語り継ぐ海上労働運動史 12

LST元乗組員 三宮克己さん

【略歴】
1927年 鎮南浦(現・朝鮮民主主義人民共和国南浦)生まれ
1945年 10月帰国し、南方からの引き揚げ輸送に従事
1947年 高浜海員養成所で乙二免状を取得しシベリア輸送に
1950年 LST92号に乗船中朝鮮戦争勃発。仁川上陸作戦等に
1956年 講和条約を巡り海員組合と対立、下船させられる
1959年 建設塗装工として奄美大島へ、社会党入党
1969年 埼玉県化学産業労組書記を経て社会党中央本部書記に
1975年 府中市議当選(7期28年)、福祉問題に取り組む


朝鮮半島に生まれる
 平壌の西にある港町鎮南浦で、建設業を営む家の5人兄弟の次男として生まれ育ちました。
18歳で海軍を志願し、朝鮮半島南端の鎮海海軍基地で砲術学校の訓練生だったときに敗戦を迎えました。政府の政策もあったのか、戦争の状況についてほとんど知らされず、基地の生活はのんびりし
たものでした。戦争はどこか遠くのことのように感じていました。
 敗戦の年の10月に博多に上陸して、実はびっくりしたんですね。博多の街が岸壁から駅まで全部、焼け野原になっている。朝鮮では空襲も無いし、防空壕に逃げ込むなんてことも無かった。食糧難も無いし、戦争に負けて初めて戦争を体験したようなものです。
 「内地の人はこんな目に遭っていたのか」とびっくりし、同時にものすごく恥ずかしかったですね。
申しわけない気持ちでいっぱいで博多の街を歩いているときに顔も上げられなくて、ずっと下を向いていました。
 家族はまだ朝鮮半島に残っていたので、家族の帰国の手配を済ませた後、帰るところも無いので佐世保で充員募集が行われていた復員兵帰還輸送にすぐ応募しました。

   
引き揚げ輸送
 最初の船は残存していた空母「葛城」で、南方からの引き揚げ輸送に従事しました。葛城には2千人ほどの引き揚げ者が乗り込むため、操船のほか、引き揚げ者の世話や船内雑務などで7~800人の乗組員がいて、甲板部で雑役のような仕事をしました。
 その後、日本が拿捕していたイギリス商船を香港まで返還する航海にも従事し、本格的なセーラーの仕事をやるようになりました。当直に立ったり、舵を取るようになったのはこの頃からです。
 香港への返還作業が終わると、「お前たちは手に何の技術も無いから今後の為に学校に行け」ということで勧められて、1947年の7月に高浜の海員養成所の別科に入学しました。11月に乙種二等航海士の免状を取得して近海航路の航海士をできるようになったのに、戻った船では再びセーラーでした。
 永徳丸という戦時標準型の貨物船で、ナホトカからの引き揚げ者の輸送に携わり、48年いっぱいかけて引き揚げ輸送を行いました。


LST乗船
 次に乗ったのがLST。日本は大戦中に多くの船舶を喪失したため、政府が戦後処理用にアメリカから貸与をうけた米軍上陸用舟艇がLSTです。約2700トンで、船首部分に車輌を出し入れするためのバウドアがあります。
 戦後の復員兵引き揚げや貨物輸送に使用され、乗組員はGHQ管轄下の商船管理委員会(CMMC)に所属し、私もCMMCからの指示でLST92号に乗り組みました。戦争が終わっても船員の任務は終了していないということで、まだ船舶運営会(国家総動員法に基づいて船員を徴用する国の機関)が残っていたのですね。私たちは船舶運営会の指示で乗下船していたのですが、この時はCMMCからの直接指示でした。
 50年になると中国大陸では国共内戦がほぼ終結し、駐留していた米軍の残存部隊を青島からグアムに送る航海が続きました。グアムで米軍部隊を降ろした後、戦時中に壊された自動車のスクラップを積んで日本に戻るんですが、6月28日頃ですかね、小笠原沖まで来たときに「朝鮮で戦争が始まった。大至急帰って貨物を揚げたら横浜ドックに入れ」という無線が届いたのです。
 私たちは積荷のスクラップを横須賀の追浜に揚げて、すぐに横浜ドックに入りました。ドックでは工員たちが待ち構えていて、それまで貨物輸送仕様になっていたLSTを兵員輸送ができるように大改装にとりかかりました。
 4日ほどで改装が終わると、すぐ米軍がジープに乗ってどんどん乗り込んできた。どこに行くかも
知らされないまま、とにかく出港させられた。東京湾の出口あたりで、朝鮮の九龍浦(東岸浦項に近い港)に向かえという指示が届きました。
 乗ってきた200人の兵隊たちは日本で遊びほうけている連中で、オンリーと一緒に暮らしてきたのでしょう。ガラス箱に入った日本人形やギターとか、ひどいのになるとちゃぶ台まで抱えて、本国に帰るような格好で乗ってくるわけですよ。みんな一斉に「バイバイ」って、陽気に上陸して行くんですが、この部隊はまもなく全滅してしまった。
 2航海目ぐらいに再び九龍浦に行くと、手ぶらでふらふらになった米兵が、現地で覚えたのか朝鮮語で「ムル、ムル(水のこと)」と、それだけを言いながらよろよろと寄ってきた。この米兵は乗船させて釜山に連れて行きました。その後は釜山と博多のあたりを行ったりきたりで、戦争に深入りさせられるとは思ってもいませんでした。
 やがて朝鮮戦争は激しさを増し、米韓軍は朝鮮半島の南端、釜山、大邱、馬山をつなぐ三角地帯に追い詰められていった。そこは避難民や韓国兵、米兵が狭い街にごった返していて、工場も無く食糧も生産できない状態でした。そこで日本から大量の物資、戦時中の陸軍仕様そのままのいすゞや日産の軍用トラックや毛布、麻袋、米軍向けには森永製菓のビスケット、韓国軍用には渡辺製菓の携行食糧、日本で焼いた食パンなどをどんどん送り込みました。


仁川向け航海指令
 この船は貨物船だから貨物を輸送するのは当たり前じゃないか、と最初は罪悪感もありませんでした。当時は講和条約締結前で、私たちは敵国人扱いのため、情報はほとんど知らされていなかった。ところが、そのうちに釜山の岸壁に集まっていた40トン戦車を積み込み始めました。
 仁川上陸作戦に参加する部隊はアメリカ本国から神戸に集結し、船団を組んで仁川に向かったとのことですが、私の乗船していたLSTは1隻の単独行動で釜山にいたわけです。そこに戦車を積み込み始めたから何事かと思っていたところに仁川上陸作戦の噂が流れてきたんですね。
 この情報に接して、先輩船員たちが激怒しました。「戦争が終わって何年経つんだ」、「俺には家族がいる」、「こんなことなら船を降りる」と大激論で、船長も反対して船内は大混乱に陥りました。
 その船の乗組員は皆、商船乗りばかりで、50人程の乗組員の中には、ガダルカナルの戦闘で生き残った87人のうちの2人が乗り組んでいました。その他の先輩たちも、触雷や爆撃などで何度も海を泳いで生き残った人たちです。
 すると山崎猛運輸大臣から「現地指揮官の指示に従え」という職務命令が無線で入り、私たちはやむなく出航することになりました。未だに日本政府はシラを切り、あれは米軍と民間の商船管理委員会の契約だったと言いますけど真赤なウソです。
 占領下には政令325号というのがあって、都合が悪ければ何でも占領目的違反ということで米軍が自由自在に適用できた。朝鮮戦争反対なんて言ったら即逮捕され、だいたい沖縄送りの重労働を科せられる状況でした。


仁川上陸作戦
 出航はしたものの、具体的にどこに行くかははっきりと知らされませんでした。無線も封鎖され、乗り込んできたアメリカ兵が手旗で、「アップル地点へ行け」、「バナナ地点だ」、「オレンジ地点へ」などと、その都度行き先を指示してくる。これをたどって三地点目に着くと、いつのまにかあちこちから船が集まり200隻ほどの大船団になった。日本人が乗る船だけでも39隻ほどありました。
 やがて仁川沖に到着すると、米艦隊の戦艦ニュージャージーが、はるか彼方の仁川に向けて艦砲射撃を始めた。2~3海里は離れていたと思いますが、それでも私の作業服がふわっ、ふわっと揺れるほどの爆風が来た。やがて日が暮れかかった頃に突撃命令が出た。重戦車を積んだLSTが一斉に仁川に向かっていく。街は火が燃えていましたが、岸に着く頃には消えていました。
 仁川は干満の差が激しくて有名で、船が着けられないために、少し離れた海岸にのし上げる。レッドビーチとかブルービーチとかの名前がつけられていました。
 海兵隊がモーターボートでやってきて指示をするのですが、私たちは何も武装していないので攻撃されたらどうするのかという懸念がありました。米兵たちも同じ不安と緊張で、みんな黙ってハンドレールをつかんだまま、前方を見つめていました。この作戦は、朝鮮半島の南端に追い詰められた劣勢を一挙に挽回するために、マッカーサーが考え出した捨て身の奇襲作戦だったのです。

満州軍使い古しの防寒服を貸与されて

私は人殺しに加担している
 船をのし上げたら、陸上からの米兵の指図と誘導に従って、私たちが船内で戦車の移動などを指示し、バウドアを開けて戦車を上陸させる。そんなふうにして船体を揺すりながら40トン戦車を8輛ほど上陸させました。
 作業が終わったあと、少し時間があったので、私は意を決して上陸してみました。トーチカまで行ってみると、人の形をした黒いものが横たわっている。よく見ると、目は開いているし、唇の赤みも残っている。真っ黒に焼けた人間でした。足下には北朝鮮軍の「山岳戦提要」と書かれた冊子が落ちていて、それを見て私は愕然とした。「俺は単なる荷物運びじゃない、人殺しをやっているんだ」と。
作戦を知って激怒した先輩たちの気持ちが初めてわかりました。
 国会では共産党の徳田球一議員が「朝鮮戦争に日本人は参加していないのか。もし参加要請があればどうするのか」と質問したのに対し、吉田首相は「仮定の事実についてはお答えできません」の一言ではねつけた。船内のラジオでこの応酬を聞いていた船員たちから「俺たちがここにいるではないか」と怒声があがったのをよく覚えています。


死者の隠ぺい
 仁川での任務を終え朝鮮半島東海岸の北上、南下を2回ほど繰り返した頃、元山沖で機雷除去にあたっていた掃海艇が何隻か爆沈したらしいという噂が流れました。
 米軍が直接傭船したLTという500トンの船が触雷で沈没した時は、日本人船員27人のうち、実に22人が死んだということです。
 この事実は隠され続け、サンフランシスコで講和条約が締結された後に初めて発表されました。といっても22人は、死亡ではなく「行方不明」とされました。米軍は自分たちの指示によって死なせたことを発表させなかったのです。
 そのため日本政府は大変困りました。行方不明では弔慰金も払えない、退職金も払えない、船員保険の給付も出来ない。日本政府は遺族に対して補償のしようがなく、死んだことを密かに家族に伝えるのに大変な苦労をしたようです。葬式も出せないので、遺骨もないのに遺骨箱を並べて「葬儀」の写真を撮り、その写真を遺族に配ったといいます。このことに関して、現在にいたるまで政府は何も発表していない。どこで死んだかも言わない。海難事故で殉職ということにしています。


再訪した故郷の破壊
 元山で米軍部隊を上陸させた後、朝鮮半島の西海岸に回って、平壌のすぐ近く、大同江の河口にある鎮南浦に行きました。ここは良港で、日露戦争時代、日本の兵站基地になっていた所です。乗組員の誰にも言ったことは無かったのですが、鎮南浦は私の生まれ故郷でもありました。
 鎮南浦の上流にある日本製鉄の製鉄所で数百個のドラム缶を揚げたのですが、そこは鴨緑江付近で中国軍とぶつかり敗走してくる米軍の補給基地となっていました。泥まみれの米兵たちはここで燃料を補給し、また南下していく。
 私たちは大同江に阻まれて逃げ場を無くした米兵たちを助けに行ったのですが、米軍の偉い人は午後3時頃から、一般兵はそれから6時間ほど遅れて、いずれもベリーコールド、very coldと言いながら船に転がり込んできました。全部収容したと思った頃、3隻いた護衛の駆逐艦が一斉に鎮南浦の街に向けて砲撃を始めました。積み残した物資だけでなく街全体を焼き払っているのです。
 収容作業の合間、少し時間があったので、私は故郷を見ようとひとりで上陸していきました。ちょっとリンゴか何か持ってくるからなと友だちに言い、豚肉の缶詰を何個か風呂敷に包んで上陸したんですが、鎮南浦は安全なはずなのに街に人っ子一人いないのです。
 街は日本語の看板もそのままで、当時のままでした。人っ子一人いない中を歩くのは、映画のセットの中を歩くようでした。よくたむろしていた友だちの家を、そこにいるかな、と思って訪ねてみたり、何時間か歩きました。
 道路の奥まったところでリンゴを売っているおばさんを見つけると、中学生のような子が英語で話かけて来ました。英語を習っているんですよ。独立したので。私が朝鮮語で豚肉と言うと、おばさんは安心して交換してくれました。そのリンゴを持って帰ってみんなに見せているうちに米軍が逃げ込んできて、船が沖に出ると同時に砲撃が始まったわけです。
 自分の生まれ育った街が目の前で砲撃されている。たった今見てきた、自分の生まれ育った、思い出がいっぱいの街が燃えている。風にのって、アイゴー、アイゴーと逃げ惑う声も聞こえてくる。大同江の船の上で、私はなんともやりきれない気持ちでそれを見ていました。


敗残兵の収容と避難民
 収容した米兵たちは口々に、「チャイニーズコミュニストと戦うのはジャパニーズアーミーがナンバーワンだ」と言う。もう日本に軍隊は無いと私が言うと、「お前たちは日本のマリーン(海兵隊)じゃないか」と。商船管理委員会の略称がCMMCで、米海兵隊の略称がUSMC。これがよく似ていたためなのか、私たちの行動が彼らにそう認識させたのか。
 米兵を仁川に揚げた後、佐世保に戻って補給。その後、元山より更に北の興南に向かいました。以前揚陸させた米兵たちが敗走してきていて、その敗残兵を連れ戻す作業です。
 その後も私たちは木浦や麗山など朝鮮半島をあちこち回り、火の手が上がる中を米兵や物資の輸送を続けました。港には日本から沖仲仕の人達も沢山来ていました。多くの民間避難民にも会い、逃がして欲しいと懇願されましたが、助けることはできませんでした。
 今でも胸が痛むのは、朝鮮人と結婚した日本人の奥さんが訪ねてきたのに、多忙を理由に会わなかったことです。取り次いだ朝鮮人の歩哨は素朴な青年で、彼から「奥さん、泣きながら帰ったよ」と責められて我に返りました。乗せてやれないまでもせめて食糧なり毛布なりを渡せたかもしれない、伝言を預かることもできたかもしれないと。本当に申しわけ無く、辛い記憶として後を引いています。


朝鮮戦争特需
 日本の港に入ると、町中にトンコ節という景気のいい歌が流れ、佐世保あたりでは焼け野原にバラックがみるみるうちに建っていきました。そこは朝鮮に行く米兵たちが最後の金を全部捨てていくところ。飲み屋では日本人の船員たちも大勢飲んでいた。酒でも飲まないとやりきれない。
 沖仲仕の人たちまでが「ねえ船員さん、やっぱり戦争あったほうがいいね。こんなに景気が良くなったじゃないの」なんて言う。酒も飲み疲れたし、ある喫茶店に入ったら高英男という柔らかい声の歌手が歌う「雪の降る町を」が流れていて、それを聴いて気を休めたことを思い出します。街は異常な景気で活気づいていました。
 朝鮮に送る大量の物資を生産することで異常なほどの好景気になり、物価もどんどん上がっていく。当時の吉田首相は朝鮮戦争を「天祐」とも呼びました。
 私たちは商船管理委員会から公務員並みの給与が支給される上に、危険手当が付いて倍近くになる。作業服しか持っていなかったのが、洋服や冬のオーバーを作ることができました。一方、対岸の釜山では荷揚げ人夫のインテリ風の朝鮮男性から「日本はこれで復興、戦争様さまですね」と火事場泥棒との皮肉を浴びせられました。
 このような状況を見て、戦争というのはどこかで儲ける人がいるから絶えることなく繰り返されるのだ、戦争が無いと成り立たない国があるのだということがよくわかりました。


海員組合と対立、下船
 引き揚げ輸送も終わり、50年に船舶運営会は廃止され、民営還元が行われました。私の籍は照国海運ということになっていたようで、そこに戻って乗船を続けました。
 やがて朝鮮戦争も休戦して東西冷戦が深まる中、吉田首相の主張するアメリカとの単独(片面)講和と、ソ連や中国も含めた全面講和をすべきだという世論の対立がありました。 
 GHQの援助のもとで反共色の強いナショナルセンターとして発足した総評でしたが、平和4原則を決定し、その中のひとつが全面講和でした。これに対して海員組合は片面講和を支持していました。
 私は宣戦布告したすべての国との関係を修復する全面講和を支持していました。当初から海員組合の組合員ではありましたが、組合は陸の事務所でプロの専従がやるものと思っていて、距離感もあったし、現場船員を「沖の大衆」という呼び方で一括りする執行部に違和感もありました。
 また世間知らずということもあって、訪船してきた海員組合のオルグに対して講和をめぐってひどく罵倒してつるし上げてしまったことがあります。本当に失礼だったのですが、一航海して帰ってきたら下船命令が届き、「高齢につき退職」となっていました。
 当時、私は29歳。この歳で高齢ということがあるか、と海員組合の本部まで抗議に行ったけど取り合ってもらえませんでした。講和をめぐり海員組合が総評から脱退して民労連(後の同盟)結成に動くこの時期、一介の現場船員の意見でも聞き捨てならなかったのでしょう。


結核罹患と奄美行き
 船から降りて暇ができたので、思いついて保健所で健康診断を受けたところ、結核であることがわかりました。当時は船員手帳にも健康診断の欄が無く、上陸時にたまに簡単な健康診断を受ける程度だったのです。
 LSTは衛生管理が行き届いておらず、私たちも知識がなかったので、狭い船内で結核患者が使っていた寝具をそのまま使うこともあり、結核が蔓延して多くの船員が若くして亡くなっていました。私は手術を受けたものの、それが失敗して肋骨を7本も切られ、身体障害者となりました。
 3年間療養して回復しても、障害者は職安からも相手にされず就職もできない。一方街を歩けば、自分と同世代の人たちが颯爽と働いている。世の中が嫌になって失意の中、引き揚げ輸送中に知り合った奄美出身者の話を思い出しました。内地には仕事も無いし、奄美なら知り合いにも会わないだろうと、特に紹介もなく奄美大島に行くことにしたのです。
 復帰直後の奄美は建築工事のラッシュでした。そこで本職にはかなわないまでもセーラー時代のペンキ塗り経験を生かそうと、塗装工として働くようになりました。灯台などの高所作業では足場を組まず、自作したボースンチェアで作業して見積額を低く抑えることができ、入札などで有利でした。
 しかし、塗装の仕事は肉体労働で、肋骨を失った私には厳しいものでした。片方の腕ばかり使うため肩甲骨が外れてしまうのです。なぜ障害者はろくな仕事に就くことができないのか、普通の人より厳しい職場環境で働かなければならないのかと、毎日腹立たしく思っていました。
 そうした辛い思いをして、私は社会党に入党することになります。当時の社会党は「青年よ銃を取るな」のスローガンで知られた鈴木茂三郎がいて大躍進していました。奄美ではラジオで聞いたニュースをもとにガリ版新聞を作って配布するなどの活動をしました。
 奄美での建築の仕事もやがて頭打ちになり、上京することにしました。奄美出身者の紹介で、埼玉県化学産業労働組合協議会(未組織の化学産業労働者の組織化のために総評の加盟組合が出資してつくった組合)の専従書記をつとめた後、やはり奄美大島出身で後に日弁連会長になる山本忠義弁護士の事務所に勤務。その後42歳で社会党本部書記局に入りました。


市会議員として
 49歳で府中市の市会議員になり、以降7期28年、一貫して福祉問題に取り組みました。自分の障害を公言したことはなかったのですが、自らの経験をもとに徹底して障害者問題に取り組みました。

(府中市議時代)

 全国に先駆けて福祉都市宣言をした町田市長の大下勝正氏から「ひとつに集中して取り組めば、やがてそれが大きく広がる運動になる」と教えられ、障害者問題から多胎児支援、健常者との統合教育など、取り組みを拡大して行きました。私は護憲連帯という会派でしたが、平和ばかりではなく生存権・生活権も含めて憲法は守るものではなく実行するものだというのが信念です。


船員へ伝えたいこと
 朝鮮戦争に行かされた船員は、39隻のLSTに1隻50人として、少なくとも2千人はいたはずです。自分もそうだったという人が現れないかと、30年も前から講演やインタビューで話していますが、なかなか会えないで来ました。
 LSTに乗り組んだ船員の名簿も無く、商船管理委員会の後継組織や海員組合に問い合わせをしても情報開示されませんでした。
 さきの大戦と違い、朝鮮戦争で日本人は、戦争の恐ろしさではなく景気の良いことしか覚えていないようです。しかし船員の場合、触雷のほかにも、作業中の事故や蔓延する結核で多くの人が亡くなっています。戦後、日本人は一人の戦死者もいないし一人も殺していないと、善意からそう信じている人もいますが実はそうではなかったのです。
 戦争を知らない世代の議員たちのしたり顔の「集団的自衛権」論議には、大きな危機感をもっています。そんな中で発足した民間船員の予備自衛官制度は大変危険なものです。朝鮮戦争は遠い昔話と思われるかもしれませんが、戦闘のための物資輸送から戦争加担までは、あっという間です。船員にとって、戦争に組み込まれる体制が既にできつつあるのです。
 私たちのような実体験がある人たちは残り少なくなりましたが、命のあるうちに、身をもってした経験と戦争の現実を伝えていかなければいけないと思っています。


 (インタビュー・編集部)