語り継ぐ海上労働運動史13 (前編)

商船三井元船長 赤塚 宏一さん

近代化A実験船パナマ丸にてブエノスアイレス入港、左から2人目が赤塚さん

【略歴】
1938(昭和13)年7月9日、山口県岩国市生まれ。3歳より旧満州国・丹東(たんとん)で育つ。
1962年9月、神戸商船大学航海科卒業。10月、三井船舶㈱(現商船三井)に入社し西回り世界一周航路の「箱根山丸」に初乗船。
陸上勤務員、海外勤務員を経て1986年5月、近代化A実験船「ぱなま丸」船長。
1987年2月より約17年間、船主協会欧州事務局に勤務。
国立大学法人神戸大学の常任監事を経て退官。現在、(一社)日本船長協会副会長、国際船長協会連盟第一副会長、大阪湾水先区水先人会外部理事、日本財団国際海事法研究所奨学生選考委員、日本海事協会海技委員会委員などを務めるほか、海事関係学会や各種の研究会に参画している。神戸市在住。


蔑視と差別が日常の「満州
 3歳から、父親の任地である旧満州国の丹東 (たんとん。旧名、安東)で育ちました。丹東は、鴨緑江を隔てて中国と北朝鮮が接する国境の街。父は、土木技師で満州帝国交通部の官吏をしていました。当時は日本人だけが特権的で、現地の住民は子供心にもわかるほどに差別されていましたね。
 私は、「内鮮一体」とか「五族協和」はまやかしで、遅れて近代化し植民地を獲得した日本が、西洋の愚かさを真似ていると感じました。父の部下の幹部朝鮮人は家に入れたが、中国人は家に入れませんでした。それでも父は人望があったのか、敗戦後、中国人には何かと世話になりました。
 学校は日本人だけで、中国人は通っていなかったのではないか。現地の子供はボロボロの綿入れを着て、汚い格好でとにかく貧しかった。家族からは、いつも「用心しなさい」「注意しなさい」といわれてましたが、現地の子供たちと遊んだこともあります。母が、親戚に出した手紙を、戦後引き揚げてきて見せてもらったら「宏一は元気で活発ですが、どこの家にでも遊びにいって困ったものです」と書かれていました。
※内鮮一体‥朝鮮を差別待遇せず、内地(日本本土)と一体化しようというスローガン
※五族協和‥日本が満州国を建国した時の理念。五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人

敗戦後の略奪・暴行、父の死
 兄弟は三つ上の姉を筆頭に下に三人の弟がいましたが、一番上の弟は肺炎で日本人のヤブ医者にかかって死に、三番目の弟は引き揚げ時に博多港沖の船内で餓死しました。満一歳でした。
 国民学校の一年生だった45年8月15日の敗戦を機に、満州での生活状況は一変しました。それまでの差別、虐待に対して報復が始まり、日本人の現場監督は襲われリンチ、略奪や隠匿物資の摘発が至るところで発生し、官舎も街中も大混乱となりました。
 ソ連軍の進出が、それに拍車をかけ、街の至るところが無法状態となりました。連日、暴行や虐待、略奪や強姦が続き、若い女性は頭を丸坊主にして身を隠し、家族は身を寄せ合い、息を潜めて災難を避けるように暮らしました。
 父は、責任者として八路軍(中国共産党軍。抗日戦争の主力)から連日厳しい事情聴取を受けていました。残って中国の再建に協力するようにも勧められたようですが、過酷な取り調べが続いたのが原因か、心労・過労で敗戦の翌年7月に亡くなりました。食べるものといったら高粱米のおかゆが殆ど.それでも食べるものがあるだけましで、中国人や朝鮮人達からの善意で凌ぎました。
 私は、暫くして寺子屋みたいな共産党の学校に入れられ、思想教育を受け、~血潮は赤き、若き先鋒隊~と「若き先鋒隊」の歌をよく唄わされました。

人民裁判、銃殺処刑
 父の死んだ前後だったか、小学校の校庭に大勢の日本人が集められ、人民裁判が行われました。指導したのは共産党。罪状は、一人は物資の隠匿、もう一人は日本人仲間を見捨てて不法出国を試みたというものでした。
 裁判で罪状が読み上げられ審理が始まると、ヤジと怒号が飛びかう中で「殺せ!」「殺せ!」の大合唱が始まりました。プロにアジられると一変する同胞の群集心理に恐怖感を覚えましたね。少年期のトラウマです。
 結局、その二人の日本人男性は双十節(10月10日、辛亥革命の記念日)に銃殺されました。母に行くのを厳禁されていたので現場には行きませんでしたが、銃声が轟くのを不安な気持ちで聞きました。
その後、しばらくして丹東からの引き揚げ始まりました。

引き揚げの日々、難民そのもの
 丹東から引き揚げ船の出る葫蘆島(コロ島。大連の近く)までは約420キロ、遼東半島を横断しなければなりません。交通網が寸断されている中、11歳の姉を筆頭に、8歳の私、3つ下の弟と、さらにはまだ乳飲み子を含めて4人の子供連れでの引き揚げ。母親の苦労は半端ではなかったと思います。僅かばかりの食料を持つのが手一杯、着の身着のまま、まさしく難民そのもの。連日、シリアやアフガニスタンの難民が新聞で報道されていますが他人ごとではありません。
 最初は貨物列車に乗って移動が始まり、中共軍と国民党軍の戦闘地域に入ると列車を降ろされ3日間位歩きました。途中、子供や体力のないものは死んでいった。戦闘に巻き込まれる恐れや、強盗や暴漢に襲われる危険。必死の思いで歩き続けるが、やむをえず子供を手放した人もいました。中国残留孤児を見るたびに、よく帰って来られたと思う。
 国民党支配地域に入って再び貨物列車に乗り、やっとの思いで葫蘆島についたのは丹東を出てから10日目でした。
 引き揚げ船はLST。船名は覚えていませんが、日本人船員の顔を見て安心しましたね。真っ暗でジメジメした船底に押し込められ2泊3日の航海でやっと博多に着いたのに、検疫やら消毒で沖アンカー中に、末の弟が日本の土を踏まずに死んでしまいました。

文武両道の少年時代
 博多から汽車に乗り継いで父方の実家のある岐阜県・羽島に行きましたが、しばらくして母が以前勤めていた保育園の園長に乞われて愛知県・一宮の保母になったことから、高校を卒業するまで一宮で育ちました。
 女手一つで3人の子供を育てた母の苦労は並大抵ではなかったと思う。そんな母をみて育ったせいか、勉強もそこそこまじめにやり、クラブ活動にも力を入れ、中学校の頃は卓球部、夏は水泳部にも入って、毎日思いっきり汗を流していました。
 高校に入ってからも卓球を続けていたが、同じ講堂で男女混成合唱の練習をしているので興味を持ち、入部したらハマってしまった。一宮高校の合唱部は、熱心で優秀な先生がいたこともあり県内優秀校に何度も選ばれました。仲間には芸大に進学した者や音楽家になった者もいます。

愛知県立一宮高校の合唱部。前列左端が赤塚さん、高校三年生

 大学進学に際しては、当時ソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功などで科学技術への信仰
や関心があって理系への憧れがありました。
 一方で文系の学問にも興味があり、色々考えた末、名古屋大学工学部と商船大学の両方を受
験。どちらも合格しましたが、商船大なら文系理系の両方勉強できるかと思い神戸商船大に進
学しました。
 「海波の夢」がどこかにあったのかも知れません。


規律のなさにガッカリ
 商船大学に入ってみると、学生の中には服装はルーズで授業には出てこない、授業中には寝るし勉強にも力を入れないなど規律の無さに少々ガッカリもした。
 粋で几帳面でスマートな船乗りのイメージとは結び付かない。それでも大学はそれなりに楽しく、またクラブは空手部に入って毎日練習に明け暮れていました。
 当時は全寮制で寮の朝食は毎日、素うどんと決まっていて、腹が減ってたまらないので、午前の授業をさぼり寝ている学生のうどんを食べる常連でした。
 空手部では、副部長として対外試合に挑み、商船大学は近畿では強豪の一つに数えられていました。高校時代を思い出し合唱部にも顔を出しましたが、結局ブラスバンド部にも入り、また自治会活動にも力を入れましたね。
 60年安保で日本中がデモや集会の連日だった頃、神戸商船大は伝統的にノンポリでデモや集会に縁がなかった。しかし神戸出身の東大生・樺美智子さんが国会前で死んだ後の追悼デモには自治会役員をしていたこともあり、大勢でデモに参加しました。前日には、深夜までかかって皆でプラカードを作り、デモで気勢を上げたものです。
 専門科目も面白く好きでしたが、一般教養とりわけ人文科学や社会科学の講義が好きでした。心理学、社会学、国際法などどれも興味深く、熱心に聞いた。
 だからといって真面目一点張りの学生だったわけではなく、奨学金やバイト代が入ったり、家からの仕送りが届いた時には三宮によく飲みに行きました。とりわけ酒が好きということでもなかったですが、何となく大人の雰囲気が味わえるバーで飲むのが楽しかったのです。

初乗船で大いにコミヤラれ
 名古屋で医者をしていた父方の伯父と三井船舶名古屋支店長とが懇意だったことから、支店長から呼ばれ入社を勧められました。
 入社してほどなく、西回り世界一周航路の「箱根山丸」に次席三等航海士として乗船。乗組員は40人以上も乗っていましたが、三井は他社に比べて定員が少なく、人使いも荒かった。次席三航士の初任給1万6千円に対して、ベテランボースンで4万8千円、クォーターマスターが3万2千円の本給、三井の部員のタリフは他社に比べて高かったですね。
 当時、欧州航路は運賃同盟を形成した排他的な航路でした。そこに三井は盟外船として殴り込みをかけていて、あらゆる貨物をかき集めて激烈な競争に挑んでいました。その結果、やっと郵船・商船のアンダーウイングとして加盟を認められた頃です。
 初乗船では一等航海士に挨拶に行くと、着替えて来いと言われたので制服を着て行くと「そんな恰好で仕事が出来るか作業服だ」と怒られました。部員は口之津出身者が多く、英語と口之津弁を覚えるのが必須で部員の協力がなければ荷役当直は不可能でした。
 荷役当直を終わって自室で休んでいると先輩航海士から「仕事を終えても事務室で打ち合わせを聞いていろ」、「乗船中はすべて勉強時間だ」、「俺はサードの頃、荷役中は部屋で寝たことがない。キャンバスに包まって寝たこともある」とか言われて、とにかく鍛えられました。プライベートな時間は余りありませんでした。
 NYKで航海士の過労死から、遺族が裁判に訴えた事件、山形丸裁判があり記憶に残っていますが、長時間労働は当時の船に共通していたのではないかと思います。
 一航海4カ月ほどして内地に戻ると会社から連絡があり、同期入社の同僚が一航海で仕事に嫌気がさし退職したことから、急きょ「松戸山丸」に転船することになりました。あの頃の船員の労働環境は辛いものがあり、組合活動に参加する者もいて当たり前だと思っていました。

陸勤、海外駐在を経て船長にそして長期のロンドン勤務
 大阪商船との合併などを経て本社の海技課勤務、ニューヨーク支店駐在員、コンテナターミナルへの出向など陸勤を繰り返しました。
 実職で船長になったのは86年5月、入社して24年目です。セミコンテナの近代化A船「ぱなま丸」で定員は18名。サードクラスは運航士で部員も甲機両用。これからの若い人は、甲板部、機関部両方の仕事を覚えなければならず大変だなと思いました。
 航路は横浜をラストに、米国西岸~パナマ運河を経由して米国東岸へ。さらに南下してブラジル、アルゼンチン諸港に寄港して南大西洋を横断して帰る、まさしく東周り世界一周航路。ブラジルのマナウス港はアマゾン川を約2日遡行する南米大陸のほぼど真ん中。まさしく船乗り冥利につきる航路でした。
 帰りの南大西洋で時化が予想され、南寄りに航路筋を離れて迂回していたとき、船にも出会うことのない南の果ての海に大量の漁具、油、浮遊物が浮いていました。「ここまで海洋が汚染されているのか」とショックでした。
 丁度その頃、ロンドン勤務の諾否を問うテレックスが会社から入り、「船長で乗れないなら、東京勤務より好いか」と思って承諾しました。
 ロンドンではIMO(国際海事機関)関係の仕事が予想されたので、環境問題に取り組んでみようと思ったのです。結局、ロンドンには17年近くいたことになります。

欧州船員と 日本人船員の差異
 実は、船長実職で乗る前にスーパーカーゴ(積荷の監督)として約3年間、10数隻の外国船に乗ったことがあります。
 在来船が就航するローカル航路は殆どがスポットの航海用船で、こうした外国船の船員は、雑貨の積み付けや荷役の知識も乏しく、スケジュール管理も杜撰でした。しかしオーナーの代理人としての職務には徹底して忠実でした。
 クルーは、職員は英国・デンマーク・ギリシャ・香港・インド・韓国。部員はフィリピン・モルディブ・インドネシア・中国など。一番多いのはギリシャ人です。
 ギリシャ人船長は筋金入りの船乗りで、航海の腕も操船の度胸も素晴らしく、まさしくコマンダーの感がありました。
 内戦下のベイルートの夜間出港でタグもパイロットも手配できない中、鼻歌まじりで操船して悠々と三航士に引き継ぐ。
 リビアのトリポリでは、当時の独裁者カダフィ大佐の虎の威を借りた横柄なパイロットの操船が、オーバースピードとみるや躊躇なくストップエンジンを令する。
 ジブチでは出港後に密航者を発見するや、舌打ちこそすれ動じることなく、必要な手配や書類作成、うるさい官憲との交渉を手際よくやってのける。
 彼らは一様にチャーターパーティーを始めとする契約関係に非常に詳しく、何が船主にとって利益なのか、船長や乗組員にどんな義務があり権利があるのかを熟知していました。
 要するに彼らはプロで、一旦船長として船を預かった以上、後はすべて自分の知識、経験、技量、職業人としてのモラル、そして気力でどんな困難にも立ち向かう。会社や代理店に頼らない一匹オオカミでした。
 多くの日本人船長は、しっかりした会社に守られ、世界の隅々に配置された支店・代理店のネットワークでサポートされていますが、ひとたび会社の制服を脱いだら世界のマーケットで果たして生きていけるだろうかと問う日々でした。


船主協会欧州事務所での勤務、海事クラスターの裾野の広がり
 ロンドンに着任した頃はまだ欧州統一通貨ユーロもなく、デタント(緊張緩和)が進展していたとはいえ東西冷戦の真っ只中。一方でEU域内の、人・商品・サービスの移動の自由が拡大されつつありました。着任して暫くして冷戦構造の崩壊に伴って東欧諸国への拡大も予想され、IMOの動向や各国の海運情報の収集は最も重要な課題でした。
 ロンドンは何といっても世界の海運センターで、IMOやISF(国際海運連盟。各国船主協会が加盟する国際組織)本部もあり、海事関係者との交友を積極的に深めることにしました。船主協会欧州事務局のスタッフは、現地採用の秘書を含めて4~6人位。
 イギリスについていえば、海事クラスターの裾野が広く、国家政策の重要な一翼として位置付けられていると感じました。日本も船員経験者や商船系教育機関の卒業生などが、海事関連業界で大勢活躍していますが、それは個々人の判断であって国家的な位置づけではありません。
 ロンドンの海事クラスターを構成するのは5部門で、第一に船舶所有、船舶管理、代理店業務、チャータリングブローカー、検査・鑑定などのシッピング。第二に保険、P&Ⅰ、法律、仲裁、船舶金融などのプロフェッショナルサービス。三点目は出版、メディア、調査研究、コンサルタント、教員訓練などのサポートサービス。四点目には船級、規制、書式、ルール、手続きなどのインタナショナル・マリタイム・ガバナンス。そして各種海事団体などがあります。
 フラッギング・アウトを防止すべく、「トン数標準税制」を始め様々な施策を講じているとはいえ、イギリスにあっても拡大しつつある国際海事社会での相対的な影響力の低下は否定できない。英国船籍のボリュームの低下と船員数の減少がリンクしています。そのため「トン数標準税制」の導入に当たっては、職員15人に1人の割合で新規採用が義務付けられました。


     (次号に続く)