伊藤 敏(元外航船員)

第十七章 竹中解雇撤回闘争(二)
船地労委で完全勝利

 解雇から3年半を経た1994年11月9日、関東船地労委は解雇を撤回し、原職に復帰させるよう命令を出す。
 命令書は「懲戒解雇はその理由において、不存在ないし不相当なものであり、その真の意図するところは、申立人の組合活動を嫌悪し、「太平洋汽船船員やめない会」の中心的人物である申立人を会社から排除し、会社に対する批判的活動を封じ、これに打撃を与えんとしたことにあると認められる。
 以上の通り本件懲戒解雇は、不存在ないし不相当な解雇理由に籍口して申立人の正当な組合活動を真の理由とする不利益な取り扱いであり、労組法第7条第1号に定める不当労働行為を構成する」と断じた。
 会社はこれを不服として、船中労委へ再審査を申し立てる。


竹中支援会の結成と運動
 「竹中君の不当解雇撤回を支援する会」は、解雇から2ヵ月後の1991年7月、在京の職場委員有志が中心になり船舶部員協会、船舶通信士労組、船員OBで結成され、支援会ニュースは各社の船内へ届けられた。 
 船地労委への署名は1万6500名に達し、北海道から九州まで、外航だけではなく内航やフェリーの船員も支援してくれた。特に緊雇対を経験した外航船員にとっては、支援会の運動は自らの意思の「代弁」であり、涙ながらに海上を去って行った仲間のための「仇討ち」でもあった。
 こうして支援会への運動は、有形無形の声に支えられ、瞬く間に海運界全体が注視するようになる。
 支援会は91年、92年と組合全国大会で「組合は組合員を守れ」と支援要請や支援決議の採択を求めたが受け入れられなかった。
 組合が裁判・労働委員会での証人等で協力し、職場委員の傍聴を組織活動として公認することが実現したのは、1993年5月の全国評議会でのことである。


なだしお事件裁判の支援
 竹中さんが解雇されたその年の組合全国大会では、竹中支援と並んでもう一枚のビラが配られた。
 潜水艦「なだしお」と衝突した「第一富士丸」船長近藤万治さんへの支援を訴える内容である。同じ立場に立たされかねない船員が率先して支援の声をあげよう、という竹中支援会の発議による。
 92年3月19日、海員関係者、陸上労組、市民団体などから100名が集い、「平和と海上の安全、なだしお事件の公正な判決を求め、近藤万治君の裁判闘争を支援する会」の結成集会が開かれた。
 その頃の近藤船長は不当な海難審判2審裁決で神経をすり減らしていたが、支援者に案内されて行った北海道・九州行脚での国労闘争団や反基地・反戦の市民運動と交流して「どんな判決が出ても挫けないエネルギーを得た」と語るまでに元気を取り戻していった。
 日比谷公園での折から国会審議中のPKO法案反対集会や中労委前の国労闘争団の座り込みの場での近藤船長の権力と闘う者としての連帯の挨拶は、この時代を象徴する光景として記憶に残る。
 「近藤支援会」と「竹中支援会」は共に東京・芝の船舶部員協会を事務局としたことから、二つの運動は重なりこの時期活況をみせる。
(注)「なだしお」裁判
 1988年7月東京湾横須賀港沖で、潜水艦「なだしお」と釣り客を乗せていた「第一富士丸」が衝突し、乗客など30人が死亡した。
 89年の海難審判第1審裁決は、主原因は「なだしお」とし、「第一富士丸」は一因とした。海上自衛隊第2潜水隊群に対して、乗員に対する指導不十分と勧告。海自組織への勧告は海難審判史上初であった。「溺れたものを救助せずに放置」「保安庁への通報が21分遅れた」「救助活動中に航海日誌を改ざん」等々のなだしお側の不正が明らかとなった。
 しかし、90年8月高等海難審判庁の第2審裁決は双方に責任あり、海上自衛隊には勧告せずという逆転ともいえる政治的な判断を下す。
 横浜地裁では、「なだしお」山下艦長と「第一富士丸」近藤万治船長が業務上過失致死傷等の罪に問われた。92年の地裁判決では主因は「なだしお」側とし、山下艦長に禁固2年6月、近藤船長に1年6月(いづれも執行猶予付き)を命じ、双方が控訴せず確定。支援運動の成果が実り、高等海難審判庁の不当な採決を実質的に覆すことができた。
 山崎豊子の遺稿「約束の海」の第一章は、「なだしお」事件をモデルに、週刊新潮に連載中である。


地労委命令を受けての対組合交渉
 船地労委は、組合が「不当解雇だが、不当労働行為かどうか分からない」としていた件を、不当労働行為と認定した。
 組合員に対する不当労働行為は、とりもなおさず組合の団結権の侵害であり、労働組合として放置できるものではない。もはや一組合員の問題ではないことが明白となった。支援会は当然のこととして組合に対し、会社に命令を履行させる交渉を開始するよう求めた。
 対する組合回答は「解雇は撤回させる、地労委命令の方向で解決させる。そのためには、①組合に全権委任状を提出すること。②支援会活動の自粛 ③陸上との共闘の中止 ④船中労委へ再審査申し立てをしない、という条件を了承すること」というものであった。
 支援会は組合が交渉している間の②と③は了承した。しかし、④については、交渉が決裂する場合もあることから断った。船中労委の再審査が会社側の要求だけを審議することになるからである。
 また、交渉への本人出席と原職復帰の確約を求めたが、組合は、「それでは全権委任にならない」「組合を信用しないのか」という強硬な態度で、原職復帰は最後まで確約されなかった。


支援会の分裂=闘いの分岐点
 船中労委への再審査申し立て期限は2週間。この間支援会内部では論争が続いた。
「竹中が苦労するのをこれ以上見ていられない。あとは組合へ任せよう」「船地労委命令で目的は達成された。組合も引き出せた。ここまでやれば十分だ」「泥沼化して闘いのための闘いになってしまう。これ以上は職場委員として応援できない」。竹中さんの今後の生活を思いはかる声、争議の長期化を危ぶむ意見…等々。
 最後の判断は竹中さんへ任された。「組合に全権委任はできない」と彼は結論を下した。この結果、多くの職場委員が支援会から離れて行った。その後支援会を支えたのは、現場の組合員と船員OBだった。以降、組合はこの問題から完全に手を引く。
 竹中さんは当時を振り返り次のように述懐する。
 「支援会内部の論争は本当に神経が消耗した。味方との論争が敵との闘いの数十倍疲れ、本当に苦しかった。限られた時間の制約でああなるしかなかったが、職場委員のそれまでの貢献も大きかったし、非難はできない。
 しかし、最大の山場を何とか乗り切れたことで自分自身も吹っ切れ、以後組合をあてにしたり動揺することも無くなった」。


でっち上げられた解雇理由
 解雇から半年後、船地労委への書面で解雇理由の詳細が初めて明らかにされた。最大の解雇理由は、それまで一言も指摘されたことの無かった「時間外手当・作業手当の不正取得」、併せて船員やめない会のニュースによる会社への誹謗・中傷が並べ立てられた。
 不正の理由は、何と3~4年前に乗船した船で、手当請求原簿の記載と航海日誌や機関日誌が一致しないからだという。
 会社は不正金額約60万円の受領者として、機関部乗組員十数名の実名をあげ、一等機関士の竹中さんが大量不正行為の実行責任者であると主張し始める。
 しかし、当時の第二西龍丸の直属上司であった辻元機関長が証言に立ち、「ずさんな労務管理はなく、むしろ几帳面だった。一等機関士として立派に職務を行っていた」「時間外作業原簿は全て自分が内容を確認して捺印していたので作業手当の不正取得など一切なかった」と船内の労働実態をもとに明確に証言して、会社側の解雇理由は完全に否定された。
 同船を下船して以来、辻さんに会社からの問い合わせは「一度もなかった」ことも明らかにした。
 その頃から「時間外手当・作業手当の不正取得」という解雇理由が姿を消す。
 地労委で敗北した会社側は、船中労委でそれまでの弁護団を一掃した。新たに指揮を執ることになった日本郵船顧問弁護団が持ち出したのが、竹中=船員やめない会=船舶部員協会=海員組合にあらざる左翼労働運動というレッテル貼りである。
 「経営方針に反する左翼的労働運動から企業を防衛するために解雇した」と言い出したのである。
 例え荒唐無稽な解雇理由でも、反証するためには莫大な時間と労力を要する。ここに解雇裁判を闘う難しさがある。
 しかし船中労委で証言に立った橋本元機関長は、かつての上司として、「竹中君は不正をやるような人物ではない」「機関部の仕事はチームワークがなくてはできない。船内の労務管理はどの船もしっかり行われていて、手当不正など到底不可能である」と証言。
 そして、退職強要が吹き荒れた当時の部下の身を察する心情が吐露され、「処分されるべきは、竹中君ではなくヒットマン方式を企画した労担、伊藤専務そして小山社長自身である」と結んだ。
 橋本さんは同社の船員OB会の会長でもあった。


太平洋汽船の仲間たち
 勝利の要因は仲間の存在にあったと竹中さんは言う。
 少数とはいえ社内に残る「船員やめない会」のメンバーは、表立った運動はできなかったが日本に入港すれば、社内の貴重な情報を送ってくれた。辻さん、橋本さんという二人の重鎮機関長の証言は、「時間外手当・作業手当の不正取得」という解雇理由を葬り去り、勝利を引き寄せた。
 現役の船長・機関長が会社側の証人で出ることを固辞し、「中立」を保ったことも大きい。 
 しかし、勝利を決定的にしたのは、ただひとり現役で出廷した浦山司厨手の証言であろう。
 浦山さんは自らが受けた退職強要や、上司である司厨長が突然サロンボーイとして勤務させられたイヤガラセ人事などを語った。
 朴訥な語り口ながら、当時の船内の状況や多くの乗組員の心情が察せられ、傍聴者の胸を打った。
 更に、出廷前に会社常務と副部長が自宅のある長崎まで押しかけ、「良い就職口がある」と退職勧奨し、証言への圧力をかけた事実を、補佐人として出廷していた当の常務・副部長が見つめる中で臆することなく堂々と証言した。
 傍聴のあと、恒例となっていた運輸省地下食堂での会食をしながらの反省会。謝辞を述べる竹中さんが、言葉を詰まらせ涙を浮かべた。長い争議を通じて唯一彼が涙を見せた場面である。現役の船員が、会社の意に反して証言することがどれ程勇気のいることか。
 最後まで降ろさなかった原職復帰の旗は、船で待ち、迎えてくれる仲間が存在したからこそ持ちこたえられたのであろう。その強い気持ちが、無傷での原職復帰へと導くことになる。
 いつの時代も、労働組合運動を担保するのは、職場(生産点)での団結である。団結の基礎は、人と人の繋がりに他ならないという素朴な結論に辿り着く。


陸上労働者との共闘
 支援会は、早い段階から陸上労組との共闘を決めた。
 先ず門を叩いたのは船舶部員協会や船舶通信士労組と日頃から交流のあった国労である。
 国労が大阪府労委を皮切りに、全国各地の採用差別・不当労働行為事件で連戦連勝していた時期であり、国労闘争団全国連絡会議が結成されて間もない頃である。
 支援会結成の2ヵ月後には、東京総行動に参加し、陸上との共闘を追求する。総行動に参加して、すぐに成果が上がった例がある。
 そのひとつが太平洋汽船の荷主である昭和電工だ。
 「昭和電工の荷物量という企業秘密を竹中が暴露したため、会社は昭和電工へ謝罪した」というのも解雇理由のひとつだが、総行動の中で、会社の言い分が嘘だということが直ぐにわかった。
 昭和電工の担当者は、寝耳に水で「そんな事実は一切ありません。横浜工場の荷物量なんて社員なら誰でも知っていて、秘密でもなんでもありません」「今録音しているテープを裁判所へ出して結構です」と公式回答した。
 更には太平洋汽船にとって大口の荷主である関西電力へ、船地労委命令後は日本郵船へ、郵船が会長企業である日経連、船主協会へと要請行動を展開していく。
 海運ビル内にはレストランや結婚式場、目の前には平河町の砂防会館もあることから、船主協会は「宣伝カーだけはやめてくれ」と逆に要請。すぐに船主協会から太平洋汽船や日本郵船は釈明に呼び出される。こうして、総行動は着実に効果をあげていく。 
 もう一つの柱は運輸省への要請だった。旧態依然とした船員労働委員会の民主化、海難審判制度の改善、野放しの便宜置籍船の規制等々を要求して、一部は公開の質疑応答の場で約束させた。
 船員の側が一方的に支援を受けたばかりではない。「受けた支援は支援で返す」として、陸上の争議労組や解雇争議、公害や薬害エイズなどの市民運動の行動には「船員争議団」の旗が翻っていた。
 会社に対する社会的包囲網を、陸上労働者の力を借りながら意識して構築したことが、竹中闘争の勝因の大きなひとつであった。
 ジャパンラインの指名解雇との闘い、職場占拠を武器にした大日海運闘争や、職場に強い結束を有した昭洋海運船員の清算反対闘争を本誌7~9号で紹介した。
 それぞれの闘いは大きな可能性を秘めていたが、外航船員ゼロへの流れを食い止める力にはなり得なかった。企業内労使関係を社会的労資関係へと持ち込む戦略・戦術そして覚悟が決定的に欠けていた。今悔悟を込めて、そう振り返る。
 たとえわずかであれ、その限界を突破した竹中解雇撤回闘争がそれを教えると共に、今後の船員の運動に示唆を与えている。

事前に質問状を出し役人が答える。運輸省にて


船員にとっての課題
 竹中さんは解雇撤回闘争を振り返って、「ただひとつ残念だったのは、結局組合は何も変わらなかった」ことだと言う。
 闘争を終えて、支援会の多くのメンバーは、国際的に進む規制緩和の中で今後は船員のひとり争議が増えるだろうと予測した。
 だが、ひとり争議や個人裁判が多発する陸上労働者と異なり、その後理不尽な扱いに声をあげる船員は、ほとんど出てこなかった。
 多くの船員はアキラメ、絶望し、抵抗の道を選ばずに、沈黙と逃避の道を選んだのである。その理由は企業や法律等の船員への締め付けの強化であり、もうひとつは海員組合の更なる劣化であった。
この章では多くの紙幅を海員組合の対応に割いた。組合が変わらなければ、船員社会は変わらないという思いからである。
 今日の状況を見渡せば、弱肉強食の社会。そこでは、人はムキ出しの資本主義の中で何を頼りに生きるのか、という新たな問いを突きつけられる。 
 その答えは労働組合であり、産業別労働運動だと確信する。


海員組合を変えよう
 昨今、組合大会で、活動方針や活動報告討議で挙手をし、真っ向から意見を述べる現場代議員は数少ないという。
 かつての大会では、外航の活動家たちは、地球の果てへの航海から大会へ駆けつけて、日々の労働の中で考え続けた思いを語った。
 港湾の活動家は船内で日頃みんなで話し合った要求を壇上へぶつけた。もはや当時の大会の面影は見る影もないようである。
 竹中解雇撤回闘争では、組合の組織方針はそれとして、組合執行部員は個人として竹中闘争を支えた。川俣元中執は証言台に立ち、土井元組合長は陳述書を書いた。「早期の救済命令を求める署名」
には中西組合長以下の三役と中執全員が署名し、多くの組合執行部員も陰ながら支援した。
 組合機関誌の1995年「海員」2月号で支援会代表世話人・柿山朗さん(新昭マリン一航士)の投稿を、6月号では井出本竹中問題担当中執の見解に対する篠原国雄さん(船舶部員協会)の反論を、一字一句削ることなく掲載した。
 自由闊達な意見の保障が産別の伝統であり、海員組合を支えてきた歴史だが、今はその面影もない。
解雇撤回と職場復帰から15年。竹中さんは、今や海員組合から、組合員としての資格を剥奪され、排除されようとしている(別稿参照)。


参考資料
竹中支援会報告集「海上復帰、10年の航跡」、及び支援ニュース・1~18号。なだしおニュース・1~6号。


(次号へつづく 元外航船員)