船乗り生活52年 我が船員生活に悔いなし!
中学を卒業して実家島原半島のイカ釣り漁船に。その後清水海員学校(現海上技術短大)を卒業して官庁船、外航船を経て34歳で平水、内航の世界へ。以後70歳に至るまで数多くの内航船を乗り継いできた。52年に及ぶ長い船員生活を振り返ってもらった。
(編集部)
「対馬行き」イカ釣り漁船
中学を卒業してすぐ実家のイカ釣り漁船に乗った。当時は機械なんてないからイカバリを10本付けた糸を持っての手釣り。9月から2月までは対馬の家に住んでスルメイカ、3月に島原の実家に帰って夏まで剣先イカを狙って平戸、五島列島辺りを廻る。
家族揃っての移動だから2学期が始まる時は対馬、2月に帰って来るから3月の学年終わりはいつも島原だった。だから故郷が2つあるようなもので、卒業は島原だけど、今も対馬の小中学校の同窓会に出たりして楽しんでいる。
対馬には毎年50隻位で行っていたから、町や漁業組合が土地を貸してくれた。家は自前で建てる。広い土地にイカの加工場や干場があって、小中学生は学校が終わるとイカの皮むき。うちは対馬の美津島町で、周りに同じような家族が沢山いた。
生まれた時からそんな生活だから、大きくなったら家の船に乗るのがあたりまえという雰囲気だった。
今思えば大変な仕事だったけど、満月の前後一週間位は月あかりでイカが散らばるから漁は休み、シケの時も休みだし、「こんなもの」と思っていたからイカ釣り漁も全く苦にならなかった。
2年神様1年奴隷の寮生活
昭和46年(1971年)に清水海員学校に入学した。
イカ釣りの仕事には慣れてきたけど、小学校5年生の頃、「将来の夢」という作文で書いた「船長になって世界を見て回る夢」がどうしても捨てきれなかったから。
外国航路の船員になるには地元の口之津海員学校が真っ先に頭に浮かんだ。ところが当時口之津は4~5倍の競争率で落ちてしまい第2志望の清水に廻された。第2志望を清水にしたのは児島や村上、館山などは何処の県かも分からず、清水次郎長という名前から富士山の近くだろうと何の気なしに書いただけ。
当時甲機コースは2年制で、入学時は85人位いたけど2年になって甲機分かれる時は70人を切る位になっていた。他に1年制の司厨科もあった。
全寮制で2年神様1年奴隷。気に喰わないとビンタや蹴りはあたり前、冷たい床に1~2時間正座させられたりで、そういう世界がイヤになって沢山辞めていった。自分たちが2年になる時、そういうことはやめようと話し合ったので、下の学年からは良くなったと思う。
寮の外出禁止の規則が厳しくて、自分も「脱柵(だっさく)」で謹慎1週間、夜抜け出して焼きそば食べに行ってビールとタバコで捕まり、2回目だったので謹慎1カ月。謹慎中は外出禁止で毎回授業前に「2度としません」という反省文を読み上げさせられる。
悪質な場合は1カ月の家庭謹慎で授業に出られないけど、その後ちゃんと出れば卒業できるようになっていた。
優雅な公団警戒船
卒業時は不況で外航からの求人がほとんどなかった。仕方なしに本四架橋の警戒船会社に入り、そのうち外航を捜すつもりだった。
当時はまだ調査・設計が始まったばかりで海員学校卒の採用は初めてで、かなり優遇されていた。海員学校は2年制なのに短大卒扱いで高卒者より給料が高くて妬(ねた)まれた。確か初任時の基本給が5万円、2年目は7万5千円に昇給した。
公共事業の一大プロジェクトなので政府から金が沢山出たようで、自分らペーペーには接待こそなかったが、月1回の課内宴会に新年会や忘年会、年1回の旅行で自分の金を出した覚えがない。宴会の帰りは必ず金額の書いてないタクシーチケットが貰えた。船長はチケットを月10枚くらい貰っていた。赴任先が神戸の同級生はもっと恵まれていたようで定年まで勤めた。
憧れの外航へ
知り合いから外航の募集があると聞き、即応募して外航T社に入った。19歳だった。
以来33歳の時に緊急雇用対策が始まるまでの14年間、三国間航路も3回行き、待ちに待った外航生活を思う存分楽しむことができた。
仕事内容は警戒船と違って航海中は甲板部も機関部も昼間の整備作業が山積みで港に着いたら荷役が待っている。学校の授業では分からない、本格的な船の仕事に初めて接することができた。毎日汗だくだったが、仕事を苦痛と感じたり、乗っていて辛い思いをしたことがない。
辞めよう思ったのも、「船員さんはずっと帰ってこないから」と彼女に振られた時くらい。それも一瞬のことで船に乗るとすぐ忘れた。
船内の雰囲気
当時は1隻23~25人位、全員日本人で船内の雰囲気は和気あいあい。どの船にも古参のボースンやナンバンがいて仕事に精通していて各々の部の作業を仕切っていた。新米甲板員の自分には分からないことだらけだったが、誰かしらが親切に教えてくれた。
デイワークの作業でも1時間半ぐらい汗かいたら一服してお茶の時間を30分はくれる。夕方も4時半頃には上がって洗濯や風呂。余裕を持って仕事を覚えることができ、毎日が充実していた。
船長や機関長も気さくで現場の仕事に口出しすることはなく、C/Oクラスも上から目線の命令調や、エラぶる人に会ったことがない。
仕事が遅い人や気の弱そうな人がいても誰かがカバーする。内航船と違い、イジメやクセのある人はいなかった。
大洋航海中の夜は毎日といって良いほど麻雀やカラオケ、飲み会。船長や機関長も混じってワイワイやって最高の雰囲気で、酒を飲めない人も参加していた。
外国での思い出
よく乗ったのはインドネシアのビンタン港にボーキサイトを積みに行く船。ビンタンでは飲み屋に若い女の子がいて、泊まりで1500円だった。航海中のレクリエーションは誰でも参加出来る輪投げ大会が多く、賞品には女性用のパンティーやストッキングが出た。まじめで全然遊ばない人もいたけど、俺は独身だからよく遊んだなア。
内地サイドも行く港がだいたい決まっているからなじみの飲み屋ができる。金はたまらなかったが船員になって良かったとつくづく思った。
たまに荷役当直に遅れても前の人が入っていてくれて、その分後で返せばよい。羽目を外しても告げ口する人もなく、スパイみたいなのもいなかった。ケープタウンでは日本の漁船がよく入るから、女性の部屋には豪華な日本人形がよく飾ってあった。
インドネシアでは現地の代理店チームと恒例のソフトボール大会。司厨部が昼の弁当を作ってくれて、向こうは中学・高校の女生徒も混じっていたので楽しかった。
バラ積み船で三国間に出た時は、日本→豪州→ケープ→ベルギー・オランダ・フランス・イギリス→パナマ運河→バンクーバー→中国→日本の世界一周もした。どの港にも1週間は居たから、船長が貸切の観光バスを仕立ててくれて全員交代で半舷上陸、パリや北京を廻った。アルバムを見ると、皆な上下お揃いの背広を着ているから、背広を持って乗船していたんだなア。
カナダのローレンス川の中から千葉に鉄鉱石を積んできた時はケープ周りで55日走りっ放なし。燃料費節約で10ノットしか出さないからマグロがよく掛かった。当時は看護婦さんが乗っていたから、マグロの引き揚げや解体、麻雀や輪投げ大会でキャッキャ言って楽しかった。良い時代だったなア。T社にはコンテナ船や自動車船がなかったから良かったのかも知れない。
事故の思い出
一度関門付近で衝突事故に遭った。夜中の2時頃に関門から降りて来た3千トン位の韓国のコンテナ船に衝突して相手の船は沈んでしまった。
昼間の仕事で、ぐっすり寝ていたので衝突のショックは感じなかったが、コンテナがプカプカ浮いているのに相手の船は見えなかった。コンテナ船が突然針路を変えて突っ込んできたのだけど、向こうは沈んでいるので裁判は長くかかったらしい。
雨季のニューカレドニアでボーキサイトを積んでの帰り道、船がどんどん傾いて危ないのでグアムに緊急入港したことがあった。下の方が液状になって船の揺れと共に一方に傾いていく。反対側にバラストを張るとまた逆に傾きどんどん傾斜がきつくなった。
グアムでハッチを開けて乾かし、硬くなった箇所と液状の箇所を混ぜる作業を続けて5日位したら何とか航海できるようになった。この時もグアム旅行に行けたのを覚えている。
緊急雇用対策で退職
休暇中に2カ月長崎の学校に行かせて貰い乙1(4級)の免状を取った。しかし外航では「部員は部員」というところがあり、苦労して上級免状を取っても部員出身はせいぜい2航士止まりだった。
結婚して子供が生まれ、女房から辞めるよう言われていた時、ちょうど緊雇対が始まって割増金が提示されたのですぐ手を挙げた。「乗る船がなくなる」、「これからは部員は外国人」と言われたら立つ瀬がなかった。
在職中に4級を取っていたのと、早く辞めたことが後々良い結果につながった。この時早く決断して正解だった。
職安の紹介で地元砂利船へ
もう船には乗らないと決めたものの、次のアテがないので陸の職安に行って半年間失業手当を貰った。大型免許を持っていたのでトラックのバイトをしたけど、荷物の積み下ろしや長距離で眠くて危ないのでやめにして、手当をもらいながら訓練校に行った。
それでも次の職が見つからないでいると、陸の職安なのに船の職を紹介された。地元の建設会社で小型ガット船、底開き船やバージなど10隻ほどで、4級で十分。「車通勤可」。これだとピンと来て即入社を決めた。
クレーン付きの150トンほどの底開き船で、地元の川や有明海、八代海を行き来する三池炭鉱の仕事が多かった。海底炭鉱なので石炭を掘ると海底が沈下する。そこにボタを運んで埋めてならす仕事。
たまにバージの応援で遠出してもせいぜい平戸や日向辺りまで。筑後川は干満差が4~5ⅿあって乗りあげたらコトだから澪(みお)を覚えるのに苦労したり、最初は大変だったが18年いる間に操船をマスターできたし、通いなので子供の授業参観や家の修理も出来た。恵まれていた。
外航から移って来た人もいて、何と自分よりずっと年上のT社の船長が退職して来たのには驚いた。外航大型船の船長が、老齢機関長と2人で150トンの川船で動き回るとは。苦労しただろうなア。
内航船の良いところ
建設会社が船部門を廃止するのを機に内航に移った。紙船、鋼材、バラ積み、黒・白・食油タンカー、ケミカル船に乗った。内航5社で計18年だから、一つの会社に長くいた方だと思う。最後の会社には都合10年位お世話になった。
18年の間、北海道から奄美、与論島まで様々な港に行った。
今でも目をつぶれば、港の景色が目に浮かんでくる。岸壁や防波堤、目当てにする灯台や浮標の位置、一方通行などその港のルールなど。
地図を描けと言われれば描けると思う。船長はそれが命だから。あの辺りならシケの時はあの港に避難できるとか、仮バースはあそこが良いとかも覚えている。
内航船の良い所は日本中の小さな町まで見てまわれること。これは外航船では味わえない。電車やバスで、その地方の名所を観光するのが仮バースの楽しみだった。
内航船の悪いところ
乗ったのは700トン以下の小型船ばかり。苦労したのは何といっても人間関係。
東北から九州まで、生まれも育ちも違うオッサン達が、わずか4~6人の狭い船内で毎日顔を合わせるのだからイザコザが起きるのはあたり前。「あいつが乗っているなら俺は辞める」とか、人の好き嫌いはどうにもならない。ある程度仲介して治らなければ会社に任すようにしてきた。
自分も次席船長でC/Oで乗っていた時、船長から嫌がらせをされて2度会社を辞めたことがある。特に漁船から来たタンカー経験の少ない若い船長の時は酷かった。
新造タンカーの受け取りで、その会社では古株だけど、仕事を知らない船長だった。最初のうちは自分の言うことを黙って聞いてたが、仕事を覚えて来ると、妬(ねた)みからか大きい顔してエバり始め、何かにつけてC/Oの仕事に口を出し、細かくケチを付けてくる。しまいには私生活まで口うるさく言い出すので我慢できず辞めることにした。
印象的な出来事
〇ブラックアウトで漂流
大きな事故はなかったけど、日向灘で突然エンジンのブラックアウトで夜中まで4~5時間流され、岬が目の前まで迫ってきた時は肝が冷えた。
発電機に燃料が行かなかったのが原因と分かったけど、配管にエアーが噛んで発電機がどうしても回らない。それでも機関長が何回も起動しようとするからしまいにエアータンクもカラになってどうにもならなくなった。
その時の機関長は大手外航会社出身で75歳。普段から踏ん反りかえってエバる人で機転が利かない上に小型船の実務に疎く、暗い機関室で怒鳴るばかり。最後は保安庁を呼んで曳航して貰い事なきを得たが、それからが大変だった。
翌朝保安庁の事情聴取が始まり、自分と急きょ駆け付けた社長が保安庁と話し合って、A重油ポンプの整備が悪かったことでお咎めナシで済ますことになった。ところが、それを聞いた機関長が「ケシカラン」と怒り出し保安庁に喰って掛かる。保安庁も、それなら徹底的に調べましょうとヘソを曲げる。社長と二人で機関長を呼んで一切しゃべらないよう説得して何とかその場を収めることができた。
〇留置所に入れられた船長
丸亀港で仮バース中、近くで仮バースしていた同じ会社の船のC/Oから、派遣で来た船長が酔って警察で暴れて困っているから引き取りに来てと電話があった。焼肉屋で一人飲んでいて隣の親子連れがうるさいと怒鳴り始め、しまいに焼き肉用のトングでその客を突付き始めたので店が警察を呼んだらしい。
警察に行くと既に眠たそうで大人しくなっていたが、C/Oが警察に謝って引き揚げようとすると、「俺は悪くないのに何故謝る必要があるか」と怒鳴り始めた。興奮して手が付けられないので「一晩泊めてやって下さい」とお願いしてその場は引き揚げた。
翌朝、社長と派遣会社の社長の2人が引き取りに来た。その船長は、その後もずっと派遣で来たが、酔って交差点で大の字になって警察に怒られたり、武勇伝が山ほどある。
他に、居眠りで瀬戸内の島に乗り上げ、瞬間ヤバイと思ったのか山の上に逃げ出した船長。機関長とソリが合わず、シラフでは言えないので酒飲んで突っかかって包丁まで取り出す船長もいた。包丁は取り上げたけど一触即発だった。
内航には、実に色んな人がいて色んなことを経験した。
操船の極意は?
やっぱり下調べが大事。港の配置と潮の流れ、目的地までのルートや避難場所、その時の気象・海象を前もって頭に入れて置くこと。そして自分の船の大きさや岸壁との距離、クセやスピード。このスピードなら浅い所ではどの位で止まるか等を体感で覚えておくこと。
昔はテレビの天気予報や気象庁のFAX天気図で予想するしかなかったけど、今は色んなアプリがあるから相当楽になっている。
それと「何をするにも無理はしないこと」。例えば接岸の判断。風速18ⅿを超えたら接岸禁止とハッキリ決まっていれば良いけど、20ⅿ吹いていても「接岸するかどうかは船長判断に任せます」とオカ側が逃げを打って来る所が多い。そういう時、他の船が着けても自分が判断つかず迷う時はスッパリ諦めることが大事。
一度鳴門海峡で冷や汗をかいたことがあった。荷物を積むと平均10ノットしか出ない船で紀伊水道から入って西に向かっていた。転流から40分近く経っていたけど、何度も通って知り尽くしていたので行けるだろうと無理したら、潮止まりから急に逆潮が早くなって橋の直前で4ノットに落ちてしまった。注意喚起はされなかったけどハラハラ・ドキドキだった。
それからは「10ノットの船では転流から15分過ぎたら行くな」と若い人に言っている。
関門海峡でも満船で7ノットで突っ込んで橋の下で4ノットまで落ちたことがあった。
昔はオペから「走れ走れ」とセカされたけど、今は無理なら無理と会社に言い易くなったし、働き方改革でオペもかなり聞いてくれるようになった。週に一度は休ませてくれるオペも多くなった。
船長にとってこの違いは大きい。気象状況や乗組員の疲れ具合を考え、無理なら無理とハッキリ言うのが良いと思う。何か起きてからでは遅いのだから。
これから第2の人生
70歳でスッパリ辞めることにしたのは、最近内航船の事故が多くなってきたから。幸い大きなケガもなくやってこれたので、今のうちに引退して、今まで出来なかったことをやろうと思った。
乗船の合間に勉強して危険物乙種4級を取ったので、アルバイトで資金も稼げる。これからはジムに通って体力を作り、ジムで出来た飲み友達とスナックに貢いだり、好きな所に旅行して第2の人生を楽しみたい。
(2026・1・31、編集部)