◯海風気風・堀内靖裕さんの記事を読んで

中本 槇夫(まきお)(海員組合元関東地方支部長)

海員組合での経歴について 
 私は1979年から1982年までの3年間、商船三井からの在籍専従執行部員として東京支部に勤務した。当時の東京支部は、担当会社が150社程度あり、執行部員も25名程度いたと思う。その中で、在籍専従執行部員が10名程度いた。
 それまでの乗船中は、組合業務についての知識は全くと言っていいほど、持ち合わせていなかった。東京支部での業務は、外航部門から内航、フェリー、港湾まで多岐にわたるものだった。
 強く印象に残っているのは、毎週土曜日に開催される執行委員会だった。各社の懸案事項を担当執行部が提案し、論議するのだが、いつも夜中までかかっていた。
 当時は、船員制度近代化の基礎実験が始まった時で、乗船中に感じていた近代化とは、少し切り口が違うように感じられた。
 私の船員制度近代化とは、現行制度の問題点を洗い出し、新しい国際船員社会の中で、順応できる新しい制度作りだと考えていたが、組合の取り組みは、初めから職員、部員、全部門で公平に被害を分かち合うという切り口だったと思う。
 このことは、私だけでなく在籍執行部員が中心になって、執行委員会で、何度もプロの執行部と激論を交わしたが、大きな流れを変えることはできなかった。
3年間の在籍期間を終えたとき、プロの執行部へ、との声も挙がったが、自分の性格にはなじめない業務だと思い、会社復帰した。

 しかし、乗船中の欧州航路のコンテナ船が復航のシンガポールを過ぎた頃、当時の東京支部長だった山本萬里さん(84年の大会から副組合長)から、国際VHFが入り「協力してくれ。お前しかいない」と声がかかった。
 自分としては、執行部員業務の大変さは理解していたので躊躇したが、自分のこれからの人生でこのように人から請われることが一度でもあるだろうか、と考え一大決心をしてプロの執行部員として上がった。
 83年から東京地方支部で活動した。4年間、東京支部で勤務した後、87年から本部の汽船局で中央の「緊急雇用対策」に関わった。中央での緊急雇用対策の取り組みは、東京支部でジャパンラインの雇用調整を対応した後だったので、緊急の温度差の違いに戸惑った記憶がある。
 その後、政策局や静岡支部、国際汽船局・外航部、関東地方支部、中・四国支部長を経て、関東地方支部長として戻り最後は、ナビオス横浜へ出向。当時の日本船員厚生協会は、水先人制度の変更で、国土交通省からの補助金がストップし、大変な財政状況にあった。
 内部でいくらコスト削減と機構改革を論議しても進捗しないので、組合役員へ厚生協会の再建に手を貸すように頼みに行ったが、「肩入れをする必要はない。協会はポストだけ出してくれれば良い」と拒否され、それならもう再建は自分では無理と思い、任期途中ではあったが協会を辞め、完全に海員組合から身を引いた。

外航船員社会崩壊の原因は
 外航船員社会が崩壊した原因は、87年の緊急雇用対策の中央での労使確認が決定的だったが、問題はそれ以前にあったと思う。
その最大のものは、1964年(S39年)から20年を経て1984年に海運再建整備二法が失効したことだ。中核、系列、専属会社などの集約体制を定め、新造船に対し国が利子補給などの支援をするもので、国の庇護のもと船主は船員を抱えていれば何とか商売になった。
 ところが84年8月の海造審・中間報告では、FOCなどを日本商船隊の一部とみなし、労使に対して混乗を認めること。6~7千人の余剰船員を整理することを求めた。
 つまり「これから官は外れる。労使でやって行け」が国の姿勢で、船主は「国の縛りから外れたい」というのがこの中間報告の意味するところだった。その証拠にそれ以降は、雇用の受け皿機構にも新丸シップにも国からは金は出ていない。災害や危急時などに国が発令する航海命令のようなものが政策としてあれば別だが、官は絵を描かなかった。
そこへ襲いかかったのが85年9月のプラザ合意だった。
 1ドル240円があっという間に120円へ、更に100円を切ろうかという勢いで船主サイドに火がつき、コストセーブ、会社が潰れると勝手に走り出した。それが実態だったのだろうと思う。
 組合もこうした状況について現場に諮りながら、内部で議論して「対抗策を組み立てる」ことをせず、労働組合らしい能力も力もないことを曝け出した。過去には、各社で雇用が守られなければ、系列で面倒を見るとか、産別としての方針もあるにはあったが集約体制の崩壊でそれも次第に有名無実化してしまった。


組合執行部員として最も記憶に残ること
◯ジャパンライン闘争

 私は83年4月にプロの執行部員として登用され、85年8月には、ジャパンライングループの担当班長を任命された。年末にジャパンラインから興銀主導の大掛かりな船員合理化案を突き付けられ、担当班長として取り組んだことが忘れられない。
 当時のジャパンラインは完全に興銀の支配下におかれ、雇用調整の主導は、興銀が握っていた。興銀の労使交渉に臨む姿勢は、実に慇懃無礼で、誠意のないものだった。
 組合としては、会社の一方的な雇用調整案を撤回させ、労使間で解決を図るとの基本的な考えは持っていたが、こうした興銀の姿勢では、労使協議での話合い解決は、ほぼ無理との判断を持っていた。
 私はどういう状況になっても組合員の皆さんと一緒に闘えるよう、状況認識だけは共有しようと考えていた。そのため、連日の労使交渉は、その都度、組合ニュースを発行して、現場周知を図っていた。
 労使交渉は、会社が一方的な希望退職募集の提案を取り下げないため、こう着状態に陥った。労使双方が、次の対応を模索する中で、会社側は役員が一斉訪船して希望退職を強行募集し、退職同意者が続出する状態になった。
 私は、このような状況になれば労働組合として、交渉決裂を宣言して一般投票でスト権を背景に闘うのが労働組合としてなすべきことと思っていた。
 ところが、活動家揃いの職場委員の人たちが「一般投票はやらない、裁判へ行く」と言い出した。職場委員の言い分は、「雇用調整をやらない」という労使協定があるのだから「裁判には勝てる」ということだったが、私には理解できなかった。

Jライン本社内での組合主催の抗議行動 前列左からJライン児玉職場委員、中本さん、
日本カ-フェリ-石川職場委員、三尾執行部員


 この件については、いまだに引っ掛かりやわだかまりが残っている。もしかして、スト権投票が成立しなければ、自分たちの責任を問われるが、裁判での決着なら責任は問われない、と思っていたのかもしれない。この件については、最後まで職場委員とは折り合いがつかなかったが、最終的に支部長が「仮処分申請をする」決定を下した。
 裁判では、組合から前年に労使確認した「雇用調整は行わない」等の取り決めを示したが、裁判所は会社の状況から「緊急避難だってある。仮処分の申請はどうしますか。裁判所が判断するまで、あと何分です」と平気で言う。これが司法の場かと唖然とした。もう少し言い方があるだろうと思い、未だに裁判所に対する不信感は拭えていない。
 結局、組合自ら仮処分は取り下げざるを得なくなり、ほぼ会社提案通りで雇用調整を受け入れた。その結果、673名の希望退職者を出して、外航部門における初めての雇用調整協議は終わった。
 このジャパンライン問題では、職場委員と昼から打ち合わせ、夕方から労使交渉し、再び職場委員と打ち合わせをした。深夜か早朝に帰宅して、ウイスキーを生で引っ掛け、2~3時間眠って出勤して、組合ニュースの作成、発送。土、日は家でレポート作りと、満足に寝てない毎日が続き、私生活なんて何もなかった。あの時は完全に気が変になっていた。また、そうでなければやっていけない状況だった。
 それでも他の執行部や他社の職場委員が我々ジャパンラインの担当執行部や職場委員を見る目は冷ややかだったように思う。

◯緊急雇用対策
 私はこのジャパンラインの取組が、その後の外航緊急雇用対策の
行く末を決定したと考えている。
 ジャパンラインとの闘争を通じて「労働組合が労働組合としての活動を展開しない限り、組合員を守れない」ことを思い知らされた。その結果、海員組合は大きな代償を払うことになる。    
 あれほど組織運営に厳格な当時の組合長土井さんだが、あの時はトップダウンだった。今では、トップ間で何があったかを問うすべは無いが、すでに「減量止むなし」を決めていたと思う。先に船政協や海造審の結論は出ていて、外枠が決まった中での、雇用対策委員会だったから政策も、新しい方向性もない。
 そして全国大会を経て、翌年の緊雇対の労使合意に至る。自分が班長として関わったジャパンライン問題で自分個人の中では緊雇対は終わっていた。事実、人員整理をやる必要のない日本郵船や商船三井まで流れは広がっていった。政策なき雇用調整は、産別でやるべきではなく、各社ごとに対応すればよく、緊雇対を中央でやる必要などなかったと今でも思っている。


※編集部注
〈ジャパンラインの船員合理化〉

JLの船員合理化提案は2回ある。最初は85年12月に発表した船員1,850名のうち850名を希望退職で募り、退職者のうち希望者は支配船に期間雇用で再乗船というもの。会社は3月1日に希望退職の募集を強行し、4月1日に目標の90%を達成したと発表した。
2回目の合理化提案は87年10月に出され、人員管理会社JLS(JLシッピング)に移籍した千人の全員解雇。そのうち400名はJL本体へ戻すが、残りのうち希望者はJLフリートに期間雇用乗船で採用するというもの。
会社はJL本体へ戻す者のリストを組合の頭越しに作って発表、実質的な指名解雇という強硬策に出た。結果として希望しながらJL本体へ戻れなかったものが115名出た。

執行部員の後輩たちへ伝えたいこと
 執行部員は現場の意見を大事にしながら活動するということに尽
きる。
 組合員と執行部が同じ考えなら何も怖くない。考えが離れている時が一番怖い。職場委員や船内委員と意思疎通を図りながら絶えず現場の考えを知ることが大事。
 そして現場へは絶えず情報を知らせること。現場船員の中にも組合活動に興味がある人が必ずいるはずだ。現場の仕事を知り、知恵を持った人もいるだろうから、そうした人のやる気を引き出してほしい。
 また海員組合の歴史をよく勉強してほしい。歴史を知る中で、現状の問題点の解決策も見えてくるし将来ビジョンも構築することができる。リーダーとは、高い視点を持って現場活動にあたれる執行部のことだと思う。
 歴史を知れば、組合の貴重な財産を毀損することはしないはずだが今の組合幹部を見ていると責任感が感じられない。イエスかノーかしかなく判断がドライのひと言に尽きる。労働運動の基礎は人と人の関係にあるはずだが、今は情を失って組合の看板だけで仕事をしているように見える。
  緊雇対の労使合意で1万人が辞め、外航船員は急激に減って2千人になるまでは早かった。何故かといえば闘いが無かったから人が残らなかった。闘いがあれば漸減で済んだかも知れず、反攻の機会があったかもしれない。
 外航船員社会の崩壊に行きつくあれだけの大懸かりな雇用調整があっても旗一本立たなかった。そんな馬鹿なことはない。そこが残念でならなかった。
 今悔んでも仕方がないが、歴史にやり直しは無い。緊雇対について、いっぺん皆が振り返ってみる必要がある。
(2019、2、16)
インタビュー編集部