語り継ぐ海上労働運動史 8
全日本海員組合・元組合長
中西昭二郎さん

1972年外航中央交渉。左から村上組合長、河野中執、中西さん、森調査部長、田中東京地方支部長

略歴
1936年:(昭和11年)2月、石川県山代温泉町生まれ
1958年:(昭和33年)東京商船大学航海科卒業、
    日本海汽船入社。一等航海士まで継続して乗船勤務。
1966年:同社職場委員に就任
1970年:中央執行委員当選、日本海汽船退社
1972年:92日スト
1976年:中央執行委員落選、清水支部長
1982年:再度中央執行委員に当選
1988年:(平成元年)組合長 2000年:組合長を引退 2007年:名誉組合員。東京都大田区在住


― なぜ船員に
生まれは石川県の山代温泉、7人兄弟の六番目だった。地元に船乗りはほとんどいなかった。
小さい頃はやんちゃで町内で有名だった。女の子を泣かせて遊んだりお医者ごっこをしたり、ガキ大将で自由奔放に育った。
 将来は海軍か陸軍の大将になりたかった。そういう時代だった。船乗りになるなんてこれっぽっちも考えたことがなかったな。
 ところが親父が小学校の校長で、自分が船に乗りたかったんだな。「大学に行くなら自分の夢を満たすべきだ」、「俺は船乗りになりたかった」が口グセで、いつのまにかその気にさせられてしまった。
 だから船乗りになったのは親父の命令。俺みたいな田舎モンは、親父の命令を聞くしかなかったんだ。越中島の合格通知が来た時は、姉が町中探して飛んできたよ。俺は同級生と酒を飲んで遊び歩いていたから良く覚えている。田舎の温泉町には珍しかったんだな。子供の頃から温泉の大浴場で泳いでいたから泳ぎには自信があった。


― 学生時代のこと
 商船大で入ったクラブは「労働運動」。俺は何となく入学しただけだったが、同級生は皆な何か人生の目的を持っている風で、何かしなければならない感じだった。
 お前は将来何をするんだと聞かれ、つい、「俺は海員組合に入って船乗りの労働運動をするぞ」と宣言してしまった。入学したてで何も分からずに、エラそうに見栄を切っただけの話だがな‥。
 当時商船大には、日本の船員問題の第一人者の小門和之助先生、その門下の笹木弘先生がいた。
 笹木ゼミには同級生の野村秀夫(海員組合元中執)、斉藤義(元新栄船舶船長)、篠原陽一(元海上労科学研究所)、玉井克輔(元航海訓練所教官、月刊「労働大学」編集長)君ら沢山の学生がいて口から泡を飛ばしながら論争したり、やる気が漲っていて面白かった。
 海員組合の大内義夫さん(46年中闘争議の指導者。後に名誉組合員)を呼んで話を聞き、「船員は戦争でコキ使われて死んで行った。これからは海上労働運動をしっかりやって、船乗りを戦争に駆り出す労務政策を変えなければだめだ」と教えられたのを忘れられない。
このとき既に人生の進路を完全に決めていた。卒論も笹木ゼミで「船員福祉問題」をやった。
 運動部はテニス部で、これは女の子を引っ掛けるため。大学の敷地は広くて、近くの高校と一緒に練習していたから。東京の女子校生の制服はまぶしくて憧れていた。親父から言われてヨット部にも入ったな。やっぱり自分がヨットをやりたかったらしいんだな。


― 初乗船の頃
 卒業してすぐに日本海汽船(現商船三井オーシャンエキスパート)に入社。当時の日本海汽船は外航16社会(後の外航労務協会)の中でも格はトップクラス。「日本郵船、三井船舶何するものぞ」という気概が乗組員にあった。
 元々朝鮮や旧満州に軍隊や物資を運ぶ国策会社で、俺が入った時も福井や北海道と中国や北朝鮮、東南アジアを往復する船が多かった。行きも帰りも雑貨で航海士は大変。コキ使われたな。
 最初の船はサンダガン航路の貨物船大烈丸。ロッパチの戦時標準船で4thメートだった。
 材木船にはよく乗ったな。行きは空荷か雑貨、帰りは北米からシード(穀物の種)や丸太を積んでアリューシャンを通って北海道へ。
 俺に言わせれば材木船ほどハッピーなものはないよ。夜荷役がなくて健康的だもの。クレーン操作は陸側の仕事だから、船の力仕事は材木のラッシシングだけ。デッキ上の材木が氷って船が傾いてきたら海に捨ててしまえばいいんだから。何回もやったよ。GMが減って横転してしまうからな。
 ボースンの「切れ」の命令でマサカリを振り下ろしてワイヤーをバチーン。直径1mもある材木が、船の揺れに合わせてすごい勢いで流れ落ちる。最初はビックリしたなあ、当たれば一発で即死だから。
 北米では女たちが船に乗り込んできて住み着いちまうんだ。積荷に何日も掛かるあいだ船に寝泊りして飯も自分たちで作ったり、乗組員の部屋から部屋へ渡り歩いたりしてわが物顔だよ。さんざん悪い遊びもやったな。内緒だぞ。

往年の中西節は健在

― 鍛えられた思い出
 日本海汽船は大学出の職員が少なくて、新米の頃何度もイジメられた。俺は生意気だったからな。やれ「天測が遅い」「こんなこともできないのか」「大学出はロクな奴がいない」と。
 イジメるのはだいたい上司、C/Oや2/Oだった。中にはイヤラシイ奴もいて、理由もなしに何でも難癖を付けてくる。「明日までこれを仕上げろ」と言われて徹夜で調べた時もあった。しまいにはC/Oと喧嘩だ。「苦情委員会に上げる」とか、「組合に言うぞ」とやり返したり。最後にはそういう手を良く使った。
 日本海汽船に限っては部員が職員を脅かすとか、デッキに呼び出して殴るとかはなかった。規律の面では厳しかったから。俺は不思議とボースンや相ワッチの甲板手からは可愛がられた。
 実際俺は天測が下手だったから、あるとき深江(当時の神戸商船大)出の船長からしこたま怒られた。厳しい人でなあ、「制限時間を決めて天測の勝負さ。俺と3マイル位置が違ったら即下船しろ」と言われた。船が走っているのに下船する訳にはいかず困ったなあ。今思えば鍛えてくれたんだな。
 大きな事故も経験した。3rdメーツの時だ。浦賀丸、3千トン位の小さい船だったと思う。フィリピンでラワン材を満船にして奄美大島の岸壁に着けた。岸壁といっても今みたいなコンクリートでなく岩場のようなもの。朝方干潮になって船は30度近く傾いた。水深を測ると左舷と右舷でものすごく違う。チャートも無く、水深を間違って座礁したんだな。
 「ひっくり返るぞ。全員下着を変えて逃げろ」と船長命令が来た。水死体の時パンツが汚いとみっともないから。皆な「ハイー」ときれいな下着に変えた。船内は泡食って皆なオロオロ、会社も混乱して「ああせい、こうせい」と勝手な指示がいっぱい来る。即ホーサーを切って逃げろとか、やっぱり買ったばかりの新品のホーサーは切るな、とかの電報がな。
 結局チェーンを切って材木を海に流して難を逃れた。


― 労働運動の伝統
 他の外航会社はみな太平洋側に航路があってどんどん大きくなっていた。それに比べ日本海汽船は古くて伝統もあるのに、船乗りとしては虐げられている意識が強かったのか、労働運動の伝統が生きづいていた。会社が理不尽なことをしたら、すぐ船内から不満の声が上がった。苦情の対象は何といっても賃金、それと定員だな。
 ある時、ホーサーをマニラ麻からナイロンに変えたことでセーラー(甲板員)が減員された。ナイロンは扱いやすいからな。
 甲板員が休暇で下船すると、最初から交代者が乗ってこない。船内は大騒ぎで、即職場委員を呼びつけ、おまえがOKしたのかと吊るし上げる。職場委員は知らんと言い張り、組合がOKしたと聞いて今度は組合との喧嘩。
 あの時の組合の言い訳がまた凄かったな。「船内の同意書があるからOKした」と平気で言うんだ。会社は乗組員に秘密で同意書にサインをさせる。船長や機関長のな。当時はそれを組合に持って行けば済んだわけだ。
 そういうことがしょっちゅうだから自然と乗組員は鍛えられて、賃上げや定員はもちろん、船内生活のありとあらゆる問題に物を言うことができたんだろうナ。当時海運集約合併で中核6社体制になったが、当社は元々大阪商船の傘下だったので影響はなかった。
 組合が定員中央協定の撤廃を認めた時も大きな問題になって、職場委員は困っていた。各社交渉で自由奔放にやられた日には船主の思うツボだからな。
 しかし実際には、どの会社もあまり大きな逸脱はなく済んだんじゃないかな。当時は船乗り同士の節度があった。船主と言っても労務をやっているのは船乗りだから、減らすといっても自ずと限度があって、落ち着く所に落ち着いたんじゃないかな。
 ディーゼルエンジンが出てきて機関士を一人降ろす時も、中には少数で動かして得意になる機関長もいたけど、労務にもエンジニアがいるから極端な減員はしなかった。そこが船乗りの良いところ。当時は機関士協会も活発で各社の船乗り同士横の繋がりがあったな。
 後に船舶部員協会の会長になった大内康由さんは同じ歳。3回ほど一緒に乗って色々なことを語り
合った竹馬の友だ。
 船通労の山県局長からは、船内活動を手取り足取り教えられて随分仕込まれた。
 山県さん達は戦争中から組合作りを準備して、たしか海員組合が再建される一日前に新潟で全日本海員連盟を結成した。その後大内さん達が神戸で再建した海員組合とすぐ合流したんだな。この2人が俺の労働運動の先生だった。

右へ小林三郎氏、同級生の斉藤義氏


― 40年スト
 俺は入社で船員課長に挨拶した時に、労働運動をやるために来たと最初から言った。当時はそういう雰囲気で、経営者にとっても労務を知らなければやっていけない時代だったから、叱られるとも思わなかった。船員課長も怒るどころか、俺を手下にしようとしたんじゃないかな。
 そういうわけで職場委員にも自然となった。職場委員は2期、4年やったかなあ?その前に1年くらい親睦会の専従(委員長)をやった。日本海汽船の親睦会は敗戦後すぐ山県局長らが作ったんだ。これがまた結束が強くて、家族の要望を実現するのが主な仕事。すごく勉強になった。半分組合的な性格で会社もそれを認めていた。
 その時のS40年の賃上げストは正月の休戦をはさんで大変な展開になった。当時は労働組合がストするのはあたり前という世論で、組合員もストに飢えていた。幹部の中では土井さんがその声を代弁していたな。ところが、あとの幹部はせいぜい船主との取引に熱心で、中地組合長・和田副組合長は抑え込む側だった。現場が怒っている最中で、中地組合長や朝子夫人(海友婦人会会長)の言うことばかり聞いて出世や保身を図るダラ幹が多い中で、ストをやろうという執行部は人気があった。
 当時執行部は完全に2派に分かれていた。平郡さんを筆頭にストをしない良い子派と、金子汽船部長など「フザケルナ。やる時は徹底的にやるんだ」という悪い子派。職場委員の中では前者は主にNYK、後者は商船三井系が多かったな。ストをするしないの委員会の論戦で、良い子派が劣勢になって百人が退場する騒ぎまであった。
 そういうこともあって、この時は中地組合長がすごく気合を入れて自ら旗を振った。ズル賢い俺たちは逆にそれを利用したりして面白かったし、やりがいもあった。
 ほぼ満額取れて組合の勢いもついた。各社の社内を分裂させずに、陸マンも仲間に入れる作戦がうまく行った。
 当時の組合内の対立は、今のように陰湿ではなかった。ある意味スッキリしていたな。人事で飛ばすにしろある一線は守られて、出身地を顧慮したり、ランクもおのずと尊重された。飛ばされても組織内に居場所があってその後も堂々と意見を言えた。
 意見の違い、出身地や学校の親分子分の関係からの対立は海員組合の歴史の中でずっとある。あるのがあたり前さ。世界で一、二を争う外航大手から、地区漁船や港湾、内航の一杯船主もある単一産別組織なのだから。
 中執内でも、委員会でも、意見の違いがあれば堂々と論争して、お互い尊重する中で何事も決めてきたから、産別組織が保たれてきたのと違うかな。昔の職場委員は船に帰ると怒られるから、ちゃんと物を言ったし、組織内の会議でも反対は反対で筋を通して自由に発言したものだ。今はすっかり様変わりした感じがするな。


― 職場委員時代
 職場委員時代にも色んなことがあった。最初に手掛けたのは保障本給制度。当時日本海汽船は船が増えないから昇進は頭打ち、給料が中々上がらない。それが職場委員に送り出されるとき課せられた宿題だった。昇進しなくても勤続年数が増える毎に基本給が段階的にアップする独特の制度を個別協定で実現することができた。統一協約化されるずっと前のことだ。
 俺は親睦会と職場委員の立場を上手く使い分けることにも気を使っていた。良く覚えているのは「家族呼び寄せ費」。船舶部員協会からは「にんじんだ。労働運動の本質を間違わせるものだ。会社にダマされるな。」と批判されたが、現場の切実な要求だったから獲得しないと船に帰れない雰囲気だった。
 俺は「家族の要求だから」と親睦会の立場を前面に出して交渉した。家族呼び寄せ費を個別協定で取ることができたのは組合として初めてだった。92日ストで初めて統一協約になった。
 船中労委の裁定で組合が負けて、船長をユニオンショップ協定から除外する裁定が出たが、あれは、逃げ場を与えてくれた、むしろ船中労委から助けられたんじゃないかな。そのまま突っぱったら大変なことになる所だったが、仲裁だから法的に従わなければいけないと言い訳ができた。負けた形になったが悪影響はなかったと思う。
 組合運動はやっぱり組合員だよ。組合員が本腰を入れて「この野郎」となった時に組合が強くなるんだ。組合の都合でストをやっても余り意味はないからな。
 S41年の組合幹部リコール運動では、和田春生副組合長と金子正輝汽船部長をリコールする運動方針を部員協会が出した。部員協会の二宮淳祐さん(後の名誉組合員)が中地組合長と仲良かったからな。
 和田さんは確かに独善だった。金子さんは強引だけどむしろ「徹底的にストをやれ」派。リコールするなら組合長だと思っていた俺や商船三井職場委員の細川良平さんは、部協の方針が解せず大論争になった。
 結局受け入れられず職員層はほとんど袂を分かち、リコール運動は部協のメンバーが中心となって進められた。独裁的な組合長をリコールから外すことに現場の人の不満は多かったな。結局中地さんはその年の大会で自分から引退してケリを付けた。
 S45年には南波間組合長を辞めさせようと連判状事件が起きた。
 当時は地方支部長も中執で20人くらいおったな。中には支部活動そっちのけで民社党や同盟の活動に精を出す支部長もいた。中執の削減や財政の明朗化など南波間さんの改革的なやり方を恐れた古手執行部、特に地方のボス連中が退陣を求めて血判を押したというんだな。
 大会前の執行部会議の論戦はすごかったらしい。あの頃組合内は南波間派とか、高等商船を基盤とした和田春生の系統とか、船主側の思惑も絡んでいたんだろうな。

― 中央執行委員へ
 中執になったのは34歳の時。若かったなあ。郵船の竹内賢一さんと俺の2人が現場から立候補して当選した。1回目の選挙ではプロ執行部の連中が手を回し、「誰々を落とせ」の指令を出して俺は落とされた。
 この時は古手執行部の怨念みたいなものを感じて正直怖かった。組合の民主化が進んで職懇の発言力は強くなったし、現場派・進歩派の執行部も沢山いたけど、イザとなったら力はなかった。昔の民社党・同盟の体質にどっぷり漬かった親分連中の力は強かった。それに抵抗する自分に怖さを感じたのは初めてだった。今考えると無鉄砲だったなあ。
 でもこっちは若いしイケイケどんどんだから、俺はすぐ「現場から立候補したのをプロが指図して落とすとは何事だ。引き上げよう」と大会場で演説をぶった。実際、怒って外へ出てしまった職場委員もいたくらいだ。2回目でようやく当選できた。
 当時の現場には勢いがあった。むしろプロ執行部の方が現場からナメられていたな。船に来ては「定員を何人減らす」と会社の代弁ばかり。「執行部は会社の手先だ」と誰かがヤジると、皆な一斉に「そうだそうだ」となる。当時は「ヤレー」と誰かが言えば突っ走る現場の勢いがあったから当選できたんだろうな。


馬込のお宅にて
(次号に続く)