小林三郎氏略歴
1929年(昭和4年)焼津生まれ。戦時中の44年鳥羽商船入学。47年卒業後、船舶運営会(戦時中に作られた国の管理機関)で乗船。航海訓練所教官、石油海運工務監督を経て、58年旭海運に入社し、89年定年退職。在職中は海員組合全国委員、船内役員として活動。92年海の平和問題懇談会を仲間と設立、年金者組合、平和委員会の活動を続ける。静清海員OB会会長、静岡市在住。

漁師のせがれ
 太井川下流で代々漁師を営む家の3男に生まれた。
 他に産業はなく、周りもみな漁師だったから、小さい時から漁師になるものと思って育った。
 戦争が始まると、クラスの誰もが戦争熱に浮かれて、アメリカを倒すことに燃えていた俺も、自分で海軍兵に志願して合格した。
 ところが、漁師だった親父は、「漁師は朝から晩までまっ裸、これからの時代、どうせ船に乗るなら商船だ」と言ってきかない。
 しかたなく俺は鳥羽の商船学校を選んだ。卒業して海軍士官でご奉公とでも思ったんだろうなア。


商船学校の頃
 商船学校に入ると最初から海軍練習生(兵長待遇)で、給料もあった。河上肇の「貧乏物語」が週番室の図書棚にあったりして、むさぼるように読んだのを覚えている。英語や数学が好きで学校の勉強もよくやった。
 エンジンを選んだのは親父のせいかも知れない。長兄は目黒通信学校を出て通信士、次兄もかつお・まぐろ漁船の船長だったから。次兄は59年に室戸沖で遭難、沈没して全員死亡してしまった。
 造船実習は名古屋造船と横浜ドック。汽船実習は船舶運営会の2課2班、日本郵船の客船や南洋海運(後の東京船舶)の石炭船で、国内航路ばかりだった。
 敗戦は商船学校の寮で迎えた。全員集合して玉音放送を聴き、ワケが分からなかったけど戦争が終わったことだけは分かった。
 教官が「臥薪嘗胆10年後に備えよ」と黒板に書いて檄を飛ばしたけど、学生は皆ポカーンと聞いていた。しばらくの間無力感に襲われ、何もする気がおきなかった。
 やがてアメリカ軍が学校に進駐してきて、一時閉校となり全員自宅に帰った。


船舶運営会の船   
 卒業後、新しくできた海上保安庁に行く奴もいたが、俺は乗る船がなくて、地元に帰ってブラブラした後、かつおまぐろ漁船に1年間乗った。兄貴が通信長で、俺はメシ炊き。エサ運びとエサ投げが仕事だった。かつおの一本釣りは下手で、1年で覚えるのはとうてい無理だった。
 その後、運営会で汽船実習した関係で、南洋海運の明石丸に乗船した。戦後できた最初の客船で日本郵船舞子丸の姉妹船。瀬戸内航路で、マリンガールが2人乗る楽しい船だった。
 戦時標準船で最も大きい2TL型の鶴岡丸、A型の永暦丸にも乗った。永暦丸は北海道から京浜に石炭を運ぶ途中、冬の尻屋崎の灯台下で遭難、座礁した。その時俺はボットムの7番エンジニア。相部屋の6番エンジニアは高齢の方で、浸水してくるデッキの上で、「俺はもうダメだ。娘をもらってくれ、タノム。」と言われたのが、今でも耳に焼き付いている。
 最初に外地に行ったのはアメリカへの返還船で、クーズベイだったと思う。岸壁は数十隻のLST(米軍の上陸用舟艇)が並ぶ巨大な小麦倉庫になっていた。アメリカの規模の大きさに圧倒された。
 上陸して、アメリカ人の老婦人に話しかけたら、日本人が口をきいたと抗議され、酷く怒られてしまった。差別感のすごさを身にしみて知らされた。
 当時はタケタケ(石炭焚き)で、レシプロ船・タービン船が多く、ディーゼルはまだまだ少なかった。エンジンの整備で苦労した印象ばかりが残っている。


「沖回り」の日々
 運営会の船に乗ったばかりの頃、沖の各船を回って、待遇改善に立ち上るよう熱心に説く組合活動家たちがいた。初めてみる共産党の人だった。
 当時どの船にも、それらしい人がいて、乗組員のために献身する姿に共鳴して、俺もいつのまにか運動に参加するようになった。
 戦後まもない頃で、これから日本は変わるぞと、ある種の革命的な雰囲気が世間に漂っていた。俺も生涯を船員のために尽くそうと思って、「沖回り」を始めた。
 北は小樽から南は長崎まで、各地の港に海員クラブができて活動の拠点となっていた。海員クラブというのは、海員の活動家たちが金を出し合って作った宿舎兼事務所で、たいてい古い木造の2階屋だった。ジャパンラインの桜木君・飯野海運の福永君・日鉄汽船の佐藤君らと、クラブに寝泊りして毎日訪船した。
 朝鮮戦争の前後で、職のない船員がどの港にもあふれ、簡易宿泊所に寝泊りして船を待つ船員にもビラを配布して回った。
 クラブのない小樽では、毎日水上警察に付け回されてよわった。訪船艇で洋上に出る時はもちろん、陸を歩いても着いてくるから、何回となく口論した。一度ブタ箱に入れられたこともある。
 沖回りの最初の頃は、船に上がろうとしても、「帰れ、帰れ」とタラップを上げられ、水をかけられたりした。それでもコツコツ訪船を続けると、十隻に一隻くらいは飯を食わせてくれた。若造の俺にとって、怖そうな乗組員が多かったけど、根はみな優しかった。
 当時の海員組合は、既にゼネストも終わって、中央闘争委員会派(中闘派)が除名された後だった。でも、闘争の雰囲気が少し残っていて、俺らを組合の訪船艇に乗せてくれる執行部員もいた。
 組合の船内集会が終わった後の食堂で、あんな生ぬるいやり方ではダメだと反対の演説をぶつ。組合は後ろで黙って聞いていて、終わるまで待って訪船艇で送ってくれた。そういう時代の雰囲気だった。その頃船に配布したニュースはいろいろで、母港、とりかじ、埠頭ニュース、合同ニュース、B旗など、ほとんど保存している。

(当時配布した冊子、ビラ類)

バラックシップ闘争
 沖回りをする中で、「バラックシップ」の話をよく聞かされた。
 敗戦後の46年1月、アジア各地に残された日本人650万人の帰国輸送のため、故郷に帰っていた船員がマッカーサーの命令で横浜に呼び出された。船に乗るまでの宿舎として、米軍の一万トン級リバティー型船2隻と、LST1隻が貸与され、岸壁に係留されてホテルシップと名付けられた。
 船倉の鉄板の上にむしろが引かれ、毛布2枚で重なり合って眠る。冬の寒さや、食料・待遇の悪さから、別名「バラックシップ」とも呼ばれ、戦争中の船の方がマシだと言われていた。
 乗組員は合同の船内大会を開き、「給料を6倍に値上げ」「飢餓救済資金の支給」などを決議。船舶運営会と海運総局(今の国交省)に集団で押しかけて交渉した。
 要求を実現するための組織として現場代表が参加する闘争委員会が作られ、直接交渉の結果、「臨時手当千円の支給」「配給物資・米の速配」などが実現して、横浜の岸壁には歓喜の声が上がった。
 この闘いは共産党の指導が色濃く反映されていたが、以降海員組合は、各地に闘争委員会を立ち上げていった。組合本部にも中央闘争委員会が作られ、やがて9月の海員ゼネストに繋がって行く。実際に運動を担ったのは、各港の闘争委員会だった。


海員ゼネスト
 俺は46年の海員ゼネストを直接は経験していない。ただ、ゼネスト後の沖回りや船内の活動で、沢山の中闘派の人達と知り合った。
 中でも、組合九州支部の永山正昭さん、本部の大内義夫さんは格別で、理路整然とした明晰さに、ただただ感心するばかりだった。
 他にも、本部の松本正平さん、中闘派副委員長で後に、海上統一委員会にいた馬場禎二さんなど、立派な人たちが沢山いた。
 45年10月に組合は再建されるが、永山、大内さん達は戦時中から、密かに計画を立て、各地の戦前からの活動家と連絡を取り合って再建の準備をしたという。
 職員と部員、また会社毎に分かれていた戦前の組合が、戦争体制に簡単に飲み込まれて解散した反省もあって、「産業別単一組織」一本でいかなければダメと当初から作戦を立てていたと聞いた。
 再建と同時に全国に支部を作り、復員してくる船員を次々と組織した。バラックシップの闘争とも呼応しながら、組合内に闘争委員会を作り、ゼネストを組織していった。現場の圧倒的支持の下で、終始中闘派の主導で闘われたこの闘いは、日本の労働運動の歴史に残る大闘争となる。
 ゼネストは、当初から占領軍に弾圧されたこともあって、ストに批判的な本部派と中闘派の真二つに割れる中での闘いになった。本部派がスト中止を画策する中、中闘派は9月10日にスト指令を出し145隻が停船、20日には船員中央労働委員会が両派を仲介した結果、「完全雇用の件、馘首ヲナサザルコト」等の協定を運営会と結んだ。
 この協定は、運営会が解散した後の船主協会の時代になっても、船主団体との雇用の中央協定、公正配乗、各種手当、食料金、船内文化費、などの協定に引き継がれていく。当時の闘いの中で組合の基礎が作られたことを、俺は身をもって知らされた。

若き日の小林三郎氏

 ゼネスト中の組合内の紛争や混乱の責任を取らせられる形で、中闘派の52名が除名、中央闘争委員会が解散して収束するわけだが、俺が乗船した頃は、まだ闘争の気分は船に引き継がれていた。
 神戸大会で二宮淳祐さんの「声涙共に下る」有名な演説は今も良く覚えている。朝鮮戦争に反対する活動で除名された、佐世保支部の富岡知雄さんや神戸の山本久さんの除名取消しを要求するもので、みな緊張して聞いていた。
 富岡さん、日本郵船火夫出身の中闘委員長の田中松次郎さんを始め、除名されたのは共産党関係の人が多く、みな突出した理論と情熱の持ち主だった。


海上に復帰して
 55年に共産党で六全協という会議があり、それまでの方針が大きく変わった。朝鮮戦争が終わり、国内外の状況が大きく変わったこともあって、俺も沖回りをやめて船に戻ることになった。
 俺は、郵船や大阪商船、三菱海運などへの入社を希望したが、入社内定はするものの、組合が反対して採用取消しになった。結局船主協会の加盟会社は全部ダメで、加盟してない旭海運にひろわれることになった。入社を妨害したのは、当時組合で最も力を誇っていた金子正輝汽船部長だった。
 旭海運に入った頃は、ちょうど高度成長が始まり、船はどんどん大型化し、在来の貨物船が減って専用船の時代になっていた。
 専用船で荷役のやり方が変わると甲板部が、新型の機械が入ると機関部が、ハムスライサーで司厨部が減らされる。失業からせっかく解放されても、船員使い捨ての状況は変わらなかった。
 旭海運でも、俺はどの船でも船内役員になり、ニュースを発行した。船内委員会がどの船にもあったし、無ければ作ったから。
 内容は船内の細々としたことから、船内委員会での会社と定員の増員交渉。社内で合意できず、組合に交渉を依頼したことなど。
 特殊な作業手当や定員など大きな問題は、結局は交渉権を持つ組合が決めることになる。
 最後はいつも、過度な要求は親会社の郵船や荷主を刺激して、船を他社に回されかねず藪ヘビになるという、いつもの「労使パートナー」論で決められた。
 どれだけ船内の要求を組合に上げても、どこかの密室で決められた内容が電報で来て、「本船のご支援謝ス。安全航海ヲイノル」で騙された記憶ばかりだ。
 この体質は幹部リコール運動や政党支持自由化の後も、ずっと続いているのじゃないかな。


政党支持自由化
 組合は総評結成に積極的に取り組んだが、総評が、平和・中立路線に転換すると、すぐに総評脱退を決め、同盟の前身である全労会議や民社党の結成に走った。
 中地組合長は同盟の初代議長で民社党の顧問、和田副組合長も幹部リコール運動で身を引いた後、民社党の国会議員や顧問を続けた。
 組合の執行部は自動的に民社党に入らされたし、選挙も民社党一辺倒で、相当の金が流れているという話だった。
 当時の野党は社会党が多数で、共産党も躍進していたから、民社一辺倒では幅が狭く、何をするにしても運動は広がらなかった。
 民社一辺倒ではダメという多数の声が背景にあって、92日ストの後、生産性向上運動本部から金と役員を引き上げたりして、ようやく政党支持の自由化を73年の大会で決めることができた。
 他の労組に先駆けて、労働組合と政党のあるべき関係を打ち出した意味は大きかった。労働界や多方面から賞賛を浴びたものだ。
 当時は部員協会など職能団体の運動が活発で、職場委員や各社親睦会も自由にものを言えたし、「繋留索」や「あへっど」などサークル活動もあった。和田氏や一部船主がバックで動いて、必死になって止めようとしても、現場の良識ある声が圧倒的にまさっていた。


常に現場にあり
 俺は休暇中も現場船員の支援のため動き回ってきた。その頃のノートを見ると、賃金の遅欠配に組合の反対を押し切ってストをしたかぶらぎ汽船の闘争(51年)から始まって、第五福竜丸のビキニ被災(54年)、第一商船の成吉・三島君らの不当首切り反対の運動、若潮丸争議の石井甲板手解雇(61年)、山形丸裁判(69年)、ぼりばあ丸遺族訴訟(70年)、日本カーフェリーの小林・増田航海士解雇(82年)、なだしお事件の近藤万治船長(88年)、太平洋汽船の竹中機関士解雇(91年)。第五福竜丸小塚甲板員の職務症認定(99年)等々、挙げればキリがない。
 こうして見ると、バラックシップ闘争以来、戦後ずっと船員は、海員組合の掌に納まらずに闘ってきたことが分かる。
 俺は現場の船員の問題があると、いたたまれなくてすぐ応援に出かけた。それが性分だし、俺の持論でもある。ここにこそ、真実の船員の運動があると・・・。
 家のことは全部女房にまかせっきり。家を建てる時の設計も、子供の教育も一切まかせっきりだったから女房には苦労をかけた。今も頭が上がらない。

定年まぢか、機関制御室にて

生涯現役
 俺はずっと現場でやるのが好きだったから、組合や会社に上がろうとは思わなかった。在勤機関長として工務に3年上がっただけで、あとはずっと船に乗ってきた。ノートを見ると、旭海運で乗船した44隻のうち、30隻で船内役員をしている。
 窮地に陥いると、いつも先輩や仲間たちが助けてくれた。会社や訓練所のお偉方も陰で支えてくれたし、組合執行部にも随分と世話になった人もいて、こんな俺でもどうにかやってこれた。
 仕事上でも、故障や事故は沢山あった。中でも、定年退職前に起きた機関故障は忘れられない。
 マゼラン海峡から太平洋に出る狭い所で、主機の過給機がものすごい音を立てて壊れ、座礁を覚悟した。チリ海軍が2人乗ってきて監視してもらいながら、どうにか22時間で修理できた。これも仲間の乗組員あってこそだった。
 コツコツまじめにやっていれば必ず良いことがある。そういう人生で幸せだったし、まだまだ生涯現役と思って活動している。


2月20日
(インタビュー・編集部)

◯「戦争法」急なるメーデー前夜なり雲たれこむる天界重し
◯「天覧」と称する場所に手を振れる二人は如何なる歴史思うや
(海員2002年7月号)
◯福竜丸乗務員またひとり
死せるを聞けり久保山忌にて
◯福竜丸被爆の証言台に立つ
漁撈長の顔ゆがむいくたび
(海員2004年1月号)

◯柩にて横たわる友着馴れたる
海上保安官の作業服着ており
◯その日差しはやかげりくる山裾を友の柩車に従いていく
(海員2004年5月号)
小林三郎作
(海員年度賞の作品より抜粋)