伊藤 敏(元外航船員)

第十五章 昭洋海運船員の闘い
昭洋職場の特長

 度々の経営危機の中で、強い団結を誇った双璧は太平洋海運と昭洋海運(社名は照国海運、新昭マリンと変わるが実質は同じ)であろう。両社はともに中手オペレーターとして、営業が自前でなされ、その規模から経営状態の可視化が可能だった。また会社規模からいっても、船員同士の意思疎通が容易であった。これらの条件が職場での労働運動の展開に有利に働いたことは想像に難くない。
 この章では1995年3月20日に会社解散に至った昭洋海運の闘いを取り上げる。
 会社解散にあたって3月21日付けの「FAXだより・海員だより」で平山誠一関東地方支部長は「本日をもって前身の時代から数えれば約47年の歴史に幕を下ろすことになった。
 この間、所属組合員は一貫して建設的な批判精神と強い団結にもとづく断固たる行動力をもって産別組合に結集し、海上労働運動を支えてきた」と評した。
 「建設的な批判精神」とは何か。
 産別組織である海員組合は中央集権を組織原理とし、労使協調を標榜していた。これに対し、昭洋の職場では反中央・反幹部の色彩が強かったが、それは情緒にとどまらなかった。常に代案が対置されたからである。
 断固たる行動力とは、定員削減、売船などの合理化攻撃に対して、躊躇なく抗議停船などの実力行使を選択した実績を指す。
 1980年代の後半、昭洋では三項目から成る独自の職場綱領すら存在した。
 ①腕をきたえ汗をながし、誇りをもって働こう。
 ②選別・差別を憎み、仲間を裏切らない。
 ③どんなことでもみんなで決める。少数意見を大事に。
 まさに「組合の中のもうひとつの組合」といっても過言ではない。
 そのような強い結束が、職場の中にありながら、結局は会社清算・解散という末路を迎えた昭洋船員。その足跡を何人かの現場船員の証言をもとにたどってみる。


職場委員制度と反合理化闘争
 照国海運の創業者である中川喜次郎は、薩摩半島の僻村の零細運送業者から身を起こした。
 朝鮮戦争の特需の中で、永野兄弟(長男は運輸相、次男以下はそれぞれ新日鉄会長、日本航空会長、参院議員、石川島播磨重工会長等々)や保利茂(自民党代議士、後の衆院議長)などに巧みに取り入ることで、政官財界に知己を拡げ、またたく間に同社を外航オペレーターの中堅へと押し上げた。
 その一方、乗組員へは温情主義を旨とした。他社に抜きん出た船員居住設備、外航労働協約に先駆けて支給された家族呼寄せ旅費、社長は入港船を訪れてはポケットマネーでボーナスを奮発した。
 昭和30年代に執行部員として同社を担当した田中正八郎元東京地方支部長は「訪船しても中川イズムの信奉者が多く、組合の話をしても何の反応もない箸にも棒にも掛からない職場の筆頭だった。
 だが、職場委員を置くようになり、大きく変化したのがここだった。だから職場委員制度は産別組織にとって諸刃の剣だ」と語っていた。1964年から初代職場委員を勤めた楢原豊さんは当時の事情を次のように語る。
 「中川イズムは船機長などのサロン士官や職長にはあったかもしれないが、その下の者には、むしろ船内生活に対する不満が強かった。
 船員は待遇がオカに比べて良い、と聞かされて船に乗ってきたが大したことはない。組合にしても少しも現場の意見を代弁していない。
 そいう鬱積した雰囲気のなかで、職場の民主化を求めて、上に対して臆せずものを言っていた自分が周囲から推され、職場委員に手を挙げることになった。」
 「小学校4年生で終戦を迎え、中学まで民主主義教育を受けた。
 海員養成所でも軍隊式が残っていたが、船に乗ったら職長を中心に更に封建的だった。戦前に逆戻りしてボーレン制度が復活したかのようで、悪習が多く残っていた。
 特に我慢できなかったのは、ボーイ長制度だった。入港前にはドアノブや手すりの真鍮磨きを通常の仕事を終わってから、夜9時、10時までやらされた。
 飯運びをやり、更に夜8時には、ボースンやストーキーのコーヒーの世話。全て無償労働だった。自分に続く後輩たちに同じことを絶対させてはいけない、と心に誓い必死でボースンたちと闘った。」
 20歳台の若い楢原さんが、部員の先輩たちから「生意気だ」と罵られ、トモのデッキで殴られながら、耐えて立ち上げたのが同社の職場委員制度である。


倒産攻撃を合理化反対闘争へ
 照国海運が最初の経営危機に陥り会社更生法を申請したのは、1975年のことである。
 経営危機の原因はオイルショックによる傭船料の急落にともなう逆ザヤの発生。社長の故郷である鹿児島と東京・名古屋・大阪の間を結ぶ大型長距離フェリー「さんふらわー」5隻(1隻の建造費は約100億円)への無計画な拡大投資の失敗にあった。
 楢原さんを中心に、当初の更生計画案(5~7隻の社船の売船、船員の半数を人員整理)の矛盾を全社的に明らかにし、出雲丸の売船反対闘争を契機に跳ね返した。そのことによって船員一人ひとりが自信を深めていった。
 定員削減や就労体制の変更による在来船の労働強化に反対し、職員と部員・甲機の壁を取り除くというバラ色の夢をばらまく船員制度近代化に疑念の目を向けていた。
 熊沢誠によれば組織労働者的な人々とは、次のように定義される。
 「なかまのあいだでの競争や管理職への昇進は忌避し、仕事にたいする誇りや使命感でいっぱいというわけではないにせよ、長くつづけてゆく仕事から労働者の基礎である技能、なかまとの協同性、健康を破壊しない牧歌性などを奪う合理化には地道に抵抗しようとする人びとである」(日本の労働者像・筑摩書房)。
 昭洋海運は中小の職場だが、査定・評価で会社への忠誠度を競わされる大手海運会社の船員以上に組織労働者的であった。
 職場委員制度の発足と倒産攻撃を端緒とする合理化反対闘争が、昭洋船員を鍛え、変えたのである。


会社清算の申し入れ
 その後、外航海運の船腹過剰が長期化する中、昭洋海運では新造船が投入されることはなく、逆に船腹の老朽化が進みスクラップ売船も余儀なくされた。
 所属船員の高齢化も進み、やむなく受け入れた二度の希望退職募集で高齢者を中心に職場を去り、75年に400名いた船員は20年の歳月を経て67名へと減少した。
 そうした中、組合に会社清算へ向けての緊急申し入れがあったのは、94年6月のことである。
 日本開発銀行は第二の税金である財投資金を電力、石炭、造船や海運へつぎ込み戦後復興へ大きな役割を果たしてきた。だが、規制緩和の流れの中で、「地ビール」や「ラブホテル建設」まで手を染め、当時社会的な批判の的となっていた。特殊法人見直し論議では開銀不要論も出された。
 こうした時代背景の中で、開銀が整理に乗り出したひとつが、既に主力市中銀行(長銀)債務の弁済を終えて身軽になっていた昭洋海運である。
 昭洋海運の歴代社長は開銀出身者で占められていたが、会社清算のため新たに、弁護士と役員を送り込んできた。
 緊急申し入れの内容は、それまで営業収益の大きな部分を占めてきたが積荷保障の切れた伊勢丸の処分、希望退職の募集、翌年6月の会社清算の三つを柱としていた。
 突然の申し入れに、社長に対する抗議文が船員と家族から寄せられた。船員からは、20年の辛苦は何だったのかという自問とともに湧き上がる口惜しさが、留守を預かる妻たちからは明日からの生活への不安が赤裸々に綴られていた。
 8月16日、売船対象のVLCC(超大型タンカー)伊勢丸は、中東からの原油を韓国で揚げた後、抗議停船のために長崎湾口で伊王島に寄り添うように投錨した。
 47日後の10月3日、希望退職募集と会社清算の撤回を条件に、伊勢丸売船に同意した乗組員たちはタラップを降りた。攻防の舞台は、長崎から東京へ移される。


終結、そしてそれぞれの道へ
 乗組員の願いは何よりも雇用確保であった。11月8日の海員組合の全国大会では、乗組員とその家族はビラ撒き行動で支援を訴えた。
 代議員からは、緊急動議が出され、「雇用の場を確保させる闘いを進める」特別決議が採択された。
大会で組合長は「同じ産業分野で飯が食えないか。先頭に立ち運動したい」。
さらに、大会後の記者会見で担当中執は「一番いいのは船を手当てしてもらって、ギャングで乗船 できることを第一のポイントとして考えたい」とも述べた。
 だがそれらはリップサービスに過ぎなかった。結果的に海上へ再就職を求めた53名のうち、組合の仲介で職を得たのは若手職員を中心に6名に過ぎない。その殆どは、内航の未組織へと流れていった。
 11月17日に組合は大会決議をもとに大手町の開銀へ行き、総裁あての支援要請書を渡す。
 雇用対策を求めた組合に対して、開銀は「再就職先確保について貴社(新昭マリン)及び貴職(開銀から派遣された弁護士)を支援します」という奇妙な文書を提示しただけであった。
 大会決議で組合は「日本開発銀行に対してその社会的責任を厳しく追求する」としたが、社会的責任はおろか、再就職斡旋機構への参加すら認めさせることはできなかった。開銀は表にでることを最後まで頑なに拒否し続け、結局組合はそれを許したのである。
 最後の交渉は決裂し、管財人団は12月27日午後東京地裁民事8部へ破産手続きに赴く。これを受けて地裁から組合に対して円満清算に向けて努力するよう要請があり、組合はそれを受け入れる。
 67名の船員は、会社の息の根が止まるまで居残り続け、会社とともに消えたという小さな満足は、得たかも知れない。だが、それぞれ明日からの職と食を求めて、思い思いの道を歩むことになる。
労働者が束になることの意義を噛みしめる機会は、二度と訪れることはなかった。

組合大会でビラをまく昭洋船員と家族たち
1994年、九段会館


産別海員へ残した課題
 12月23日、東京・芝浦での最後の組合予備員集会。活動家のひとりから、「何の見通しもない。責任を持って交渉するから後は任せろ、といわれても白紙委任はできない。新昭マリンの船員集団として最後の運命決定は自分たちも参加して決めたい」として、一般投票が提案された。
 これに対し執行部は、「執行部の責任において妥結した結果が、ケシカランというなら規約に従い処理すれば良い。組合として破産という最悪の状況は避けるべきと考える」として、退けた。
 船員は結局「会社なくして雇用なし」という陳腐な総括に肯き、資本に屈するしかないのだろうか。
 昭洋船員の歴史を丹念に追った理由は、職場闘争と企業内運動の限界を明らかにし、社会運動への転化がなければ勝てないことを確認するためである。
 担当中執は組合大会で「産別組合でよかったと組合員や家族にいわれるようにしたい」と発言した。
 だが、昭洋船員の終局を振り返る時、産別組合の優位性は無かったに等しい。
 次回では、産別として何が不足していたか、その課題を探る。


次号へつづく(元外航船員)