川島裕(ひろし)氏
大正10年(1921年)愛媛県上浮穴郡生まれ。S18年東京高等商船卒業後、大阪商船入社と同時に海軍応召。空母瑞鶴等に乗艦。敗戦後復社し海務部副部長、移民船ぶらじる丸、青年の船にっぽん丸の船長等を勤める。日本船長協会会長、国際船長協会連盟会長、海上安全教育審議会委員等を歴任。現在戦没船を記録する会会長。東京都東久留米市在住。


牧師から船員の道へ
 牧師をしていた父が、新潟から愛媛に赴任した先の山奥の小さな教会で私は生れました。両親とも代々クリスチャンの家系だったので、幼い頃から牧師になるものと自然に思っていました。
 5歳の頃、新しい教会を作るために家族そろって伊予西条に移住、教会には幼稚園も併設され、その第一期生でした。同級生に後に神風特攻隊の軍神といわれた関行男君がいて、彼は母子家庭でずいぶん苦労していました。
 西条で私の人生が変わる事件が起きました。当時日本はマーシャル・カロリン諸島を委任統治しており、島民の教育をキリスト教でやる計画があった。開明派といわれた加藤友三郎海軍大臣の依頼で、霊南坂教会が南洋伝道団の宣教師を募集し、父が志願したのです。
 家族そろってトラック島に赴任することになり、日本郵船の八幡丸に乗った。小学3年生くらいの頃のことです。
 3千トン余りの船で、船長とパーサーがとても可愛いがってくれ、毎日船内を案内してくれた。雄大な景色を前に、「海はいいなあ、世界中を船で回りたい」と胸が高鳴ったのを覚えています。この時から、海、船員という思いが頭の片隅から離れなくなりました。


商船学校と軍国主義
 15歳で単身トラック島を離れ、東京の叔母の家から青山学院に通いました。キリスト教を学ばせ牧師にするのが父母の願いでしたが、この時既に商船学校に入り船員になると密かに決めていました。
 青山の時代に世相は急変。クリスチャンだった私にも、お国のために戦うという英雄心が湧いてきた。こうして海や世界への憧れに戦争の英雄心が入り込み、希望に燃えて越中島に入学したのです。
 入学と同時に海軍予備士官となり、厳格な全寮制の生活が始まった。朝暗いうちに起床ラッパで起こされ、整列・号令・体操・駆け足訓練・掃除で一日が始まります。入学式が終わるや鉄拳制裁。海軍と同じ階級制度、というより海軍そのものなのです。
 海軍将校が全指揮をとり、教官は兵曹長でした。航海科は40人、皆な卒業後は軍人として戦艦に乗ると志して来たので訓練も苦にならず、落伍者はいませんでした。
 最も記憶に残るのは真珠湾攻撃、「ニイタカヤマノボレ」です。講堂に全員が集められ、東條首相のラジオ放送を聴いてアメリカに宣戦布告したことを知らされた。
 「ついに来たか」という武者震いと、「大変な国と戦争することになった、この先どうなるのか」という怖さも感じた。あの時の気持ちは今も忘れられません。
 その後訓練はいっそう実戦味を帯び、越中島で私は完全な軍国青年になったのです。
 卒業式ではお国のため天皇陛下のために戦おうと誓い合った。今考えると本当に馬鹿馬鹿しいのですが、当時の自分はそうなるしかありませんでした。
 牧師の息子に生まれ、博愛を誓ったクリスチャンである自分が、なぜあのように「感化」されてしまったのか。今も忸怩たる思いでいっぱいです。

商船学校時代の川島氏

空母瑞鶴、108輸送艦
 卒業後は大阪商船に入社。既に船と船員はほとんど徴用されていました。『諸君は明日召集令状が来る。社員として恥ずかしくない働きをするように』と入社式の社長訓示の後、すぐ空母瑞鶴に乗艦。
 戦艦大和・武蔵を前衛に艦隊を組む姿は本当に勇壮で、願いが成就した私は嬉しくてたまりませんでした。
 マリアナ沖海戦の後瑞鶴は、栗田艦隊がレイテ湾を攻撃する際の囮(おとり)任務に就くことになった。有名な「捷(しょう)1号作戦」です。
 ところが作戦に出る前の晩、伊予灘で突如転船命令が来る。私は連れて行ってと涙で頼みましたが、艦長に「俺たちの分まで生きて御奉公しろ」と諭され翌朝大分で下船。その後作戦は失敗し瑞鶴は撃沈、栗田艦隊も大壊しました。
 1年間の乗艦の後、短い休暇で東京に戻ると、既にキリスト教伝道は禁止され父母は南洋から帰っていました。その時幼稚園の同級生だった関君が、特攻第一号として米空母に体当たりした。瑞鶴と同じ「レイテ海戦」です。彼は江田島の海軍兵学校に入り、自ら特攻隊に志願したのでした。
 商船学校の同期40人で生き残ったのはわずか17人、当時誰もが運命に翻弄されていたのです。
 2隻目の船は108号輸送艦で艦長のすぐ下の専任将校でした。軍人と船員あわせ150人程の千トン足らずのボロ船。2隻目で中尉にされ前線の小さな軍艦に遣られるのが当時お定まりのコースで、皆そこで戦死するのです。
 ある時台湾の高雄からマッカーサーのいるルソン島へ攻撃に行く時、運よくエンジン故障で引き返した。一緒に出撃した104・106号の専任将校は学校の一つ先輩で、米軍にやられ全滅でした。
 潜水艦だらけの海に丸腰で殴りこみをかけたようなもので、犬死としか言いようがありません。
 S19年の終わり頃、既に指揮系統は狂気の沙汰だったのです。
 私も戦争慣れしていました。瑞鶴に乗り始めの頃は、米軍機の音が恐ろしくて体がガタガタ震えたものです。本当にアゴが震え歯の上下が合わなくなるのです。
 軍隊の2年間で酒も強くなった。「酒保開け」の号令で下級軍人も酒・タバコが飲めた。我々上級士官は毎日飲んでいました。
 わずか2年で度胸もすわり、戦争の醜さ、人間の汚さも知った。本当に戦争というものは恐ろしいものです。


敗戦と英軍捕虜
 敗戦は108号の基地がある香港で迎えました。艦長室に集まって玉音放送を聞いた時は、悔しいよりも、「やっと命が助かった」と安堵感でいっぱいでした。それが皆の正直な気持ちでした。
 2~3日で英国の空母が来て捕虜の入替え。今度は我々が捕虜となって収容所に入れられました。
 この時、青学で習った英語が役に立って監督官の通訳をやることになった。ソ連軍と違い英軍は紳士的で、強制労働はやらされたが虐待というのは一切なく、日本軍との違いにも驚きました。捕虜生活も4ヶ月で済み大晦日には東京へ帰って来ることができた。
 結局戦争で私の回りは皆死んでしまいました。全滅した瑞鶴、特攻隊で逝った関君、海の藻屑と消えた商船学校の同級生たち。
 私は瑞鶴の艦長から「生きろ」と言われた意味を今も考えます。
 戦争は人間を狂気にする。絶対にするものじゃない。それが私の結論です。


初めてのアメリカ
 帰国後は海務学院(海洋大学の大学院に相当)に入学を命ぜられ、2年間航海術や海運経営を勉強。その後陸上勤務となりました。
 当時まだ復員輸送があり、敗戦後の食糧難、物資不足が続いていて、船の中は大変でした。
 やがて復員輸送も終わり、S25年に船舶運営会(船舶と船員を徴用した戦時一元体制)も解散して皆会社に戻って来た。この時やっと船員の戦争は終わったのです。
 戦後最初に乗った船は計画造船の新造あめりか丸。当時はGHQの命令で大きさ5千トン、速力15ノット以下と決められていました。
 最初の航海でロサンゼルスに行った時は衝撃でした。遠くに枯れ木が林立した島のようなものが見え始め、近づくとそれはずらりと並んだ石油掘削塔でした。
 「石油の一滴は血の一滴」といわれた日本とは国力がまるで違う。
 『こんなとんでもない国とよく戦争したものだ。当時の指導者はバカだったなあ』と実感しました。
 高層ビルが林立するアメリカの町並みを見て、なんという古い日本、遅れた考えの自分をつくづく知らされました。


シーマンシップ
 航海士の技術が会社で磨かれたのはもちろんですが、根本には商船学校の実習がありました。
 「戦争のため」という穿った目的でしたが、とにかく理論を体が習得するまでやった。操舵も天測も頭だけでなく体で会得した。させられたのかも知れません(笑い)。
 体で得たものは絶対で、その積み重ねが技術拾得の基本なのです。
 最後に頼れるのは計器や機械でなく人間なのだということを戦争でイヤという程体験した。会社に戻り、大型船の時代になってもそれは同じでした。
 しかし本当のシーマンシップは技術だけでないことも、社船に戻ってから知りました。
 単に技術だけなら軍艦はまさに一流でしょう。しかし民間商船では乗組員の労働と生活、人間としての権利がある。移民客の事情もある。外地の官憲との折衝、外国の人々との付き合いもあります。移民客から感謝の手紙を多数もらったことは今も私の誇りです。
 乗組員や乗客の安全。海洋汚染防止など沢山の国際ルール。会社の利益を含め、色々なことに配慮しながら安全運航を果たしていく。
 シーマンシップとは本当に奥の深い、まだまだ知らないことが沢山あるように感じています。

青年の船にっぽん丸.上海にて


 現役中、ぼりばあ丸、かりふぉるにあ丸が連続して野島崎沖で遭難する事故があった。欠陥船の問題とは別に、かりふぉるにあ丸の船長が退船を断り船と運命を共にしたのは私にとって衝撃でした。
 「船長の精神的負担があまりにも重く、過大に責任を取りすぎる。私達が受けた教育は何だったのか」と、戦争の負の遺産を考えざるをえませんでした。
 私達の時代ではできなかったシーマンシップの完成を、若い人に託したいとつくづく思います。


私と海員組合
 意識して組合運動をしたことのない私もいつのまにか組合員になっていました。それだけ運動を進めた人たちがうまかったのでしょう。戦後の一時期であっという間に全国組織を作り上げた。
 恥ずかしいことですが、私は戦後海員組合を再建した苦労も、ゼネストも知らなかった。戦没船を記録する会で、二宮さんを始め皆さんの話を聞き、たゆまない努力のあったことを知りました。
 それでも船内委員長や職場委員をしたことはあります。
 大阪商船ではどの船にも船内委員会があって、S29年にビキニ水爆実験の時は大月丸の船内委員長でした。ハエ採り紙を沢山積み込んで降ってくる灰を集めたり、毎日デッキの清水洗い。ガイガーカウンターで放射能が検出された後、血液検査で全員異常なしと分かった時はホッとしました。
 陸勤時代に最も印象に残るのはS39年の集約合併です。大阪商船の本社は神戸、三井船舶は東京で、対等合併するので大変だった。
 両社はまず給料が違う。技術的ノウハウや労務慣習も違う。私は海工務合併委員会の委員になって、連日夜行列車で東京と関西を行ったり来たり。しんどかったけど勉強になったし、良いものができたという自負もあります。
 当時会社側の一員として交渉にも出ました。組合の印象はとにかく強かった。要求が通るまで後へ引かない。すぐにストをチラつかせる。労使協調という雰囲気はまるでありませんでした。
 理屈もしっかりしており、特にS42年頃、河野東京支部長の時はすごくて経営側もタジタジだった。論客も多かった印象があります。
 昭和47年の92日ストは移民船ぶらじる丸で、神戸から沢山の移民を乗せ東京湾でストに入った。
 移民客は斡旋所で待機。「岸壁の花嫁。お嫁に行きたし船はなし」と新聞に出て世間の話題になった。ぶらじる丸は少し早くスト解除されたのを覚えています。

ぶらじる丸移民家族の子供たちと

船長協会の頃
 船長協会の時代は、国際船長協会連盟に加入することに腐心しました。当時FOC船の事故やビルジのたれ流しが大きな問題になっており、国際ルールを作って対処することが急務でした。
 安全のため定員基準の国際的な統一、アジア船員の教育、船長の権利と地位向上も重要なテーマで、欧州の船長協会は既にそういう運動に取り組んでいた。
 内部に強い反対もありましたが、IMOなど国際ルールを作る場で日本が活動する重要性を納得してもらい加盟することができた。
 港湾審議会や海上安全教育審議会の委員もやりましたが、船員制度近代化の時は大変でした。
 以前から矢島三策氏が中心になって作った船舶士構想があった。甲機の壁を取り払い、両方を順次経験して最終的には誰もがキャプテンに成れるというもの。これは外航労務協会の案で、真の目的は定員削減にあるといわれた。
 その後ドルショックやオイルショック、92日ストを経て「国際競争力」が強調され始め、船主側は近代化を強力に進めるわけです。
 これには組合も賛同。官公労使こぞって、教育界も巻き込んで壮大に進められた。こんどは誰も反対できないよう実験船による実証という手法を取ったのでしょう。
 その結果、船員は雇用か少数定員か二者択一に追い込まれてしまうわけですが、私は最初からこれはうまくいかない、技術的に無理だと思った。船乗りの技術はそんな生易しいものじゃないと。
 他方、船主側の言い分も最もだと思い、矛盾した自分を感じていました。ところが円高が更に進んで一気に流れが変わってしまう。
 突如近代化をご破算にし、緊急雇用対策という方向に舵が取られてしまったのです。


日本人船員の行方
 緊雇対の時は本当に憂えました。コストが至上命題とされ、東南アジア船員との比較で船員を追い込むのを見て心配でならなかった。
 安い労働力と比較して競争させるやり方は奴隷レースと同じです。年配の船長・機関長に対する処遇を見て、優秀な若い人が希望を失ってどんどん退めて行った。
 企業はソロバン勘定ばかり。国はそれを追認するだけで何の策もない。組合も含め船員界はこぞって流されてしまった。それを押しとどめる力が残念ながら船員界には無かったのです。
 どこでどう間違ったのか。こうなる前に何かできなかったか、忸怩たるものがあります。今優秀な学生が集まらないのも、学生のせいではなく海運・船員界全体の責任です。
 船員制度近代化も緊雇対も、船主や組合だけでなく国が関与した点が大きな問題です。
 その反省もなく、国を筆頭に今頃になって、やはり日本人船員は必要だと言い始める。何をいまさらという感じです。しかもその中身は旧態依然、あまりにもご都合主義で、この国の指導者の無策・無節操にあきれるばかりです。
 このままでは外航も漁船も日本人船員は限りなくゼロに近づく。
 事態は深刻でも、海を志す若人がいる限り希望を捨てるわけにはいきません。こういう時はもう一度原点に返ることが大切です。
 私達が若い頃は世界が開けていた。世界中を回り、人々と出会い交易する場が海だった。今はコスト論ばかり。効率一辺倒で若者を追い込む。これでは息が詰まって新しい発想も生まれません。
 一度国際競争力とかコスト論を忘れる必要があります。少年の冒険心を育み夢を持てるような環境、仕事に一心に打ちこめる環境をもう一度作らなければならない。
 近代海運・水産の歴史はたかだか2百年、いくらでもやり直しが効くはずです。世界地図を見れば分かるように、日本は海洋民族、そして小国。これは金輪際変わりようがない。
 単に経済性のみでなく、もっと大局的・長期的な見地から、海洋民族として海運・水産立国の人作りの方針を、こんどこそ作らなければならないのです。
 企業側、特に大手企業は国民の税金で今日の地位を築いたことを忘れてはいけません。かつては国家国民を考える企業家が沢山いた。今こそ大局的な考えを持った指導者が海運界から出てくることを願わずにはおれません。
 また、若い人に海陸交互に経験させることも大切ですが、将来は船長・機関長で終えるという希望、生涯の職業として船員を選んだことに誇りを持てる企業環境にして欲しいと思います。今はあまりにも拙速で、若い人に速成を求めるため、基本が次第に薄れつつあることを憂慮しています。

インタビュー中の川島氏


若い船員諸君へ
 今は寄港時間が短く船務が忙しい上に、短期速成を求められる。外国人との比較や、いろいろな圧力で若い人達は大変でしょう。
 目の前は苦しいかも知れないが、夢を追うことを忘れないで欲しい。船員は一生の職業として追求する価値のある仕事です。苦しさの後にはスペシャリストとして未来が必ず開けているはずです。
 戦争中軍人から、「輜重(しちょう)輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」とよく蔑まれた。「輸卒」は単なる人足。馬と同じで黙って運べと言うわけです。
 しかし、戦後は給料だけでなく船員の地位もようやく上がってきた。若い人には更に上をめざして欲しい。世界が平和である限り、経済は発展し交易は益々盛んになるのでそれが可能なはずです。
 私はジョン・ニュートンの「アメイジンググレース」が好きで良く口ずさみます。大航海時代の奴隷船船長の贖罪の歌です。私も牧師になるべくして生まれながら、戦争で人を殺すようになった。今も自責の念でいっぱいです。
 この年になって平和の大切さをつくづく考えます。若い人には、単に戦争反対という抽象論ではなく、憲法九条をしっかり守って、戦争をしない日本、平和な世界を作って欲しい。
平 和な海があってこその海運・水産です。自分たちの職場である平和な海を積極的に守って行って欲しい。
 海の技術だけでなく、そういうものも含めた、新しいシーマンシップを若い人に期待します。


6月10日、15日
(インタビュー・編集部)