生涯現役・ひとり外国人船員の中に
  松尾守人船長(71歳)

Q:なぜ船にこだわる?
 深い考えは無いさ。一言で言えば、船に乗り足りないから。
 三光汽船に33年いて船員生活は最初の10年だけ。それも上がつかえていたので二等航海士止まりだった。
 倒産した翌年1986年から陸に上げられ、LPG営業や海務監督など色んな所に廻された。船に戻すという約束もいつの間にかチャラにされたので、その後船員生活は無し。船長になって世界中の海を航海して、色んな国を見て回るという夢が果たせなかった。
 このままではダメだと思って、57歳の時に三光汽船を退職して海技大学校の船長コースに入り、船長免状を取った。23年振りの船は大変だったけど、船に行く仕事が多かったからそれほど違和感はなかった。
 以来ずっと乗船を続けている。
 鷹揚な性格なのか、俺は商船大に入学した頃の気持ちから何も変わっていない。

Q:なぜ商船大学に?
 全くの偶然。岡山の片田舎に生まれ育ち、船の知識といえば親父が持っていた川崎汽船のカレンダーの絵だけ。
 高校の時は船乗りになる気もなく、卒業して山奥のダム工事の現場監督見習になった。 18歳で全くの素人なのに、父親以上の歳の爺さん婆さんをこきつかう仕事。現場監督とは名ばかりで、何でも屋だから給料計算までして手渡す。それが嫌になって東京に出て、住み込みで新聞配達をしていたら、母親が怒って上京してきて、将来どうする気かと詰問された。
 とっさに思い浮かんだのが親父のカレンダー。「商船大に入って船員になる」と言ったら許してくれた。結局、 3浪の末に東京商船大学へ。卒業時には不況になっていて、船の就職口が少なかった。

Q:何歳まで船に?
 体が続く限り、少なくとも73歳までは乗るつもり。パイロットになった同級生が定年延長で73歳まで働けるといっているから、負けたくないし。三光時代にアミーゴだったスウェーデン人の船長は76歳まで乗っていたので。
 前回はアイス(氷)の中の航海を初めて経験したけど、まだホーン岬・マゼラン海峡に行ったことがないし、船乗り生活を究めたとは言えないから。
 三光の陸勤時代に船長に対して無理強いしたり、わけもなく怒ったりしていたのではないか?今船長になって、あの頃自分が言っていたことをできているのだろうかと、悔いも感じている。

Q:三光を退職して14年、どんな船に?
 ケミカル船に興味があったので次席一航士としてフィリピン人と日本人の混乗ケミカル船へ。ケミカル船は韓国人が多く、日本人はほとんどいないからパイオニアになってやろうと思った。
 その後、幹部がクロアチア人とポーランド人、下がフィリピン人のタンカーに日本人ひとりで乗船。一航士経験も積んでやっと船長になれると思ったら63歳で退職と言われ、東北大震災復興時に内航に仕立てられた5万トンタンカーに乗船、その後今の会社に移った。
 日本の船舶管理会社だけど、パナマ・リベリア・香港など色んな国の船を管理している。フィリピン人船員ばかり千人ぐらいの中に日本人は俺ひとり。その後もうひとり日本人が入ってきて、現在は2人になった。

Q:船内の様子は?
日本人ひとりで不安は?

 今乗ってるのはバルカーで、世界中どこにでも行く。今初めて、昔の夢が実現できている。船の中は面白いよ。不安は全くない。むしろ毎日が新しい発見で楽しいくらいだ。
 航海中Off Dutyのクルーは夕方バスケットに興じていて、さすがにこの歳になったら無理だけど、入港やシケでもない限り毎週バーベキューパーティーをやることにしている。デッキの上で彼らと本音で話すと、色んなことが聞けていいね。ほとんどがリピーターで知った顔が多い。
 日本人だからと特別扱いされるのは嫌だから、飯もフィリピン人と同じにするよう頼んでいる。コックがたまに気を利かして日本の味噌汁を作ってくれる程度かな。
 労働条件もフィリピン人と同じでいいと自分から会社に申し出た。9カ月の乗船契約だけど1年近く乗ることもある。休みは3カ月くらい、下船中は船員保険も切れるので任意継続している。
 仕事もやりがいがあって面白い。短い航海では積み付け計算が大変だけど、三光時代に積み付け監督で強度計算、ポートキャプテンをしていた経験が今生きている。
 例えば、以前はストウェージプランの組み方を陸と何度もやり取りして、やっと入港に間に合っていた。それを、この先の港で荷物が増えたり減ったりする場合も考えて、想定内に収まるよう一等航海士にアドバイスして一緒に改善した。陸とのやり取りの回数が減り、船内に余裕もできた。そういう時は嬉しいね。
 色んな荷物を積んで、色んな港に行けるのも新鮮だね。まだまだ知らないこと、知らない港が一杯ある。

陽気な外国人船員たち(本文と無関係)

Q:乗船中気をつけていることは?
 やっぱり船は人とのつながり、コミュニケーションだね。
 船は船長だけでは動かせない。クルーがやる仕事の全てに目を通すこともできない。でも何か問題が起きればすべて船長の責任だから、事故やトラブルの原因になりそうなことを、どう事前にコントロールできるか、いつも気にかけている。会社のオーダーや整備指示、新しい法規が周知されているか、その大切さを説明するようにしている。
 特に気をつけているのは、彼らのやる気を尊重すること。新しいアイデアや向上心のある子、上の免状を取ってきた子がいたら努力している証なので、プロモートを推薦するようにしている。
 このあいだの船でも、一等航海士を船長にプロモートさせた。近々、その船に交代船長として戻るので、彼が成長している姿を見るのが楽しみだ。
 フィリピンの若い子は頭が良く、優秀な子も多いけど、普段あまり取扱説明書を読まないのが欠点だね。故障が起きない限り読もうとしない。大きな事故やトラブルは経験したことがないけど、彼らのそういう点は改めさせたいね。
 危ない経験は、クロアチアの一航士の下で次席一航士をしていた時のこと。タンククリーニングした後インスペクターと一緒にホールドの底に入った。その時突然バルブが空いて他のタンクのイナートガスが吹き込んできた。
 トランシーバーで大声を出してもカーゴコントロールルームにいる一航士に聞こえない。若いインスペクターに「逃げろ」叫んで命からがらデッキ上に脱出した。一航士に「ホワイ?ユーオープンサクションバルブ?」と詰問したら懸命に謝ってきた。
 ヨーロッパ人からすればクロアチア人は東洋人。だけど本人はヨーロッパ人のつもりで日本人を下目線で見る。それまでは俺を軽んじていたけど、その事件から信用してくれて何でも話せるようになった。
 そういうことがあれば、心が打ち解ける。怪我の功名といえば功名だね。身の危険を感じたのはその1回だけ。
 前回は初めてアイス(氷)の中の航海を経験した。渤海湾で、大気温度がマイナス19度で、「海が凍っている」とのインフォメーションが送られて来た。会社に問い合わせると、氷の厚さは10~15センチでたいしたことはない、沢山の船が行っているから問題ないという。
 しかし、実際に行ってみると岸壁近くは氷の逃げ場がないから厚さ70センチ位になり、タグで氷をかき分け、かき分けして、やっと着岸できた。
 ところが出港時にトラブルが発生。パイロットがハーフからフルへオーダーを出しても回転がなかなか上がらない。機関長が「ストレーナーが氷で詰まってる。港外に出たら掃除するから大丈夫」と言うので、パイロットを説得して出港した。
 しかし、燃料は消費しているのに、回転がいつまでたっても正規まで上がらない。「おかしい、おかしい」と、色々調べてみても原因がわからない。
 そのうち二等航海士が「氷でプロペラダメージになった経験がある」と言い出した。このままでは、とうていチリまで辿り着けないので、ダイバーを雇って船底検査することにした。
 釜山は船混みでダメ、次に函館で検査すると4枚のプロペラのうち2枚が曲がっていた。 先端を40センチほどカットし、バランスを調整してなんとか出港。海面上は薄いように見えても、氷の90%は水の中、良い経験になった。
 初めての港で上陸した時の発見も楽しいね。例えばこの間チリに行った時、公共バスや電車に乗ると、席が沢山空いているのに誰も座らない。老人や病人用にドア近くの席を空けてあるのね。
 日本人が忘れている良い習慣が世界には一杯ある。

Q:今の日本船員の状態をどう思う?
 船員の処遇がどんどん低下してしまった。昔は数年船に乗ったら家が建つと言われていたくらい高給だった。長期間家族から遠く離れて、見知らぬ地で働いている以上当然だと思う。
 その上、法律がどんどん厳しくなって、昔のような船乗り生活、のんびりした航海とは程遠い。ISMやISPSなどでがんじがらめだ。それはしょうがない面があるけど、その分国が優遇策、例えば船員の税金を安くするとか、日本籍船と日本人を増やす優遇策を出さなければいかんよな。
 そうしないと船員の成り手がいなくなってしまう。
 フォークランド紛争の時、イギリスの船長が「呼び出しが来たら会社を辞めて本国に帰らなければ」と言っていた。使命感のようなものがあるんだな。
 日本人はそれがだんだん薄れているように思う。
(10月6日インタビュー)