(前号より続く)
― 人間性回復の闘い
 僕は小泉組合長の時代から、組合合幹部の「まやかしの運動方針」を批判し続けてきた。自分も海上労働運動に参加しているつもりで1950年から海員組合の大会は欠かさず行った。和田副組合長らが民社党の役員として大手を振るうようになって益々その思いは募り、その硬直した思想と偏狭性を批判する文章を多方面に書いた。
 沢山の先輩が戦後海員組合の再建に尽力したのは、戦争の苦い経験があったから。心底船員のために奉仕する先輩たちの姿を見てきた僕は、海員組合が変な方向に行くのは耐えがたかった。
 「船員のための学問」が僕の前提だったから、学内でも活動を続けた。海務学院で僕のゼミ生だった田中正八郎さん(後に海員組合東京支部長)や関谷義男さん(後に船舶機関士協会専務理事)と雑誌を出したり、60年安保闘争では学生達と一緒によくデモに行った。
 僕のゼミ・船員問題研究会は、篠原陽一君や中西昭士郎君(後に海員組合組合長)、少し下の小野悦夫君、後藤庄二君、藤原義彦君、田川俊一君(現海員組合顧問弁護士)の頃が一番活発で、「新船員」という会報を出していた。その後も大野一夫君、弓削政男君、平山誠一君、山下昭治君ら沢山の学生が組合に入って活躍してくれた。
 学校は違うが、小林三郎さんや堀次清次さん、堀内靖裕さんなど沢山の活動家も話しに来てくれた。
大内義夫さんを始め通信士の人達、部員協会の二宮さん、篠原さんとの付き合いもあった。
 皆さんの長年の努力がようやく実ったのが、組合幹部リコール運動や72年の92日ストだった。
賃上げはもちろん、休暇改善や時間短縮、災害補償・家族呼び寄せ費もあった。外航だけでなく内航、カーフェリーや漁船も同様で、まさに「人間性回復」にふさわしいものでしたね。
 組合組織の面においても大衆路線が敷かれ、ようやく現場船員の要求が実現するようになった。民社党一党支持をやめ政党支持自由化になったのも、単なる政党選びでなく産別組織の特殊性に根拠があり、僕は研究の甲斐があったと喜んだものだ。
 しかし92日スト以降、中々僕の期待通りには進まなかった。

― 苦痛の緊急雇用対策
 87年に僕は商船大学を退官した。ちょうど外航で緊急雇用対策が行なわれた頃だ。
 僕は海員組合が緊雇対を受け入れると聞いた時は絶句した。せっかく戦後何十年もかけて闘った成果を一挙に失いかねない。しかも、よりによって長く付き合い信頼もしていた土井組合長が。なぜ?と。
土井さんにとって、緊雇対の結果組合運動が衰退し、船員がここまで無残な状態になることは予想外だったようだ。
 退官後も毎年正月に土井さんや小野君、田川君らと会合をもっていたが、緊雇対の話になると土井さんは自責の念を隠せなかった。不本意だったに違いない。
 緊雇対が始まる当時現場にはまだ力があって、若い人達の間で反対運動が起きた時は心の底で応援した。大学で全寮制反対のストが終わり僕のゼミに入ってきた桝本進君や竹中正陽君、同級生の小林正和君らが首切り反対の先頭に立っていると聞いた時はうれしかった。その後組合全体が「緊雇対やむなし」の方向に行ってしまったことは残念でならない。この時が大きな分岐点だった。
 緊雇対を経験した団塊の世代が残っているうちに、是非経験を若い人達に引き継いで欲しい。

―「赤い教授」と呼ばれて
 大学在任中僕は、運輸省発行の「海上労働」始め、色々なところに自由にものを書いた。運輸省にも戸野さんら立派な人が沢山いて、自由な執筆の場を与えてくれた。
 そのうち船員問題ゼミ出身の学生は絶対雇わないという会社も現れ、僕は「赤い教授」のレッテルを貼られるようになるが、一向に気にしなかった。
 僕は元来徒党をなすことが嫌いで、グループを作る気など毛頭なかったから、学生に何かを押し付けたり進路に介入することは一切しなかった。
 ゼミ出身者は何も組合だけでなく、船会社の海務や労務の役職に着いた人も沢山いる。経営側で能力を発揮した小林孝雄君(元飯野海運)や山岡靖治君(元内労協)など、立場を超えて船員に貢献した人も多い。
 皆な自分の意思で青函連絡船や日本航空、保険会社などに就職し、それぞれの場で活躍していた。
 社会科学としての船員政策を「アカの学問」と考えること自体が、当時の世相というか、狭い考えを象徴していた。

海員組合本部前で,1987年頃

― 船員労働委員会のこと
 官職としては、中央船員職業安定審議会の委員を10年、関東船員地方労働委員会の公益委員を30年やった。船労委の事務局は代々運輸省の役人だが、進歩的な人もいて随分助けてくれた。
 官僚の中には戦争で苦い思いをした人も多く、戦前の商船教育のリベラルな考えが底流で引き継がれていたのだと思う。
 72年ストの時、組合にカンパしたら組合の報告書に名前が載り、「公益委員がけしからん」と経営側委員が騒ぎ出し僕をクビにしようとした。潜水艦なだしおと衝突した近藤船長の応援にも名を連ね、自由に発言していた僕に30年も公益委員をさせたのは、自由な雰囲気が残っていた証だと思う。
 船地労委で数々の海員争議を手掛けたが、最も印象に残るのはジャパンラインの解雇反対闘争のあっせんだった。
 大変な展開になったが、主査を勤めた僕は冒頭で「労働委員会は公の機関なので、個人の指名解雇案だけは出すことができない」と方向付けをした。これには他の委員も会社側も反論できなかった。
日本郵船部員の懲戒解雇反対や日本カーフェリーなど、海員組合のワクにとらわれない、船員個人が権利に目覚めて闘った事件も多かった。
 労組法は何も労働組合だけでなく、労働者個人の訴えを認めている。船員の数が減り海員組合の力は弱くなっても、船員労働の特殊性は変わらない。たとえ個人でも現場の人が労働委員会をどんどん活用すべきだと思う。
 船員労働委員会は廃止されてしまったが、船員の後継者難、職業存続の危機にある今、社会科学としての船員政策を確立することは国の責任だと思う。

― 教授時代を振り返って
 最も印象に残るのは71年の全寮制反対のストライキだ。
 僕は団体交渉の相手側の教授会三役(教務課長)で、学生側の矢面に立って交渉した。寮の学生食堂が満員の学生で埋まり、高橋二朗君、竹中正陽君ら寮生自治会の代表から追及された深夜の団体交渉は忘れられない。
 ストライキの中、横田学長が急病で倒れて入院。上坂太郎学生部長が代行となって全寮制撤廃に調印した。上坂さんは郵船の僕の先輩で人格者、学生の支持も厚かった。学生達に向かい、「君達の熱意には負けた。よし調印しよう」と覚悟したようなさっぱりした笑顔で答えたことが印象に残る。
 直後から次期学長の座を巡って上坂さんの追い落としが始まり、調印した責任を取らされる形で、病気を理由に辞表を書かされることになった。病気でもないのにと僕は教授会で抵抗したが、上坂さんの潔さに負け僕も教務課長を辞任した。
 その後大学側は無期停学処分など対抗策を次々と出した。学生の運動は退潮し、全寮制撤廃が実施されるまで長い年月がかかった。
 撤廃に調印した後、学生達との間で次の課題に上っていたカリキュラム改正、学科増設・大学院設置、選択実習制など船員養成一辺倒の改革にすぐさま取り組んでいれば、と残念でならない。
 学生達の要求は、どれもずっと後になって大学側の手で実現されることになる。しかし、時期を逸したこともあって理想とはかなり違う形になってしまった。

― 商船学を求めて
 助手の時代から何人かの先生と、戦前の船員教育からの脱却、新しい大学作りの相談をしていた。
 全寮制は人間の自由を束縛し個我の確立を妨げる根源だと何人もの先生で一致していた。上長や権
力に唯々諾々と従う無自覚な人間養成はダメ、というのが僕らが戦争から得た結論だった。
 僕は、戦後の新しい時代に見合った「商船学」の確立が急務だと考えていた。
 船舶運航はあくまで自己完結が求められ、船内は一つの社会を構成している。従って商船大学は船員養成や工学という狭いものでなく、社会科学と人文科学を含む広範で総合的なものでなければならない。当然卒業生は海運界だけでなく、海関係のあらゆる分野に進むことになる。
 しかしこの考えは当時の教授会では少数派、特に航機の古い先生方は反対した。
 それでも僕が教務課長に任命されたのは時代の流れだったのだろう。僕は文部省に足しげく通って「商船学」を説き、ようやく大学院設置の申請にこぎつけた。当初文部省は「船員養成になぜ大学院が要るの?」と頭から受け付けない態度だった。
 数年後に大学院(修士課程)が実現し、その後博士課程もできたが「商船学」は未だ確立されたとはいえない。
 水産大学と合併して東京海洋大学になった時、「商船学と水産学を一緒にするのに苦労している」という主旨の学長の話が朝日新聞に載った。僕はOBとして学長にすぐ手紙を書いた。
今海運界も水産界も後継者難で揺れている。こういう時代こそ、若い論客が出てきて論争を開始し、真の商船学を確立して欲しい。


組合長室で左より笹木先生、大野一夫・土井組合長・海洋人の会山口孝さんと

― 若い船員諸君へ
 僕は引退した後しばらくして、海員の世界に区切りを付けた。50年携わり、できることはすべてやったから。今後は陸上の政治や社会全体について意見を言うため、毎日朝から晩まで本を読んで勉強している。特に歴史小説が好きで、いつも歴史を考え直している。
 民主党に長文の手紙を何度も書いたり、新聞への投書も50回ではきかない。僕は共産党が好きで伸びてもらわなければダメと常々思っていて、志位委員長に対しても戦後の党の歴史を踏まえた批判文を10度も書いた。「高い段の上から説教してもダメ、もっと大衆の目線に立て」と。教条的、空想的な点を改めて欲しいから。
 89歳になり、文章を書いて投稿することが今の僕の闘いだ。
 若い人には「もっと怒れ!自由奔放に生きろ!」と言いたい。
 3・11の震災でも、「がんばろう福島」のようなきれいごとばかりで、政府や東電に対する怒りが足りない。敗戦後の一億総ザンゲと似たような反省では改革のエネルギーにはならない。
 船員も同様だ。船の環境は相変わらず厳しいのだから、生存権を含めた広い意味での人権闘争が必要で、お願い路線ではいつまでたっても解決しない。海員組合も、「若い船員は将来陸の管理者に」などという船会社の発言を許してはダメ。それは農業を失くせというのと同じで、船員職業の消滅を意味するのだから。
 国際競争力というマジックを乗り越える知恵を、海員組合を含めた船員界総体で出していくことが肝心です。
 そのためには、まず当事者である若い船員が怒りを露わにすることしかない。船をやめるのは現実からの逃避でしょう。他人はやってくれない。自ら闘いとる以外にないのです。


9月6日、小平のご自宅にて
(インタビュー編集部、題字似顔絵は大野一夫さん)