させてほしい」と懇願する者もいました。
 政府は、2007(平成19)年の国交省交通政策審議会・海事分科会・国際海上輸送部会で「最低限必要な日本籍船は約450隻、日本人船員(職員)は約5500人」とする目標を掲げていますが、いまだ達成されていません。その中で官労使あげて船員の確保・育成に取り組んでいます。
一方、外航船員を補完する技能を有する内航船員(旅客船船員を除く)は2015年で2万人弱となっていて減少傾向は止まらず、50歳以上の高齢化率は75パーセントを超えています。
 経済安全保障上の日本人船員の確保・育成は喫緊の国民的な課題となっていますが、外航・内航とも将来的に安定した船員の確保と育成には目途が立っていません。
 船員は、命に係わる危険な海域にも就航せざるを得ない極めて稀有な「特殊性」を有しています。安保法制が制定される以前にも前述した通り、多くの被害や犠牲者を出し危険と近接していましたが、日章旗の表示や憲法に基づく平和外交が安全保障の担保として機能していました。
 しかし安保法制の制定によって他国の戦争に加担し、戦争当事国となった場合には必然的に兵站を担わらざるを得ない船舶とそれを運航する船員の後輩たちが、再び弾雨飛びかう戦火の海に駆り出されるのを黙認していられず、この度の訴訟に至りました。
以 上