陳述書 竹中正陽(船員)

 2015年9月、与党自民党・公明党は、従来の憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能とする一連の法改定=安保法制を成立させました。その結果、自衛隊関連法令も改定され、その一環として船員予備自衛官制度も発足しました。
 安保法制違憲訴訟は、一連の安保法制が憲法違反であることを確認し、実行に移されることを裁判所が差し止めることなどを求めて、全国22の裁判所で計7637名の原告による集団訴訟として闘われています(安保法制違憲訴訟の会ホームページ参照)。
 昨年10月15日、東京地方裁判所の大法廷で安保法制違憲訴訟の証人尋問が行われ、船員を代表して本会の竹中が原告として証言台に立ち、平和な海を希求する船員
の気持ちを訴えました。
 この日は竹中のほかに、次の12名が、それぞれの体験に基づいて、安保法制が実施された場合に生じる悲劇、非人間性、基本的人権の侵害等について証言しました。
 田中煕巳(長崎原爆被爆者)
 森謙治(厚木基地周辺住民)
 原かおる(障がい者)
 小川佳代子(ママの会)
 橋本次男(JR貨物運転士)
 飯島滋明(憲法学者)
 金田マリ子(東京空襲体験者)
 市川平(横須賀基地周辺住民)
 崔善愛(在日コリアン音楽家)
 志葉玲(国際ジャーナリスト)
 小倉志郎(元原発技術者)
 山口宏弥(元日本航空機長)
  以下、証言に先立って裁判所に提出された竹中の陳述書を紹介し
ます。

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東京地方裁判所 御中
陳述書 竹中正陽(船員)
船員という職業
 私は、七つの海を航海して世界中を見て回りたいという少年時代の夢を実現するため、商船大学に入学しました。
 卒業後は外国航路の船会社に所属し、タンカーや鉱石船でアジア・アフリカ・豪州・ヨーロッパ・北米などの各大陸や島々20数か国を回り、原油や石炭、鉄鉱石などを日本に運んできました。
 外航会社を定年退職した後も、日本各地に就航して大型フェリーや外航船に燃料を補給する油タンカーに乗船を続けています。
 日本は、原油・石炭・鉄鉱石・ゴム・綿花・羊毛の100%、天然ガス98%、大豆93%、小麦88%、砂糖72%、木材70%を輸入に頼る貿易立国です。それらの貨物を、私たち船員はシケや台風の日も昼夜の別なく走り続け、日本各地に届けています。
 航海中は4時間当直、8時間休憩というサイクルで当直に入る当直班、積荷の管理や各機器の保守整備を行う整備班に分かれ、6~8カ月の乗船中は休みなく稼働し、日本に寄港しても家に帰ることはできません。
 船員に成り立ての頃は1年以上の乗船が通常でしたが、苦に感じることもなく、船員が島国日本の国民生活を支えているとの誇りを自然と持つようになりました。
 その間、戦争に遭遇することこそありませんでしたが、海賊には2度襲われました。いずれもインドネシアで、乗組員がロープと猿ぐつわで縛られて人質になりました。
 2度目の時は、日本の船ではあっても、日本人は機関長の私と船長のわずか2名、残りの20数名はフィリピン人でした。10人程の海賊が夜中に甲板上に乗り込んでフィリピンの若い練習生1人を人質にして船首付近に立て込み、小一時間にらみ合いが続きました。
 その間、私たちはマイクによる威喝やサーチライトで牽制を続けましたが、やがてスコールがやんで夜も明けてきた頃、わずかな音もせず、人の気配もなくりました。
 船橋(ブリッジ)に集合した乗組員の間では、『海賊はもう逃げたのでは?』、『練習生が怪我を負っていたら早く助けないと命取りになる』との意見が多数を占めるようになり、船長も救出隊を組む決断をしました。
 船長は船橋で総指揮を取り、機関長の私がトランシーバーを持ち、鉄パイプやバール等で「武装」した9人のフィリピンクルーの先頭に立って甲板に出ることにしました。臆病な私でしたが、フィリピンクルーを無事故郷に返すことが日本人の責任という観念が頭の何処かにあったのかも知れません。救出隊に指名されたクルーも、のどにつばを飲み込みつつ、全員即座に応じました。
 私は持っていた斧の歯の部分を額に当てながら、「海賊がピストルを持っていたらどうしよう。ああ、これで俺も終わりか」とブルブルと体が震え、一瞬死が脳裏を横切りました。200mほど離れた船首に向かって私たちが低い姿勢でジリジリと歩み寄りを始めた時、船橋から歓声が上がりました。練習生が船首方向から一目散に走ってきたのです。
 幸い海賊は危害を加えることもなく、現地の港湾警察や軍隊が来るのを恐れて退散したのか、ライフラフトなどの船用品が奪われただけで済んだのでした。
 そのような経験にもかかわらず、インドネシア人船員と何度か乗り合わせ、その貧しさを知る私は、何故か海賊もインドネシアという国も恨む気持ちは湧きませんでした。もしかすると私たちが彼らの故郷に土足で入り込み、貴重な資源を買い漁っているのかも知れないという思いが何処かにあったのだと思います。
 私は東南アジアのほとんどの国、アフリカではモザンビーク・ケニヤ・南アフリカに行きましたが、物乞いの少年や夜の女性など、底辺の人々の貧しさは昔も今も変わりません。

「平和愛好国」日本のブランド
 飛行場がその国の表玄関だとすれば、港は裏口に相当し、その国の世相を如実に反映しています。
 海賊に限らず、東南アジアやアフリカの港では、大型船が入港すると、荷役労働者を始め色々な人が船にやってきます。
 船内ところ狭しと商品を並べる土産物売り、真鍮などの金属買い取り業者、魚や果物を満載して船の廃油などとの物々交換を求めて横付けする家族連れの手漕ぎ船等々、多種多様な人々で賑わいます。中にはポン引きタクシーの運転手や夜の女性がいつのまにか船に乗り込んでいる港もあります。
 その結果、積荷の量や質のクレーム、荷役の遅延、税関や検疫官の度を越えた検査や不当な要求等といった仕事上の問題以外にも、言語や宗教、国民感情の違いなどから、窃盗や上陸した乗組員と現地の人々のいさかい等の予期せぬトラブルがしばしば発生します。
 そうした時、大きな問題にならないように、現地に赴任している商社マンや代理店の人が駆けずり回って、解決してくれます。
 トラブルが発生した時に役立つのが「平和愛好国」という日本のブランドです。日本は中立でどの国とも友好的、戦争をしない国として知られ、日本人は穏やかで優しく、「金払いがよい」人種として通っています。
 お金による解決は、金満日本の傲慢として時には非難の対象となりますが、泥棒を見つけて殺してしまった船員の国が、残酷な国民とのちのちまで語り継がれているのに比べれば、紛争解決の一つの知恵にほかなりません。
 会社も、海賊や強盗に遭遇した場合には決して戦わず、金品の要求には従い、人命第一とするよう指示しています。
 平和愛好国・中立国という日本のブランドは、とりわけイスラム地域において効力を発してきました。
  イランイラク戦争の只中においても、日本のタンカーや貨物船はペルシャ湾の奥深くまで入り込み、両当事国から原油や貨物を積み出しました。上空をミサイルが飛び交い、両国の軍隊から臨検を受ける中で、私の先輩や同級生たちは、日本のブランドと政府の外交努力を信じて、甲板上と船側に大きく日の丸を描いて進みました。
 日本政府も1隻1隻の船について、各国の政府・現地大使館・商社・代理店と綿密に連絡を取りながら、進路や通過時間の決定に協力しました。
 イランイラク戦争では、一部の熱狂的兵士により国際法を無視した無差別攻撃が行われた結果、世界各国で407隻が被弾し333名の船員が死亡したと報道されていますが、日本船の被害は12隻、死亡者2名と配船数の割に極端に少なく済みました。これは、日本が両当事国とも友好国であったことによります。
 このブランドは、政府や経済界を始めとする各界の長年にわたる外交努力の賜物であると思います。
 敗戦後の再建・復興のため数十年かけて世界各国との友好・貿易促進を求めて配慮されてきた日本の外交姿勢、それを先端で担ったのが現地に赴任した大使館員や商社マン、企業の技術者や営業マンたちです。
 私たち船員も少なからずそれに寄与したと自負しています。そのブランドが今失われつつあることを強く危惧しています。

外国人船員に依拠する日本海運
 現在、日本の海運会社が運航・管理する外航船舶は約2700隻。今、この瞬間にも2700隻の船が世界中の海や港に散らばり、昼夜を問わず稼働して、国民生活を維持するための物資を運んでいます。地球儀上に各船の位置をプロットすれば、地球儀は隙間なく埋まってしまうと言われるほどです。
 それらの船は、人件費等の関係から、約千人の日本人船員と6万人の外国人船員の手で運航されているのが実情です。
 外国人船員の国籍は、アジアでは韓国・中国・台湾・フィリピン・ベトナム・タイ・インドネシア・マレーシア・ミャンマー・バングラデシュ・インド、ヨーロッパではクロアチア・ルーマニアなどが主流で、計40数か国に及んでいると言われています。私も、韓国・中国・台湾・フィリピン・インドネシア・インドの船員と乗り合わせました。
 そうした現状にあって、いざ日本が参戦すれば外国人船員はどうするでしょうか。世界中に散らばっている2700隻の船を、軍隊で守ることはとうてい不可能です。輸送船は真っ先に攻撃対象とされるので、外国人船員の大量下船が始まることは目に見えています。
  一家の大黒柱として大勢の家族を養うために、苦労して日本の船に出稼ぎに来ている彼らにとって、笑顔で健康な姿で故郷に帰ることが悲願です。私は13年間、洋上で彼らと苦楽を共にして来ましたが、家族思いであると共に平和希求の強い彼らが、日本が行う戦争のために命を投げ出すことは考えられません。それが健全な姿でもあります。
 そうしたことから、外国人船員のほとんどが加入するITF(国際運輸労連)の労働協約書及び彼らの雇用契約書には、危険海域への就労拒否権(下船の自由。行先を聞いて緊急下船しても不利益扱いされない)が明記されています。
更に、カツオ・マグロ・イカなどの日本の遠洋漁船は、少数の日本人船員とインドネシア・中国・台湾・ベトナム、キリバスなどポリネシアやミクロネシア各国の船員が混乗して世界中の海で操業しています。
 私たち海で働く者の目から見れば、日本は戦争が出来る国では決してないのです。

先輩の遺言「海運は平和なくして成り立たない」
 昨年安保法制が施行されるに伴い、海上予備自衛官制度が発足しました。
2隻の民間大型フェリーが、防衛省が関与して新たに作られた特別目的会社に売却され、平時は通常の商業輸送を、訓練や有事の際には自衛隊の指揮命令下に入り、自衛隊や米軍の物資を運ぶことになりました。
 新会社に移籍もしくは新採用される船員は予備自衛官になることが前提とされています。
 有事の際に就労を拒否すれば罰則が待っており、これは徴用以外の何ものでもありません。
 先の大戦では、大型の外航船から全国津々浦々の小型漁船に至るまで、ほとんどの船舶と船員が徴用されました。
 運輸省や厚生省等の調査によれば、1万5千隻(88%)の船と、6万人の船員が海の藻屑と消え、陸軍(20%)・海軍(16%)の軍人死亡率に対して、船員の死亡率は43%に及んでいます。
 中でも、国民学校を卒業してすぐ船に乗った14~19歳の少年の死亡数が1万9千人と抜きん出ています。生き残った船員の平均遭難率も214%、沈没等により一人平均2回以上海で泳いで生還したことになります。
 私が船員に成り立ての頃は、どの船にも太平洋戦争や朝鮮戦争を経験した先輩たちがいて、空襲や魚雷に怯える船内の状況を振り返っては、「お前たちは平和な時代に生まれて良かったなあ」と口々に語っていました。
 学校の大先輩である、移民船ブラジル丸や青年の船にっぽん丸の船長を務めた商船三井の故川島裕船長(日本船長協会会長、国際船長連盟会長)は、『海運は平和産業、平和なくして成り立たない。戦争ほど恐ろしいものはない。何としても戦争だけはしてはいけない。』と講演で語っておりました。
 戦時中に自身が商船学校卒業と同時に海軍に応召され、目の前で多数の同級生が撃沈され死んでいった経験からくるものでした。遺言とも言えるこの言葉を、私も後輩船員たちに伝えて行かなければならないと思っています。

真っ先に狙われる燃料補給船
 現在私は、大型フェリーや外航船に燃料を補給する油タンカーに乗船しています。
 毎年秋に行われる自衛隊の南西諸島奪還訓練の際にも、自衛隊を運ぶフェリーに燃料を補給したことがあります。実際に安保法制が発動され、日本が戦争当事国になれば、燃料補給船は格好の餌食になることは目に見えています。
 8月にテレビ放映されたNHKスペシャル「船乗りたちの戦争」によれば、アメリカ軍は開戦当初から、補給路を断てば日本を負かすのは容易いとし、潜水艦隊の増強に力を入れたとのことです。
 事実その通りとなり、潜水艦が日本近海に敷設した機雷や魚雷攻撃により日本の輸送船は次々と沈められ、「油の一滴は血の一滴」と言われた油が日本に運ばれなくなりました。
 ガダルカナル島の軍人と船員の大部分が、戦闘ではなく食料補給を断たれて餓死したように、補給路を断つのが戦時作戦の常道であり、太平洋戦争の悲劇の教訓でもあります。
 私は、私自身の生命と職業を守るためにも、国民の豊かな生活を守るためにも、安保法制・集団的自衛権の発動に真っ向から反対します。私たち船員には、法の発動による現実的危険性が存在し、具体的な差し止め措置を求める権利があると思います。
 また、他国の戦争に参戦しないことが、貿易立国日本の真の国益であると信じます。
以上