伊藤 敏(さとし)(元外航船員)

第一章 今なぜ過去の検証か
 港の周辺を歩いて気付くのは、日本人船員の姿を見ることの無い外航埠頭。昔はあれほど混雑していた通船待合所。通船すら取らなくなったのか外国人船員すら見当たらない。もはや雇用不安に悩む日本人船員は存在しない。
 賃上げや労働条件の改善を訴える者もいない。船内から労働組合運動が消えた。だいいち船内委員会が存在しない。人が消えた以上、外航海運から問題や課題も消滅したかのような錯覚すら覚える。
その中で過去を振り返り、検証する意味などあるのだろうか。過去をたどることが、徒労のようにすら思えて正直言って気が重い。
 船を去ったかつての仲間の多くは、船を二度と思い出したくないと思っているかも知れない。
 かつて組合のアンケートに答えて「近代化以降メチャクチャ、雑用係、最低の職場、後悔している」「組合は必要ない、解散すべきだ」(海員94年2月号)と記した外航組合員は、どう思うだろうか。
 陸上産業に先んじて、規制緩和という時の流れに呑まれた海上労働の場合は、組合のリーダーが誰であっても結果は似たり寄ったりで、なるべくしてなったとしか言いようがないのかも知れない。
 私の手帳に寄れば1981年のことである。夏の瀬戸内海にある造船所の食堂。昼食後、乗組員全員が集められた。スーツを着込んだ銀行から天下った役員は滴り落ちる汗を拭きながら言った。
 「慢性的な船舶過剰、この中で海運が生きるには国際競争力の確保であり、円高の中ではヒト、カネ、モノのコストのドル化しかない。
 将来的には混乗しか海運が生き残る道がない。部員の皆さんは一日も早く職員になって頂き、そうでない人は早目に陸上に職を捜すことです。将来を予測して手を打つのは、会社だけではなく、個人にとっても大事なことです。
 当社のような中手オペレーターは誰も助けてはくれません。銀行もこれ以上当社へ支援を続けることは、銀行として背任行為になりかねません」と言い放った。
 4年後に会社は清算され、職員の資格を取った部員を含め船員は消えた。ほぼ役員氏の予言通りになった。一方私たちは、船を辞めないで闘おう、と呼び掛け続けた。
 どうして船員の側が時代の変わり目を予測し、有効な手立てを打てなかったのだろうか。30年を経た今でも、この腰掛け役員氏の言い分とともに、忘れたことはない。
 時代の検証などという大仕事は、海上現場しか知らない私には手に余る。個人的な回想や悔悟を連ねるのとは違い、労働運動には「総括」という言葉がある。本来は労使の一方の当事者である元執行部の諸氏がきちんと総括すべきであろう。
 「イギリスの船員たちの100年」を全訳した、篠原陽一氏(海上労研)は終章で、グローバリズムと戦争に対するビジネスユニオニズム限界を問題提起している。
『便宜置籍船の台頭と途上国船員の進出のもとでイギリスの船員は1911年の状態まで逆戻りした。
 ビジネスユニオニズムは先進国産業が、国際競争にさらされず、安定した労使関係を通じて、経営者の善意に期待しながら組合員の利益をはかることにある。
その限界を克服するには、改革運動を一国レベルから国際レベルに展開させることにある。(海員92年2月号)』と。
 私の知る限りこれらの問題提起に正面から答えた人はいない。
 2005年、最後の砦とされた、国際船舶の日本人船・機長の配乗義務撤廃が労使で決まった。いわゆる6・13合意である。こうして、2008年ついに日本人がいない、全員外国人の日本籍船が現実のものとなった。
 混沌とした海にも注ぐ河川があり、河川には源流が存在する。
 誰も始めようとしないなら、時代の変わり目から現在まで、海上現場に身を置いた自分のような者が、重い筆をとるしかない。
 二人にひとりが海上を去った緊急雇用対策、新マルシップ導入、船員制度近代化の頓挫。全てが擦り傷、かすり傷の類とは思えないのである。『10年を見ても大して変化がないし、意味がない。ワンジェネレーション、30年を見る必要がある』(海技協会会長・谷初蔵氏、海員92年7月号)。
30年過ぎた今なら見えてくるものが、あるに違いないと思う。
 外航船員ゼロへの軌跡を追い、検証を始める。検証の中に日本人船員社会の再生のヒントが浮かび上がってくるかもしれない。
 終章では稚拙でも幾つかの手がかりを提示できればと願う。「海路残照」であっても、光の気配を語らなければ、過去をたどる意味はない。

(人気のない通船待合所)

第二章 メルクマールとしての1975年
 「減速経済」が流行語になり春闘による賃上げ率が戦後初めて下落に転じた年であり、年末には公労協により史上空前のスト権ストが闘われ敗北を喫した年でもある。
 このころ陸上の労働者はどうであったか。木下武男は「企業主義的統合と労働運動」(吉川弘文館・2004年)のなかで次のように定義している。(後半で産別労働運動との対比をするため、やや長いが引用する)。
 『民間大手企業の中での作業長制度や小集団による職場秩序の再編による企業内労使関係の変化。
社会的基準がない企業内賃金であるため、企業の発展と安定が労働者の賃金に直結するという賃金体系と人事考課制度による労働者の統制。
 これらを通じて、組合組織が企業の労務管理機構と一体化して企業別組合は労使協調の労働組合に完全に変質し、大企業労組の転生こそが、日本の労働運動を構造的に規定した。問題の核心は、民間大企業の労使関係にあった。
 75年以降の時代ではなく、75年までの時代に主体の側の危機が醸成された』と結論づけている。
 こうして「1975年の暗転」と「資本独裁」の論理が我々の前に提示されている。
 では船員の場合はどうか。なぜ1975年がメルクマークか。
 75春闘が妥結して間もない1975年6月22日、船主協会会長であり、日本郵船社長でもある菊池庄次郎氏は、次のような構想を発表した。いわゆる「菊池構想としての仕組船認知論」である。
 『日本船は船員賃金の高騰により国際競争力が低下、外国船に太刀打ちできなくなった。日本海運の現在の地位は外国用船の活動に負っている。
 従って外国用船のうちの仕組船(日本の海運企業が用船支配を前提に、外国海運企業に日本造船所を斡旋して建造された外国船)を認知して輸出入銀行から融資をし、その船に日本人船員と外国人船員を混乗させるべきだ。
 そうすれば、日本人船員の雇用不安を回避できる。反面、外国用船による利益で、より高度の技術革新を導入した(甲機両用の)日本船も、建造できる。これより他に日本海運の進む道はない。』
同氏が、「職場委員を通じて海員組合の中に企業意識を浸透させていく」と語ったのは、翌年の年頭の挨拶の中である。
 同社は、車輛船ポーラベアにおいて日本人船員6名を、一旦組合から脱退させて陸上へ転籍させた後に、乗船を強行するという挙にでた。明らかにユニオンショップ協定違反で不当労働行為である。
 それは、翌年5月のことであった。後におきる東京船舶問題との類似性において興味深い。
 75年7月20日、運輸省は「日本海運の現状」を発表した。
 その中で外国用船の活動について、1974年6月末現在で外国用船は日本海運の運航船舶の41%に達し、運賃収入は全運賃収入の43%に増加していると記載し、日本船の外国船への代替が急速に進められていることを協調した上で、次のように示唆している。
 『安定輸送体制を確保するため、日本船に準じた長期安定船舶としての機能を有する仕組船を起用することなどの配慮が望ましい。』
 運輸省は菊池構想を側面から擁護したのである。    
 これに対し海員組合は、同年の活動方針の中で、これらの動きを脱日本人船員化の策動と捉え、仕組船建造に対する規制を求めた。
 しかし他方では、当面船社の仕組船には組織船員の配乗を義務付けるとした。
この年7月の汽船部属組合員数は70、760名であった。

(注)東京船舶問題とは
 2001年5月、陸上労組へ加入するとして、所属組合員16名が一斉に脱退届けを提出することで始まった。
 組合は、組合員の身分等について、団交を申し入れたが、東京船舶は「海員組合員が存在しないので、組合と協議する理由がない」として団交を拒否。組合は種々の抗議活動を行ったが団交開催には至らず、不当労働行為の救済申し立てを行った。
 結局、同社は争議中の02年8月、日本郵船の完全子会社となり、組合員は霧散し、労働委員会闘争も組合の敗北に終った。海員組合の存在意義が問われる深刻な事態を引き起こした。

第三章 現場をつぶせ
(対抗策としての脱日本人船員)

 スミソニアン体制により、固定相場制から変動相場制へ移行したドルショックが1973年2月であり、第一次石油ショックが起きたのは同年10月のことである。
 この頃外航海運は、どのような状況にあったのだろうか。
 70年頃から盛んになった外国用船は、オイルショックの年には日本商船隊の34パーセントとなり、75年には44パーセントを占めるようになる。一方で日本船の隻数は72年をピークに減少を始めた。
 脱日本人船員・脱日本籍船の傾向が強まるものの、依然として日本商船隊全体は拡大を続け、後に海運と船員に苦境を迫ることになる過剰船腹状態の恒常化が始まる。
当 時は海造審においても、69年の海運助成以降の政策の方向性は、もっぱら船員需給不足の解消であり、船員養成機関の拡大が図られたりした。それらの方針が、菊池構想を契機に逆転して、外国用船の積極的支援に転換される。
 では船員側の状況はどうだったか。当時、船内大会の定番といえば定員問題であったといってよい。
 船員の歴史は定員削減の歴史といえる。ナイロンホーサーや冷房設備で甲板員や機関員が減らされ、魔法瓶や冷蔵庫、食器洗い機で司厨員が減らされさえした。
 ドクターや事務長の下船に続き、オートアラームで通信士が減らされ、Mゼロ船の出現で機関部の定員が大幅に削減された。
 菊池構想以降、船員に対する攻撃も、<定員削減>という合理化からいよいよ<雇用>合理化へと向かうのである。
 同時に、技術革新の名の下による合理化船出現と、度重なる定員削減で船員の<余剰>が作られていった側面を忘れてはならない。
 定員削減反対の闘いとは、船員にとってどういう意味をもつのか、踏み込んで考えてみたい。
 それは、個々の労働時間や、要員の配置転換、他職能の存在や否定につながる問題であり、自己と他の関係性にかかわる事柄である。
 同時に労働と生活を同一個所で長時間過ごす船員にとって、種々発生する職場要求は、通船や作業着よこせから、通信士や部員の下船反対まで多岐にわたる。職場闘争そのものといってよい。
 職場を軸にした運動への転化は、海上労働の物理的な与件の中では難しいことではない。海上という狭い空間の中で、日夜問われるのは、労働者としての生き方や思想性に他ならない。
 船員としての自覚がそっくり、階級的自覚に入れ替わることは容易であり、資本の介在から遠く離れた職場集団は、階級形成へと向かう近道でもある。
 資本の論理に対し労働の論理を対置して掲げたスローガンが、港にカアちゃんを呼ぶ金を寄こせに端的に表される「人間性回復の闘い」である。72年の92日間、スト参加船舶数は931隻に及んだ。

 長期ストの特徴は従来の組合幹部の独断的な指導が変わり、大衆の意見を反映した闘争を展開せざるを得なかった点と、これに対して船主が現場に対する攻撃を露骨に表してきた点である。
 船主にとっては、前年の春闘で諸手当の低額妥結を否決して組合三役を辞任に追い込んだ、現場をつぶせ、というわけである。
 ベアだけなら大きな額ではない。スト保険をかけて200億の供託金を積んだのは、闘う沖の意思が
気に入らなかったのである。大衆路線といわれるものに対するむき出しの敵意がそこにはあった。
 翌73年の大会では、政党支持の自由、民社一党支持の廃止、反自民・反独占のスローガンが掲げられ現場組合員からは歓迎された。
 特に、全労結成の翌年の1950年に組合が参加した、生産性向上本部からの役員引き上げは象徴的な出来事であった。
 しかし、長期に闘われたにも拘わらず妥結した内容は満足できるものではなく、また、リコール運動以降継続されてきた組合民主化運動は依然として道半ばであった。
 更に付記したいのは、運輸大臣から出された仲介案である。
 「仲介案の実施は、企業経営に多大の負担を課し、国際競争力の低下をきたし、ひいては雇用不安の増大をも生ずるおそれがあるので労使が、従来以上に生産性向上に取り組むよう」求めている。
 メルクマークである1975年、外航問題の前哨戦といえる近海船問題も大きなテーマであった。
船主協会は75年初頭、国際競争力の低下を理由に近海海運からの総撤退と9千人に及ぶ船員の解雇を打ち出した。
 しかし、国際競争力というが実態は、いうまでもなく日本の商社・荷主・大手海運によって作り出された投機による過剰船腹であり、日本に配船しないと約束して、建造したにもかかわらず、約束を破って日本に大量配船された、いわゆる「念書船」が原因であった。
 船員費の高騰も理由にされたが、それはITF基準賃金の数分の1という低賃金の外国人船員を使うための口実でしかなかった。
 組合は同年5月10日以降、東京湾にラワン船を結集させ、強力な抗議停船を実行する方針を打ち出す。しかし、実際には運輸省が重い腰をあげて、「近海問題調査会」を発足させたことで矛を収めて、東京湾総結集という画期的な戦術は日の目をみることなく終わる。
 以降、近海船員はいばらの道を歩むことを余儀なくされた。
 海運助成をテコに徹底した合理化攻勢から、脱日本人船員政策へと船主・政府が大きく舵を切ったのが1975年のことである。
       (つづく)