語り継ぐ海上労働運動史14(前編)
堀内靖裕(やすひろ)さん
(海員組合元東京地方支部長)
桂浜の絵の前で.高知市内のふくし交流プラザにて
略歴
1941年 (昭和16年)12月長崎県佐世保市生まれ
1962年 弓削商船高校専攻科を卒業し,新日本汽船に入社
1965年 山下汽船と合併,山下新日本汽船に
1966年 二等航海士
1968年 海員組合在籍専従執行部員に
1971年 山下新日本汽船に復社し海上復帰
1972年 4月から海員92日スト.7月退社し組合に採用。以後,東京,本部組織局,中執委事務局,情報システム室,東京,千葉に勤務
1980年 春闘妥結結果が否決され村上行示組合長ら三役が辞任,土井一清組合長に
1984年 東京地方支部支部長
1986年 9月中執委が緊急雇用対策受け入れを決定.12月東京地方支部長解任.以後,中部地方支部,名古屋・今治・愛媛の各支部長
1995年 本部組織部部長兼未組織対策室長
1998年 組合長選挙に立候補(128票を獲得.5期目当選の中西組合長は316票)。大会後に高知支部執行部員に降格。以後,中・四国支部執行部員,総務部専任部長,全日本船舶職員協会派遣
2001年 海員組合を定年退職。高知県土佐市在住
故郷をあとに弓削商船へ
故郷は高知県の片田舎の新居村(にい村。現土佐市)。
小作農家の長男で、学校から帰ると毎日ヤギの餌の草刈り、ニワトリの世話、麦やサトウキビ、スイカ等の畑仕事を手伝っていた。小作農の生活は楽でなかったので、当時はどの家の子供もそれが当たり前だった。
海軍軍人の父が赴任していた長崎県の佐世保で生まれたとのことだが、佐世保の記憶はまったくない。戦争が始まった直後だから、生まれてすぐ疎開のため故郷に戻ったのかも知れない。
中学も三年になると進路を決めなければならない。家計の助けにもなることから、当初は得意のソロバンを生かして商業高校に入ろうと思っていた。ところが、いざ学校を選ぶ段になって、何のきっかけか商船学校の存在を知り、行ってみたくなった。
戦後の復興から高度成長に向かう時期で、将来性があると思ったのか、目の前が太平洋で、向こうにはアメリカがあると子供心に感じていたのか、海軍軍人の父の影響もあったのかも知れない。
当時、商船高校(1967年〔昭和42〕に商船高専)は、国立のせいもあって人気が高く、弓削商船では、高知県の志願者は50名で入学したのは3名。全体でも418名が志願し、入学者は航海科32名、機関科33名の狭き門だった。
整列ビンタの寮生活
商船高校は3年制で、船員を志す者は実習主体の専攻科2年が加わり、計5年を経て甲2(現在の3級)の筆記試験が免除された。
授業は1日も休まず皆勤したが、内容はよく覚えていない。しかし、全寮制の厳しい寮生活と、実習の楽しい思い出は鮮明に残っている。
寮は一部屋に各学年2名ずつで、2年生が1年生の面倒を見る。逆に1年生は部屋やトイレ掃除、3年生の作業着の洗濯など身の回りの世話をする。食事の時のごはんのお替りも1年生の役目で、食事中も横目で3年生の茶碗の中が少なくなるのを気にしていたのを覚えている。
朝6時半「総員起こし」のマイクの後、校庭で整列、点呼、体操、掃除。一斉に朝食を取り、8時に校旗掲揚をして登校する。1年生は夏冬を通じて裸足で過ごし、靴を履けるのは2年生になってから。裸足で校庭を走っていると、だんだん足の裏が厚くなり、少々の小石でも痛くなくなった。
寝室は学年別で、2階の広い部屋に2段ベッドがずらりと並び、夜10時には、当直教官の巡検を受けて消灯。ところが夜中に突然「総員起こし」が掛かり、上級生から「態度が悪い」「挨拶の仕方が悪い」「トイレ掃除がなっていない」と整列ビンタを食らう。教官もこれは黙認していた。こうした厳しい寮生活に耐えかねて、5月の連休に帰郷した新入生が戻って来ず、そのまま退学することもあった。
それでも、放課後のクラブ活動や瀬戸内3校(弓削、広島、大島の3商船高校)の対抗運動会、カッターでの帆走や学校の練習船での夏季巡航、2年・3年次の各1ヵ月の練習船進徳丸での国内航海など、楽しい思い出も一杯ある。
授業を皆勤したこともあり、卒業時に船員奨学会から賞状と賞品を貰うことができた。
身に付いた社船実習
専攻科の1年目は、航海訓練所の練習船銀河丸での遠洋航海と海王丸での国内航海があり、実習終了後に訓練所長から優等生として表彰された。
2年目は社船実習と言って、各船会社で実際に運航されている船に、アップさん(アプレンティス=訓練生)として乗船し、外国航路の経験を積んだ。
私が乗ったのは新日本汽船の貨物船・多賀春丸で、日本―パナマ運河―北米東岸・メキシコ湾の定期航路を6航海。
計7カ月半の乗船で、船員の実際の仕事や船内生活の実情、荷役実務など練習船では得られない多くのものを得ることができた。航海の記録はログブックとして今も大切にしている。
社船実習の経験から、就職は迷いなく新日本汽船を選んだ。専攻科在学中に学校創立60年の記念式典があり、在校生総代として祝辞を述べる栄誉も思い出として残っている。
山下新日本汽船の10年
新日本汽船(戦前は辰馬汽船)は歴史もあり大きい会社だったが、時あたかも高度経済成長の真っ只中で、世界に伍した海運会社を育成するという政府の方針で外航海運会社の集約合併が行われた。
入社した翌年の1963年(昭和38年)、いわゆる海運二法が制定され、政府の主導で日本郵船と三菱海運、大阪商船と三井船舶、川崎汽船と飯野汽船、大同海運と日東海運、日本油槽船と日産汽船が合併し、それぞれ日本郵船・商船三井・川崎汽船・ジャパンライン・昭和海運となった。
新日本汽船は、やはり名門の山下汽船と合併して社名を山下新日本汽船に変更、社船・共有船50隻、船員数2396人の大所帯となった。いわゆる大手6社体制の誕生で、数多くの船会社が6社の系列化に置かれグループ化された。
そういう時代だったから乗る船も、北米定期のライナー、豪州航路の石炭、フリー配船のトランパー、ペルシャ湾航路の新造タンカー、森田汽船(後の雄洋海運)へ出向して東南アジア専門の2万DWタンカー、昭和14年建造で戦火を生き延びた船齢27年の印パ・ペルシャ湾航路の旧型貨物船、コンテナ積みの貨物船と多彩だった。
行く先々の海の表情も多彩で、自然の恐ろしさ、美しさを満喫することができた。
入社して最初の船は北米定期のライナー志賀春丸。四等航海士として一年間乗り、航海士の仕事をみっちり叩き込まれた。2隻目からようやく一人前の三等航海士に。当時はどの会社も、時間をかけてじっくり実務を習得させる方針だったように思う。
その後三等航海士として新造タンカー伊予春丸の艤装に行った時も、主だったメンバーは就航2カ月前にドックに赴き、荷役のトレーニングなどもみっちりやらされたので、初めてのタンカーも不安なく務めることができた。
それだけ船員技術が高く評価され、その継承が大事にされていた時代だったのかも知れない。
在籍10年間(うち3年は海員組合へ出向)で7隻に乗船。最も長く乗ったのは富士春丸で、世界中何処にでも行くトランパー。1年4カ月の乗船で、アメリカ・ソ連・南太平洋のナウル島・イギリス・東南アジア。積み荷もコークス・りん鉱石・銅鉱石・鉄鉱石・パルプ・穀物と多彩だった。それぞれの航海が新鮮で船内生活も楽しく、いつまでも乗っていたいほどで、自分から休暇申請はしなかった。
入社した当時の労働協約では、乗船期間10カ月で21日の有給休暇の権利が発生して、以後1カ月毎に2日増える。最長1年6カ月以内に付与すればよい規定で、長期間の乗船もほとんど苦にならなかった。
船員労働を考える契機
ただ、前述の伊予春丸に8カ月(艤装を含めると10カ月)乗船した時は参ってしまった。
当時としては大型の10万DWトンタンカーで、35日をかけてペルシャ湾を往復。シーバース荷役のペルシャ湾ではもちろん上陸は不可。6航海のうち5回日本に帰港したが、揚げ地はやはり千葉や四日市のシーバース。荷役中も航海中と同様に、4時間当直・8時間休みの繰り返しだから乗船中に休みは1日もない。Mゼロ船ではないので、機関部も同様だった。
通船での上陸にも手間がかかるので短時間で帰船しなければならず、上陸もままならない。
おまけにカーゴポンプ室の太いパイプが破損して積荷の油が霧のように吹き出たり、居住区のあちこちにクラックが入り、入港のたびにドックの工員が修理に来たりするほど振動と騒音が激しく、ストレスがたまる一方だった。
次に乗船した船齢27年の老朽船は、主機をタービンからディーゼルに換装したせいか振動や騒音が多く、居室に冷房もないため睡眠に悩まされた。その代わり、40人いた乗組員には昔気質の気風が残っており、乗組員同士の交流も活発で船内生活は楽しかった。
タンカーと違って停泊期間が長く、二等航海士になり、多少の余裕も出てきたことから、これまでの乗船を振り返り、社会から閉ざされ、四六時中振動と騒音に悩まされる船員生活は何とかならないかと考えるようになった。
新日本汽船では船内委員会や職場委員活動が少なく、まったくと言ってよいほど記憶がない。私も組合運動への興味はなく、職場委員制度すら知らなかった。
航海士としてブリッジに立ち、毎日海象・気象の移り変わりを観察する楽しさ。自然への興味が尽きない私は、どちらかと言えば「仕事人間」だったと思うが、この頃が船員労働を考える契機になったのかも知れない。
長期間の航海で肉体的、精神的疲労が蓄積し、家族とも離れ子供を作るチャンスも限られる。そうした人間性のない船員生活を何とかならないかと考えるようになった。相ワッチの人や部員食堂でのカタフリ話をヒントに、改善策のアンケートを取ったりもした。何処に発表するわけでもない、自分自身が考えるためのものだった。
笹木理論との出会い
その後寄港した神戸港で海関係の書籍を置いてある本屋に立ち寄り、何げなく一冊の本を手にして立ち読みしているうちに、引き込まれてしまった。
それは東京商船大(現東京海洋大)教授の「船員政策と海員組合(成山堂)」だった。日本郵船の機関士から転じた氏の「船員労働の特殊性論」は、日頃私が感じていた疑問や悩みを解き明かす一筋の光を与えてくれた。すぐさまその本を購入し、ボロボロになるまで読み漁った。そこには、船員・航海士としての仕事や悩み、船員としての職業人生を考える上のヒントが散りばめられていた。
笹木先生はその理論的根拠として「船員の特殊論」を展開されている。この「特殊性」のもとで政策的には、海陸の差別と、船員への取締りの性格が背景として広がっているという主張にも、目を開かされたものである。この特殊性が船員の現場の問題点を浮き彫りにしていると思った(注:以下の『 』は先生の著書の引用部分)。
『船員の問題を扱いはじめてまずぶちあたった大きな問題は、船員の労働組合が戦前戦後を通じて何故知られる通りのものであるか、ということ、船員に対する国家の政策が何故陸上と別だてになり、しかも取り締まりに重点がおかれているのか、といったことであった。そして今までの研究者なり運動家なりの与えてきた解答は、おおむね船員の「特殊性」ということで無内容・無理論的にかたづけられていたような気がする。』
『海上労働者が資本主義国家と資本家階級に対してもっている潜在的な力、その内部における役割が圧倒的に大きいことの反映であり、それ以外のなにものでもないと思う。したがって政策・立法の海陸二分化ということは、本質的にいって、僅かな優遇策とひきかえに、徹底的な船舶安全運航の要請と取り締まり、潜在的な力の弱化と分断策がとられていることを意味する。』
『従来は、この船員労働の特殊性の無内容・無理論的な理解の踏襲によって、技術的な側面についてはともかく本質的な側面における特殊な保護はあまり存在せず、むしろ特別の取り締まりと保護の希薄化が一般的であった。そしてこの取り締まりと陸上労働者に比べた保護の低さが、まさしく船員労働の「 特殊性」の名において理論づけられ強調されてきたのであった。』
そして、特殊性論にもとづき、取り組む方向性を示唆している。解決のためには、労働力再生産の観点からのアプローチが必要だと思った。また、船員の福利厚生関係の充実も大切なことも分かった。
『船内労働力の保全や再生産をはかるための重要な要素である賃金についてみれば、船員労働者がひとつの職業として存在する以上、賃金の役割は単に乗船勤務中だけに限定してはならず、下船予備中の賃金保護も当然に規定されなければならない。
つまり船員賃金は単に乗船中だけに存在する特殊性に対応するものとして決められ保護されるだけでは不十分であって、乗下船を通ずる職業としての船員労働者の再生産を補償するものとして理解され保護されねばならない。』
『船員にあってはできるだけ家庭に帰ること、港にできるだけ家族を呼びよせることが保障されなければならないし、これは再生産という大前提にかかわる船員の権利であると同時に、経営者や社会の義務であるといえる。このことから船員福利施設の必然性と陸上と異なった独自理論がなりたつわけだが、この福利施設には当然文化的・社会的な再生産も保障される内容が含まれねばならない。』
そして、労働力の再生産や福利厚生の充実を実現するために、労働組合の必要性も理解できた。また、海員組合の問題点の指摘にも共感した。
『組織が上から一括的になされ下からの積み上げとして組み立てられていないことと、運動が現場船員の要求を組織しそれを中央幹部が代弁するという形がかならずしもとられていない。』
『執行部と大衆は陸上と海上に分離されねばならないわけだが、これが悪用されると双方の交流は全然行われないことになり、執行部は必然的に職業幹部となる。
職業幹部が長く続けば、現場船員大衆の要望が直接反映しにくいものとなると同時に、労働貴族、労働官僚としての経済的基盤が形成され、逆に上からの大衆の支配と締め付けがとられる可能性がある。
船員大衆は労働の過激さに対応して、資本家、政府に対する潜在的な感情的反発は激しいものがあるのに、これが中央幹部につうじないとすれば、それは組合内部の大きな矛盾となる。』
この内容に共感したが、船員生活しか経験がなく、労働運動は全くの素人で著書の内容も十分理解できないところも多くあった。
私は早速、休暇を機に実際に先生を訪ね、解けない疑問について教えを乞うことにした。
海員組合在籍専従に志願
休暇中に上京し、越中島にある東京商船大に笹木先生を訪ねた。先生は、乗船中に日々感じていた私の疑問に一つひとつ丁寧に答えてくれ、「船員労働とは何か」、その本質を始めて知った思いがして目からウロコだった。
先生はまた、明治以来の船員政策の流れ、海員組合の歴史や役割を話され、興味があるならと組合の在籍専従制度を勧めてくれた。
企業に籍を置いたまま、一時的に組合に出向して組合活動に携わる「在籍専従制度」は、まだ出来たばかりで知る由もなかったが、帰り道、私の心は既にそこに向かっていた。
早速、先生から言われた通り職場委員に相談して在籍専従になれるよう取り計らってもらった。
後日知ったことだが、笹木先生の船員問題研究ゼミで学んだ数多くの学生が、卒業後に海員組合や船員労務関係を担っていた。
※編集部注
この経緯は、「出版会・海に生きる」発行の「海に生きる」所収の、堀内さん執筆「私の人生を決定づけた一冊の本」に詳しい。
在籍専従の頃
在籍専従制度の一期生として、3年余り組合に出向、最初は芝浦にあった東京地方支部、後半は横浜の京浜地方支部に転勤した。
東京支部は自由に物が言える雰囲気だったから、現場を代表して来ているという気負いや若気の至りもあって、私は何事にも自分の意見を自由に発言した。優柔不断な上司に対して、時には食って掛かったりした。
そんな私を、河野新介支部長はなぜか可愛がってくれた。河野さんは船員の不利益になることは絶対に譲らなかったから船主は手強い相手だと思っただろう。良く言われるような左翼思想の持ち主ではなく、野武士と呼ぶ方が合っている人だった。
支部での活動内容はプロ執行部と全く同じで、基本は毎日の訪船活動。組合の訪船艇が1隻あり、午前中は毎日1人1隻を訪船。昼過ぎには艇が各船を回ってピックアップして行く。気に入られて昼飯を食べさせてくれる船、どぎつい言葉で拒否反応を示す船など色々あって、組合活動は人と人のつながりということを思い知らされた。
午後は各社の労務委員会での交渉に追われた。
当時どの会社でも問題になったのは定員。減員を認めれば、労働密度の強化や雇用不安に直結するので「絶対に引けない」一線を心して臨んだ。
京浜の勤務中に、将来の船員制度の組合案を作るプロジェクトチームが本部に発足し、その事務局も兼任することになった。
船の大型化・専用船化・Mゼロ化など、技術革新の船舶への導入が盛んに行われ始めた当時、明治以来の船員制度で良いのかという論議が船主関係者から出されていた。船主側(外航労務協会)は、船舶士構想による甲機両用化による少数配乗体制案を公表。他方、笹木教授が技術革新に対応するため、職種の専門分化構想を発表していた。
それに対し組合は「スパイラル構想(一人の人間が順次各職種を経験しながら、最終的に船長に登りつめることを可能とする制度)」を作成したが、この案は外航の職場委員・全国委員の反対に合い否決された。当時は現場組合員の減員に対する拒否反応は強く、現場代表が堂々と発言し、組合の会議をリードしていた印象がある。
退職、組合執行部員へ
3年4カ月の在籍期間を終えて船に戻った。組合執行部になることが組合出向の目的ではなかったし、その頃は他社の人も在籍専従を終えれば船に戻ることが当然だった。
ところが半年後の入渠中に急に腹痛を覚え、ドックの病院に急きょ入院し盲腸の手術を受けた。しかし一週間経っても痛みが止まらず、腹膜炎を併発していた。全身麻酔で割腹して腸を取り出して洗浄する大手術を行い2カ月近くの入院となった。この時は闘病中の痛みと病後の不安から、いつまで船員を続けられるか、将来を考えざるを得なかった。
丁度、船長免状取得の履歴が付き、一等航海士への昇進も近いと期待していた時で、迷いに迷ったが、生涯を船員労働運動に捧げる決意をして、会社を退職することにした。あの時盲腸にならなかったら生涯船員の道を歩み、組合に入ることもなかったと思う。
活気に満ちた東京支部
5カ月後、病気が治り、体力も回復した1972年(昭和47年)8月、組合に採用され東京支部に赴任した。30歳だった。「人間性回復」の92日ストが終結したばかりで、支部にはまだストの余韻が残り、活気に満ちていた。
支部では後に副組合長になった川村赳支部長、神島守副支部長の下で、日本郵船班の班長として各社との交渉に当たる毎日だった。
長期スト後、組合への巻き返しを図る船主側は、この年菊池船主協会会長が仕組船認知論を発表。各社こぞって脱日本人船員方針を打ち出す中での交渉は、在籍専従時代の減員方針とは比べものにならない圧力だった。
ドルショックによる円ドル為替レートの変動相場制への移行。それを利用した外国人船員との船員費比較の数字が広範囲に宣伝され、各社一斉に所有船の海外売船、FOC化・仕組船化による減船と大幅な人員削減を提案してきた。
そうした中でも東京支部は川村支部長の下、1対1の原則(※)を基本に組合員の雇用を守るために必死の努力を続けた。代替船を用意できない会社に対しては、最終的に雇用は系列親会社に守らせるという外航労働協約(※)に基づき、系列雇用協議会に持ち込んで交渉した。
照国海運や小山海運の倒産に対する闘いもあり、大変な時期だったが、皆なやりがいを感じて支部に活気があった。
※編集部注
◯1対1の原則
老朽船や不経済船等の売船提案に対して、必ず代替船を用意させるという組合方針。組合の要求もあり、当時、運輸省は海外売船を承認する際は組合の同意を条件とする内規を設けていた。
◯雇用安定に関する協定書
92日スト直後の47年10月に外航2船主団体と締結した協定。各社の雇用安定対策義務と共に、一社で雇用を守れない場合は系列雇用協議会・さらには船主団体との合同雇用協議会の協議による雇用安定対策を義務付けた。この協定は2003年に廃止され雇用は各社責任とされた。
当時の組合内路線対立
会社在職中、私はストに参加した経験はなかったが、船内ではストは当然で、何の抵抗もなかったと思う。しかし72年の長期スト後、船主側は組合が大衆路線に転換するのを徹底的に嫌い、「組合の左傾化」を声高に吹聴し、露骨な嫌悪感を示し始めた。
「このままではいけない、組合指導部を変えなければ」と、実質的にストを指導した河野新介・中西昭士郎の両中執を名指しで非難するようになった。
組合員の中にもそれに同調する意見が出始め、大手の職場委員を中心に海員民主化懇話会が結成され、共産党が組合に侵入したという認識のもと左傾化阻止を旗印に、特定の役員や執行部員・職場委員を名指しで誹謗する宣伝も行われた。大会の役員選挙が近づくにつれ、その勢いは増幅され、出所不明の各種文書も出回るまでに至った。
しかし私は、組合の変化は「共産党の侵入」や「左傾化」というより、健全な大衆路線への転換で正しいものだったと今も思っている。長期ストの翌年には、従来の民社党支持一辺倒から脱し、政党支持の自由化を決定したが、これも当然のことで、今もってこれを否定する意見はほとんどない。
しかし上部団体の同盟(※)はこれに猛反対し、同盟大会で本組合が批判・罵倒されつるし上げに近い状態に置かれるほどだった。
船主側も職場委員らを利用してしきりに介入工作を行っていた。
こうした民社党や同盟、船主側からの組織介入の影響は末端の執行部員・職場委員にも及び、色付けのレッテルが張られ、日常活動にも支障をきたすようになった。
組合活動の力が削がれ、組合員にとってもマイナスとなるこうした動きが、土井体制の誕生により終止符が打たれたことは間違いない。この結果、海員組合の自主性が守られ、古い体質への逆戻りという危機は乗り越えられた。
※編集部注
全日本労働総同盟。総評など労働組合のナショナルセンターの一つ。海員組合は総評を脱退して同盟の結成に尽力し、中地組合長が初代会長を務める。64年に結成され87年に解散。その後、現在の連合が形成された。
土井体制の誕生、東京支部への復帰
1980年(昭和55年)1月、春闘の継続協議とされていたタンカー手当、三国間就航手当などの手当削減交渉を中執委が非公開の場で妥結したため、その承認を巡って汽船部委員会は侃々諤々の論議となった。
採決の結果、100対87で妥結結果が否決され、その責任を取り、村上組合長以下三役・中執全員が辞任。3月の臨時全国大会で土井組合長・神島・柴山副組合長らの新体制が誕生した。
当時私は千葉支部に勤務し、内航タンカーなどへの地道な訪船活動を続けていた。未組織船へのオルグの苦労が実り、K海運を組織化できた時は嬉しかった。やはり労働運動は人と人との繋がり、誠実に活動することの大切さを実感した。
千葉支部時代には銚子を基地にするサケ・マス船団もあり、漁船部門の活動にも携わることができた。
土井体制の発足は、数年来続いた組合内部の路線対立に終止符が打たれたことを意味した。臨時大会後さっそく人事の刷新が行われ、私は副支部長として東京支部に復帰した。
組合の大きな転換期=東京支部勤務の7年間
臨時大会後すぐ東京支部に復帰した私は、副支部長を4年8カ月、支部長を2年務めた。この期間は、私にとっても、組合にとっても大きな転換期だった。
それは緊急雇用対策(緊雇対)の存在である。緊雇対の結果、海員組合も日本の船員社会も大きく変わってしまった。
緊雇対に至る前の数年間は、各社の減船提案にほんろうされた。
82年から86年にかけて、金成汽船・ジャパンライン・三光汽船・東京第一海運・太平洋海運・八洋汽船・新潟臨港海陸・東宝海運・大洋商船・昭和海運・照洋海運・山下新日本汽船・新和海運・山和商船の解散や再建協議等々。その他にも大協タンカー・東京船舶・三協海運・東海運等の個別対応会社には枚挙いとまがない。
これら雇用に直結する問題は、親会社や銀行の利益が複雑に絡み、また時間との勝負でもあった。
当時東京支部は、減船提案に対しては、あくまで1対1の原則を守ること。そのため系列雇用協議会において系列大手の責任を追及することを基本に据えて交渉に当たった。
加えて、これを補完するため代替船を用意するだけでなく、将来の健全な会社経営を保証するための4原則として、①中期雇用計画の策定、②脱日本人船員政策は取らない、③積極的な新規採用、④乗組員の教育訓練の充実、を掲げ、各社と雇用計画を協定していった。この結果、多くの会社で雇用を守ることができたと思っている。
しかし、前述した倒産もしくは経営状況が極端に悪化した会社に対しては、これらの原則を貫くことはできず、減船や労働条件の引下げに応じるなどの個別対応を取らざるを得なかった。
その場合でも、経営内容の徹底的な開示を求め、会社や銀行も痛み分けでなければダメという姿勢を貫いた。現場の要求を第一に、訪船して乗組員の意見を集約した上で、陸上職域を確保するなどして、希望退職などの人員合理化を認めることはなかった。
しかし、こうした組合方針を真っ向から否定し、正面切ってケンカを吹っ掛ける会社が現れた。ジャパンライン(Jライン。後に山下新日本汽船と合併してナビックスライン。その後商船三井に吸収された。)である。
それは会社というよりも、バックにいるメインバンク興銀(日本興業銀行)との闘いと言えるもので、緊雇対の前哨戦とも言えるものだった。
(2017・10・29、2018・2・1、インタビュー編集部)