伊藤 敏(元外航船員)

第十二章 それぞれの緊雇対
日経新聞へのリーク

 緊急雇用対策の労使合意が行われる2ヶ月前の87年1月12日、日経新聞に衝撃的な記事が掲載された。日本郵船は船員を千名削減して千4百名体制へ。更に翌13日には商船三井が部員を主に千名削減と報道された。
 緊雇対小委員会での組合の追及に郵船・徳田専務は「心外な内容である。直ちに全社員をチェックしたが、そのニュースを出したという者はだれもおりません」と全面的に否定。
 商船三井・轉法輪専務も「大阪の記者との昼食会で、日経の記者から昨日の郵船の記事はいかがですか、考え方は一緒ですかと問われ、郵船さんがそういうことなら、うちもそういったことですよ、と答えた。細かい数字は記者側で勝手に準備した」と釈明した。
 組合教宣は翌週には訪船に動き出し、「配当会社の千人切り報道に怒りの現場」としてまとめたルポルタージュを「海員」87年2月号に掲載した。郵船や商船三井の現場船員の2人にひとりが整理対象というショックの大きさ、怒りを伝えて出色の出来栄えである。


日本郵船予備員集会の決議
 緊雇対労使合意直後の3月25日、郵船の横浜神戸緊急予備員集会は、同社宮岡公夫社長宛て抗議の決議文を採択した。


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 「われわれは、会社の苦境打開のため3ヵ年で10隻という大幅な減船に応じ、他社に先駆けて労働条件の劣る混乗船に取り組み、あるいは部門外の陸上産業への出向にも思い切って踏み込んできた。
また、一層の少数定員船であるパイオニアシップにも取り組むなど精一杯の自助努力を続けてきている。これも偏に会社を愛するが故である。しかるに会社はこのような我々の努力に対し、余剰船員論、コスト論を一方的に主張し、船員大幅削減を喧伝している。
 更に系列協議会の席上では、会社は緊急雇用対策を実施する状況にないにも拘わらず、2年間で14隻という大幅な減船提案をするなど、緊急雇用対策への悪乗りとしかいいようのない非常識極まりない態度を取り船員1000人削減合理化を実行しようとしている。
 我々はいかなる状況にあろうとも良き労使関係が状況改善への最善の道だと信じてきた。しかしながら昨今の会社の態度は、これまでの良き労使関係を一方的に踏みにじり、我々を雇用不安のどん底へ突き落とすものであり、憤りを禁じえない。
 われわれは、このような経営責任を放棄した理不尽な会社提案を、絶対に受け入れるわけにはいかない。会社の合理化案を跳ね返し、雇用安定の実現に向けて粘り強く闘っていく」
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 最大手企業である郵船船員ゆえの誇り、怒りの真っ当さがひしひしと伝わってくる。


会社と苦楽をともに
 海員87年11月号のひとくち発言で日本郵船通信長・柏木孝介さんは次のように語る。
 「わが社が生き残り、未来へ栄光を残していくにはスリム化が必要である。50歳以上の部員、職員でも不要だ。残ってもよいことなんかないぞ、いま退職すればこれこれの額だよ。本社に呼び出しては何月まで乗船するのか、退職の時期を明確にして欲しい、と攻めたてている。これは強制退職、肩叩き以外の何ものでもない。とにかく身体を鍛錬して定年まで頑張ろう。皆さん」と。
 ここには覚悟を決めた人の爽やかさが覗える。労働者の口から自然と出る「会社と苦楽をともにする」という言葉は、肩叩きへの抵抗として依然有効なのである。


配当・黒字会社へも波及
 郵船や商船三井の人員合理化は船主協会の船員1万人余剰論の一部であり、それぞれの将来ビジョンである、NYK21やチャレンジ21の先取りが本質である。
 不動産収入があることから株式配当を欠かしたことがない飯野海運。円高でむしろ原油輸入安の恩恵を受ける石油会社の庇護を受ける東京タンカーや出光タンカー。
 5、6年先までの海運不況に耐える企業体制を構築することを目論み、身軽になることが目的の三菱鉱石輸送などの削減提案会社。
 中央で労使協定したことで際限のない拡がりをみせ、郵船や商船三井だけでなく、配当会社、黒字会社でも、緊雇対が実施された。
 緊雇対の大きな柱の一つである時限的措置としての特別退職制度は中央協定だが、実際は各社それぞれが支部と交渉し、希望退職募集期間や割増率がバラバラに決められた。割増率も社内統一ではなく、最後は会社労担対個人の争いへ置き換えられてしまった。
 個人では到底この攻防戦での勝ち目はなかった。こうして、船員社会は労働の再生産機能を喪失するほど、一気に縮小し、崩壊への道をたどることとなる。

三光汽船・瑞東海運再建の闘い。
組合本部前の看板

第十三章 Jライン闘争
怪物日本興業銀行

 当時多くの会社に重役を送り込み、人員削減を継続融資の条件にして1社当たり数十億、大手では数百億と言われた割増退職金を用意したのが興銀である。ジャパンラインの人員削減でも極めて強硬に、前面に出てきた興銀とはどのような金融機関なのだろうか。
 「小説日本興業銀行」(高杉良著・講談社文庫)は、銀行の人事が延々と語られ産業金融を標榜しながら労働者がひとりも登場しない奇妙な小説だが、単に金を貸すだけでなく、人材とノウハウを武器に、海造審のような国家の経済政策論議すらリードする様子が実名で書かれている。
 官僚や金融の一握りの人脈が日本を支配していることがわかる。
 興銀は、戦後のドッジラインで民間銀行になるまでは、大蔵大臣や日銀総裁を輩出する超エリート銀行であった。
 小説のモデルは日東汽船と大同海運合併の立会人であった興銀頭取の中山素平で、若狭全日空社長と土屋JL社長に懇願され、三光汽船によるJL株買占め事件の手打ちの仲介をした人物である。興銀とジャパンラインのつながりの根深さを物語る。
 ジャパンラインの累積赤字の原因は仕組船の大量建造(140隻)である。「合理化を受け入れなければ銀行の融資が受けられなくなる。会社更生法を受け入れるつもりはない」という合理化提案にあたっての会社説明は、「倒産すれば銀行債権を放棄せざるを得ないから、倒産はさせない」という興銀の強い意思の現れである。
 投機的経営を煽った興銀を免罪し、180億程度の首切り資金で船員に責任を転嫁しようとした、というのがジャパンライン問題の本質であることを示している。


指名解雇をめぐる攻防
 ジャパンラインの人員削減合理化は、二度にわたって闘われた。
 85年12月18日、次のような合理化提案がなされた。
①船員1900名のうち850名(陸員100名)の希望退職募集。
②55歳で20ヶ月の特別加算。
③退職者のうち希望者は別に設けるマンニング会社で140隻あるJL運航船で55歳まで期間雇用ベースでの配乗保障。
 会社は翌年3月1日希望退職募集を強行。組合は希望退職募集の強行は、過去の労使確認違反として地裁へ仮処分を申請。
 ところが、3月20日組合は仮処分申請を取り下げ、会社と協議再開。希望退職募集要領や加算金の特例について合意。4月1日会社は目標の90%を達成と発表した(実際は600名余りが退職)。
以上がジャパンラインの一次合理化の推移である。
 実際には、組合の仮処分申請の取り止め以降に退職者が急増したといわれる。「こんなにも多くの仲間が会社も組合も信用せず、船員の前途に見切りをつけていたのか」と、同社の現場活動家は強い衝撃をうけていた。
 87年10月会社は新たな再建案を出すが、交渉は平行線をたどり、やがて出されたのが以下の第二次合理化提案である。
 ①88年5月31日付けで人員管理会社JLSの千名を全員解雇。
 ②そのうち4百名をJL本体に戻し、百人は陸上関連会社へ出向。
 ③残りのうち希望者はJLフリートに期間雇用で採用、その他は完全退職。
 5月20日までに何れを選ぶか希望調査を行い、期日までに回答がない者は退職希望とみなし、退職加算金は支払わない。希望調査を行うが最終的には会社が決定する、というもの。実質的な指名解雇提案という強硬なものであった。


船労委の限界・調停放棄
 これに対抗して3月、組合は90%を超える圧倒的賛成でスト権を確立。5月11日14時以降のストライキ通告。5月15日永祥丸(川崎)を皮切りに6隻が停・滞船。会社はこの過程でJL本体へ戻す4百名のリストを作って発表する、という強硬策に出た。
 5月21日交渉が決裂し、組合はストを中止し船員地労委へ調停申請。次のような調停案が出された。
 ①会社は希望退職者全員の職場保障を行い、組合は再建計画の人員数を理解する。会社は指名解雇的行為を行わない。
 ②会社は全員の自由意志による職域選択をさせ、本人希望を尊重する。それらの実施により全員JLSを退職する。
 ③会社は募集に当たって誠意を持って対処、希望者は第一、第二希望を提出。会社は原則として第一希望を尊重するが、職間バランス等を考えて第二希望の諾否については本人と協議、調整できる。会社は調整結果を組合に報告、組合は本人意思を確認。
 調停案の解釈について調停委員会の見解を聞くために労使双方が地労委に再申請したが、調停委員会は受理せず、労使双方の開きを詰めるよう労使交渉を求めた。
 7月1日から副組合長、JL社長、公益委員の立会いのもとでのトップ交渉がもたれた。


交渉妥結と船内大会決議
 7月3日残留者枠の60名増加、JLS移籍者を継続雇用とし、575名全員を対象に再協議、再調整で妥結。
 その結果、575マイナス460、つまり115名がJL本体へ戻れなかった。希望者全員復帰の旗を降ろさざるを得なかった理由として、支部ニュース・JL版で次のようにのべている。
 ①調停委が解釈を出さず、労使交渉での決着を求めたこと。
 ②労使交渉では歩み寄りがなく、金融の資金融資の調達期日を過ぎた場合、企業存続に関わる重大事態が予想され、組合方針の堅持は不可能。
 ③労使交渉を通じて組合解釈(本体復帰希望者は必ず残れる)がそのまま受け入れられないことがあきらかになったこと。
 妥結に対して寄せられたA丸船内大会決議「組合執行部の責任を追及する決議」(船部協・88年7月号より抜粋)を紹介する。
 「従来の組合主張をおろさざるを得なかった理由として、労使交渉を通じて組合解釈(本体復帰希望者は必ず残れる)がそのまま受け入れられないことがあきらかになったためとあるが、これは今日まで組合の教宣を信じ、従ってきた我々の足元をすくい、梯子をはずしたともいえる無責任きわまりない声明である。会社はいろいろな情宣活動を行ったが、その中で組合のトップは400名プラスαを認めているが知らないのは職場委員だけ、という話を執拗に流し、指名に応じない175名をまるで自己の権利にのみ固執する者のように内外に印象づけていった。東支・職委は、175名以外の者の身分を早々に決めてしまい、残るは175名だけだとして会社のやり方を助けた。上記、組合執行の問題点について猛省をうながし、強く責任を追求するものである。」と手厳しく批判した。


組合執行活動の「限界」
 「海員」88年12月号は、「雇用問題に明け暮れたこの1年」という特集で、関東地方支部執行部員による座談会を掲載している。
 スト権確立を懐に2ヶ月ばかり交渉が続いた。この間、組合ニュース、沖への情報伝達は毎日のように行い、組合員の不安を抑えていった。
 川崎沖などで5、6隻の船がとまったが会社の姿勢は変わらず、金融資本の圧力の強さを見せ
つけられた。交渉は徹夜交渉の連続だったが、解決の道は見つけられず、船地労委に調停となった。
 労使が調停を受けたことで大きな山を越えたと思ったが、その解釈をめぐって、もめた。
 会社は400人しか残さない、組合は希望者を全員残せと主張し、また徹夜の交渉が続き、最終
的に460人で妥結した。金融は船員400人、陸員200人が金融支援の最低条件だと強く主張していたようだ。
 我々の闘いも万能ではない。限界があることを理解し、解決のタイミングを見失わないことも大切な教訓だった。
 多くの点で会社提案を押し戻したが、雇用を守るという大命題では後退せざるを得なかった。組合としても一企業、一産別での交渉のワクを乗り越えて、大きな視野に立った交渉体制をつくる必要があるだろう。世論の盛り上げにも努力したが、結果としてあまり動かなかった。
 ビラ配布とか街頭デモ、国会陳情、街頭演説などやることは随分やった。
(「海員」88年12月号)
労使交渉、船地労委の調停、世論一般への宣伝活動など既存の枠の中の闘いでは、限界があることが率直に語られている。

有楽町Jライン本社内の抗議行動.組合主催


Jライン闘争での展望
 結果として115名の指名解雇者をだしたジャパンライン闘争。
 他社での肩叩きも年令、職種、免状、近代化資格、会社への忠誠度による選定だから指名解雇と実態において同義語なのである。
 緊雇対という首切りの嵐の時代を総括するとき、「本人の自由な選択による退職」は表看板にすぎず、現実には多くの指名解雇者を出した事を忘れてはらない。
 「合理化案を拒否して倒産した場合、組合員の保障をしてくれるのか。組合は見通しを示せ」という声が再建協議に直面する多くの会社で聞かれた。ジャパンラインでも同様の声がでて、組合執行部は沈黙するしかなかった。
 だがジャパンラインでは、自ら明確な展望を描いた船内大会決議が土壇場でうまれた。
 「会社存続のためなぜ我々が犠牲にならなければいけないのか。我々全従業員は一体である。一部のために一部を犠牲にするということはできない。
 全員でできるところまで頑張って、それで駄目なら倒産もしかたがない。会社更生法の三光汽船さえ、不当解雇をせずに続いている。JLも興銀まかせの無茶苦茶をするより更生会社としたほうが、早く再建できる」と。
(JL倶楽部・職委報から抜粋)
 注目するのは、JL本体へ戻れる安泰な立場の4百名が、希望者全員が戻れない限り解決はない、と述べていることである。最終局面で労働者としての思想性を更に一段高めたのである。
 このような至宝のような決意に出会う時、人は励まされ、「労働運動の可能性」を確信するだろう。
 船地労委の調停に前のめりになれば、4百名に上積みの交渉しか途はない。JL本体へ帰りたいという多くの声、なじみの職場でなじみの仲間と苦楽をともにしたいという希望に依拠する時、展望が開けたのではないか。
 Go to the court (法廷に行こう)ではなく down the tool(工具を放れ)が船員には似つかわしい。
 港ではジャパンライン各船が整然とストに入り、林立する組合旗が興銀を取り囲む。それでも勝てなかっただろうか。これは見果てぬ夢だろうか。


次号に続く(元外航船員)