ビラまき後の照国船員と家族.右から2人目が楢原さん

元照国海運職場委員  楢原 豊さん

1935年(昭和10年)12月27日,群馬県板倉町生まれ。51年4月
高浜海員養成所(後の清水海員学校)航海科入学、52年3月卒業。
4月照国海運に入社し近海航路の石炭船第2照国丸に乗船。
65年1月初代職場委員に就任。75年会社倒産。79年昭洋海運
に社名変更。82年2度目の職場委員。88年退職し、地元の機械
工場に勤め今も現役労働者を続ける。 埼玉県戸田市在住。


なぜ船員に?
 早く家を出て独立したかったから。それには食事、住居付きの船乗りが一番手っ取り早かった。
 というのは、私は母が父の後妻に入ってから生まれた子だったので、母からは将来、先妻の子供との間で相続争いになるのを懸念して、家から早く離れた方が良いと諭されて育ったのが影響していたと思う。
 家は足尾鉱毒事件で有名な旧谷中村に接した米穀地帯にあって、子供の頃から田中正造の闘いを母から聞かされていたのも、のちに労働組合運動に関心を持つようになるのに影響していたと思う。
 終戦は小学4年の時で、一学期は軍事教練まがいの日々が続いて、本来の授業は受けていない。二学期からは教科書をスミで塗りつぶす日が続いたが、米農家だったので食に困ることはなかった。


高浜海員養成所の生活
 船乗りになるのに一番手っ取り早いのが海員養成所で、昭和26年(1951)、15歳の時に愛知県高浜の海員養成所に入学した。
 養成所は一年制で授業料はタダ。月1750円の食費だけ親が仕送りしてくれた。全寮制で40人位が寝起きする大部屋が4つ位並んでいて、プライバシーはゼロ。軍隊式の人権無視の扱いに、入学式の晩に脱走する者も出るほどだった。入学者に中学卒は少なく、高卒と高校中退者が多かった。当時の就職状況が悪かったのを反映していると思う。
 入学後3カ月もすると船会社から募集がきて就職教官が割り振っていく。ほとんどが外航で、私は教官から「お前の性格では大手はダメ。従順じゃないと務まらない」と言われた。
 養成所では先生に恵まれた。校長は川崎汽船の船長出身で、スパルタ教育とは無縁の博識ある人物だった。月に一度、斬新な講師を呼んで、町の人にも開放するセミナーみたいなものを開いていた。
 ある時、岐阜大学の教授・佐野アンネというドイツ人が来て、国際化の話をしてくれた。「ドイツに行けば地図の真中はドイツ。真の国際化は相手のお国柄や人間性、立場を理解することから始まる」と。「世界地図の真中は日本」、とあたり前に思っていた自分の考えの狭さに気が付いた。


初乗船の頃
 初乗船は16歳、2300総トンの石炭船第2照国丸で1年1カ月乗った。総員40人位で、甲板部が12人位(舵手4、ボースン、ストーキ、大工、セーラー5~6)、機関部も同じ位で司厨部が5、職員は通信士3人を含め11人いた。
 もちろん私たち甲板員や機関員の居室は大部屋だったが、その船ではボースンに恵まれ、仕事を良く教えて貰った。船内ではイジメや口ゲンカもなく、良い雰囲気で仕事ができた。
 2隻目は当時としては大型の外航タンカーだった。1年半ほど乗船させられたが、員級だけが2人部屋で、部員でも役付以上は個室だったので、ある程度のプライバシーは守られていた。
 当時は「ボーイ長」といって、部員は最下位者が食事当番や上位者の部屋掃除、時として洗濯などの私用に使われることもあった。日本への帰港前は居住区域の清掃を入念に行わされるなど、夜半までの無償労働が常態化していた。
後に後輩が乗船してきたのを機会に、時間外の無償労働を廃止すべきだと主張し、上位者と争いになることもあった。

当時の船員手帳の写真

 私は理不尽な働かせ方に我慢できず、「おかしいことはおかしい」と言わなきゃ気がすまなかったから、仕事の進め方を巡ってもボースンら甲板部の古株連中とよく衝突した。「生イキ」と言われ、デッキに呼び出されて胸ぐらを掴まれたこともあった。
 当時は会社の配乗係に付け届をして、早く乗せて貰うとか、手当の付く収入の多い船に乗せて貰うことが平気で行われており、乗船の機会均等もなかった。


社内の雰囲気は?
 照国は最盛期には日本高速フェリーを含め、船員が8百人位いた。鹿児島の中川一族の経営で社長はワンマンだけど、当時経営は登り坂で待遇は良かった。
 家族呼び寄せ費も会社が作るなど、元海員組合尾道支部長の労担が職長を取り込んだ船内対策に長け、表向き船内に不満はなかった。組合とも上手に慣れ合っていたから、乗組員が5百人いても企業区の全国委員を出すことはなかった。
 しかし会社が大きくなるにつれ会社と組合のナレアイが目に付くようになった。会社が内定したボーナスより組合の要求額が低かったりして、組合への不満が強くなっていった。
 戦前と変わりない理不尽な慣習、頑として存在する階級制、下級部員に対する扱いに憤然としていた私はサルトルやカミュ、社会問題の本などを読み漁った。
 船内委員長制度は入社した時からあったが、たいがい二等航海士などの職員で、部員がなることはほとんどなかった。この点でも部員は一段下に置かれていた。
 昭和36年(1961)に定員中央協定が撤廃され、各船ごとに減員の話が出始めていたから、翌年船舶部員協会が結成され、加入案内が船に来た時は「これだ」と直感してすぐ加入した。


初代職場委員に
 当時、職場委員制度があったのは大手の他は、飯野、日鉄、日本海など名の通った会社だけだった。
中核6社に集約された昭和39年頃、照国などの中堅会社にも職場委員を置くことになり、会社は各船に推薦を求めてきた。
 殴られても歯を食いしばってものを言い続けた私を、なぜか船内の古株連中は、「言い出しっぺのお前がやれ」と推薦した。会社は「当社にとって初めての職委。大事な仕事をなんで部員なんかに」と言ったが、各船の推薦を受けた私をはねつけるわけにいかなかった。
 初めて出た組合大会は昭和39年。終わった頃東京オリンピックだったのでよく覚えている。
 それまでの組合は船員しんぶんの中だけの存在で、私も皆と同じように、組合は労働貴族の集団で、船員のことなど二の次の人種だと思っていた。しかし実際に見ると想像以上だったのには驚いた。
 決意して職場委員になったつもりだったが、イザなってみるとヘイカチの私は右も左も分からず、大変だった。船員課に席が置かれ、訳も分からないうちに船員関係の仕事をやらされた。
 入港船があるため週に一度は訪船。乗組員から次々と要望が出され、組合と会社の間を行ったり来たりした。初めての職場委員だから、前例がなく、何もかも自分で考えなければならなかった。
それでも何とかやっていけたのは、船員あがりの部長と課長が社内の慣習を親切に教えてくれ、陸上勤務中の航海士が相談に乗ってくれたおかげだった。ここでも私は人に恵まれた。


目標は賃金と人事の公平
 職場委員に上がる前、自分の腹の中で誓いを立てた。会社との慣れ合いだけはやめ、職委の独自性を貫くこと。それだけは忘れまいと心に決めた。
 具体的な目標を、不明朗な賃金(誰が幾ら貰っているか分からない。昇給の査定基準がない)と人事(お手盛りの配乗、昇進)の公平に決めた。この二つが乗組員の結束を妨げるガンだったからだ。
 誰の目にも分かる透明な賃金体系と、公明正大な配乗・昇進のルール造り。これには誰も文句の付けようがなく、酒クセが悪くて有名な機関長も支持してくれた。
 組合もリコール運動が始まってそれどころでなく、ほとんど口を挟まなかった。
 しかし、各自の思惑がからみ、一朝一夕ではまとまらない。ある船が納得しても次の船でひっくり返される。一歩一歩進む以外なかった。賃金体系は未完成に終わり、次の職場委員に引き継いだ。
 任期中は定員削減の話が息つく暇もなく出され、その都度船の後押しをもらい、本からは得られない色んなことを学んだ。本当の意味の職場委員制度とは何かをいつも考えていた。「現場の要求は何か」を掴むことが全て、それを組合の要求に高め、組合に任せず自ら交渉に参加し現場に責任を取る。それが2年間の私の結論だった。
 壁に当たったら必ず現場に返す。最後は現場の意志で決める。組合に対して、現場の決定権は絶対譲らない。現場に力があれば、組合が変な決定をしても必ず覆すことが出来る。職場委員が体を張ってやれば、組合は絶対反対できないし、班長は引きずられて付いてくる。その確信を持って、次の職委にレールを引くことができたと自負している。当社では職委は必ず2年毎に替わることにした。

(熱田丸の洋上運動会)

組合幹部リコール運動
 職場委員になってすぐの昭和40年(1965)、春闘が秋に持ち越されて越年する「40年スト」が起きた(11月スト開始、翌年1月末に妥結)。
 当時高度成長といっても、部員の賃金は依然として低く置かれ、船内での地位も昔ながらの「属員」となんら変わりなかった。そこへ定員中央協定の撤廃により部員の定員が減らされ、仕事の範囲はどんどん広がる。期待していたストも、越年までして争議続行したのに、結局秘密交渉で決められ、職員との差がむしろ広がった。
 会社常務はリコール運動をやめさせるよう言ってきたが取り合わなかった。新米の私の目でも、「定員は労働条件ではない」などと大会で答弁し、部員の要求を排除する先頭に立ってきた和田春生副組合長、横柄な態度で汽船部委員会を仕切る金子正輝中執(汽船部長)のリコールは当たり前と思った。
 リコール運動が起きると、和田・金子両氏はそれまで雲の上の存在だったのが、私みたいなペイペイのところまで機嫌を取りに来た。組合の逆襲に遭い、リコール運動委員会は途中で署名集めを中止したが、規約に基づく組合員の正当な権利だから、最後まで徹底的に集めればよいのに、という思いはあった。
 今考えると、足並みの乱れがなければ、組合本部は統制処分(責任者の堀次清次東海運機関長の組合員権停止処分など=後に東京高裁判決で処分無効が確定)という分断策などできなかったと思う。
 当時部員協会の設立は大きなインパクトを与え、船主は怖れをなしていた。大手ではイヤガラセや介入で脱退が続き分裂の危機もあった。部協は、リコールの署名を途中でやめたことを最後まで引きずったと思う。
 和田副組合長は引退して政界に進出、金子中執は外部に出向し、事実上運動は成功した。満足のいくものではなかったが、組合員が行動に出れば、何らかの成果が出ることをリコール運動は証明している。これを機に、海員組合は従来のナレアイから脱皮し民主化に向かい始めた。


1回目の倒産、部員協会への出勤
 職場委員の任期を終えて乗船した後の昭和50年(1975)、「会社倒産の危機」が伝わり船内は騒然となった。慶大出の社長の息子が、スエズ動乱後のマーケットを見込んで大量の用船契約を結んだのが裏目に出たのに加え、一隻百億円もする豪華フェリー「さんふらわー」5隻の見込み違いによる赤字が重なった。
 どう闘うかで船内の意見は割れた。会社に迎合的で煮え切らない態度の組合に対し、退職に傾く人が出る一方、海員組合にいては雇用は守れない、自分たちの組合を作ろうという意見まで出た。
 当時の外航労働協約では、一社で雇用が守れない場合は系列雇用協議会や外航合同協議会で協議できるようになっていたことから、系列雇用協議会に持ち込み、系列大手のジャパンラインを通して雇用を守ろうという意見が職場委員経験者などから出された。
 しかし、当時の渡部職場委員は、社船がなくなって雇用が守れるのか、組合機関とジャパンラインの協議に任せて良いのかと不安を持ち、入港中の私に相談してきた。
 私は4カ月の航海中、自分に何が出来るかを必死で考えた。果たして全員の雇用を守れるか?会社の状況からして、おそらく無理というのが結論だった。
 しかし今系列雇用協議会にもって行けば、ジャパンラインと組合の協議に「預ける」ことになる。その結果ある程度雇用が守られたとしても、それは「失業対策」になってしまい、乗る船が手当されてもみじめな思いで乗っていくことになる。当社の船員一人一人が、将来に誇りを持って生きることができるよう闘うこと、それが自分の使命だと思った。照国船員としての誇りをかけて、持てる力を振り絞って闘った結果が系列雇用協議会ならそれもヨシ。自分たちに出来ることを、まだやり切っていないというのが私の結論だった。
 下船すると「当面自宅待機、出社に及ばず(待機員の給料は支給)」という指示が会社から来た。
当時の海務部長は私と親密なわけではないのに、「楢原なら何とかまとめてくれる」、「船と船員が残ってこそ、真の会社再建ができる」と船を説いて回ったという。
 私は、陸にいて渡部職場委員を補佐しろという部長の合図と受け取り、以後約一年間、部員協会に机を借りて渡部職場委員を補佐することになる。

自宅で語る楢原さん

決定権を現場に
 渡部職場委員は情報集めの天才だった。陸上社員との付き合いを欠かさず、会話をメモし、毎日会社のゴミ箱をあさった。その分析から、「不経済船」の売船は銀行が7百億円の債権を回収するための方便で、工夫次第で社船を維持できると確信を持つことが出来た。
 単なる倒産問題にせず、計画造船を薦め、融資してきた国と開発銀行の責任を徹底的に突くこと、我々船員には責任が全くない以上、労働条件を譲って銀行の債権回収に協力する意思はないことで各船内が意思一致することができた。
 その年(75年)の組合大会では横浜に入港した乗組員や陸上社員も参加してビラを撒いた。他社の職場委員が「エラそうに言って最後は組合頼みか」と、いちゃもんを付けてきたが、私が、「良くビラを見てみい。組合に助けてくれなどと一言も頼んでいない。照国船員は自力で闘う。アンタらも自社の合理化に闘うことが船員の道だと呼びかけているのだ」と言うと、すごすごと引き下がった。
 年末には会社更生手続が始まり、その後は、銀行相手の闘いとなった。管財人は8隻のうち出雲丸など7隻の海外売船、大量退職を柱とする再建案を出した。会社再建は二の次で、債権回収を最優先する銀行の意図を前に、私達は社船維持を譲らない結束を固めた。
 2年間の闘いの末、開発銀行は債務の減免を認め、荷主の継続にも成功、6隻の社船を維持したまま再建することができた。
 その間、最も苦労したのは対組合だった。組合は会社の出す数字を疑わず、「不経済船」の売船を認め、残った船員数に見合う7隻の社船の維持を求める各船の電報を「非現実的」とハネつけた。それは、系列雇用協議会でジャパンラインに乗船先を手当させる「下駄を預ける」方針を意味した。
 しかし、各船と私達はその方針に同意せず、組合に対して「照国船員の決定権」を最後まで譲らなかった。
 闘いの中心を船単位に置き、船内大会の決定を最重視する考え方を貫いた結果、残った船員は、その後他社に派遣乗船することになっても、「すごい闘争をしたな」と誉められ、自らの闘いの意義を知ることになった。将来どこに行っても、船員としてのプライドを持って生きていく力を得たと思う。


【大会で配布したビラ】
〈われわれは断乎闘う!〉
〈われわれは明確な闘争方針を組合中央へ求める〉
船内の闘争態勢は確立してる
 照国海運は再建のカギになる外国用船の解約交渉に成功し、十一月中旬といわれる会社更生手続開始の決定とともに、会社更生法による再建が開始されます。
 再建計画には五百億といわれる債務処理を理由に社船の売却、人員整埋が盛り込まれる危険があります。すでに会社側は、更生手続開始の申立段階で五~七隻の社船の売却と、二分の一の人員整理が必要だといっており、大量の人員整理を中心にした再建計画が画策される情勢にあります。その計画を打破し全員の職場を保証させるため、われわれは闘いの準備を開始しました。すでに連名で闘争方針を要求してきた船内大会もあり、闘争態勢は確立しています。
責任は会社首脳、運輸省、銀行にある
 照国海運の経営危機は、無謀な外国用船と関係会社における無計画な拡大投資が原因です。会社首脳は社船の赤字宣伝を続けながら実際には、社船の収益を拡大投資と個人財産形成に注ぎこみました。監督官庁の運輸省も、銀行も、それを容認し放置してきました。その間われわれ船員は社船の赤字宣伝に脅迫されながら、ひたすらに運航能率を上げるため頑張ってきました。したがって経営危機の責任は会社首脳、運輸省、銀行にあります。船員が職場保証を要求して闘うのは当然です。
船員切捨ての画策を許すな!
 照国海運の五百億円といわれる債務の半分以上が、計画造船での建造借入金です。本年三月までの決算は実際はプラスで、解約料として借入れる五十六億円だけがマイナスとなり、社船の売却がなくても再建できる状況にあります。しかし銀行は、債権の早期回収を目的に社船を売却させようと画策しています。
 経済の高度成長下で拡大投資を煽った金融は、いま安定成長への転換を理由に拡大投資の整理・回収をはじめました。それは金融停止による政策的倒産の増加となって現れ、それに伴う船員切捨てが再建計画の名で画策されます。それは、そのまま外航、中小、非系列の切捨てと、中核の独占集中を意味し、船員全体の雇用を極度に圧迫します。したがって海員組合が、政策としての船員切捨てを許さない明確な方針を現場に徹底し、船員の自発的闘争を組織して闘うことが必要です。
全職場へ闘争を拡大せよ!
 倒産、会社更生法の申請を過大視し、雇用協定があることを理由に安易に船主の合理化、船員切捨ての策謀を容認すれば、それは次々に政策的倒産が拡大するのを許すことになります。現実には雇用協定かあっても、いまはそれが完全に実行される状況でないことを、われわれは知っています。
 照国海運の場合は債務の一時タナ上げ、返済期間を延長することで再建が可能です。労働組合としてとる手段は、債権の早期回収を目的にした社船の売却を許さず、職場を守るために徹底した闘争を組織することです。
 われわれは船員切捨ての再建計画を認めず、八隻の社船と四百名の職場を守るため断乎闘う決意です。
 全国大会へ結集した活動家諸兄が、われわれの闘いを支持し、自社船の職場で職場拡大の自発的闘争を積性的に組織されるよう訴えます。
昭国海運(株)所属
全日海組合員一同


2度目の職場委員
 私は闘争が一段落した後、船に戻った。その後新造船はなく、船の老朽化は進んだが、鉱油兼用船のタンカーへの改造、タービンからディーゼルへの主機の改造など乗組員の努力で再建は軌道に乗った。社長は銀行から送りこまれ、社名も昭洋海運に変更され、創業者の中川一族は経営から完全に手を引いた。
 しかし、急速に円高が進み、再び定員削減圧力が、こんどは日本人船員の不採算論という形で全社一斉に現れてきた。1982年、私は再び職場委員に推され、会社が立てた候補を破って当選し2度目の職場委員になった。
 就任後待っていたのが珠富士丸闘争。富士汽船の船に当社船員を配乗中に、富士から「返船」要求が来て下船命令が出された。
 私は乗組員の要求に従い、替わりの船を会社が用意するまでの間乗船中の賃金を要求した。
 交渉は決裂し、佐世保ドックで交代の韓国クルーが来てやむなく下船に応じた後、乗組員をホテルに集め再交渉を要求。併せて組合を通じて、労使紛争中だから出港を認めるなと海運局に要請した。
 海運局は要請を無下にできず、銀行から来ていた専務は船を出すことが出来ないと知り、満額回答をせざるを得なかった。
 この時も、「自力で闘う」という考えを譲らず、組合もそれを認めたことで船内は結束と自信を持って闘うことが出来た。
 任期中の2年間は、定員削減、債務返済を理由とした年間臨時手当削減の問題に終始したが、常に「各船の要求」を最優先し、妥協しようとする組合を、「いかに折れさせないか」に心を注いだ。


会社清算へ
 最初の倒産から19年を経た94年(平成6年)、乗組員の必死の努力でなんとか債務の返済が進んだ頃、見計らったかのように開銀は、バブル破綻後の不良債権処理のため、社船の売船・会社清算を組合に申し入れた。当時67名残っていたかつての仲間は石橋職場委員を中心に最後まで果敢に闘ったが清算を阻止することはできず、社船伊勢丸の売船を最後に矛を降ろさざるを得なかった。
 のちに石橋君は、『残った組合員は全員が最後まで運命を共にしようと一丸になって闘ってくれたが、結局路頭に迷すことになってしまい済まない。自分の力不足。見通しが甘かった。借金を返済すれば必ず再建できると信じていたが、むしろ逆で、返済が進んだ頃、開銀は清算に向けて舵を切った。あとになって、それが予定の行動であることを知った。銀行の出方の「読み」を誤った。』と語っていた。
 更生計画の節目節目での現状分析と銀行の出方の分析を、しっかり立て切れなかった、「もう日本人船員は使わない」という海運界の流れは十分分かっていたはずなのに、その底深さまでは理解できていなかった、と言うのだ。
 しかし、今振り返ってみると、緊急雇用対策(1987年)など海運全体の合理化、統廃合が進められる中で、一社だけで抗することが不可能な、大きな産業政策があったのだと思う。
子供の世話をするため退職せざるを得なかった私は、最後の時に何も協力できず、みんなに申し訳ない気持ちで一杯だ。

石橋元職場委員(右)と。2003年7月

今の職場委員の人達へ
 海員組合は昔も今も変わらず、組合員の上に立って代行業務を続ける官営組織のように見える。
 たとえそうでも、職場委員が現場代表である以上、組合に対して船の意見を伝えることはできるはずだ。会社から言われてなったとか、きっかけは関係ない。
 自分も最初は何も分からなかった。そういう時、自分を支えたのは「会社の金で飲み食いしない」、「自分は労働者の代表として会社と対等だ」という気持ちだけ。会社と丁々発止で渡り合うことなどできなくても、その気持ちさえあれば十分だ。現場の意見を丁寧に拾って組合に伝えるよう心掛けて欲しい。
 現場船員の諸君は、船員という職業に自信をもって欲しい。
 陸上の労働者に比べ船員は、広い技術を要求され、一定以上の水準で何でもこなさなければならない。仕事の質は高くヤリガイもある。こんな職種は陸上ではない。
 しかし、莫大な金額の船と荷物を動かす責任の重さに比べ、待遇や評価は極端に低い。
 労働に見合った評価をするよう、船員としてプライドを持って堂々と自己主張して欲しい。それが後輩を育てる道でもあると思う。


5月、埼玉のお宅にて
(インタビュー・編集部)