伊藤 敏(元外航船員)

第十一章 緊急雇用対策
緊雇対前夜の風景

 外航2船主団体の所属船員数は、86年3月の2万3千人が88年4月には1万1千人となった。外航船員の二人にひとりが海上を去った、といわれる所以である。この数字は、緊雇対と称され自殺者すら出した人員合理化攻撃がいかに過酷であったかを物語る。
 ここでは、この時期の船員を取り巻く状況を想起することから始めたい。
 相次ぐ社船の海外売船による配乗ミニマムの見直し、定員削減や就労体制の変更による労働強化、陸上出向や肩たたきの横行がその姿であった。それまでの実験、実証という手法では船員制度近代化のスピードが遅いと言うことで、突然パイオニアシップが飛び出し、合意されたのもこの頃である。86年4月1日に船員年金と厚生年金が統合され、年金制度が改正されたことも緊雇対の行方に大きく影響した。 
 激しさを増すイランイラク戦争のなか、日本籍タンカーが次々にホルムズ海峡で被弾し、85年2月18日商船三井のアルマナク号の藤村操機長が航空機からのミサイル射撃で命を落としたのもこの時期であることを忘れてはならない。
 戦後最大の企業倒産と騒がれた三光汽船の倒産やジャパンラインの合理化問題も持ち上がり、その他の会社でも、希望退職募集、残った船員の第2会社への移籍による期間雇用化提案が相次いでいた。そして、海造審の論議の中、1万人余剰論という外航船員の大量整理案が船主協会から飛び出してきたのである。
 売船、混乗、近代化の結果生じる余剰船員。「余剰」という言葉は、船員の誇りを打ち砕くのである。打ちのめされた外航船員の眼前に広がるのは、先行き不安という鉛色一色の風景であった。


選択定年制から緊急雇用対策へ
 選択定年制はもともと高齢化が進行する一方、近代化船など労働密度が厳しくなる中で、60歳まで体がもたないという現場の実感から、55歳の年金支給開始年齢に連動する制度として、55歳退職時36ヶ月の特別加算金と併せ、組合側からの協約要求として持ち出されたものである。
 これに対して船主側は45歳からと主張。その結果、「妥協の産物として」50歳・28ヶ月で決着した。55歳と50歳では全く意味合いが異なってくる。アンダーザテーブルがオンザテーブルへといわれたが、現場では肩たたきの公然化と多くの者が受けとった。選択定年制が以降の船員大量整理のテコの役割を思う存分発揮したのは疑いが無い。
 86年5月、海造審海運対策部会が開かれ、審議の中心テーマが余剰船員対策にしぼられる中、宮岡船主協会会長(日本郵船社長)は外航2船団所属船員、2万3千人のうち40%、1万人が余剰だとして陸上転職等の方法で整理する方針を示した。
 これに対して組合(土井組合長)は、7月10日組織内部の検討機関である雇用対策委員会へ次の内容を諮問した。
 ①専属雇用体制の維持、オーナーの適正規模の再編、②雇用規模の縮小再編に取り組む。縮小(退職)条件は別途に時限的措置を決めるが、指名解雇は認めない、③離職者へは官労使により雇用安定機構を設置する。
 この雇用対策委員会は、論議の前に既に諮問の結論があらかじめ出され、8月28日の海造審前に結論を出すという時間的制限が設定された異例のものであった。
 「減量やむなし」を前提に人員整理を認め、受け皿機構を設置するという本部方針に対して、現場代表の雇対委員は首切り容認方針は絶対認められないと主張したが、本部は受け入れなかった。前年の大会方針違反という指摘に対しては、緊急事態であるから方針逸脱も許されるとして8月12日、答申をまとめて強引に押し切った。
 ところが、8月28日の海造審では、組合の期待した雇用対策も、官からの政策の提示も予算も計上されず、組合の減量容認方針を受けて労使間の減量協議で一定の結論をだすようゲタをあずけられてしまったのである。
 翌87年3月5日、海運労使は雇用開発促進機構(受け皿)と時限的措置としての特別退職制度(50歳ピークで退職特別加算29ヶ月)を2本柱とする外航緊急雇用対策に合意し調印する。
 以降、整理対象者が経営危機の有無にかかわらず全社へ、若手職員をも含む全船員へと広がっていくが、陸員が人員整理の対象とされることはなかった。以上が緊雇対合意の顛末である。
 減量やむなしという「小さな譲歩」で、各社バラバラの合理化案を一括してテーブルの上へ出させ、「産別対応」とすることで漁船・200海里同様の助成を引き出す。 
 そのためには、最小限の犠牲はやむを得ない、という判断が組合本部にはあったのであろうと推測する。 
 しかし、局地戦に留まっていた雇用合理化の攻防が、堤防を壊すことで広汎に拡大して、2万3千人全員が、先行き不安の中でそれぞれ自問と決断を迫られることになる。これでは「小さな譲歩」で済む筈もない。
「船部協・289号/86年10月号」は、なぜ首切り協定を急ぐのか、方向を誤れば産業の崩壊へつながりかねない、と警鐘を鳴らすが一顧だにされなかった。
取引的労働組合主義(ビジネスユニオニズム)の限界の露呈であり、海民懇・同盟路線からの決別の結果として現場から支持された土井執行体制をもってしても、労資協調主義からの決別は道半ばであった、と思わずにはいられない。

外航船員予備員集会の1コマ

本人選択の自由
 債務超過に陥った企業が、希望退職募集を提案する。その結果、何名かが手を上げることは有り得る。しかしそのことを以って「減量やむなし」と労働組合が括ることは誤りだと思う。首切りに柔軟対応などありはしない。希望退職募集にNOということ、展望を示しながら仲間に辞めずに闘おう、と言い続けることが労働組合の原則なのだと思う。
 長崎・島原地区で開かれた予備員集会で次のような質問があった。
 「組合方針に従っていきたいし、団結を守りたいが、もし辞めると決心し退職した場合は裏切ることにならないか」。これに対して組合は、「組合方針は会社提案を拒否し反対していますが、組合員個人の判断を拘束するものではありません」と答弁したという。
 希望退職募集という首切りを認めながら、肩たたきは認めないという矛盾。
 寺本博人職場委員(日新汽船・操機手)は、一蓮托生という言葉で矛盾を埋める。86年部員協会総会での彼の発言を再現する。
 「私は組合員に最後まで一緒に生きようと云い続けた。会社と合理化案をまとめ、一定の歯止めをかけたが、これは組合が首切りを認めたということにもなる。
 組合も会社も、辞めた人のアンケート調査をしたが、期間雇用19名、陸上就職は8名しかいない。あとの60名近くは殆ど職がない状況、40代の人の就職は皆無だ。12万円くらいの仕事をしている人がいるが、いい方だ。残った人に安易にやめるなといっているが、将来会社が潰れたらどうする、といわれる。それはもう我々の判断を超える。20余年世話になったんだから、一蓮托生で腹を括れといっている。 安易に一万人合理化に対応すべきではない。死なばもろともで腹をくくるべきだ。組合はその踏ん切りがつかないところが問題だ」
 柿山朗(昭洋海運・航海士)の詩は怒りも笑いも途絶えた職場状況を映している。

「掲示板」

食堂甲板の通路に
掲示板がある
『希望退職募集実施要領』
掲示板の紙片の四隅に残る
セロテープの黄ばんだしみ跡
それは 幾つの海の季節風に
はためいてきただろう

「おはようございます」
「今日は時化ますね」
掲示板の前を 挨拶が行き交い
煙管服やヘルメット、ゴム長や 
安全靴が通り過ぎていく

花束もねぎらいの言葉もなく
送られる人が誰なのかさえ
定かでない 奇妙な
僕たちの別れの酒宴
或る者は そっと抜け出し
舷側(ふなばた)で潮を嗅ぐ
闇をも眼に刻む

去るも地獄残るも地獄というが
地獄の実感はさておくとしても
僕たちの共通の未来が、どの途
芳しくないことだけは
確かなようだ
( 中 略 )
掲示板の前を通り過ぎる度に
僕は反芻する
本人の自由な選択による
退職制度とは
団結の呼びかけを封じ
なかったか?
束になって闘う意義を
薄めはしなかったか?
生涯に三度は思いっきり
腹の底からさけぶというが
それはほんとうだろうか?

シンガポールを過ぎて
船は北へ、内地へと向首する
南の海は輝きを増すばかりだ
      (海員89年1月号)  

 本人の自主選択の保障というが、仮に透明・公正な退職管理委員会が出来てもそこに労働運動があるのか、と問う。


泥船論をふりかえって
 緊雇対から20数年経た今、当時大掛かりな船員削減を行った船社が、現在も社名を引継ぎ立派に活動していることに気づく。三光汽船、太平洋海運、日之出汽船…。 
 中小系列の専属オーナー会社や中核体下位3社は、合従連衡(がっしょうれんこう)を経て、N、M、Kへと収斂した。
 一方、壊滅的な打撃は、盟外・中小非系列に集中した。三協、中村汽船、海栄船舶、特に協成汽船では関門、六連島沖で5隻を停船したが、退職金など労働債権も殆ど取れなかった。組合が組織の総力をあげて取り組むべきは、これら企業での闘いであっただろうと今にして思わずにはいられない。
 海運集約体制を終焉させ、日本人船員の雇用を断ち切ることは、75年の菊池構想以来船主にとっての悲願だった。円高や一過性の不況を、緊雇対という船員壊滅攻撃の理由と捉えることは船主の本質を見誤ることとなる。
 緊雇対の時限的措置が切れたら退職金はゼロ、と恫喝され辞めていった多くの船員。自分の社内での立場を考え潔く後進に道を譲る決心をした船機長や職長たち。休暇下船後思うような再就職先が見つからず、家族に退職を思いとどまるよう懇願されたが、既に船内で広言していたため、退職撤回は男の沽券にかかわると潔く辞めていった人もいる。「潔く」や「男の沽券」といった言葉が通用する労働者の世界の「優しさ」と異なり、それほどに資本の論理は非情であり、したたかなのである。
 泥舟論とは沈みかかった船から何人かが降り軽くすることで船を救う、というものである。
 現場船員の多くは本気で泥舟の先行きを案じたが、まことしやかに泥舟論を語るものたちは、泥舟が意外に頑丈な船体構造であることを知っていたのかもしれない。
泥舟が沈まない限り、また船員が降りるといわない限り、殆どが残れた筈である。20数年経て知った泥船論のトリックである。


次号に続く (元外航船員)