語り継ぐ海上労働運動史14(後編)

堀内靖裕さん 最終回
(海員組合元東京地方支部長)

略歴
1941年 (昭和16年)12月長崎県佐世保市生まれ
1962年 弓削商船高校専攻科を卒業し,新日本汽船に入社
1965年 山下汽船と合併,山下新日本汽船に
1966年 二等航海士
1968年 海員組合在籍専従執行部員に
1971年 山下新日本汽船に復社し海上復帰
1972年 4月から海員92日スト.7月退社し組合に採用。以後,東京,本部組織局,中執委事務局,情報システム室,東京,千葉に勤務
1980年 春闘妥結結果が否決され村上行示組合長ら三役が辞任,土井一清組合長に
1984年 東京地方支部支部長
1986年 9月中執委が緊急雇用対策受け入れを決定.12月東京地方支部長解任.以後,中部地方支部,名古屋・今治・愛媛の各支部長
1995年 本部組織部部長兼未組織対策室長
1998年 組合長選挙に立候補(128票を獲得.5期目当選の中西組合長は316票)。大会後に高知支部執行部員に降格。以後,中・四国支部執行部員,総務部専任部長,全日本船舶職員協会派遣
2001年 海員組合を定年退職。高知県土佐市在住

(25号より続く)
今治での6年
 私の執行部活動の後半は、未組織オルグが中心だった。東京支部を去った後、名古屋支部長を経て、今治に6年、本部で4年のあいだ未組織オルグに精を出した。
 愛媛船主のメッカ今治では、近海を主体とした「愛媛船主会外航部会」や内航の「愛媛船主会内航部会」、地区の旅客船各社との集団交渉など。労使関係に基づく活動以外に、多数を占める未組織船へのオルグを重点的に行った。
 いくつか組織化に成功したが、特にM汽船のケースが強く印象に残っている。粘り強いオルグの結果、乗組員の過半数の加入届を取付け、会社に交渉を申し入れたが、会社は交渉に応ぜず、乗組員に翻意を求めるいわゆる切り崩しを行ってきた。
 支部はすぐに実力行使をおこなわず、まず、四国船員地方労働委員会に不当労働行為の救済を申請したが、会社はさらに不当労働行為を重ねたため、2日間の抗議停船を行った。しかし、会社は抗議停船解除後も船を動かそうとせず、停船状況が続き、持久戦の闘いとなった。乗組員も苦労を重ねたが、数回に亘る交渉の結果、不当労働行為の申立て以来3か月にわたる闘争は終結し、労使確認の調印にこぎつけることができた。
 この過程でのエピソードがある。不当労働行為の事実を証明するため、乗組員の加入届のコピーを労働委員会の事務局に提出した。数日後、驚いたことに極秘にしていた『命ともいえる加入届』のコピーが会社の役員に手渡されていることが判明した。支部は加入届の管理は徹底していたので、執行部員や乗組員から漏れることは到底考えられず、労働委員会の事務局から渡ったことは間違いなかった。
 事務局長は四国運輸局の職員で、地方の運輸官僚と地元の船会社とのつながりがまかり通る現実を見た感じがした。いずれ運輸局の職員は船会社や海事団体に天下りする構図である。役人といえども、気を許してはならないことの教訓であった。
 愛媛に赴任して、日本の内航や近海の大半を占める船員の生活安定をどのようにしたらいいのだろうか、という気持ちが心から離れなかった。「内航海運の発展のために」や、「船員から見た愛媛の海運」というリーフレットを支部独自で作成し、内航海運の安定をはかり、「技術者としての船員」を確保するための労働条件や休暇、船内居住設備や供食体制の確立などの改善目標を提言した。

愛媛支部(今治)にて

 この目標達成には、愛媛海運がオーナーとしての構造上から、 単に労使交渉で賃金などの引き上げを求めても限界があり、労使で協力して、用船料の適正化を求め、船会社の安定経営を図ることを提言した。
 また、効率的な活動を行うために、執行部員、事務職員で話し合い、「愛媛支部活動方針」書を作成。 活動の重点は、①組合員とのコミュニケーション、②労働条件の改善、③未組織対策とし、訪船活動に重点を置いた。
 この活動方針は転勤する前の3年間、毎年更新して作成した。業務に追われ、有給休暇がほとんど取得されていないことから、月1回は有給休暇を優先的に取ることも決めた。この結果かえって活動の士気が上がり、みんなの評判も良かった。

本部組織対策室での経験
 緊雇対の影響もあり、組合員数が5万人を切り、往時の3分の1となった。活動方針でも組織拡大が急務と位置付けられていたことから組織改変が行われ、1995(平成7)年1月、新たに組合長直属の機関として「未組織対策室」が設置された。
 今治での実績を買われてか、私は対策室長として本部に呼び戻された。対策室スタート時はベテラン執行部員6名が配置され、組織化に使命を感じ情熱を持って取り組んだ。最初の2年間で、年間千隻近く訪船し、10社近く労使関係を樹立することが出来た。
 しかし、問題も多くあった。新たな組合加入はそれに携わった執行部員はもとより、当事者の船員に大変な決断と苦労を伴うことが組織化の常態で、新組織にかかる努力と手間は、引き続きアフターケアまで続いた。
 対策室の情熱が組織全体の情熱に広がらなかった。組織的な理解不足と未組織オルグをしたことのない多くの執行部員の経験不足から、新加入会社の担当を未組織対策室からそれぞれの地区の支部に移管すると、受け取った支部の執行部員が新組織の維持業務を迷惑がって、アフターケアを十分に行わなかった。
 新たに加入した船員からは、約束が違うと、期待外れになり、新組織が長く続かないうちに崩れてしまうような状態が出てきた。
 1997(平成9)年11月には、「未組織対策室」から「組織対策室」に名前が変わり、組合としての組織化への考え方が変更された。また、担当執行部員の配置換えが頻繁にあり、腰を落ち着けて未組織オルグを続けられるような状態ではなくなった。
 組合員が引き続き減少する中で、活動方針や内部の会議では、未組織対策は最重要課題と言いながら、本気で組織化に組合全体で取り組むという考え方は失せ、掛け声だけの実態の伴わない組織に変更されてしまった。
 その原因は、トップリーダーである中西組合長の認識不足にあり、また未組織オルグを行ったことがない執行部員も多く、組織全体の経験不足によるものであったと思う。
 私は、組合を再生するためには、相当大きな改革が必要だと考えるようになり、各地方支部への組織対策研修会にも積極的に参加し、組織対策の重要性を訴えるとともに、執行部員の熱意を求めた。若い執行部員の中には、純粋な気持ちで組合活動に取り組んでいる者も多くいることが分かった。
 このような経緯から、現状の本部の対策、役員の組織に対する理解不足、本・支部の官僚的体質などを根本的に改めなければ海員組合という組織の未来はないと思うようになった。
 このことが、後日全国大会で私が組合長に立候補し、組織を根本的に変えなければならないという行動につながっていく。

組合長選挙に立候補
 翌1998年11月、組合大会が近づく中、他の候補者がおらず、5期10年続けてきた中西組合長が続投する声が聞こえてきた。
 私は4年近くの本部での組織対策活動を踏まえ、役員に立候補する決意を固めた。
 大会の数日前に、中西組合長に「役員として組合に貢献したい」と申し入れた。「考えておく」という返事だった。大会も間近になり役員の組閣のうわさがそれとなく伝わってきた。一時は、私を中執にするという案も浮かんだようだが、最終的には、堀内は入れないという結論になったようだ。
 この情報を伝え聞いた私は、大会に役員として立候補する考え方には変わりなかったが、立候補の方法をいろいろ考えてみた。
 立候補の目的は、組合の体質を変えることにあったので、仮に中執で当選すると、組合長の意に沿わない役員が組閣の中にいることになり、一枚岩でなく、将来的に何かと組織の力が発揮できないことになる。
 目的はあくまで、「肥大化した組織と悪い意味でお役所仕事になってしまった海員組合を、本来の組合員主体の生き生きとした組織に変革する」ことで、自分が権力者として組織に君臨したいとは思っていなかった。
 そのため、組織全体に警鐘を鳴らすことを第一義に考え、組合長の対抗馬として立候補することがより効果的との結論に至った。もとより、過去の例からしても現職の組合長に勝って当選することなどありえない。せいぜい40票も獲得すればそれなりに効果は果たせると思った。
 私は大会前日の執行部全体会議で発言を求め、次のように述べた。

◯執行部全体会議での意見表明
 『私も今回の役員選挙には、立候補を考えています。貴重な時間ですが、なぜそのような考え方に至ったかを若干説明させていただきたいと思います。所信を表明する機会は、本日を除いてないと思いますので、若干長くなりますが、ご容赦願いたいと思います。

A.「なぜ立候補するか」ということですが、組織の現状認識の問題があります。
 昭和50年頃は、組合員16万人といわれ、産業別組合としての「全日本海員組合」は、強力な活動を展開してきました。しかし、現在組合員は4万人を切ろうとしています。この25年の間に4分の1になってしまったのです。
組織の運営の血液である財政についても、昭和52年ごろには約60億円あった日本人の組合費収入が現在は約29億円で2分の1を下まわった状況にあります。
 組合の活動も、減少に伴う、防衛的活動が主流となり、労働条件の改善についても消極的傾向は否めません。今後10年間で、組合員は4万人から3万人になってしまうという予測もあります。このように、活動的にも、財政的にも、本組合の活動は、危険水域に近づきつつあるといえます。

B.しかし、組織の置かれている現状に緊迫感がありません。
 これは、過去の活動や、財政の蓄積と、非居住特別組合員の増加に伴い、当面の活動についてやりくりが可能であり、活動の継続もなされているからであります。このために、危険海域へ突入していることについての感覚が乏しいのが現実の姿ではないでしょうか。
 船舶に例えるならば、老朽化した大型船が制度疲労しているにもかかわらず、手をこまねいているのと同じ状況にあるといえます。船型が大きいだけに少しの暴風雨には、船体のゆれは感じないかもしれませんが、その危険性は内蔵しているのであり、暴風雨の限度を超えれば、船体は折損し、沈没のおそれは否定し得ない状況と認識すべきであります。

C.このような状況を正しく認識し、これに対応する対策を早急に確立すべきであると考えます。
 この対応は、時間をかけて、じっくり検討していては間に合わないのであります。荒天遭遇に対しては、従来の延長線的な活動を抜本的に変更して、非常事態全員配置の体制を確立する必要があります。
 16万人の組織による大型タンカーから4万人による小型貨物船に乗り換えなければならないのです。組合員に自信と将来への希望を持たせ、この非常事態を乗り切るためには、防衛的活動から、視点を変えて、前向きの活動に転換すべきであります。
 そのための執行活動は、今までの延長線ではなく、相当思い切った改革が必要であります。
 また、意識の面においても、既成の枠組みにとらわれることなく、新たな展開に向けた改革が必要であります。そして、組識の活性化と組識人数の反転増加を達成した後、将来像をにらんだ長期ビジョンの組織基盤の確立を行なうべきであります。
 しかし、今は「荒天遭遇における非常事態全員配置」体制で臨むべきであると考えます。

D.そのような配置のなかで取り組む政策については、時間がありませんので要点項目のみ説明させていただきます。その内容は、次の4点を考えています。

1.組織再生のために、何よりも重要なものは組織対策であり、新たな組識を開拓することにあります。船員の未組織労働者は、5万人を越える状況にあります。この組織化に集中的な人員配置を行い、全国的な取り組みを行います。
2.組合員の労働条件改善はもとより、未組織対策についても、既組織の条件整備が欠かせません。当面、賃金と労働時間および雇用問題に集中して取り組みます。
3.国際活動については、非居住特別組合員を中心に労働条件の改善をおこなうとともに、国際労働の分野、とりわけアジアにおいて、海員組合の役割を果たす活動を行います。
4.執行体制については、抜本的な配置の改善を行い、活動の集中化を行います。また、財政基盤の確立を図るために、徹底したコスト管理をおこない、組合員に負担の増加は求めない方法で対応します。

E.以上が、私の考え方ですが、立候補にいたる経緯について、若干補足をさせていただきたいと思います。
 今回の立候補について、突然のように思われるかも知れません。また、何の準備もなく行なうのは無茶苦茶だという意見もあるかも知れません。
 しかし、事前に立候補を表明し、賛同者を募り、活動の輪を広げようとすれば、趣旨について十分理解がされないと、組織内部での分裂行動になりかねません。
 かって、私も若いころ、組合の改革の必要性を考えて、役員選挙にたいし、側面から積極的に活動を行なったことがありました。しかし、その活動は、「現場からの不信感」「執行体制の内部の相互不信」となり、目的から大きく変質した、誤解を招く結果になってしまった歴史を、経験をいたしました。
 組合民主主義の基本である「選挙」にあたって、十分な政策論争ができるシステムが完成していない中では、組合内部における多数派工作は、ややもすると派閥活動を生み、結果して組織のマイナスにつながることがあります。
 今回、事前の活動を一切行なわなかったことは、以上の理由によるものであり、私の真意をご理解願い、賛同を賜わりたいとおもいます。
以上が、私の考え方です。貴重な時間をありがとうございました。』

 この発言に、多くの執行部員の拍手があったことは今でも鮮明に覚えている。
 組合長選挙の結果は、中西組合長316票、堀内128票であった。この内容は私も予想しなかったほど多くの賛同を得たし、また、変革の期待が組織の中で相当占めていると思われた。
 一方、現職の中西組合長にとっては予想していなかった結果ではなかっただろうか。
 かって私が在籍専従時代に「連判状事件」というのがあった。役員選挙に際して執行部内で熾烈な多数派工作が行われ、影響が職場委員や私のところまで及んできた。まさに派閥争いによる権力闘争で、政策や方針を巡っての論争ではないから、精神的に疲れイヤな思いの連続だった。互いに後遺症が残り、組合の活動力が低下したのは避けられなかった。
 このイヤな思い出から、私は大会では、政策的な主張をし、中西組合長の個人的な攻撃は一切していなかった。
 ところが、大会翌日の中央執行委員会で、私をひら執行部員に降格し高知支部への配置転換を決めた。まさに、対立候補として立候補したことに激怒し、報復人事を決めてしまったのだ。このような仕打ちは、私も予想していなかった。このような中での報復人事は、健全な意見を述べる執行部員を委縮させ、「正しいことでも、組合長にたてつけば、報復人事をされる。」というムードが組織内に広がってしまった。
中西組合長は、個人の感情と個人的権力の維持のために行った人事で、組織を健全な変革に向けようという組織的判断は全くなかったように思える。もう少し、幅のある指導者と思っていたが。私を郷土の高知支部に転勤させ、まさに辞めよといわんばかりの人事であったが、私はどのような仕打ちがあろうと、自分から退職する意思は全くなかった。退職してしまえば、私を支持し組合の変革を望んだ多くの代議員や執行部員を裏切ることなると思ったからだ。
 高知支部に左遷された後、これといった業務は指示されず、高知には少ない未組織船への訪船などを行った。その後、全港湾と組織争いになった「本四海峡バス」への応援オルグ、広島の中四国地方支部の本四架橋の就職指導員という肩書で別室での閑職勤務。その後、全日本船舶職員協会への派遣で、私の30年にわたる執行部人生は幕を閉じた。
 広島勤務時には、当時の中四国地方支部長は、11月に開催される全国大会に向けて、私が変な動きをしないように組合長から監視するように言われた、と語っていた。

後輩たちへ
 インタビューを受ける中で、現在の船員社会や海員組合の現状を伺い、改めて問題の深刻さを感じました。
 労働運動も以前とは違って難しい環境にあるとは思いますが、「労働組合」が働く人たちの砦であることは今も変わりないと思います。
 私は、全日本海員組合の創成期の先輩諸兄の情熱と献身的な活動に、常に敬意を表してきました。脈々と流れるJSUの精神は、「組織のため」ではなく、「体制の維持」や「保身」のためではなく、常に「船員」のための活動がなされてきたと思っています。
 純粋な情熱と真摯な活動の継続が、海員組合の再生の近道であると思います。
「船員の、船員による、船員のための労働組合」
が基本であることに想いをはせ、関係者の皆様方に健闘していただくことを熱望しています。
(インタビュー・編集部)

海員オルグ団の面々、前列の左腕腕章が堀内さん。内航船が横付けされた岸壁にて