ー なぜ船員に?
 他の学校に比べ、高等商船は授業料も食費もタダ。貧しい農家の次男にとってそれが魅力だった。
僕は華々しいのが苦手で、甲板やマストで動き回るより、暖かい機関室で独りそっとしているのが好きで機関科を選んだ。
 戦争中の越中島は海軍式教育といっても、技術系の教官は皆な商船学校出。自由な気風が残っていて、むしろ反海軍的な性格が強かった。僕ら学生も「日章旗(商船)の下で死んでも、海軍旗の下では死にたくない」と公然と語っていた。卒業後海軍士官に直行するコースを選ぶ者は殆ど無く、行った先輩は軽蔑されていた。
 僕は大正期の自由な風潮が残る高知で育ったせいか、一種の反権威、反骨精神のかたまりで、鉄砲の管理がイヤで軍事学が不合格だった。当時は2科目落ちれば落第。残り一科目を寸前のところで先生が掛け合ってくれて何とか通った。
 商船特有の国際主義が底流にあったのが僕には幸いした。


ー 海軍召集
 44年の12月に卒業して日本郵船に入社。入社と同時に海軍に召集され春月か秋月だったか、「月クラス」の駆逐艦に乗艦した。
 少将が乗っていたので護衛の司令艦だったと思う。燃料の油が足りず、釜山の沖に停泊したまま戦闘に出ない。ビールや甘いお菓子もふんだんにあって、士官クラスは皆な贅沢をしていた。僕は「機関長付き」だったから、現場作業はほとんどしたことがない。ガラス越しに指図すれば、機関室にいる下士官が全てやってくれた。
 だから僕は戦闘の経験がなく、戦争の恐ろしさも体験していない。
 艦内で戦争が終わったと知った時も、全くがっかりしなかった。商船出は士官学校出から差別されていたから、これで自由になれるし好きな本も読めるとむしろ嬉しかった。同級生を始め、沢山の人を死に追いやった戦争に対する憎しみの方が強かった。


ー 戦後の乗船
 敗戦後の9月、召集が解除されて高知に戻っていると、翌年1月マッカーサー命の電報で横浜に呼び出され、空母葛城に乗船。復員輸送に従事した。
 横浜港に係留したバラックシップでは待遇改善の大争議が始まっていたが、僕の船では組合運動はなかった。復員者は皆なやせ細り着のみ着のままで悲惨だった。戦場で受けた暴行への恨みから、宵闇にまぎれ上官を甲板から投げ捨てる事件もあった。
 その後巡洋艦酒匂(さかわ)で復員輸送をした後、ようやく郵船の船に戻ることができた。
 最初の船は米軍御用の小型タンカーで航路は国内だけ。僕は敗戦時から密かに考えていたことを実行に移そうと、「舷窓」という壁新聞をひとり発行した。
 自由な世の中になったのだから、これからは平和のため、民主主義の日本を作ろうという拙い文を懸命になって書いた。僕は労働運動の経験はなく、海員組合に加入した記憶すらない。以来文章を書いて発表することが僕にとっての闘いで、88歳の今も続けている。
その後8千トンの戦時標準船永慶丸に乗船。そこで現場労働の厳しさを身をもって知らされた。

空母葛城の甲板風景(本文とは無関係)


 それまで全て部下にやってもらっていた僕は、荷役機械が壊れてもチンプンカンプンで直しようがない。ナンブト(No2オイラー)の武内賢一さん(後に海員組合中執)から、「だから海軍帰りはダメ」と毎日怒られながら鍛えられた。武内さんは後に組合大会で再会、お互い懐かしかった。


ー なぜ学者の道に?
 戦後すぐ、貴族出身の東久邇宮内閣が誕生し、新時代を作るため言いたいことは何でも言えと国民に呼びかけた。
 僕はすぐ、「戦争中の商船教育批判」を書いて政府に送った。越中島で小門和之助先生から教わった「海員道」の精神論に疑問を抱いていた僕は、「制度自体を変えなければダメ」という結論に行き着いていた。
 永慶丸下船後の48年、海務学院に応募した。戦時中の即席教育しか受けなかった僕らの年代にとって、思う存分勉強できる海務学院は憧れだった。
 学制改革で全国の高等専門学校が大学に昇格する中、占領軍は商船を準海軍と見なして大学への昇格に反対した。しかし、清水と神戸の高等商船の存続、上級教育機関として海務学院の新設は認められた。専攻は航海学と機関学だけだったが、戦時徴用体制が続いていたので船舶運営会から給料が支給された。
 僕は機関の勉強はそこそこに、社会学や経済学に熱中した。当時校内に占領軍が進駐し、図書館の本もほっぽり出されていたから、自由に部屋に持ち帰りむさぼるように読み漁った。
 食糧難が続く中で、運輸省管轄の海務学院では国鉄の自由パスが貰えるとあって法律や経済の一流の学者が講師で来ていた。僕はそこでマルクス経済学を学び、「社会政策論争」で新聞や雑誌を賑わしていた大河内一男教授の講義を聞きに東大に足しげく通った。
 大河内ゼミは学生に絶大な人気で、入りたくても満員でダメ。僕は、「大河内理論は生産力ばかりで、生産関係の視点に欠ける」という批判文(海務学院の卒論)を直接先生に送った。ある日講義が終わると先生から呼び止められ、ようやくゼミへの参加が認められた。
 後に弁護士になった山下豊二さんや運輸官僚になった藤崎道好さんは、優秀な上に僕にも増して活動的で、2人から共産党への入党を誘われたりした。僕らは学問と行動は一体でなければ本物でないと考え、大学昇格運動の先頭に立って清水高等商船に行き、学生をオルグしたりした。
 その頃には、「社会政策としての船員政策、海上労働問題をやろう」と心に決めていた。


ー日本郵船退社、大学助手に
 ところが、政治的なデモに行ったり、大学昇格運動で目だっていた僕は、航海科・機関科の先生から嫌われて推薦されなかった。
 海員組合の小泉組合長を批判し、『「要請」などというお願い路線ではダメ。船員労働の特殊性の論理的必然として、「要求」を掲げ闘う権利を船員は持っており、それなくして船員の解放なし』、という文章の発表もしていた。
 すぐさま学長に抗議が来て学校は困ったが、僕は一学生、一船員として正しいことを言ったまで、と飄々としていた。
 当時小門先生は戦時中の「海員道」から脱却して、学問としての船員政策を樹立した第一人者で、船員の人間性疎外からの回復を訴えていた(日本海事振興会発行「海上労働問題」)。その小門先生が沢山の教授の反対を押し切り、僕を後継者に推薦してくれた。
 授業中から先生の「特殊性論」の限界を批判していた僕を後継者にする人間性の深さ、度量の広さに敬服した。
 山下さん、藤崎さんら運動仲間が大学当局に強く働きかけてくれたこともあって、僕は卒業と同時に日本郵船を退社、母校の助手になることができた。


ー 笹木理論の原点は?
 僕の原点は、戦中・戦後の船員の悲惨な状況、軍人による民間船員に対する差別だ。悲惨な状況から脱却するためには体系だった理論が必要で、船員問題の第一人者の小門先生、日本の社会政策のトップ大河内先生に就いた。
 それまでの船員「理論」は船員労働の実態を表面的に分析し、改善策を国や経営者に「要請」、「提案」するものだった。船員の側から科学的根拠に基づく権利として「要求」するものではなかった。
 中でも一番悪いのは、船員労働の特殊性を「やむを得ない宿命」と考え船員をアキラメさせる理論。戦時中の「国家=船=船員、運命共同体論」はその典型で、船と運命を共にする「海員道」を僕らは教えられた。今ではそれをあからさまに主張する人は少ないが、根深く残っているように感じる。
 僕の論は、「お願い」や「世間の同情に訴える」式のものではなく、船員が基本的権利を求めて闘う際の武器になるような積極的・行動的なもの。基本的権利とは、思想信条の自由など憲法に保障されたものだけでなく、賃金や休暇など、船員職業を続けるために不可欠な全てを指す。

よどみなく語る笹木さん。自宅にて

 目的は一言でいえば、「船員労働力の再生産」。再生産とは、一人の人間で言えば、日々船内で休息し明日の英気を養うこと、下船後の長期休暇により疲労から回復し次の乗船に備えること。
船員集団で言えば、順次若い後継者が現れ、安定した職業として日本の社会に定着すること。
 ではどうすれば「船員労働力の再生産」が可能になるか?
 それは、賃労働(資本主義下の雇用関係と言っても良い)下での、資本家と労働者の関係(階級関係)から必然的に生ずる闘い(階級闘争)によるしかない。
 事実、再生産の水準は、各々の国々の、時々の階級闘争の結果の産物である。
 階級闘争の力関係の結果として、つまり労働者の要求とそれに対する資本家の妥協やある種の配慮の結果として労働条件が決まり、国家による船員福祉や船内設備等に関する法制も作られてきた。
 ILO海事条約の批准により、国内法が整備され、労働時間が短縮されたり、居住設備が改善されるのも同じことだ。長年にわたる国際的な船員の共同闘争の成果として条約があり、それに答えなければ海運資本家は船員を雇い働かせることができないから、条約は批准され国内で法制化される。
 そうすると、船員政策の理論は、時々の時代に即した船員の要求に科学的な根拠(理論的な必然性=自信と言っても良い)を与えるものでなければならない。
 それは同時に、資本家に対しては、それに応じなければ経営がうまくいかないことを理解させ、国や行政に対しては、採用すべき合法則的な政策を示すものである。
 そういう体系だった理論が必要で、それが僕の「船員労働の特殊性論」の出発点です。


ー 船員労働の特殊性論
 船員労働の特殊性は誰でも口にするが、問題は、船員が権利を要求して闘う上で(労働力の再生産を実現する上で)、特殊性をどう捉えるかということ。
 小門先生は、船員労働の特殊性の負の側面(離家庭性等)の改善を、人間性疎外からの解放と捉え、広く海事関係者に訴えた。いわば善意の訴えです。
 それを更に進め、船員労働の特殊性を、生産関係(船という資本の上で働く労働者と資本家との関係)と、生産力(船員労働力の再生産)の両面から分析すると、色々なことが見えてくる。
 生産関係の面では、船という巨額な財産が資本家の手を離れ少数の船員により海上を自由に動き回ること。これは資本家にとって実に恐ろしいことで、不測の事態が生じないよう、また船員が自らの力に目覚めないよう、若い時から手なづけて去勢する教育を行ない、船員法で船内規律や取締りを厳重にするなど手を打っている(船員の側からすれば、船員教育の改善や船員法の改正が必要になる)。
 このように船員が潜在的に大きな力を持っていることが特殊性の第一で、この「宝刀」を船員が自覚した典型が72年の海員スト(人間性回復の闘い)です。
 船員労働力の再生産が首尾よく行なわれるためには、人並みな生活ができる賃金、休暇が老齢になるまで続くこと。社会全体で見れば、それが次の世代にも永続して循環する構造、つまり船員職業の再生産構造ができていなければならない。
 再生産は、単に飯を食い寝るという肉体的なものだけでなく、教養・娯楽等を享受すること、家族や子供を育てることも含んでいる。これは人間としての権利で誰も否定できない。ここから船内における娯楽や港での宿泊設備、休暇の要求が権利として生じる。港の宿泊施設も、「福祉」でなく、船員労働の特殊性ゆえの「労働力再生産のための権利」なのです。
 家族や子育てということから、時々の社会状況に応じた乗船期間の短縮化が船主の当然の義務となり、法制化の必要も生じる。
 また、船員が長年働いてきた成果として、今日の船舶技術の進歩、海運産業の発展がある。日本全国くまなく張り巡らされた航路網もそのひとつです。島国ゆえに発展してきた日本の船員職業と海運産業を今後も維持し、どう発展させるか。船員政策と海運政策を結びつける根拠がここにある。
 しかし職業集団として日本の船員を見た場合、また国民生活にとって必要な海運という観点で見た場合、資本の論理でズタズタにされ消滅の危機に瀕しているのが実情でしょう。
 小門先生から僕が受け継いだ研究はその後、海上労働科学研究所の篠原陽一君(船員労働の技術論的考察・海流社)、雨宮洋司君(現代海運論・税務経理協会)や武城正長君(海上労働法の研究・多賀出版)が引き継ぎ、発展させてくれている。そういう意味では、僕は終始少数派の道を歩んだが、研究者としては幸福だった。
 しかし今の状況は、確固とした科学的な船員政策論、海運政策論がどこにも確立されていないことの証でもある。この点僕の非力もあって少し残念でならないが、若い船員の活動家や研究者がいずれ現れるものと達観している。


ー 特殊性論と海員組合
 各国の海員組合が産別組織であるのも、船員の技術・技能が企業を超えて横断的で、労働市場も広く社会的に開放されている特殊性ゆえだ。
 反面このことは、労働市場を管理する職業紹介機関等が、公正公平でなければ、非民主的な差別が生じたり、船員の力が分断され弱められて、船員にとって大変なことになる。その良い例が、私的利益を追求する業者、ボスが支配した戦前のボーレン制度だ。
 船員の闘いがなければ常にその危険が生じるのもこの特殊性ゆえで、今日悪徳マンニング・派遣業が横行する原因もここにある。
 逆に言えば、労働市場を革新船員の側が握れば、単に民主的で公平なだけでなく、労働条件の改善、海運・船員政策の実現も容易になるが、それを実現するには現場船員の覚醒と今以上の闘いが必要になる。
 船員労働の特殊性は海員組合の運動面にも及んでいる。
 船員に成り代わり、陸の職業幹部が経営側と交渉することはある程度避けられない。
 しかし、ここで重要なことは、その負の特殊性を如何に解消するか。民主制の確保と現場の意向を反映する組織体制を作ることができるかという点です。組合員の要求に基づく、組合員自身の運動が労働運動の本来の姿だからです。
 そのような血の通った組織ができなければ、船員は陸の職業幹部に操られ、やがて無権利の被搾取集団に陥ることになる。
 「民主」と「現場意見の反映」。実にこの一点で長年現場活動家の皆さんが苦闘してきたわけで(組合民主化闘争)、それが海員組合の歴史といって過言ではありません。
 一方組合は、職場委員制度やユニオンショップ制を導入し、産別組織と企業別雇用の矛盾に対処してきた。経営側も絶えず親睦会や職場委員を取り込み、経営方針の貫徹に努めて来た。
 ある大手会社の親睦会は一時期、独立した企業内組合を作る力を持つに至ったが、会社状況、所属船員の意識、組合の姿勢等のバランス判断から実行に移されなかった。
 現場船員と職業幹部・経営側の間に位置する親睦会や職場委員の2面的性格も船員労働の特殊性ゆえです。
 また、大会前に行なわれる組合の全国委員選挙でも、革新的な活動家がどれだけ選ばれるかが常に焦点でした。選挙の結果、現場船員の意向がどれだけ運動に反映されるか。それが産別組織の浮沈を左右するのは今後も変わらないでしょう。


ー 船員制度論争とは?
船舶運営会が解散し、民営還元された後、海員組合に対抗する形で外航労務協会が作られた。
海運集約が終わった70年頃、外労協は、商船三井の矢島三策さんあたりが中心になり船舶士構想を発表した。一方海員組合は、確か僕のゼミにいた野村秀夫君(後の中執)が中心になってスパイラル構想を対案した。

第1回海上美術展にて。右は組合教宣部の大野一夫さん。1975年、霞ヶ関の久保講堂


 どちらも一人の船員が、航海・機関を順次経験して最終的には船長になるというもので、技術革新=少数定員という前提に立っていた。
 しかし船員労働の特殊性、わけても自己完結性確保のためには、より高度な専門技術が要求されることから、航海士・機関士は残らざるを得ない。より専門化・高度化することで、海陸の技術交流は拡大し、船員の社会的地位も向上することから、僕は「専門分化構想」を提案した。
 自己完結性、安全性、労働力の再生産が損なわれるだけでなく、船員が単なる「操縦屋」になれば、職業集団としての存続も危うくなるからだ。
 当時運輸省は海技制度近代化委員会を作り、僕も委員に招請された。しかし委員会の目的は近代化ではなく、定員・経費の削減と分かったので、船員の地位向上につながらないと思い断った。
船主側は船舶士構想の導入を強く働きかけたが、船の実態からして実現性が乏しかったのでしょう。日の目を見ることはなかった。
 しかし急激な円高等を背景に、海員組合の力が相対的に弱くなった10数年後、船員制度近代化という形でその一端は導入されてしまった。以前から親交があり、応援もしていた土井さんが組合長になって船員制度近代化を手掛けることになるのは皮肉だった。
 船員制度近代化も、現実の条件(船員労働の特殊性、労働力再生産の特殊性)に合致していないから結局破産することになる。


(次号に続く)