柿山 朗(元外航船員)

第一章 軍の論理
(1) 太平洋戦争中の例
(2) 戦後の例
(3) 海上自衛隊への疑問
(4) 米潜水艦による事故
(5) 米原潜の事故の特徴
第二章 民の論理
(1) 民を律する法
(2) 民へ吹く新しい風
(3) 米イージス艦とコンテナ船の衝突事故から見えてくるもの
第三章 溶け合う軍と民
(1) 軍事機能の民営化
(2) 商に揺れる民
(3) 強制と任意のはざまで
(4) 湾岸戦争と民間船
(5) 「下船の自由」という権利
(以上、前号まで)

(6)「下船の自由」を巡る対応
① 権利行使を阻む理由・日本人船員の場合
労使確認である下船の自由の権利を実際に行使した人は少ないと思う。私が所属していた昭洋海運では、私の知る限り、太平洋戦争で船員だった兄を失ったT一航士、自身の信念に基づきPG就航タンカーへの乗船を拒否した組合活動家のK操機手、約80名のうち2名に過ぎない。
クウェート船籍(商船三井配乗)のコンテナ船、ALMANAKH号がイランの航空機からロケット弾攻撃を受けて藤村憲一操機長が死亡した85年は、ジャパンラインで大規模な人員整理が提案され、三光汽船が会社更生法を申請した年である。既に海運界はタンカーを含む3部門同時不況に陥っていたが、追い打ちをかけるかのようにプラザ合意を受けドルが急落した年でもある。
企業経営が危機を迎える時、会社なくして雇用なし、という企業主義の呪縛から自由でいられる船員は多くはない。その後、船主による外航船員一万人余剰論、緊急雇用対策の労使合意へと続く。
液化ガスタンカーMARIA Ⅱ号がイランのロケット弾と機銃掃射を受けて乗船中の技術者、新ノ居静士さんが死亡した88年にはマルシップ混乗が提案される。
船員の大量整理と同時進行で進んだのが社船の海外売船と外国人船員導入である。乗船機会が狭まる状況での拒否権の行使は、それまでの生活の維持を危うくする。
更に「自分だけ抜けるわけにはいかない」「仲間には迷惑はかけられない」という心情が、「下船の自由」に大きなブレーキをかける。
全寮制の学校で集団生活を通じて、徹底的に規律と秩序に従順で、船という運命共同体の一員という職業意識を叩き込まれる。
こうして「下船の自由」の行使は阻まれる傾向が強くなる。

② 外国人船員と下船の自由
「海員」2003年8月号『平和な海を求めて・国際業務スタッフは語る』は、フィリピン人船員がそれぞれの経験から自らを語る貴重な資料で、フィリピン人船員と「下船の自由」についての関係を窺い知ることができる。
彼らの主立った意見を要約する。

ジャボリ「友達の乗っていた船がイラクの戦闘機からミサイル攻撃を受け、彼は即死した。このニュースを聞いた後、乗組員全員が就航を拒否した。この結果、ヨルダンのアカバへ変更となり無事に積荷を揚げた」
マンバロ「イラン・イラク戦争でミサイルが命中したが、沈没は免れた。会社からもう一度ペルシャ湾へ行くことに同意するか、と問い合わせがあったが、NOと答えた。乗組員全員が就航を拒否した」
ジャボリ「フィリピン人船員は全員がITF承認協約によってカバーされているわけではない。POEA(海外雇用庁)の標準契約のみで就労している船員も多い。船長や船主が危険海域へ行けといえば、それに従わなければならない。ITFや加盟組合がPOEAに抗議し、この条項を削除する活動をすることを望む」
ガラン「私たちには危険海域に就航することを拒否する権利が保障されている。だが実際問題としてはどうか。船長が就航すると決めた場合は、直接危険海域へ向かってしまうケースがある。全ては船長の意思で決まるのではないか。危険海域へ就航する場合は、必ず乗組員総意のもとで就航するようにして欲しい」
ジャボリ「フィリピン人船員にとって危険海域にいくかどうか、最終的には個人の選択であって、すでにJSUの責任の範囲は離れている。ITF承認協約で選択の自由を保障しているわけだから、行かなければ会社のお金で帰国させてもらえるわけで、その時点ではすでに個人の問題である」
ヒゴイ「フィリピン人船員は危険手当をもらえれば乗船するという人も多いのではないか。貧しい人が多いし、船員になりたい人も多いから乗船を拒否しても代わりのフィリピン人船員が乗船してきて船は動くのではないか」

フィリピン人船員は終身雇用でないこと、契約社会といわれるフィリピンでは、個人の自由というドライな判断が優先されると予想していたが、乗組員の集団による決定の例が多いのは意外だった。

③ VLCC伊勢丸、船内大会で就航拒否の決定
イラン・イラク戦争当時、湾奥に位置するカーグ島での原油の積み出しの継続はイランにとって生命線であった。開戦当初は、大型タンカーへの原油積みは直接カーグ島で行われた。
やがてイラクのミラージュ機からのエグゾゼミサイル攻撃が激しくなると、カーグ島からの積荷は小型のシャトルタンカーが担い、中継基地に停泊するストレージ船を通して大型タンカーに積荷され、輸出されるようになった。戦火が激しくなると中継基地は東へ移動し、戦争の終結時にはホルムズ海峡付近に位置した。
1984年春、私の乗る昭洋海運・伊勢丸は用船先である丸善石油から原油積みのためにカーグ島へ向かうよう指示を受けた。
当時のカーグ島は積荷桟橋で荷役中のタンカーがイラクのミサイルで被弾する危険な状態だった。
海員組合は、外国船の就航の様子を見ながら安全な状態が続いた場合は、カーグ島への就航を認めていた。
しかし、伊勢丸では既に入湾前、船内大会でカーグ就航拒否を決めていた。そしてカーグ島の手前に位置するラバン島沖に投錨後、乗組員の意思確認のため、再度の全員集会を開いた。
私は、入港前に会社から電話があり、「必ず組合の指示に従い、本船の意思だけで勝手な動きをするな。国労のスト権ストによる202億円の損賠裁判もある。荷主に対し個人個人で責任を負えるのか」等々と警告され、諭されたことを集会で紹介した。しかし、それでも「既に覚悟はできている」「行けるところまで行こう」という全員の決意は変わらなかった。
私は、船橋当直者に代わって一人で船橋にいるI船長へ結論を告げに上がって行った。
船長はこの航海を最後に船を降りるつもりだと明かし、「ストップアンドゴーとかゴーアンドストップとか言葉遊びや」と笑いながら、君の好きなようにやったら良いと言ってくれた。
船内が団結できた要因は、カーグ島が危険だということばかりではない。何度かの希望退職の募集で船員の首を切っても、銀行支配の中でいっこうに立ち直る気配のない会社、個別対応で最低レベルへ落ち込んだ労働条件。身勝手な会社や政府への怒りが、手伝ったのだと思う。「辞める前に一太刀浴びせたい」が、船長を含めて皆の意思であった。
4日後、積地がカーグ島からサウジアラビアのジュアイマへ変更され事なきを得た。
後日、日本に帰着した時、職場委員から、組合の本支部や会社、外労協のそれぞれが、荷主に対して配船替えを懸命に訴えたことを聞かされた。
船内委員長として船内のまとめ役であった私には、伊勢丸乗船の前年に労使で確認された「下船の自由」という権利を行使する選択肢は念頭にすらなかった。

④下船の自由への戦中派の視座
実際には「下船の自由」という権利は、ほとんど使われていない。仮に下船を選択しても、誰かが代わりに乗船するシステムでは、たとえ危険海域でも船は走り続けるという根本的な欠陥を持つという疑念を私は持ち続けていた。
伊勢丸を休暇下船した後、疑問をぶつけた相手は当時部員協会・事務局長の二宮淳祐さんである。
大正生まれで海軍徴用船に水夫として乗船。戦後いち早く海員組合に加入し、中闘派青年行動隊を経て組合執行部員の経歴をもつ。
下船直後の高揚感も手伝い、持論を述べ続ける私に対して、意外にも彼は強い口調で言った。
「君は間違っている。個人による下船の自由の権利は譲れない。その権利が無かったから、船員は戦争で酷い目にあった」
「君の言う労働者の一蓮托生論は、海上労働が船と運命共同体という危ない理屈と何処かでつながっているよ」とも指摘された。
この時のやり取りは今でも記憶に残る。私は「集団の絆か、個人の自由か、二者択一の選択ではなく、両方とも大事だ」と、それ以上深く考えずに、気持ちの中で折り合いをつけて長い歳月をやり過ごしてきた。
船員がこうした悩ましい選択を迫られるのは、決して過去のことではない。海賊の出没するソマリア沿岸を航行する船員、防衛省に用船された民間フェリー2社の船員、多くの船員が今も苦しい選択を迫られる立場に置かれている。

⑤「揺れる権利」との出会い
選択に悩む船員にとって役に立つ考え方を探そうと思い、船員以上に厳しい選択に晒されているのは自衛官に違いない、と考えた。
そこで友人に紹介されて、京都市九条へ行き、「自衛官人権ホットライン」を継承した「戦争と人権」の学習会を訪ねた。
「自衛官人権ホットライン」は92年にPKO法が成立し、カンボジアへの自衛官の派遣が決まったとき京都に開設された。開設呼びかけ人の中心にいた故鶴見俊輔さんは次のように語っている。
『ホットラインは、揺れる権利の保証だ。揺れる権利とは、個人の自由のこと。海外派遣についても、隊員それぞれが自由に考えて決断する。電話で事情を聞き、拘束から離れて話しているうちに、個人個人にふさわしい考えがまとまるのではないか』(京都新聞92年8月30日)
相談者に対しては、自分たちの考えを押しつけず、相談者と同じ目線で一緒に考え、方策を探る。揺れる権利の保証とは、相手の自由を認めることであり、向う岸へ追いやることではない。
例えばフェリー船員の予備自衛官問題で、「船は新会社に移り防衛省の管轄なので口は挟まない」「個人の選択には関知しない」という海員組合の対応が誤りであることに気付く。悩みながら新会社へ行く選択をする彼らも、依然組合員でなければならない。むしろ、危険と隣り合わせになる彼らこそ、真に労働組合を必要としている。
「揺れる権利」から受ける示唆は多い。
(次号につづく)