中原 厚氏 プロフィール
昭和2年(1927年)1月、戸畑生まれ。予科練除隊の後、引揚船、日鉄汽船、国洋海運で機関部員。S41年職場委員、S48年海員組合在籍専従執行部員、S52年海技協会。同人誌繋留索主幹。海上美術集団、戦没船員遺族会、戦没船を記録する会会員。千葉県山武郡在住。

予科練・戦争
 俺は軍国少年だったから、自分から予科練を志願した。何のためらいもなかったし、むしろ思う存分お国のために活躍できると燃えていた。S19年(44年)、松山航空隊の門をくぐった時は気も晴れ晴れしていたね。17歳だった。
 予科練は面白かった。訓練はきついし、しょっちゅう殴られたけど、当たり前と思っていたから苦痛はなかった。ところが座学を終えて飛練に入る頃、肺がおかしくなって胸膜炎で除隊させられた。これにはがっかりした。
 前の年も受験して身体検査で落っことされたのね。あの時受かった甲13期生は戦場でみな死んでしまった。今考えれば俺は運がよかったわけだが、あの時はガックリして家に帰ったのを覚えている。
 戦争中は何もする気になれず、ずっとボケっとしていた。
 親父は八幡製鉄の技師で当時は花形だったから家はなんとかなった。でもお袋は苦労した。俺は体が弱くてごくつぶしだし、弟は戸畑の海員学校を出て石原汽船のはあぶる丸(題辞写真、戦没船を記録する会提供)に乗ってすぐ、フィリピンのホロ島で船といっしょに海の藻屑になった。16歳だった。
 戦死の知らせが来た時、親父は気丈けに振舞ったけど、お袋がこぼした悔し涙は今も忘れられない。遺品も何もなくて、きっと信じたくなかったから、ぐちを何も言わなかったのだと思う。


引揚船リバティー号
 病気はずっと治らなかった。当時結核は「死病」と言われていた。
 戦後、家の世話になりアサリ売りをしていた頃、友だちが「船に乗ればメシが食える」と言ってきた。20歳にもなって家でごろごろしているのもみっともないし、すぐに戸畑の運営会の門を叩いた。
歳を食っていたせいか、雇い入れはコロッパス(石炭運び)を飛び越え、最初からフィアマン(火夫)だった。S22年のことだ。
 最初に乗ったのは引揚船リバティーのジョンフィッチ号V083。
 生まれて初めての外国だったけど、上陸できなかったのでどこへ行ったかは思い出せない。
 700トンの船に船員は30人近くいて、15歳位の若僧も多いので俺は新米のくせにいばっていた。「予科練帰り」ということで一目置かれていて、イジメられた覚えがない。腕っぷしの強い男たちが、毎日家族のことばかり考えて、案外泣き虫なのが不思議だった。
S28年の船員手帳より
 ボイラの炉に石炭をくべるのがフィアマンの仕事。3直2交代制で、4時間くべては8時間休み、またくべる。毎日石炭場と火炉の間でシャベルを振りまわすから、すぐに石炭まきのプロになった。

S28年の船員手帳より

初めての商船・外国航路
 石炭まきのせいか、胸の病気が再発してしばらく家に帰った。
 S24年(49年)にはGHQの命令で船舶運営会も解散して、戦時徴用されていた船が元の会社に戻される、「民営還元」が始まった。
 戦争で壊滅したのが朝鮮特需のおかげでどの会社も潤い、次から次に大型船を造り始めた。計画造船や造船疑獄はこの頃のことだ。
 最初の商船はS28年、日鉄汽船の大黒天丸。戦時標準船の改E型で、高島炭鉱から大阪に石炭をピストン輸送した。当時の本給は6200円で手当は40%と船員手帳にある。日鉄の船は高島炭鉱ばかりで、俺はバクチも女遊びも苦手だったから、上陸していい思いをした記憶はほとんどない。
 日鉄も大型船を次々に進水し、ゴア航路は5千トンのバーナー船だった。粉炭をノズルで噴射するやつだ。外航でも船内でやることは同じで、毎日麻雀に付き合わされ疲れたことを覚えている。
 「船に乗ったら弟が死んだホロ島に行ったろ」と思っていたチャンスも案外早くやってきた。
 弟は船と運命を共にしたのでなく、エンジンの故障でホロ島に上陸して、村人との戦闘で軍人といっしょに死んだことを知った。


詩との出会い・繋留索
 その頃まだ組合費の給料天引きが始まっていなかったのか、日本に着くと組合が必ず船に来た。
 演説が始まると「ゴチャゴチャ言わんと取るもの取ってから来い」と、誰も相手にしなかった。当時の執行部は大変だったろうね。船は総勢40人もの大所帯で、つわものばかりだったから。
 船には娯楽もなかったから航海中のハケ口は酒やバクチと女の話。俺はそれが嫌いで本ばかり読んでいた。人生論や、世界のこと。
 何かの本がきっかけで詩を書いてみようと思い、S31年に最初の詩「みなと」「しけ」「かもめは泣かず」をオカの詩集に送った。
 当時は1年以上乗船して休暇は20日ほどだから、長い航海をまぎらすため、ガリ版刷りの船内誌を勝手に作ってまわし読みする船もあった。事務長からインクや紙を好きに使わせてもらったし、会社も黙認していた。
 北星海運の川村君(のちに海員組合副組合長)なんかも、船内誌を作り、詩を発表していた。
 海上文化集団の「あへっど」を始めた相川君の詩は、今読んでもグッとくるものがある。資本主義に翻弄される船員の心情を歌っていた。みな自問しながら船に乗っていたんだね。
 S34年(59年)に国洋海運に移ってから、本気で詩を書き始めた。各地で詩を書く船員と交わるようになって、拠り所を作りたくて「繋留索の会」を始めた。門司は外航船も通るから好都合だった。小学校の教員だった女房が、印刷や連絡係をやってくれた。
 繋留索は船乗りの詩人グループで一番大きく、今も活躍している武政博、中原繁博らが育った。その後海上美術集団や他の文化サークルもできた。


職場委員制度
 組合運動を始めたのも国洋海運に移ってから。職場委員制度ができたすぐ後だった。
 民営還元で交渉の相手は運営会から船主協会に移り、組合は船主協会と次々に協約を結んでいた。賃金だけでなく、夜荷役規制やハッチカバー開閉なども。
 職場委員制度は、現場に足を持ちたい組合と、組合の攻勢に困った船主側の思惑が一致したんだろうね。
 国洋では船内委員会もあり、俺はナンバンあたりからよく船内委員長に指名された。当時は会社を移るのが普通だったから、その会社で古い新しいはあまり関係ない。
 船内大会もよくやったね。たいがい食料や風呂など船内生活に関すること。人数も多かったし、個室は職員と職長だけだから、いろんな苦情が出てまとめるのも大変だった。うるさ型が多かったからね。組合が船内委員会を作るよう宣伝していたと思うよ。
 船で指名されて職場委員になった。会社は神戸、オカ勤めは初めてで面白かった。当時の神戸支部長がワルでね。すぐに会社の肩をもって要求をつぶそうとする。とにかく会社と仲良いのよ。
 俺は困ると必ず船に行って頼むのね。船内大会の要求と言えば組合も潰しようがない。だめなら船を止めると現場が言っていると脅すわけ。こっちは現場が付いているから強かった。イヤになったら辞めて九州に帰るつもりだったし、俺は物に動じないたちだから、会社は何も文句を言わなかったね。
 だから会社との交渉というより、組合との交渉だった。会社は直接船に言えないから組合を頼りにする。組合のそういう役割は今もずっと続いているのと違うかな。
 船舶部員協会が始めた組合幹部リコール運動では署名はすぐに集まった。幹部が勝手にストを収拾したり、定員中央協定を廃止して、独善的だったから、みな怒っていたよ。あの頃は部員協会もよく訪船していた。


92日ストの時代
 S47年(72年)の92日ストの頃は大型船の時代で、Mゼロ船も始まっていた。ストは特別なことでも何でもなく、当時としては当たり前の要求やった。
 ストそのものより、組合が組合員の要求にそって活動する、本来の姿に戻ったことの方が大きいと違うかな。リコール運動で和田副組合長らが辞任したり、前年の春闘で、外航のベースアップが、調印後の汽船部委員会で否決されたため、南波間組合長ら三役が辞任して村上体制になった。そういうことを通してストができるまでになった。そこを見てほしい。
 リコール運動も汽船部委員会も現場組合員の本当の気持ちだったから、執行部が抑えようとしてもできなかった。ストの表面上の成果より、どういう経過を経て組合が目的(組合員の要求)を達成するに至ったかを勉強してほしい。

自宅書斎で語る中原氏(83)


 ストの後、S48年に政党支持の自由を決めた時は門司支部に在籍専従で上がっていた。当時の本部は民社党一辺倒だったけど、執行部員はあまり統制に縛られずに、民社党一党支持はおかしいと組合内で自由に言っていた。
 政党支持の自由化も組合員の要求で、当たり前のことをやっただけ。組合が強くなったとか左傾化したとかでは全然なく、当たり前のようになっただけのこっちゃ。
 あの頃は「右」も「左」も元気があって、やっていて面白かった。民社党ゴリゴリの執行部も資本論を勉強して論争したり、お互い認め合うものがあったね。


海民懇騒動・組合内紛
 政党支持自由化の前、組合は生産性向上運動の本部役員を引き上げた。民社党と同盟の後ろ立てだったのが、金も人も引揚げ始めたから和田さんらはずいぶん怒った。組合が赤化した、共産党に乗っ取られたと、ものすごい量の怪文書が出回った。組合員のためにやっているまじめな執行部や職場委員が大勢名指しで非難されていた。
 執行部の民社党グループは、役員選挙に向けて隠然と活動を始めた。大手の職員層には、部員の賃金が上がった新賃金体系を「年功序列主義」と批判して組合脱退を口にする者が現れ、組合を転覆させたい船主側に利用された。
 そうしてS51年(76年)頃海員民主化懇話会ができて再び内紛が始まった。この頃俺は海技協会に出向していたからいろんな情報が入ってきた。海民懇は組合を元に戻そうとする大々的な運動だったので、反対する職場委員も沢山いて組合を二分する争いになった。
 元運輸官僚の大物壺井玄剛が背後で暗躍したとも言われていて、船主筋と大手職員層の意向、組合執行部の民社党グループの思惑が重なって、役員選挙で一気に巻き返しを図った。
結局S55年の臨時大会で、民社党支持の執行部グループと海民懇の候補が落選し、土井さんが組合長になって終止符が打たれた。
 今思えば、役員人事を握って、組合を好きなように操ろうとしただけ。組合員の生活、労働に基づく運動ではなく、選挙がすべてだった。真の要求に根ざすものだったら選挙に負けたくらいで終わるわけがない。結局経営側の威光をバックに、組合の主導権を取ろうとしたにすぎなかった。
 海員組合の内紛は常にそういう要素を含んでいるのではないかな。


近代化から緊雇対へ
 海技協会には6年いて、重要な仕事の一つに船員制度近代化があった。ドルショックの後に国際競争力論が噴出し、給料の高い日本人がやり玉にされていた時で、「日本人船員の生き残りをかけた」近代化は「錦の御旗」と言われた。
 俺は海技協会の中で色々提案をしたけど、大手から出向していた職員層は、皆な事なかれ主義で、結局運輸省の役人が書いたとおりにまとまっていく。船主側は人さえ減らせば良いというだけで、将来の船員制度を考えているように見えない。このままではうまくいかないと組合に何度も忠告したが、結局取り上げてくれなかった。
 その後プラザ合意で円高が始まり、船主が腰を引き始めたとたんに、近代化は一挙につぶされる。
 近代化は元々船主の要望で始まったものだ。官公労使で10年もかけて積みあげ、多額の税金を投入しながら、円高になったからハイさよならという御都合主義には腹がたった。簡単に認めてしまう組合もどうかしている。退職してちょうど九州に帰っていた時で、内部事情は分からないが残念でならなかった。その時すでに船主の頭には緊雇対があったのだろう。やがて緊雇対(87年)が始まった。
 あれから20年、とうとう日本人船員はいなくなってしまった。
 部員を辞めさせた時点でこうなるのは目に見えていた。今になって、やはり日本人は必要だと言ってもあとの祭り。行きあたりばったりで、安い外国人船員で凌げるだけ凌ぎ、そのうち何とかなるだろうという無責任さは何も変わっていない。
 結局自ら掘った墓穴よ。船主も組合もね。これから若い船員がどれだけ育ってくるか知らないが、船員関係者がよってたかって、ダメにしてしまったことを伝える必要がある。(4月12日)
(インタビュー・編集部)

〈詩集 火夫の朝の歌 より〉
黒い一匹の人魚の歌 中原 厚

北海の早い夜明け
寒い寒い夜明け
青白い一面の夜明け
 
南からきたおいらにゃ
それは冷たい殺意
 
  おいら くにをすてた
  おいら いえをすてた
  おいら 女房をすてた
 
垂れ下った見る限りの曇天
この粒の荒い濃霧は
一体どこから湧いてくるのだろう
どうして こうも
涯なく淋しいのだろう
 
  すてた すてたの
  ひゃくまんべんのねんぶつ
  それはすてきれぬ
  全くの証拠ではないのか
 
あの沖合遥かにあるという
伝説の孤礁よ

干潮の一刻にしか姿を見せぬという
骨だらけの島よ
流氷と海獣の墓所よ

ああ このおびただしい
とろうをすてたい
いま おいらのめには
弔鐘の彼方なる歓喜が見える

やがて日暮れがやってくるだろう
やがて雲のきれ間から
膨大な誤謬のように
月が顔を見せるであろう
やがて暗いつらい流れが
おいらの手足をぐいぐいとひくだろう

暮れぬ裡に 早く探さねばならぬ
暫くのときを 月に嘯くために

おいらのみのさだめ
おいらのシニシズム
本当においら 何を棄てたいのか

(昭和34年船員しんぶん600号記念入選)