高橋潤次さん略歴
1921年(大正10年)静岡県袋井市生まれ。39年(昭和14年)東京高等商船入学、43年卒業し山下汽船入社・海軍召集。44年沖縄戦で重傷を負い、実家療養中に敗戦。46年5月海員組合組織部員。日本共産党入党。9月中闘派として海員ゼネストに参加。同11月海員組合より除名、中闘派解散。
77年袋井市平和委員会事務局長。静岡県平和委員会代表、海の平和問題懇談会・戦没船を記録する会会員、袋井市在住。
(写真は江東区越中島の東京高等商船入学式。3列目右から2人目が高橋氏、7人目が海員組合元中執斉藤吉平氏、最上列右から3人目船長協会の川島裕氏。庄司和民元教授も同級生)


実家ふとん屋の倒産
 1929年の大恐慌で実家のふとん屋が倒産寸前となり、小遣いもなく3度の飯も満足に食べられなかった。7人兄弟姉妹の5番目で誕生日も祝ってもらえず、「おまえなんか生まれてこない方がよかった」と母親に言われ、貧乏な親をずいぶん恨んだ。
 小学校を卒業して豊橋の綿問屋に奉公する予定だったのを、夜無料のソロバン塾を開いていた先生が救ってくれた。私を見込んで親を説得、先生の勤める袋井商業に入れてくれた。
 商業では英語や算数が好きで軍事教練は大の苦手だった。38式歩兵銃の掃除を怠り真っ赤に錆び付かせ、「おまえは軍隊で殴り殺されるぞ」と配属将校にこっぴどく殴られた。以来「兵隊になったら殺される」恐怖心に囚われ、右向け右の軍隊式が馬鹿らしくもなった。
 高卒ではダメだ、勉強して上の学校へ。それも、兵隊にならずに済むには高等商船しかないと思った。近くに住む神戸高等商船卒業生の話を聞き、「帆船で世界一周したい」と憧れ、遠州灘に泳ぎに行っては海を見ながら考えた。


東京高等商船・航119期
 高等商船受験には三角法や立体幾何が必要で、アルバイトをしながら浜松の塾に通い、1年半の浪人の末ようやく合格した。
 当時の高等商船は席上課程3年、海軍砲術学校半年、帆船実習と汽船実習は各1年を各半年に短縮し、計4年半となっていた。
 既に学校は軍隊色一色、横須賀の砲術学校では神戸高等商船の連中も一緒で、後に太平洋汽船社長になった小山健一もいた。
 全寮制は厳しくて、家の借金苦で幼児期から親戚や友達つき合いを禁止されていた私は人前で自分の意見を言うことができず、度々上級生から鉄拳制裁を受けた。
 5分前の整列に一人遅れると全員が殴られたが、兵隊と違いプライドがあったから我慢できた。兵隊は殴られてヤケッパチになり死ぬ気で前線に行ってしまう。
 それでも英語の先生が政府を批判する授業を英語でしたり、リベラルな雰囲気は残っていた。
 大成丸の帆船実習は東京湾や瀬戸内海ばかりだったけど、期待していた通り海の壮大さに触れるこ
とができた。初めての経験は楽しさの連続だった。
 汽船実習は山下汽船の山鶴丸(3500トン)。仕事が下手でボースンからよく絞られたのを覚えている。台湾航路の時、米軍の魚雷で実習生が1人死んでしまった。
 クラスは40人が入学して卒業したのは30人、戦争で生き残ったのは17人だった。

海軍少尉・巡洋艦那珂へ
 卒業と同時に山下汽船に入社、予備少尉となった。ひと月後に海軍に召集され横須賀の砲術学校に集合。10日ほど訓練の後43年8月、トラック島で2等巡洋艦那珂に乗船、2等航海士だった。
 当時古手の小学校校長で月給120円。卒業後の私の月給は、少尉85円と山下汽船95円。乗艦中は航海手当も加わった。
 船内は花札が禁止でトランプ博打が花盛り。20人ほどの士官はシンガポールでぶんどったスコッチウィスキーを飲んでいた。
 翌年2月米軍百機編隊が連日トラック島を空襲。船橋から魚雷が見えたが避けきれず、艦底の弾薬庫に直撃して艦首側半分がボカ沈。海中でやっと船から脱出したが、息が続かずもうダメかと思った。
 気が付くと百メートル位離れた所で木製のハンモッグにつかまり浮いていた。漂流中力尽きて手を放してしまい、沈んでいった森谷君が忘れられない。
 運よく救命艇に救助され横須賀に帰ったが、重油をしこたま飲んで1週間油臭かった。


潜水母艦迅鯨被弾・負傷
 ひと月後の44年4月、瀬戸内海で潜水母艦迅鯨(じんげい)に乗船。艦長、航海長に次ぐ航海科士官で中尉だった。士官達はいつも「これが最期だ」と言っては酒を飲み、女の話で賑わっていた。きれい事を言うくせに出張旅費の領収書を勝手に作って2倍取ったり、兵隊よりタチが悪かった。
1 0月10日沖縄の伊江島沖で米軍機の総攻撃を受け浅瀬で船体が海底に着座、やられ放題だった。一瞬すごい衝撃で顎から血が噴き出した。手で抑えようと思っても動かない。右腕の肘から下がそっくりやられブラブラしていた。痛いという感覚を超えていた。
 ボートで名護の小学校の野戦病院に運ばれ翌朝手術。麻酔は無く、近くの農家で借りてきたノコギリで骨を切り落とした。止血したままだと腐るから1時間に10秒だけ包帯を解いて血を流す。止血中は痛くて耐えられず、10秒がどれだけ待ち遠しかったことか。
 迅鯨は総勢3百人以上、その半数が死亡したと聞かされた。
 12月に小さな漁船で島伝いに鹿児島へ運ばれ、霧島海軍病院で再手術。やはり麻酔はなく、腕の中一杯のゴミを取り出した。
 45年4月に目黒の軍医学校付属病院に移され、義手装着のため骨を削る3度目の手術をした。
 7月ようやく実家に帰れたが、食い物はない上に米軍が連日遠州灘から艦砲射撃。死ぬ思いの中で終戦を迎えた。


海員組合に就職
 戦後は傷痍軍人の白衣を着て、街頭に立つ募金で食いつないだ。
 やがて腕の傷もだいぶ良くなった46年4月、神戸の山下汽船に出向いて陸上勤務を頼んだが、とっくに籍はないと取り合ってもらえなかった。ガッカリして帰ろうとしたら、高等商船の先輩という谷山さんが初対面にもかかわらず声を掛けてくれた。海員刷新会(次頁注)の人を紹介するから組合で働かないかと言う。
 25歳だった私は組合の何たるかも知らなかったが、船員が軍隊でヒドイ目に合うのを目の当たりにしたので、「船員のため」と聞いて光明が差す思いだった。
 短い命と医者に言われていたし、何か思い切ったことをしたかったので2つ返事でOK。すぐ蔭山副組合長の面接を受け、5月1日から神戸支部の組織部員となった。
 当時はバラックシップ闘争(注)が終わったばかりで、組合員は一挙に7万人に増え、組合は人を必要としていた。既に組合の職部員は250人位いたと思う。
 飯の種頼りのチンピラも沢山いる中で、まじめに働く私は重宝がられ、なぜか私一人芦屋にあった戦前の組合長楢崎猪太郎氏の息子猪敏(いとし)宅に下宿することができた。楢崎家は神戸本部など私財の多くを組合に寄付。親切にしてくれた猪太郎夫人を始め、立派な人達ばかりだった。

*バラックシップ闘争:外国に残された軍人・一般人660万人の復員輸送のため、全国から集められた船員が横浜港に係留した米軍貸与船で宿泊待機。真冬の船倉で雑魚寝する劣悪な待遇の改善を求めて闘った大闘争。船舶運営会と現場船員代表の直交渉で要求を実現した。
*船舶運営会:戦時体制下、徴用した船と船員を会社に代わり一元管理する国の機関。49年に民営還元されるまで存続。
*海員刷新会:戦前からボーレン(港宿泊所経営兼高利貸)反対、組合改革運動で知られる組合内自主組織。日本郵船部員で後の中闘委員長田中松次郎氏が中心。
*中闘派:46年4月、復員輸送の減少に伴い政府は減船と船員3万人の解雇を計画。組合は各地に闘争委員会を作り大闘争を準備した。同年9月のゼネストを回避しようとする組合長ら本部派に対して、ストで要求貫徹を図る田中中央闘争委員長らを略称で中闘派と呼んだ。


中闘派に感銘
 谷山さんからは組合執行部の心構えを教えられた。とにかく船に行き、乗組員の話を聞くこと。多少間違いがあっても決して否定してはいけない。全部聞いた上で、「それはその通りだが、こうすればもっと良いのじゃないか」と最後に自分の考えを言うようにと。この教えは今も役立っている。
 早速中央闘争委員長の田中松次郎を始め、鳥越巌、手島博氏ら中闘派(注)の人達と会い、戦前の組合や刷新会の運動の歴史を教わった。特に普通船員のおかれた惨めな状況に気づかされ、目からウロコが落ちる思いだった。
 彼らの理路整然とした話しぶり、船員を思う心の誠実さに感銘を受けた。思わず「どちらの大学を出ましたか」と聞きそうになったが、
 皆な小学校しか出ていないと後で知った。戦争に反対して闘った共産党の存在もこの時初めて知った。こうして私は中闘派に参加し、共産党に加入した。
 中闘派に比べ当時「神戸のダラ幹」と呼ばれる人達の品性は格段に低かった。口では首切り反対と言いながら、ボーレンの船員寮に行っては「首切りはしょうがない」「これ以上賃上げは無理だ」と説いて廻り、ボーレンの親分達とも結託していた。船に戻る意思もなく、船員のことなどおくびにもかけないタカリの輩も多かった。
 東京支部の会合で私はそれを暴露した。神戸に帰ると組合長のボデーガードのゴロツキ連中からしこたま殴られ、やっとの思いで脱出した。当時の船には全身入墨やピストルをチラつかせる連中もいて、飯の種を求めて組合にもかなり入り込んでいた。
 猪太郎夫人が心配して掛け合うと言ってくれたけど、身の危険を感じた私はすぐ荷物をまとめて東京支部に転居した。


海員青年行動隊結成
 当時の船は戦争中に辛酸を舐めた20代の若い船員が沢山乗っていた。戦争の終盤戦局が苦しくなった政府は、高等小学校の卒業生を下級船員養成所のわずか3ヶ月の訓練で海に送り出した。14~15歳で船に乗り同世代が沢山死に、船内で軍人のイジメも凄かった。戦争が終わると再度復員輸送に駆り出された挙句、7月以降は米軍から貸与されていた復員船の返還が次々と始まり、一転して首を切られる破目になった。
 9月1日の青年行動隊全国大会では、その怒りが頂点に達した。私は声明文を起草し、自分で読み上げた。自主的に作られた組織のため、当初組合本部は公認しなかったが、青年行動隊は組合指令の実行部隊となって活躍。スト中は浅草の映画館の幕間で観客の前に出てストの意義を大衆に訴えたりした。青年行動隊がなければ、組合と乗組員の意思があれほど一体になることはなかったと思う。


9・10海員ゼネスト
 各地でストの準備が進む中、アメリカへの帰還船で散発的な作業サボタージュも始まった。マッカーサー司令官は「運営会の命令を遵守せよ」と指令書を出し、運営会の回答も「既定の人員整理方針通り」だったため、9月10日のゼネスト必至の情勢だった。
 組合は運営会に最後通告を出し、小泉組合長に全交渉を委任した結果土壇場で妥協案に合意、一旦ス
ト回避と思われた。ところが変な妥協案だったため、調印直前に中央闘争委員会は反対多数で否決、組合長不信任を議決して指令を出し、各地でストに突入した。
 組合長はスト反対を打電し、中闘委の解散・田中委員長を更迭したが、現場はストを止める雰囲気じゃなかった。私はスト当日を東京で迎えた。いつものように港を訪船、東京・横浜の全船がストに入り、どの船も妥協拒否の熱気でごった返していた。
 困った政府は中央労働委員会が仲介に乗り出し、9月19日両派の和解が成立、双方互いの解任を取り消し、交渉・調印共両者の名前で行うことにした。こうして翌20日急転直下運営会と交渉が妥結、私達の要求が殆ど認められた。

米軍貸与船にスローガン大書.GHQは抹消を命令


*船舶運営会との協定書概要
①完全雇用の件:馘首をなさざること、②配乗管理の件:配乗管理委員会を設け適正な運営を図ること、③本給手当の件:低給者10割・平均3割の増額、官吏並の家族手当支給、④食料金増額、⑤船内文化費の支給、⑥帰還輸送慰労金支給、⑦船員保険の民主化・福利増進


中闘派52名が除名
 スト終了後、神戸に帰ることができない私は中闘委の指示で小樽に派遣された。当時海員と国鉄労組の共闘は固く、おかげで組合の証明書だけで小樽までの鈍行列車は無料だった。
 小樽支部のオルグで船を廻ると、ストに勝ったことを知った乗組員は皆な誉めてくれた。組合に入って良かったと心底思った。
 喜びもつかの間、神戸の本部では大変なことが起きていた。
 ストが成功に終わったことに対する本部のねたみは凄く、すぐ巻き返しが来た。中闘委幹部を要職から外し、私達若造は皆な解雇する雰囲気だった。私は組織部員で毎日船を廻っていたから、本部ダラ幹の言うことなど誰も聞かないと思っていた。船内は皆なストを支持していたから。
 ところが本部は金と人事を握っていた。今思えばストが終わり要求は達成したので、地方の組織部員の中にも本部の言うことを聞く者が増えていたのかも知れない。
 本部は「非常事態宣言」を発し、定期大会を無期延期。予定通り開催を求める中闘派と乱闘騒ぎも起きた。私は東京に居たから目にしてないが、「共産党のやつらを組合から追い出せ」と大会で日本刀を振り回す連中もいたらしい。
 その後両派各々大会を開き完全に分裂。政府や会社側の応援もあって、いつのまにか組合内の多数を握った本部は11月9日に大会を強行し、中闘派52名の除名を決定、中闘派に解散を要求した。
 予想はしていたが、私の罪状が何であるか全く分からないし通知が来たわけでもない。とにかく中闘派というだけで私達若造まで除名したのだろう。


再入院・結婚
 その後中闘派は解散を了承したため、除名を解除されて半数が組合に戻ったと聞いたが、私は戻る気は更々無かった。正しいことをして何が悪いという自負があったし、今もそう思っている。
 除名後も東京に残って党の活動を始めながら、腕の治療に専念するため目黒の病院に再入院した。そこには傷痍軍人も沢山いて、私は患者同盟や四肢を失った人の退院後の厚生施設を作るなど、患者の運動に励んだ。
 病院で戦争中入院した時の看護婦だった秀子と再会、51年に結婚して外苑診療所の事務長となった。今の代々木病院の別院だ。
50年代は党が非合法されたこともあり、私も連絡係などの地下活動にいそしんだ。


静岡の平和委員会
 60年安保の年、医者と喧嘩して外苑診療所を退職、故郷の袋井に戻った。戦争の悲惨さを身をもって体験した私は、袋井に帰ってからも地元の平和運動、ビキニ水爆反対など原水協の運動に顔を出し、戦争反対の語り部を続けた。
 妻の働きで当座は凌げたが、3人の子供を養うため塾を始めた。中学生相手に算数や英語を自分で教え、何とか食って行けるようになり、終生のテーマである反戦平和の運動をやるため、77年に袋井平和委員会の事務局長になった。
 世界で唯一、非核憲法の国として独立したパラオを訪問した時は痛恨の極みだった。戦争中人口の半数が死亡、大半が餓死という。
 ショックだった。他の艦同様、私の艦も南洋群島で食料や水を島民から自由に徴発していた。それまで被害者の立場で戦争反対を訴えて来た私が、島民にとって数倍も加害者だったとは。自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 日本人はパラオのあちこちに慰霊碑を建て毎年慰霊にやってくるが、犠牲にした島民のことは目もくれない。逆に原発の廃棄物を投棄する計画と知らされた。
 以来私は、核兵器反対の署名集めも市の周辺を含め全戸くまなく回ることにした。反対の人と話をするのは大変だったが、ある時期を過ぎると楽しみに変わった。パラオ訪問が私を変えてくれた。
 海と縁が切れた後も、「生きた証人」として戦争反対を訴えて回ることを一生の仕事と決めていたので悔いはない。90歳の今も続けられるのは、好きなようにさせてくれた妻のおかげだった。


海の旧友と再会
 除名された後、しばらくは海員の活動家と交友を続けたが、その後船の連中とは完全に縁が切れた。結婚して妻と診療所の仕事に邁進するようになり、以来運動も生活の糧も、ほとんどを日本共産党と共にしてきた。
 その後も付き合ったのは、高等商船で同級生だった斉藤吉平君1人だ。斉藤君は南洋海運から海員組合に上がり、船員新聞をずっと送ってくれた。やがて中執になり安全問題で活躍した。
 人生とは不思議なものだ。斉藤君と同じ会社の活動家小林三郎君と平和委員会で出会い、思っても見なかった旧友と再会することができた。小林君とは同じ静岡、船員出身で息も合い、船員の人達に引き合わせてくれたのだ。
 97年3月、50年振りに二宮淳祐君ら青年行動隊の仲間と再会。当時の闘いで海員組合の基礎が作られ、ゼネストの協定が原型となって今の労働協約があることを知らされた。私は嬉しくてたまらなかった。
 青年行動隊で闘った仲間が、その後もずっと船員の運動を続けてきたことを知り感銘を受けた。
なんと、戦没船を記録する会の会合では級友の川島君が会長をしていた。卒業以来だったが、お互いすぐ分かり、よくぞ戦争を生き抜いたなあと肩を抱き合った。
 ラグビーの試合で川島君をよく応援に行き、仲も良かったので感涙もひとしおだった。

二宮淳祐氏(右)と再会.左は青山昭元氏

職業に誇りを持て
 私は戦争の悲惨さ、海員の仕事の大切さを後世に伝えるための展示資料館、仮称「平和と海の家」を作る土地と家を確保している。
 私が船に乗ったのはわずか2年。商船学校を入れても7年足らず。それでも私は船員であったことを一生の誇りに生きてきた。そのことを片時も忘れたことがない。
 船員というのは不思議だ。船に乗っていたというだけで何か惹きつけ合うものがある。特に私らの年代にとって。
 しかし海と共に生きてきた日本人が、今は海のことを知らない。知ろうとしない。
 米は、作られてから自分の口に入るまでの道筋を辿ることができる。でも外国から輸入した物は、どの船で、どのルートを通って運ばれて来たか知る由もない。海産物も同じで、採る人の苦労は食べる人には分からない。
 若い人はもっと仕事に自信をもって欲しい。船の職業は誰でもできるものではない。私は腕を失くしたからよけいそう思う。
 今は苦しくとも、船の職業が日本を支えている以上見直される時が必ず来る。自信と誇りを持って堂々と船員の要求を主張して欲しい。私達の年代は中々それができなかったから。


 2011年12月
(インタビュー・編集部)