―海上左派の足跡―
柿山 朗(元外航船員)
第一章 戦前の弾圧と抵抗
㈠ 弾圧と社会
① 治安維持法による弾圧
1925年、国体(皇室)や私有財産制度を否定する共産主義活動を取り締まるために治安維持法が制定された。だが次第に対象が拡大され、反政府的な言動や運動が弾圧の対象へと広がる。1928年の改正で、それまで懲役10年だった最高刑が死刑となる。
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟によれば、1945年治安維持法が撤廃されるまでの約20年間で数十万人が逮捕され、そのうち7万5千人が送検された。そして2千人が拷問により虐殺や病気などで獄死した。
② 満州事変と日中戦争
「満州」は日本にとって鉄鉱石や石炭が取れる原料供給地だった。
日本軍は1931年、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国軍の仕業として日本政府の承認を得ないまま、戦争をひき起こし、中国東北部に傀儡政権「満州国」を建国した。
1937年、盧溝橋で日本軍の演
習中に、中国軍からの発砲があったとして日本軍が中国軍を攻撃する事件が起きる。こうして日中の全面戦争、日支事変が始まった。
③ 労働組合の解散
1931年、満州事変の勃発を契機とする軍国主義・全体主義の台頭は労働運動の存在を根こそぎ揺るがす。戦時体制の強化は、労働組合の自主権を奪った。軍部と官僚は、労働組合へ労使一体、事業一家、産業報国のスローガンを命じ、更に労働組合の解散を要求した。1940年、労働組合は全て自発的に解散させられた。
㈡ 戦前の海上労働運動
① 日本海員組合の創立
1921年、日本海事同盟など20以上の団体が参加して日本海員組合を創立した。三井物産の船長楢崎猪太郎を組合長、濱田国太郎を副組合 長とした。
創立当日の列席者は神戸市長、兵庫県知事そして各船社の社長だった。集会は天皇、皇后両陛下への万歳三唱で終わった。組合綱領には、団体精神を向上、職業に対する責任感、船内秩序を重んじること等が並ぶ。これに来賓として列席した労使協調の本家、友愛会会長の鈴木文治は、「これでは労働組合とはいえない」と語ったという。
1938年、国家総動員法が発令され、官、資、労(部員は海員組合、、職員組織は海員協会)の三者で「日本海運報国団」へと変わる。やがて一切の労働運動が海上から消えた。
② 海員刷新会の誕生
1924年、日本郵船の火夫・田中松次郎を中心とした若い船員によって神戸で発会式が行われた。
創立宣言は「無産階級の解放は、無産者自身に依って完成されねばならない。…中略… 労働者の解放を目標とすることを宣言する」
刷新会の綱領は至って簡単なもので「船員の政治問題の研究」と「月二割利子、高利貸しの撤廃」の二つだった。ボーレン(船員口入れ業者)の介在の廃止、賭博の撲滅等、船員を巡る悪習の廃止は何より切実だったに違いない。
1930年には、全国的に共産党員の一斉検挙が有ったが、反弾圧と反戦の闘争を続けた。海員刷新会にかかわる部分は以下を引用。(「海上労働運動・不屈のあゆみ」海上労働運動史資料編集委員会・角岡田賀男・編)
③ 日本海軍の反戦兵士たち
呉市は造船所が立ち並び、戦艦「大和」などが建造され、東洋一の軍港、日本一の海軍工廠の町として栄えたことで知られる。
海軍の兵士や工廠の労働者はそれぞれ「社会科学研究会」など学習の機会を極秘に持った。呉の市民の中から応援者を徐々に得た。
海軍兵士は「聳えるマスト」、工廠は「唸るクレーン」という機関紙を極秘に発刊した。運動の中心であった海軍二等機関兵曹の坂口喜一郎は呉憲兵隊に捕われ、1933年広島刑務所で獄死、死因は虐殺と推定される。
④ 船員出身のふたりの海軍兵士
二人の共通点は、海員刷新会組合員だったこと、徴兵され呉へ来て反戦運動に参加したことだ。
西氏(にしうじ)幸次郎は、逮捕され出獄した後、再び外航船員となった。アメリカ共産党民族課日本人部や野坂参三と会って連絡を取り1941年に再逮捕される。
山口義次は、「軍艦の中か」という手記で次のように兵士たちへ呼びかける。「支配階級は国家のあらゆる機関を総動員して、戦争熱の宣伝煽動に狂奔している。だが、戦地から帰った戦傷兵、廃兵が語るのは戦争の悲惨だった」
(この項、「聳えるマスト」・山岸一章著・新日本出版社から)
第二章 敗戦から戦後へ
㈠ 終戦後の海運と海員組合
① 敗戦と日本海運
日本政府はポツダム宣言を受諾。天皇制の廃止、軍国主義の一掃、言論結社の自由が保障された。これにより治安維持法も撤廃された。また永久入獄していた共産党員のほとんどが釈放された。
敗戦時の日本船のうち、稼働船はわずか56万トンに過ぎず、敗戦時に生き残った船舶運営会に所属する船員は6万3千人。
戦後もマッカーサーの命により国民生活物資の緊急輸送と、米貸与船による引き揚げ輸送に従事させられた。
② 全日本海員組合の結成
1945年10月、神戸で創立大会が開催された。組合長には小泉秀吉が選任された。
共産党員の配置は、国際部長に田中松次郎、責任者は東京が大内義夫、若松が永山正昭だった。若松に永山を配置することで、その影響下にある共産党員を全九州にわたって配置できた。
㈡ 海員争議へ
① 海員が求めたもの
交渉の相手は敗戦後も存在した船舶運営会だった。運営会は戦時中、全ての商船を一元的に運行管理し、戦争目的に供する為の機関として設立された。海員組合は1946年、人員整理撤回と待遇改善を求めてゼネストを打った。
② 海員争議を支えたもの
第一に戦争体験だ。組合が政府に出した陳情書には次の一文がある。
「我々船員は同僚が最後まで守り通した現存船舶が彼らの血と生命をもって後に続く者に残した遺産であり、断じて船主の専有物ではない」。そこには膨大な死傷者を出しながら戦時海運を担った船員たちの誇りが読み取れる。そのような船員たちの意識は、使用者も政府も一般国民も無視できない強い倫理的説得力をもつものであった。
③ 青年行動隊
正規の組合員の他に青年行動隊が組織され、その活動が目立った。 その背景には、解雇の矢面に立たされている青年層の切迫感があった。不熟練の青年層を排除するのではないかという危惧が強かったからである。
④ 終身雇用慣行成立の出発点
1946年の海員争議は画期的であり、日本の解雇撤回闘争の中でひときわ重要な位置にあり、転換点だった。
この項、社会科学者・仁田道夫「1946年の海員争議」から引用
第三章 船員と岩井会
㈠ 岩井会の起源
① 岩井弼次(ひつじ)について
岩井会は実質的に大阪海員クラブを運営する団体である。軍国主義の時代に、権力に抵抗する人々の組織であった。戦前から共産主義者として活動し、医師でもある岩井弼次は、公衆病院を設立。公衆とは社会化を意味し、医療の社会化が目的だった。二度にわたり治安維持法違反で検挙されている。
② 大阪海員クラブ
入港する船員の活動や生活拠点としてできたのが大阪海員クラブである。大阪港にほど近い港区港晴にこの建物はある。海員組合の支部は各地にあるが、独自の運動の為に、現存するのは全国でもここだけであろう。資料室には船員の運動を伝える本や資料が並ぶ。建物を預かる一村さんは、船員の皆さんに是非来てほしいとのこと。
本年10月、活動家歴80年の西川さんの百寿の祝いと、上梓された西川さん著の「私の履歴書」の出版記念会が大阪であった。
㈡ 日本郵船 船医・水野進
① 欧州航路の豊橋丸乗船
一九〇三年 東京都江東区生まれ
一九三〇年 慶応義塾大医学部卒
在学中に日本郵船の依託学生になっていたため、5年間の義務奉公がある。卒業と同時に日本郵船の欧州航路の船医となった。
② 船内ストライキ
一九三二年ハンブルクで人寄こせ(増員要求)を普通船員全体の要求にまとめ、ストライキ寸前までいく。郵船は慌てて、他船へ行く予定の予備船員を廻す等の対策をとる。
③ 帰国、解雇、検挙と虐待
帰国後直ぐに神戸水上署に検挙される。日本郵船解雇。ロープを使った天井からの逆吊りの虐待等々。
水野はストライキ闘争の有効性の確信と虐待された経験が、その生涯の背骨を支えてきたと語る。
もはや船に乗れない水野は、前述の岩井弼次を追って、日本無産者医療同盟の活動を始める。
④ 無産者医療同盟の活動
「革命的精神とは、初めに屈服しないこと、弾圧に対する唯一の対抗手段は先制攻撃」「ブルジョア医療の権力には人民の団結で闘おう=無産者の健康は無産者で守れ」「医療運動は階級闘争」「団結するのに迷ったら原点に戻れ」等の言葉を、水野は各地の講演会で残す。
㈢ 水野の除名
①「水野進は、上田一派の党破壊活動と呼応して、党中央に対する批判を組織する策動を行ってきた。水野進を党破壊の分派活動を行った許すことのできない二心者」として1966年の共産党大阪府党会議で除名される。
② 水野への追悼文集(かもめ伝えてよ海の心を)に二宮淳祐と小川真の追悼文が掲載されている。
㈣ 船員たちの活動の拠点
大阪海員クラブ
① 柿本春吉
戦争中、広州や上海の敵前上陸の船に乗った。馬の糞掃除などをやらされた。良く生き残ったと思う。船員は海軍の軍人より多く死んだ。戦争の犠牲を受けた海上労働者は敏感だった。戦争が終わると同時に前衛のトップを切って活動に立ち上がった。
② 水野進
戦後、船舶運営会の中国からの引き揚げ船の船医として乗船し、海上ゼネストを指導。その後、共産党海上区の全国オルグとして西日本全域の指導。
③ 石井英明
1961年、山田海運の若潮丸に乗船していた船員。17項目の人権要求を提出し労働組合を結成。第1回団体交渉を大阪で行う。会社側は職務不履行を理由に全員解雇を通告。石井ら6名は、下船しそれぞれ新しい会社に就職したが、若潮丸での組合活動を理由に次々解雇された。石井は大阪海員クラブに寄寓して、名古屋地裁における勝利まで15年余の裁判闘争を闘い抜いた。87年、石井は56歳の若さで逝った。
④ 小川真
戦後すぐ浦賀にいて海員組合再建の活動に専念し、水野進とともに海上区の全国オルグとして指導に当たった。
⑤ 李泰腕
「帰国にあたって」の挨拶
生まれて間もない私が、母親の背に負われ玄界灘を渡ってから、苦しい日本の生活が始まりました。
生活難にもまして苦痛だったのはチョウセンという言葉でした。
働く者こそ真の兄弟であることを実感で知った私は、絶対に日本海員を忘れないでしょう。
(闘いの青春・逆流に抗して革命に情熱を燃やした人々・創生社)
第四章 永山正昭の「星星之火」
① 自伝「星星之火」
最近、名古屋の県立図書館で偶然見つけたのが、何度かお会いしたことのある永山が著した「星星之火」(みみず書房)である。彼は船員として戦前、戦中そして戦後を生き抜いた。その歩みをたどる。
② 永山正昭の年譜
一九一三年 小樽市色内町生まれ
一九二六年 庁立小樽中学入学
一九三四年 官立無線電信講習所
一九三四年 岸本汽船関西丸(ニューヨーク航路)乗船、(次席通信士)
一九三五年 無線技士俱楽部が海員協会から脱退し、無線技士会として再出発。常任委員へ
一九三七年 木田瑞枝と結婚
一九四〇年 海員協会、海員組合等が解散し「日本海運報国団」結成。厚生課厚生係長として就職。其の後、「機帆船海運組合」「西日本石炭運輸」等へ転職。
一九四五年 敗戦、社会党若松支部書記長。
一九四六年 日本共産党に入党。海員ゼネスト。中闘派と組合長派が対立。中闘派幹部とされ海員組合を除名処分。
一九四八年 共産党本部勤務。「アカハタ」記者。
一九五八年 「アカハタ」記者から共産党本部労対部へ復帰。
一九六八年 共産党労対部退職
一九七四年 浦田(乾道)法律事務所へ勤務。
一九七六年 浦田事務所を退職
一九九四年 死去、享年八一歳。
③ 小樽と三・一五弾圧
永山の生まれた小樽は「蟹工船」を書いた小林多喜二が育った町でもある。一九二八年三・一五事件で特高警察に逮捕された多喜二はその日のうちに、築地署で虐殺された。当時、永山は旧制小樽中学の3年生。その後の彼の人生に大きな影響を与えたと思われる。
小林多喜二に最も影響を与えた作家は「海に生くる人々」を書いた葉山嘉樹である。
④ 海員ゼネスト
前記のように、海員組合は1946年、船舶運営会に対し、人員整理計画の撤回と待遇改善の要求を突きつけ、ゼネストを打った。
現場の船員や青年層は中闘派を立上げ、戦前からの代わり映えのしない組合幹部の労使協調路線に抵抗した。永山も中闘派幹部のひとりである。
⑤ 永山正昭の悲しみと怒り
「星星之火」を読了して、彼の人生で一番の悲しみと怒りは何か、を考える。悲しみは、ひとり息子で自転車に乗った10歳の迅君が、バスに跳ねられ亡くなったことだろう。
本には共産党本部からの退職経緯が記されている。退職しなければならない理由を聞いても党本部の担当者は仮病を使って会わない。
永山が海員党員の名簿を落とした失態を指摘するが、そもそも名簿など作らないし持ち歩かない。
永山は20余年働いてきた場所が全く別の「世界」と感じ、争う元気もなくなった気がした。こうして退職を決意した。永山の一番の怒りは、共産党中央による卑劣な策動による退職経緯だと思う。
永山は晩年、友人への年賀状には「独酌低唸転荒涼」と記したという。
(了)