―石井英明氏の足跡から―

柿山 朗(元外航船員)

四、総評全自運組合専従として
① 陸(オカ)の支援者たち
 海員組合は産別であり強固な中央集権を組織原理とする。  
 昭和30年代当時、度の過ぎた労資癒着を「成熟した労使関係」と言い換える組合中央の欺瞞を暴露する役割を担うのは、海上現場の声以外になかった。
 海員活動家たちは、10カ月という長い乗船に耐えてでも、全国大会への参加を優先した。 
遠く離れて執行権を行使する組合幹部に対して、現場を代表して唯一モノが言えるのが組合大会だからである。活動家たちは大会が終わるとそそくさと乗船のため散っていった。
 そうした理由もあり、解雇闘争中の石井にとっては海上の仲間と会う機会は限られ、次第に活動の中で陸上労働者との接点が増えていく。
 年譜によれば、石井は名古屋汽船を解雇された昭和36年(1961年)の暮れから4年半、大阪の総評全自運組合の専従となる。
 石井との関係から「若潮丸」の闘いを支援したのが、同時期に解雇裁判中であった総評全自運関扇運輸支部の労働者たちだった。セメントミキサー車の運転手や助手の人達である。石井も関扇支部も弁護団はともに大阪・東中光雄法律事務所・所属という結びつきもあった。

当時の石井英明氏

② 関扇運輸支部の闘い
 若潮丸裁判を支援した関扇運輸支部組合員の松岡さんは、「石井君のたたかいを守る会」のパンフに次のように書いている。
 「私たちは、石井さんの首切り反対闘争を勝利させたことは、いくいくは自分たちの勝利につながるものだと思い、裁判への傍聴者を送ってきた。石井さんの4年半にわたる不屈の闘いに、労働者はたたかうことこそが、最終的には自分の、労働者の生活を守ることになるということを学んだ」。
 第一組合であった関扇支部は「せめて日曜日は休ませてほしい」と切実な要求を掲げて活動。しかし、会社側の攻撃は熾烈をきわめ、沖縄出身者で固めた二組、創価学会会員の三組、さらには分断のため七組まで作った。
 親会社アサノセメントの指示で警察OBの労務屋を導入、残業ゼロという兵糧攻め、9名の解雇、ビラ貼りをした組合員の逮捕、そして会社の一方的な破産宣告申し立て。
 こうした中、関扇社長はアサノに援助を求めるが見放され、自殺する。敵の本丸はアサノ資本であることが鮮明となる。
 会社破産の中で、なおも闘いを続ける30名の組合員たちが、アサノとの闘いで徹底的に論議して決めたことは、以下の2点であった。
*関扇に関係がない、と言い張っていたアサノ独占に、直接要求を突き付けてみずからの団結の力で勝ち取ること。
*「闘いの主要な戦場は法廷の外にある」という立場を堅持し、労働者の力で権力機関を包囲し、我々に有利な状況を作り出すよう努力すること。
 この結果、64年には地労委で勝利し、69年には高裁でアサノにビラ貼り告訴を取り下げさせ、組合員の職場あっせんと和解金の支払いを勝ち取った。
 関扇の闘いは「めしと団結」のタイトルで本になった。著者は今崎暁巳。発行所は労働旬報社。 
インターネット事業団のサイトで全文が読める。
 めしが先か、闘いが先かという議論を繰り返し、闘いの中でメシを食うという結論に至る。やがて収入のプール制を決めた。
 完全プール制の中で鍛え上げた全員討議、全員行動。一人ひとりの意見を尊重し、決まったことはみんなでやり遂げる訓練があったからこそ和解金の完全平等の分配が可能だった。
 著者の今崎は前書きの中で、「関西経営陣の露骨で悪どい労働組合つぶしの攻撃を受けて立った30人の男たちは、資本家の義理と人情とゼニの攻撃に一番弱く、放浪ぐせの強い男たちの集団。こんな定着性のうすい、団結に縁のなかった運輸労働者たちがどうして生活の根っこからの闘いに耐えることができたのか、私の一番大きな関心ごとだった」と述べている。
 全自運引間委員長から「運転手も読める面白い記録を」と言われて著述を続けたと言う。

「めしと団結」の表紙

③ 三生運送支部の闘い
 61年、故郷へ送金するために就職斡旋業者の勧誘で徳之島から大阪へ出てきた武建一(関西生コン前委員長)は、大阪生コン佃工場の運送部門を担当していた共同組へ入社する(翌年三生運送と名称変更)。
 この年に同社では、初めて御用組合ではない労働者自身の意思による組合が結成された。中心になって動いたのは、北海道出身の元自衛官、勝又十九二氏。 
自らが講師となり、同じ会社寮で生活する武ら若手社員を対象に小規模な学習会を開いていた。この通称「勝又学校」で武は初めて共産主義思想に触れる。
 それまでは会社幹部が委員長職を取り、対立候補が出ることなどあり得なかった。だが、「労働者としての権利の獲得」を公約に掲げた勝又が立候補し、会社推薦候補をあっさり破り委員長となった。そして全自運に加盟する。御用組合を作って労務管理を徹底させていた会社は、組合の生まれ変わった姿に恐怖した。
 会社は、組合潰しに、ヤクザ組織「酒梅組」に対策を依頼した。そして、64年に労組委員長の勝又を上司への反抗的態度などを理由に解雇した。さらに会社は、警察署に警官の派遣を要請するなどして弾圧の機会を狙った。緊急に開かれた臨時大会で組織立て直しのため役員選挙があり二十二歳の武が教宣部長に選任された。
 この頃、三生支部が会社に提出した「職場改善14項目要求」には、次のことが並ぶ。
運転席の改善。便所にトイレットペーパーを、臭い消しを。石鹸をみんなが使える数だけ出すこと。食堂にテレビを設置せよ等々。
これらは労働条件以前の人権問題である。石井は、若潮丸での要求「食料を船主団体並みとせよ、手紙を開封するな、旧軍隊の毛布は取り替えよ」などを思い出したに違いない。
(「告発!逮捕劇の真相」安田浩一著・アットワークス刊参照)

五、 関西生コン支部の誕生
① 共闘会議から統一へ

 生コン共闘会議のオルグでもあった石井は、優秀なオルガナイザーであると同時に、若手の相談相手としても多くの信頼を集めていた。
 ある時、武ら若手組合員を前に石井は「各支部にかけられている合理化は一見同じように見えるが、攻撃の手口はみなそれぞれ違う。我々は統一した指導機関、決定機関を持っていない弱さがある」と、生コン労働運動の弱さを指摘した。生コン共闘会議といいながらどこの支部も攻撃の中、自らの組織防衛で手一杯で本来の意味での共闘はできていなかった。石井はその「もどかしさ」を訴えた。  
 「産別統一組織が必要ではないか」石井の呼びかけに武ら組合活動家たちは気持ちを揺さぶられた。統一した組織作り、それは当たり前のように口にしていた団結という言葉の意味を再確認させるものだった。
 石井の解雇裁判が勝利する直前の65年6月、関西地区生コン支部結成準備会が発足。準備会の委員長に選ばれたのは23歳の武建一だった。
 参加したのは新光運輸・植田組・東海運・近畿生コンそして前述の関扇運輸と三生運送などの支部。背後には三菱、宇部、小野田、大阪生コン、アサノ、住友など独占資本が並ぶ。

② 産別組合とは
 石井の脳裏にあるのは海員・産別組織であったのは疑いがない。そして自らの苦い体験を踏まえ、次のような具体像を語る。
*企業の枠を超え、同じ業界で働く労働者が同じ目線で資本と対峙しなければならない。
*個別資本を相手にするだけでなく、その企業を動かしている背景資本への闘いを強化しなければならない。
*個人加盟を原則とし、外に開かれた多数派を形成しなければならない。
*要求、交渉、行動を統一しなければならない。
 この過程で議論されたことの多くは現在の連帯労組へと引き継がれている。まさに「関生スタイル」の原型だった。
 65年10月、西淀川労働会館で全自運関西生コン支部の結成大会が開催された。
 
六、闘いとわかれ
① 石井英明の年譜から

石井は65年9月、高裁勝利に伴い解雇が撤回されたものの、11月名古屋汽船は、全日海とのユニオンショップ条項を理由に再び解雇した。
67年1月、石井が日本共産党宮本路線に反対を表明したため、担当する宇賀神弁護士から弁護できないと言われ、弁護士を替え法廷闘争を続ける
68年9月、西日本書店を設立
72年5月、仮処分に続き、本訴の名古屋地裁判決で全面勝利
76年12月、名古屋高裁における和解での実質勝利
87年7月、大阪海員クラブを設立
88年1月、肝臓がんで逝去。享年56歳
(「闘いの青春」岩井会編・創生社) 
石井は68年、当時日本共産党を強力に支持していた関西生コン支部の組織内選挙で、武建一に敗れ生コン労働者の闘いの場から去る。69年11月11日、大阪中之島公会堂ホールは、関扇闘争勝利集会に集まった1000名の労働者、市民で埋まったが、その中に石井の姿はなかったはずだ。
 石井はその後「新左翼」と名付けた新聞の発行に全力を注いだ。
後に「新左翼」は「人民新聞」へと引き継がれ今日に至る。


② 石井英明への追憶
 石井の晩年まで親交のあった二宮淳祐(当時日本マリン甲板長、後に船舶部員協会事務局長)は次のように述べる。
 「若潮丸闘争の後、大阪に出てきた時分であったろう。当時二〇代後半の若者だった彼は、おだやかな、人を惹きつける笑顔の中に精悍な闘志をみなぎらせていた。その後まもなく石井君は名古屋汽船を不当解雇され、76年12月の和解による実質勝利まで15年余の裁判を戦い抜くことになる。
 石井君の真の裁判闘争の原因は、資本の共同者である右翼労働組合幹部の、闘う船員に対する憎悪と恐怖から発した理不尽な攻撃と、それに引きずられた中小船主の、いわれのない解雇に端を発したものである。その矢面に立たされて青春のエネルギーの大半を注がざるを得なかった。しかも船員の解雇反対闘争で15年余を賭けた男を、私は彼以外に知らない。
 それにしても石井君は、あまりにも駆け足で、私たちのそばから走り去った」。(89年3月、石井英明追悼集から) 
 結局、「海へ返せ」の声は届かず石井は逝った。党派の波に翻弄されたが、大海原の波ではなかった。船員として後に続く私たちへ「産業別労働運動の意義」を語る機会はなかった。そのことが悔やまれる。
 (次号に続く)