何よりもまずWi-Fiを!
松元 ちえ(ジャーナリスト)
台湾の遠洋漁船における労働問題が深刻化している。漁船員は、危険で不衛生な環境下で漁に従事させられ、死亡事故も多発していることがわかった。
IUU漁業の闇
乗組員は主にインドネシアやフィリピン、ベトナムなど2万人以上の外国人。ときに14時間を超えるような長時間労働をはじめ、台湾の法定最低賃金にも満たない給与、賃金が1年以上にもわたる未払い、船主からの脅しなどにさらされていることが明らかになっている。
飲料水や食料さえ不十分で、漁船員は代わりに浄化されていない海水を飲んだり、魚の餌で腹を満たすことを余儀なくされている。シャワー施設はなく、デッキで海水を用いて体を洗う
といった環境も稀ではない。
病気や怪我を患っても帰港するまでほとんど適切な治療を受けさせてもらえず、身体的な障害を負うことになったり、本来治療が可能な脚気(かっけ)で死亡する事件も多発。乗組員は、メンタル疾患を抱えて船から飛び降りたり、狭い部屋で首を吊ったりして命を絶つ悲惨な状況に陥っているという。
国際NGOグローバル・レイバー・ジャスティス(GLJ)らは2021年以降毎年、アメリカ国務省にTIP(人身取引報告書)を提出。2024年報告では、こうした状況が国際労働機関(ILO)の漁業労働条約(C188、2007年)を大きく逸脱する上に強制労働であると指摘している。そこには、コストカットのしわ寄せが労働者へと向いている実態が見
え隠れする。
インドネシア人クルーを対象に聞き取り調査を行ったGLJのジョナサン・パルシップさんは、IUU(違法、無報告、無規制)漁業によって乱獲や近海漁の枯渇が進み、海域もさらに外洋へと広がっているため、10カ月から1年もの長い期間操業に出ることになったと指摘する。操業期間が長引くと、船の燃料代や人件費がかさみ、企業は経費削減を図る。「ここに負の連鎖が生まれる」と言う。
釣り針で失明・解雇・送還
インドネシア人のアドリ・ネルワンさん(51歳)は、1995年から遠洋漁業で働く漁師だが、2021年7月、漁の最中に糸がはじけ、釣り針で右目を負傷した。2、3日の休みは許されたものの、船長からは漁を続けるよう指示された。
漁業は年間10万人が死亡するもっとも危険な仕事のひとつとも言われており(FISH安全基金調査より)、台湾交通部航港局の統計によると、台湾では少なくとも1週間に1人が死亡していることがわかった。
ネルワンさんたちが働く船の多くは、適切な医療薬どころか防護服も完備されておらず、乗組員は必要な医療訓練を受けているわけでもない。重症を負ったとしてもコストと天秤にかけられてしまえば、港へ戻る可能性はないに等しい。船長には、労働者が負傷しただけで帰港する気は毛頭なく、求められても拒否することが常だとパルシップさんは言う。
ネルワンさんは持参した抗生剤と鎮痛剤で、右目に走る激痛に耐えながら漁を続けた。1カ月後に船が港に着いて、やっと地元の病院で治療を受けることができたが、手遅れで失明。
その間、ネルワンさんは勝手に雇用先を変更され、そのことに対しても異議を申し立てたが、反抗した ことをもとに保険も慰謝料もなしにインドネシアに強制帰国させられた。仕事を失うばかりか、治療のために借金を背負ったという。
「私たちは、この労働で家族を養うだけでなく、台湾やインドネシアの経済に貢献し、私たちが獲る魚は日本やアメリカ、ヨーロッパの消費者の食卓に届き、大手の食品メーカーの利益につながっています」
労働組合の結成
2300人あまりのインドネシア人労働者は、台湾西部の東港漁港から船に乗りマグロやカツオ漁に携わる。ネルワンさん同様、高額な仲介料を支払うために借金を背負わされ、パスポートを押収されて行動の自由を奪われるケースが多数報告されていることから、「インドネシア海員フォーラム(FOSPI)」を結成。
インドネシアからの漁民が居住する11のコミュニティーをまたいで組織化を進め、安全と健康、労働者の基本的権利のために台湾政府を含めた政府関係機関や業界への働きかけを始めた。
国際人権・労働・環境などのNGO団体は2021年、各国政府に向けてILO条約を国内法として位置付け、人身取引や公正労働、現代の奴隷労働などによって捕獲される魚介類や海産物の提供、購入、そして輸入を禁止するよう提言を通して呼びかけた。
この結果、米国税関では、強制労働が認められた台湾船の4隻からの水産物輸入を差し止めるに至った。日本は翌年、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を発表。日本企業に対して人権のデューデリジェンス(人権意識の啓発、負の影響を特定・評価、影響の防止と軽減など)を実施するよう促している。
方針には、対処した説明と情報公開も奨励されているが、ガイドラインは法的拘束力を欠き、すべてが努力義務として各企業に判断は委ねられている。
仲間や家族と通信する権利
FOSPIが最重要課題として掲げるのは、すべての外洋漁業船舶におけるWiFi設置の義務化と乗組員のための自由なアクセスだ。特に外洋から組合(FOSPI) やしかるべき相談窓口へいつでも連絡が取れるようになれば、労災や労使間の問題についても早期に対応できる。
現状では、船長や漁労長のみ通信の権限があり、乗組員は利用が許されない場合が多い。そのため賃金が確実に支払われているかを確認したり、ケガや病気などの緊急事態に連絡を取ったり、十分に家族と話したりすることができず、深刻な事態に発展している。
国際NGOや人権団体などの支援を背景に、FOSPIは2023年、台湾政府に対しILO漁業労働条約(C188)の国内適用を要請。この条約が定める「すべての船員に付与された通信設備への合理的なアクセス権」を、海洋漁業経営者に義務付けるよう求めてきた。
インドネシア人乗組員への聞き取り調査を行ってきたNGOのメンバーは、「遠洋漁業で働く外国人乗組員は国内の労働法の適用から除外されるため、国籍や滞在資格による差別は健康で安全な職場で働く、という船員の基本的権利を侵害している」と指摘する。
WiFiキャンペーン
こうしたなかで2023年2月、インドネシア人乗組員らはNGOの協力を得て、「WiFi NOW for Fishers` Rights」キャンペーンを開始した。
キャンペーンを受け、同年9月には、FOSPIと台湾の陳建仁首相との面会が実現。FOSPI側からのWiFi義務化の申し入れを受けた台湾水産庁は、船舶所有者に対してWiFiの設置費用を助成することに合意した。ところがFOSPIの組合員によると、補助を受けたのは1100隻のうち90隻で、WiFi使用も週5分に限られているという。
航海中の船員にとって、無料で自由かつ安全な通信手段はライフラインである。しかし現状では、外国人船員が船上から労働組合へ加入して問題を回避したり早期に解決したりすることができないため、FOSPIや支援団体は、「結社の自由及び団結権保護条約(ILO・C87、1984年)」と「団結権及び団体交渉権条約(C98、1949年)」に違反していると指摘する。外国人船員が、労働省ではなく、水産庁の管轄であることも問題解決の障壁となっている。
このキャンペーンを通して船員たちは、台湾国内だけでなく、台湾水産物を主に輸入する日本や米国、欧州連合(EU)など各国の政府や企業、消費者もまた、この問題の関係者だとして連帯を求めている。
グローバルに訴える
台湾と米国は、2022年から米台貿易協議の枠組み「21世紀の貿易に関するイニシアチブ」に基づき、正式な貿易交渉を開始している。米国は世界第2位の水産物輸入国であり、台湾の漁船で捕獲したマグロやその他の魚の多くは米国で販売される。
米マサチューセッツ州ボストンでは、キャンペーンに呼応した労働組合や市民が支援ネットワークを結成し、シーフード・エキスポでの抗議行動や米政府への要請行動などを実施してきた。FOSPIと連帯して、米労働省次官との会談を実現。台湾現地の視察に加えて、トレーサビリティー(追跡可能性)の実現や強制労働の摘発など、漁業者の権利が確実に保護されるよう貿易イニシアチブ(協定)において具体的な文言を提案した。
これを受けて米政府は、台湾水産物を強制労働で捕獲されたとして輸入を制限。欧州連合(EU)もこれに追随した。今後米政府や米国消費者からのさらなる厳しい対応が期待されていたが、トランプ政権へと移行する中では交渉の足踏みが懸念される。
日本の労働組合、消費者に求められる連帯
「WiFiは、すべての船で利用できるようにするべきです。これは単なる漁業のデジタル化の話ではありません。国際的な労働基準に照らして見ても、すべての労働者にWiFiのアクセスが保障されるべきです」。労災で視力を失ったインドネシア人漁師のネルワンさんは、自身の経験を振り返ってそう話す。船長や漁労長の監視がない中で船員が無料でWiFiを利用できる環境は、強制労働をなくすためには不可欠だ。
台湾遠洋漁業は世界で第2位の規模を誇る重要な水産物供給元であり、日本はその最大バイヤーである。台湾水産庁によれば、2022年の水産輸入量はおよそ48万5千トン、15億ドルにも上り、そのうち3・8億ドル(約6万2千トン)が日本へ輸入されている。
日本企業の間接的な雇用主責任は免れない。しかしそのトレーサビリティはほとんど不透明で、バリューチェーン(価値連鎖)の頂点にある企業の説明責任は不問のままだ。
FOSPIはGLJなどと共に、消費者団体をはじめ、潮流を超えた労働組合へ共闘を呼びかけるために、昨年、今夏と来日。今後も日本政府や企業への働きかけを視野に入れている。
(2024.12.9)