柿山 朗 (元外航船員)
(1)武城正長著「便宜置籍船と国家」を読んで
① FOC誕生の起源
便宜置籍船(FOC)は、覇権国は自国の法律に縛られることなく行動できること、置籍船国は国家税収が確保できる、という両者にとって好都合な制度であった。
1910年、アメリカの軍事戦略の手段としてアメリカ船主が所有する船舶をパナマ、ホンジュラス、リベリアへ置籍し、活用したことに始まる。
この誕生の経緯から英国を中心に歴史的に形成してきた海運秩序とあい容れない船舶の誕生となる。
第2次世界大戦後、FOCが世界海運に有力な地位を占めるようになって以降も同様である。
FOC問題は国の枠を超えて、UNCTAD(国連貿易開発会議)をはじめ国際機関まで巻き込んだ論議が行われ今日に至っているが、著者が「便宜置籍船と国家」としたのも、単に経済
事象として片づけられないからであろう。
② 流れは欧州から米国へ
英国等ヨーロッパ諸国から発せられた便宜置籍船排除の動きは、具体的にはILO(国際労働機関)におけるFOCに関する勧告、ITF(国際運輸労連)のFOCボイコットに発展した。欧州と米国間の非公式協議でFOC問題が論じられたが進展はなかった。
しかし、初期段階のFOCはアメリカの戦時標準船にみられるように、船齢が古く構造的にも問題が多く、安全面から世論の批判を受けることになる。トリー・キャニオン号の座礁(1967年)をはじめ、油流出事故の大部分がリベリア船籍であった。大量の油流出による海洋汚染は地球環境に深刻な影響を及ぼした。
1960年代、海運への需要が増大する状況下で、世界経済の主軸が欧州からアメリカに移動し、米国船主のFOCが増加する。更に海運国ギリシャ船主を味方にすることで米国のFOC増加に弾みがつく。米国はILOやITFの活動に非協力的であった。
欧州海運国のFOC排除の動きはIMCO(のちのIMO、国際海事機関)を舞台に続けられた。FOC問題は、やがて欧州対米国の対立から南北問題へと移っていく。
③ 先進国と途上国の対立
UNCTADでは1977年に先進国と途上国間で、船舶と船籍国の間の「真正な関係」についての基準が明記され、FOCを段階的に排除する方針が示された。途上国は「不定期船市場において石油産出は途上国であるのに、タンカーの大部分は先進国が支配するFOCによって輸送が独占されている」と批判してFOCを巡る先進海運諸国との対立は次第に高まっていった。
④ FOCの船員
FOC乗組員は、アジア船員が圧倒的に多く、とりわけ1980年代以降はフィリピン人船員が増加し、今では日本関係船の7割と圧倒的多数を占めるようになる。
(2)中東貢献船「きいすぷれんだあ」
① 湾岸戦争下、ペルシャ湾へ
1991年、同船は日本政府の「中東貢献策」によりペルシャ湾へ入った。オマーンから先は米国軍人が乗り込み、直接、米軍の指揮下に入った。結局、危険区域(経度52度以西)であるサウジアラビアのダンマンへ行かされた。
「イラクのミサイルが地対空ミサイル・パトリオットによって荷役中の本船の頭上で2回迎撃され破裂するのを目撃した。作業中の若い米兵が恐怖に震え、泣いて本船へ駈け込んできた姿が忘れられない」と船長の橋本進さんは当時の様子を語る。
更に「中東貢献船である本船について海員組合は、直接的な軍事行動には加担しない。輸送は水、食料と医薬品に限定、危険区域へは立ち入らない等の条件を約束させた上で本船の就航を認めた。安保法制が成立した今なら拒否する」と振り返る。
② 葬られた戦闘
橋本船長は9ページにわたる報告書を会社を経て外務省へ提出する。だがそれは極秘・無期限と押印され外務省の戸棚に葬られていた。
ダンマンで戦争に遭遇した事実が明らかにされなかった理由を記者に問われた運輸省海技安全局長は、「国会で公開しても良いことなんてひとつも無い。忙しい中、余計な労力が要る。国会に呼び出され、野党に責められるだけ。知らせないで済むことは知らせない」と語る。
橋本船長は、「ある意味、戦争に加担してしまった。戦争には二度と手を染めたくない」。染めた覚えはありますか、という記者の問いに、船長の目から大粒の涙が落ちた。
「憲法を大事にしてきた自分が何故湾岸戦争に手を貸すことになったのか、その理由を橋本さんは問い続ける」。このナレーションでドキュメンタリーは閉じる。(2018年、名古屋テレビ制作)
(3)海賊対策と自衛艦派遣
① 海賊対処法制定
政府が海上警備行動と海賊対処法が必要とした理由は、
*石油をはじめ原材料の大部分を外国に依存する資源小国であること。
*貿易量は世界第4位で、うち99%以上が海上輸送による。
*年間約2千隻がソマリア沖、アデン湾を通行すること。
中東ではこの頃、日本郵船の大型タンカー「高山」や日本人船長が乗る漁船「天祐8号」が砲弾を受ける事件が発生する状況であった。
また、政府は、「海賊行為に対して武器を使用する条件は、警察官職務執行法を適用する」、「主体は海上保安庁が担うが、特別の必要がある場合は自衛隊が対処する」と閣議決定した。
② 戦後初の自衛隊海外基地
2009年には海賊対処法が制定され、護衛艦「さざなみ」「さみだれ」は静かに呉港を出港した。2011年には、ジブチに自衛隊唯一の海外基地が建設された。近年ソマリア海賊は減少し、低い水準で推移しているが、自衛艦の中東派遣は今も続く。
③ 次々と可決される戦争法
1992年 PKO法成立
2004年 自衛隊イラク派遣
2009年 海賊対処法の成立
2015年 安保関連法成立
※国際船舶制度の設立
1996年、国は外航海運の国際競争力を確保し、同時に日本船籍の減少に歯止めをかけるため、国際海上輸送の確保上で重要な日本籍船を国際船舶と位置づけた。
多くの税制上の支援措置を講ずるとともに、外国人に日本の海技免状取得を認め、日本籍船への配乗を許可した。当初、船長・機関長は日本人乗船が義務付けられたが、2008年に撤廃され、以後全員外国人の船が急増する。その結果、日本人船員が激減し、乗組員を減らすだけの制度となり、国の予算獲得が目的と不評を買っている。
(4)日米比の軍事同盟へ
① 初の日米比首脳会談
本年4月、ワシントンで史上初の日米比首脳会談が開催された。バイデン大統領は会談で「日比両国の防衛への米国の関与は揺るぎない」と述べ、中国を牽制した。その後中国包囲網作りに拍車をかけ、インド太平洋で1年以内に自衛隊と米比海軍の共同訓練を実施するという。
②「日米統合軍事司令部」設立
本年5月、自衛隊の陸海空の各部隊を一元的に指揮する「統合作戦司令部」の創設を柱とした防衛施設法などの改正案が参院本会議で可決、成立した。自衛隊と米軍の指揮・統制枠組みをそろえ、共同対処能力を高めるのが目的。併せて陸、海、空の3軍を統括する。
圧倒的な軍事力と情報収集を持つ米軍の判断に引きずられ、日本の指揮権の独立性が損なわれる懸念は、解消されなかった。
更に7月には、東京都内で外務・防衛担当閣僚会議(2プラス2)が開かれた。自衛隊との指揮統制の連携強化を進めるために、米側が在日米軍を再編して、作戦指揮権を持たせる「統合軍司令部」を新設する方針を表明した。
(5)戦争へ突き進む三要素 政治・石油・船員労働者
① 主導権を握る米国
パックスアメリカーナは第二次世界大戦後、超大国となったアメリカが中心となって成立した国際秩序のこと。「アメリカの平和」と訳される。アメリカは圧倒的な経済力と軍事力を持ち、当時、唯一の核兵器所有国であった。
② 石油の存在
石油は20世紀を動かした影の支配者だといわれた。第二次世界大戦前、石油需要量の80%は、エクソン、テキサコ、スタンダード等、石油メジャーに依存しており、日本国内での生産量は僅か10%に過ぎなかった。日本の頼るべき供給地は、東南アジアのスマトラ島やボルネオ島。石油のある所が戦地だった。
③ 船員労働者
船員は政治に翻弄されながら戦争を支えた。戦争で船舶と船員は全滅し、6万人の船員と7200隻の船舶を喪った。
「全日本海員組合結成大会」で、6万人の仲間を喪って内地へ逃げ帰った船員たちは、次のような「宣言」を採択した。
「労働ノ資本ヘノ隷属ハ最早過去ノ観念デアリ、強権的支配ト資本主義的搾取ハ真ノ民主的新日本建設ヘノ道ヲ阻ムモノデアツテ、自由ニシテ誠実ナル勤労大衆ノ自主的勤労意欲ノ発現コソ民主的新日本建設ノ原動力デアリ、民族復興ノ基盤タルモノデアル。吾等ハ斯ル見地ノ下ニ、茲ニ全日本船員ヲ打ツテ一丸トスル『全日本海員組合』ヲ結成シタノデアル。」(海員組合40年史より)
こうして戦後、船員社会は再建されたが、日本人船員が枯渇した今、日本関係船に乗る外国人船員は95%以上となった。
(6)フーシ派の船舶攻撃
① 止まない船舶攻撃と拿捕
船舶攻撃はドローンを使っての攻撃を含めると既に100回にのぼるという。また、5月には3つの海域で6隻が砲撃を受けたとされる。
攻撃を受けた「トルーコンフィデンス号」の痛ましさには言葉がない。ITF情報をチェックしているが、遅いと感じる。
②「逃げること」の大切さ
臆病者といわれても逃げる道を選びたい。生きていたい、と思う。
今、パレスチナ・ガザ地区での死者数は4万を超える。そのうち1万7千人が子供という。その子供たちは「逃げること」を知らないし、出来ない。
名古屋の久屋大通で「ガザに自由を」「虐殺やめろ」と大声をあげて、月2回行進する。
(終わり)