柿山 朗(元外航船員)
第一章 軍の論理
第二章 民の論理
第三章 溶け合う軍と民
(1) 軍事機能の民営化
(2) 商に揺れる民
(3) 強制と任意のはざまで
(4) 湾岸戦争と民間船
(5)「下船の自由」という権利
(6)「下船の自由」を巡る対応
(7) 旗と国家
(8) 戦後初の海外派兵
(以上、前号まで)
(以上、前号まで)
① 観音崎、戦没船員追悼式
2019年5月15日、私は観音崎公園(横須賀市)の丘の上から、海を眺めていた。ここを訪れるのは11年ぶりである。眼下の浦賀水道には大小の船が行き交い、操業中の漁船が黒い点として見えた。
折からの気圧の谷の接近で、南からの暖風のせいか対岸の房総半島は霞んでいた。
海に面した碑文には「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれている。
戦没・殉職船員追悼式は、君が代斉唱、黙とう、朝倉次郎殉職船員顕彰会会長(元川崎汽船会長・船主協会会長)式辞、首相追悼の辞(大塚高司国交副大臣代読)。
献花は顕彰会会長、遺族、海事振興連盟(代表は自民党・衛藤征士郎代議士)、海員組合長など各界の代表から始まる。一般参加者の献花はその次である。以前に比べ、遺族の少なさが心に残った。
最後に能楽「海霊」が観世一門によって奉納され、閉式となる。
② 海霊と皇室と天皇制
平成最後の日、テレビで繰り返されたのが11回に及ぶ天皇の沖縄訪問だが、平成天皇の観音崎への「行幸啓」も8回にのぼる。戦没船員の碑のそばには、天皇皇后の歌碑が建てられている。
前述の能楽「海霊」は、作詞者である元大連汽船の宮越賢治船長をシテとして観世一門によって奉納されたのを起源とし、受け継がれてきた。海霊は「四方(よも)の海みなはらから(同胞)と思う世になど波風の立ちさわぐらむ」という日露戦争を前に1905年(明治37年)に明治天皇が詠んだ歌から採っている。
この歌は昭和天皇が1941年9月の太平洋戦争開戦を決定した御前会議で、懐から短冊を取り出して詠みあげたことで知られる。
平成天皇ばかりか明治、昭和天皇までもが「平和愛好家」である根拠とされている。
戦争は天皇の名において始められた。戦争動員態勢の多くは勅令でなされたが、それは帝国議会の審議を経ない天皇の大権によって制定、公布された命令である。
その結果、多くの船員が天皇陛下万歳と叫んで海の藻屑となった事実は消せない。
戦争の終結も開戦と同様に、主権者である「天皇の聖断」によってなされたが、遅きに失し広島・長崎の悲劇を生んだ。
『忘れてはならない。国民の幸福が問題だったのではない。国体を護持できるかが最大の関心だった。そこまで見限られていた日本国民が、それでも涙しながら天皇に「罪」を詫びた。そのことを一人の日本人として世界にどう説明したら良いのか』(ある昭和史・色川大吉著・中央公論社)
5月15日のこの日、参院本会議で「天皇皇后両陛下がご清浄であられ、令和の時代が希望であるよう心から祈ります」とする天皇即位の賀詞が、共産党も出席し異論なく議決された。翌朝の新聞各紙は、このことを小さく報じた。
③ 船員たちが残した言葉
海なお深く(全日本海員組合編・新人物往来社刊)は数少ない船員の体験手記である。以下、船員たちの怨嗟を列記する。
『敵が上陸してきたら、捕まるな。もし捕まると判断したら直ちに自決しろ。自決用に各自手榴弾2発と蛮刀を渡す。もし万一、手榴弾で間に合わぬと思ったら、蛮刀で首の横の頸動脈をスーと引けば簡単に死ねる』(「死ね、の訓示で捨てられた遭難船員」、江田敏夫・東亜海運三笠丸)。
『火炎の中に向かって〝天皇陛下の銃〟を取りに引き返した東北出身の純真そのものの若者がどうなったか。どうせ死ぬのなら、俺も海軍艦艇に乗って鉄砲の1発も撃った上で〝名誉の戦死〟とやらにしてもらいたいものだ』(「死の島ガダルカナルからの生還」、本間金一郎・三井船舶吾妻山丸)。
『船員は靖国神社へは裏口からも入れない』(「香取丸のクリスマス・イブ」、武藤辰夫・日本郵船)。
『多くの船員が死亡したが、これらの人々が靖国に祀られたとも勲章を授けられたとも聞かない』(「冷凍船・秩父丸の最後」、高松一夫・日魯漁業)。
④ 犬死か英霊か
「餓死した英霊たち」(藤原彰著・ちくま文芸文庫)では、軍人・軍属の死者230万人のうち140万人は、餓死者であったと明らかにしている。『靖国の英霊の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にであった』と。
沖縄を撮り続ける映画監督の三上智恵は、「標的の島」(社会批評社刊)で次のように書いている。
『「犬死」は死者を鞭打つ言葉ではない。生き残った者に過去の過ちを問い直す言葉だ。「英霊」という言葉こそ、死者を粉飾することで戦争遂行者の責任をうやむやにし同じ過ちに導く罪深い言葉だと思う。人々の死を無駄だと表現するたびに、私だって耐え難い思いに苛まれるのは事実だ。でも彼らを犬死にしない方法がひとつだけある。彼らの死に徹底的に向き合い、学ぶこと。同じ過ちを繰り返さない社会を維持することだ』。
戦争中の輸送や補給を担う輜重(シチョウ)は最下位の兵科とみなされ、陸軍では「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶やとんぼも鳥のうち」と俗歌で揶揄した。その輜重のなかでも、更に船員は軍犬、軍鳩以下の5等軍属と見下された。
前記の船員の手記に名誉や靖国という言葉が並ぶが、単純に犬死ではなく英霊として祀ってほしいと言っているのではない。一切の栄誉とは無縁だった船員だからこその意地と誇りを私は読み取る。
戦後社会に生きるわれわれに、押し付けられた価値観や世襲天皇の権威に二度と身を委ねてはならない、勇気を出し自由にモノを言え、船員の権利のために体を張って闘え、という励ましに聞こえる。
⑤ 殉職という言葉の欺瞞性
戦没船員追悼会は1981年に運営主体となる殉職船員顕彰会が設立され、追悼式の名称も「戦没・殉職船員追悼式」と改められた。
その理由は「海難などで殉職した船員の慰霊、顕彰と遺族援護ならびに、海洋立国の精神を高揚し、海事思想の普及と海洋永遠の平和に寄与する目的」を付け加えたからである。
殉職から直ぐ連想するのは殉死だ。殉死とは主君の死を追って臣下が後追い自殺することを意味する。現在、殉職という言葉は警察官、消防隊、国家公務員や自衛隊員の業務上の死亡時に使われる。
更に危険を顧みない勇敢な行為には賞じゅつ金が特別に付加される。
自衛隊員の場合、自身の死が平時の殉職か有事の戦死か、身分は公務員か軍人か、という大きなテーマと重なる。
戦争放棄を謳う現憲法のもとでは、軍人としての戦死という認定が困難なことは自明だが、それでは自衛官の志気にかかわるとして、制服組が改憲を主張する理由のひとつにもなっている。
かつて船員社会でも殉職が、大きなテーマになったことがある。 波島丸が遭難して上床船長が、船と運命を共にした時だ。
政府は船長へ勲章を与えようとしたが、多くの船員は時代の逆行と憤り、それを許さなかった。その後、船員法12条「船長の最後退船義務」の改正につなげた。
波島丸遭難から50年。戦没と殉職を連記しても抵抗を感じないほど、時の流れはわれわれの感性を鈍らせているのかも知れない。
⑥ 当然視される労働の危険性
戦争で死ぬことと、職務上の災害死が同一視される理由は、船員労働は戦争に似て危険なものだという共通認識が社会の中にあるからだと思う。
イランイラク戦争で銃弾によって命を奪われたALMANAC号の藤村操機長の妻は、近所の主婦に「ご主人はお仕事で亡くなったのですよね」と言われたという。
われわれ船員自身も、彼の死を事故とみなし、「亡くなった藤村操機長は不運だった」のひと言で済ませていたように思う。
事実、船員の災害について陸上労働者と比較すると約4倍である。
特に漁船の災害発生率は対陸上比約6倍にものぼる。2014年の漁船の海難事故による死者と行方不明者は65名と全体の約7割を占める。
近年、業務災害の発生時の責任は、事業主の「安全配慮義務」として労働契約法で明文化された。
しかし船員の場合、監督官庁は国交省、労働規定の基本は労基法ではなく依然として船員法であり、陸上労働者とは法的な保護の枠組みも異なり、不十分である。
20トン前後の漁船の海難が多いが、零細船主であることに加え、船舶安全法や復元性規則等のらち外でもある。小型漁船の安全対策は依然として、救命胴衣着用の励行やAIS(自動識別装置)設置の推奨に止まる。
⑦ 殉職船員慰霊のあり方
私は遺族援護や海難などで死亡した船員の慰霊、顕彰が不必要だと主張しているのではない。
海難遺児の就学支援は重要と考え、漁船海難遺児育英会(水色の羽根募金)へ少額だが寄付をする者のひとりである。
船員の慰霊・顕彰も、たとえば「高尾みころも霊堂」(産業殉職者霊堂)あたりで慰霊をするのが妥当ではないかと思う。
最近では、広告大手電通で過労自殺した新入社員、高橋まつりさんの遺骨の一部が安置されていることで知られる。過労死事件における高橋さんの例は、社会問題となり、企業名公表制度が改善され、曲がりなりにも時間外労働の上限規制が強化され、歯止めが設けられた。
労働災害では、発生時の責任が事業者などに問われる。殉職として美化してはならない。船員の意志も、陸上労働者と同様、「労働力は売ってもいのちは売らない」ことに変わりはない。
*高尾みころも霊堂
八王子市にあり、産業災害により殉職した労働者の慰霊のために旧労働福祉事業団が1972年に労災保険法施行20周年を記念して建立された。
⑧ 戦没船員の慰霊の場へ
『薬害による死、公害による死、安全の手抜きによる事故死、人が不当に生命を奪われる悲劇があとを絶たない。だが、それらの悲劇においては「殺してよかった」と殺人が正当化されることはない。「戦争で死ぬ」ということは他のあらゆる死と一線を画している。殺戮を目の当たりにした日本人は「どんな理屈を使ってもこれは正当化することは出来ない」という思いを抱くにいたった。』(戦争で死ぬということ・島本慈子著・岩波新書)
更にいえば、「命は鴻毛より軽し」といわれた戦時中と現代では、人の死の意味は明らかに違う。
戦争末期には大量の漁船が特設監視船として駆り出され、それでも足りなければ、更に機帆船や艀(はしけ)までもが徴用された。その数は1万5千隻余りとされる。
「命が何より大事」と言えなかった戦没船員と、「命が大事だ」と主張できる時代に生きた殉職船員はそれぞれが相応しい場で祀られるべきである。
船員と殉職船員が連記される慰霊とは、「軍と民」の究極の溶け合いである。それでは「平和」がもれ落ちる。
観音﨑は風化することなく平和への願いの地であってほしいと思う。戦後生まれの私が、風化させないためにできることは、船員の歴史を知ることである。
歴史を知る、とは戦没船員の悲しみを知ることである。「海なお深く」とは、悲しみの深さであろう。
(次号につづく)