雨宮洋司(富山商船高専名誉教授)
目 次
Ⅰ 最初に述べておきたいこと
Ⅱ 商船船員(職業)にこだわる理由
Ⅲ 船員(職業)特殊性論の展開 (前号まで掲載)
Ⅳ 海陸職業を同一視する諸相と抗いの視点
Ⅴ 特殊性を克服する諸政策の断片
Ⅳ 海陸職業を同一視する諸相と抗い(あらがい)の視点
これまで船員(職業)の特殊性の二面性を縷々述べてきました。しかしながら、このところ、その特殊性、特にその裏面の不利益性を無視あるいは軽視して、さまざまな船員・海運問題が論じられ、実行に移されている感があります。
その背景には、海の世界で形成されてきた常識に対抗する日本の非常識があって、四面環海の日本人・日本の将来に禍根を残す事態だと思っております。ここでは、同一視がどのような人たちによって、どのようになされているか、それに抗うための課題は何かについて述べます。
1.同一視の諸相と疑問点
(1)同一視する人たち
「人間の家庭生活と仕事を営む場所は陸上が原則であって、それが生活と仕事の常態である」、つまり、海の上で生活や仕事をすることは一般的ではなく、特殊なことであって、その人たちにはハンデイキャップ(不利な条件)があるという事実です。その当たり前のことが否定または軽視されるような非常識が、この日本で生じつつあるように思えてなりません。
ここで留意すべきは、「常態」ということであって、それは「出張などのように一時的ではない」ということです。
そのことは同時に、職場だけではなく、さまざまな家庭生活で構成される地域コミュニテイへの日常的接触で、人は社会的人間としての成長がなされているわけですが、船員(職業)は、そういったことを阻害される状況におかれていることをも意味しております。
そういったことを考慮せず、船員(職業)を陸上の多種類の職業の一つと同じように扱う人たちが出てきているように思うのです。その具体例をいくつか挙げてみましょう。
*商船系大学・高専のあり方を他大学・高専の工業系学部・学科と同じようにとらえて統廃合問題を語る教師や行政担当者たち
*学会等の席上で陸上の労働者と同レベルで船員(職業)をとらえ、海運経済問題を物流問題として分析・発表する研究者たち
*海運企業内で、陸上従業員と同じように、船員(職業)をとらえ、コストダウン策やリストラ策を練る経営者・管理者たち
*船員問題は、経済成長率(GDP)が上がり、船社が潤えば、自ずから解消していくと考える人たち
*中学生や高校生への進路指導や職業指導を他の交通機関のドライバー的把握で行うか、あるいは、自分なりのマドロス観に基づいて、憧れを煽るような船員(職業)像で指導助言をしている進路担当の先生やPR担当の海事関係者たち
*海難審判庁を廃止し、海難事故原因の探究を他の交通機関(自動車、汽車、飛行機)の事故原因探求と同じように運輸安全委員会で行うようにして、船員の懲戒だけを海難審判所の新しい役割に位置付けた人たち
*船員保険などの船員保護の仕組みを、陸上労働者の枠組みへ解消しようとしている人たち
*水先人特権の改革で、新養成システム第一期生の若手水先人が大事故で生涯を台無しにしても、微調整で、その路線を突っ走る人たち
*蔑視用語であった “土方・馬方・船方”時代にさかのぼるような時代錯誤をして、体が丈夫で協調性があり、簡単な英単語さえわかれば誰でも務まるなどと船員(職業)を蔑視する人たち
等々、船員(職業)を尊重せず、その地位を低下させるような人たちに出くわすことが多々あります。
このような人たちの考え方は、今日までの世界の常識になる「海上の仕事の特異性に対応した海ならではの考え方とルールの長年にわたる積み重ね」という海事における歴史的蓄積をないがしろにすることになります。
こうした考え方を押し通せるほど、日本の現状は、最先端の船舶運航技術が船内へ導入され、海運経済社会の民主的高度化もなされて、船員(職業)は、不利益な特殊性が少なくなって、陸上の労働者一般へ著しく接近してきているといえるのでしょうか。
その答えは、誰が見ても明らかに、“否”であります。現状は、その特殊性が直視されることなく、船員の労働条件や船内環境は、ますます魅力ないものになってきているように思えてなりません。それは陸上の労働者、なかでも非正規労働者が陥っている苦悩に近いものになり、その意味では、両者が接近していると言えそうです。
そういった傾向を色濃くさせている要因は、荷主そして船会社等の企業意図を斟酌して行われている国の海運・船員政策にあり、そのような方向への気運を遮り、待ったをかけるはずの労働組合などの船員諸勢力の弱体化が拍車をかけていると思わざるを得ません。
(2)商船学校の混迷
① 商船学校の成果と軽視
戦後、再出発した「商船学校制度」には日本独特のものがあったことに留意すべきでしょう。
第二次大戦後、戦前の反省から、商船船員専門教育機関の海軍予備員=第二海軍的位置づけ(セカンド・ネービー)から離れて、文部省(文科省)所属の一般大学・高校と同様に、商船大学及び商船高校は、学校教育法の1条校に位置付けられたのです。
そのもとで、当該校の教員らは、特色ある船舶運航技術学(商船学)の深化と形成に邁進し、さらに、それを国交省の航海訓練所実習にリンクさせて、伝統的な海技免状取得教育も展開するという大変難しい社会的責任も果たしてきているのです。
これが、戦後日本の新商船学校制度であって、その成果は他国では見られないレベルになっているものと確信しております。そのことは、日本航海学会や日本マリン・エンジニアリング学会(前身は舶用機関学会)の論文集、さらに、各大学・高専の紀要や航海訓練所の調査研究所報等の研究成果を見れば一目瞭然で、そのことを海事関係者(とくに船社や船員政策当局)は深く理解すべきです。
ただし、そのような学会等の成果は、途中から次第に、工学系分野に偏り始めると同時に、シーマンシップや海人、さらにはここで述べている船員(職業)の特殊性問題などの社会科学的探究を包含したものにはならなくなり、両者のかい離は、ますます進んでしまったと言えましょう。
どうしてそうなってしまったのでしょうか?それは1980年代に海事関係者を総動員して展開された船員制度近代化運動が、90年代早々に破たんして以降、残念ながら、商船大学・高専で蓄積されてきた日本独自の発展は停滞し、次第に切り捨てられてしまっているからです。
このことは、前述の世界の常識である海の職業・産業が持つ特徴を無視して、海陸労働者を同一視するという非常識な傾向が出ていることと大いに関係があります。
現在、すでに、商船という名を付した大学はなくなってしまい、商船高専の名称も消滅の危機にあります。これは、日本におけるいわゆる「非効率な社会制度」とされる部分(政治的に弱いところ)をそぎ落とすという行政改革の文教政策版であり、真っ先に商船学校に手が付けられたと言えましょう。
なかでも商船大学が他大学よりも先に手が付けられたのは、大学自治を担う教授会の力量・独自性が弱体化し、対策がやりやすかったためかもしれません。高専の場合は設立当初から、すでに学校教育法に守られた教授会はありませんでした。
文科省所属の商船船員専門教育研究機関を弱体化させ、少数の優秀な外航船員供給源に縮小する一方で、国交省所属の海技専門教育(船員養成)機関が内航船員の供給を行うという縦割り行政の構図は、短期的には成り立つかもしれません。
しかしその考え方は、戦後の商船大学・高専の成果を甘く見るものであり、内航船員も含めた日本人商船船員の位置づけ(地位)をも低下させるように思えてなりません。
そこには、もっぱら、外航船員の場合、グローバル化への対応、つまりコストが安い外国人船員と便宜置籍船をセットで使っていくことで良とし、内航船員は、トラック運転手と競り合っても、外国人船員導入の規制がある限り、日本国にとって重要であるので何とかなるかもしれない、という安易な考えが底流にある感じです。
それは、海上運送サービスを利用する諸企業(荷主)へのとりあえずの対応を最優先させる露骨な姿になります。今必要なことは、船員(職業)の特殊性を直視した船員確保策とアジアでの日本のありかたを長期的に見通した施策を示すことなのです。
② 商船学校混迷化の背景
私は、外航と内航の船員を一緒に日本人船員(職業)の枠組みに入れて、その確保育成を考えております。今日まで、国家の政策として、文科省の商船系学校で生じたことは、長期的には国交省の船員教育機関へも波及すると思っており、そのことを加味して、新たな政策理念の必要性を主張しているのです。そのことは、Ⅴ章の「諸施策の断片」のなかで触れることになります。
今日までの(船員)政策理念を、商船学校に生じたことに注目して、視点を変えて考えてみましょう。
商船学校の混迷をもたらした理念に通底するのは、80年代以降の市場主義強化の新路線であると思います。
戦後の出発点に位置づけられた学校教育の真髄は「すべての国民一人一人の個々人を充実させるという人間(人権)尊重」の考え方でありますが、新路線の考え方はそうではなくて、「市場で負けない競争心を持った有能な働き蜂」というモノ的扱いの船員像に転換するものです。そしてそのような船員を指揮命令(マネージ)できる優秀な船員は一定数必要だという選別意識もその路線は含んでいると思われます。
1970年代のドルショックとオイルショックを境にして、先進資本主義諸国は、人間尊重の経済社会という新しい枠組みづくりへ挑戦すべき時代に突入したはずです。
それにもかかわらず、そこへの踏み出しに躊躇して、米国、英国、そして日本等の国々は、それまでの政治経済的位置づけを守るために、市場至上主義(新自由主義)政策にとびつきました。軍事力を含めた力への依存を共同で継続し、それまでの秩序を頑なに守ることに力を注いでいます。
同時に、90年代早々のソ連邦崩壊を契機にしたロシアや中国などでの市場主義政策の新たな展開という事態は、本格化していた西側諸国での市場至上主義政策に有意なお墨付きを与えることになり、西側勝利の余韻が今日まで続いてきてしまいました。
その後の、旧東側での復古調政策の登場(ロシアによるクリミア半島の力による支配など)、中国の経済発展とアジアにおける盟主的行動、日米欧での保守派抬頭もあって、新しい時代へ舵を切ることには、なお時間がかかりそうです。
ただし、ヨーロッパにおける動き、つまり国を超えた新組織(EU)の誕生という共生社会への具体化の歩みが、共通通貨の発行や憲法・議会づくりにも至っていることから、日本そしてアジアの将来にあまり悲観的にならないほうが良いかもしれません。
(3)船員の夢を断ち切る指導
① 陸への転換指導の無念さ
○無念さの内容
かつて商船学校では、海・船に向かう若者を落胆させた事例があります。しかもそれを船員養成の最先端にいる担任の先生が率先してやらなければならないという苦渋の役割が強いられたことについて述べておきましょう。
それは、1970年代末から80年代にかけての市場主義強化政策に入る直前に、商船高専の現場で生じたことであります。
1960年代末に、入学定員を2倍に増やした航海学科と機関学科へ入学した学生たちが、ようやく卒業していく時期には、外航船社からの従来型の船員募集はほぼゼロになり、卒業生をいかにして陸上の職域に送り込むかという、陸上企業の開拓が当面の大きな課題となりました。
そこで、陸上の企業へ転職して活躍していた卒業生を頼って、担当の教員が尋ね歩いて求人のお願いをすることになりました。それと並行するように、商船学校を卒業しても外航船社に入れないことは、たちまち巷に伝わり、商船高専への志願者、特に地元の中学校からの入学者は激減し、代わりに、入学定員を満たすために、先生方は遠方の中学校へのPR活動を積極化させていったのです。
中学校を卒業して、全寮制度下の商船高専に入り、4年6ヵ月の座学終了後、1年間の航海訓練所での実習を済ませて、学校に戻ってきた彼らに浴びせられたのが、陸上企業へチャレンジするための方向転換の指導でした。
もともと大学を選ばずに商船高専へ入学してくる学生たちの多くは、海や船が好きでたまらない、ということが学校選択の大きな動機付けで、出身学校やその地域の人たちにも応援されて入学して来ていたのです。
彼らは高専入学の学力レベルをクリアーする学力保持者であるのは当然ですが、取りあえず早く稼ぎたいと考えている者も多く、ガッツな精神の持ち主です。だからこそ厳しい寮生活や長期の航海訓練に耐えられたわけで、卒業の栄冠を勝ち得た人たちは、同世代の青年に比べて、より大きく成長しており、一般の高専・大学の卒業生たちとは雲泥の差がありました。
そういう卒業生だからこそ、陸上の会社にいったん職を得ると、主要な戦力になっていくものが多く、重宝がられ、彼らを採用した陸上の企業群は翌年には採用数を増加させる傾向となり、年々、陸上企業からの求人数は定着・増加していったのです。
すなわち私達教員は、保護者との協働作業により、船員(職業)へ向けたきびしい寮生活と学業を無事学生に全うさせ、国費で1年間の航海訓練を終えたその時に、今度は彼らを海と船から引き離して、陸上の企業へ就職させるという矛盾した行為を行っていたことになります。
商船高専の卒業生を受け入れた陸の企業にとっては、すでに航海訓練という、ある意味では新入社員的教育がほぼ終了していた者を採用することができたのですから、その評価は高くなるのは当然のことです。
○商船学校内で生じたこと
ここで、卒業生が陸上の企業で活躍できた主な背景にも触れておきましょう。それは、戦後の新制商船学校での成果になる学理に基づくカリキュラムを、彼らが履修していたからです。
商船学校が、海技免状取得に絞った船員養成のみの機関に徹していた場合、陸上に就職した新卒業生は他高専・他大学の履修内容との落差に悩んで路頭に迷うことになったと思わざるを得ません。しかし、新制商船学校が、学校教育法上の1条校としての深みを有していたからこそ、急激な変更にも卒業生たちは耐えられたという見方を私はしております。
しかし、その後の商船学校に対する国の政策と、それに呼応する商船学校首脳部による工学系への転科で生き残りを図るような施策がなされた結果、海・船の専門機関である商船学校の羅針盤は狂い始め、その地盤沈下が進んでいくことになりました。
商船高専における具体的改造策は次のようになります。航海学科と機関学科の定員を減らして、情報工学や電子制御工学等の工業系学科へ改組され、船員コース部門は極端に削減されていきます。
そして、海技免状取得コースの定員をこれ以上減少させることができない段階に至って、航海と機関を一緒にした商船学科という名称の学科へ縮小されていきます。それは船員制度近代化政策の遂行で、航海士と機関士を一体にしていく運航士教育養成策にも合致したことから、1980年代央から急ピッチで展開されていきました。
こういった失策の流れが、船を志す若者に与えた影響は大きいわけで、その悪影響は世代を超えて続いていく心配があります。なお、富山商船高専の場合は90年代央に、国際流通学科という北前船の流れをくむ文系学科の併設が実現したことは、工学系学科とは一線を画した「商船学の充実」という意味では特記すべきことでしょう。
商船高専と商船大学において、こうした動きがすすんで、その内部は次第に商船という名称の学校とは無関係な教員と学生が多くなる人的構成が進んでいきます。
そして、2000年代に入ると同時に、二つの商船大学は他大学と合併して商船大学は消滅し、2010年代に入ると、富山商船の場合、長年続いていた商船大学からの天下り校長に代わって、文科省から行政職の校長が来て、富山工業高専との合併準備を進め、ついに校名から富山商船の名が消えていったのです。
もちろん、形骸化してかろうじて維持されてきた全学全寮制度も、80年代で廃止され、女子の受け入れも全学科(海技免状取得コースも)で行われるようになります。現在も学寮は存在しますが、それは個室を原則とした厚生施設になったと言えましょう。
そうなる前は、形骸化した状態であっても、全寮制度下の商船高専で行われていたのは、船員出身者の教員を中心に、一般教員や事務職員も含めた全教職員が、中学校を終えて入学・入寮してきた生徒たちを、我が子のような気持ちで「素晴らしい海の男(船舶職員)に仕上げる奉仕の精神」をもって、船上での仕事のように、寮での宿日直を行うなど24時間的教育活動を続けてきていたわけです。
それは商船学校の伝統的特色を何とか維持して、いわば船社の新人船員養成のために、学校全体が動いていたといえるのかもしれません。
商船大学でも、船員(職業)とのかかわりを意識した教官が主導権を握っていた時期は、そのような奉仕の心で学寮が持ちこたえていました。ただし、高専との大きな違いは、これよりはるか前の60年代、70年代に、形骸化していた全学全寮制度への異議申し立てが学生たちによって正面突破的に行われていたということです。
しかし、そのようなこととは関係なく、卒業生の海部門での受け皿が少なくなり(一時期、期間雇用船員の求人はありましたが、不人気でした)、校内での商船系教員の地盤沈下が著しくなった頃、商船学校を対象とした行政改革が急展開していくのです。それまで積み上げてきた現場の努力過程の検証もせずに‥‥。
このような経緯を念頭に置いたとき、「日本の若者の海離れを憂える」等といった言葉を発する人に出会うとき、無性に腹立たしく思うのは、私だけでしょうか?
② 夢をつぶした指導の述懐
商船学校の船員コースで行われた「若者の夢をつぶす政策展開のお粗末さ」の情況は、教員養成を担っている教育学部でも生じていたことを申し上げておきます。私は、商船高専を辞した後、大学の教育学部で、教員を続けていたのですが、たまたま就職担当教員になった時に経験したことです。
当時、学校教員の採用数の激減に応じて、教員養成コースの学生定員を教員免許とは無関係な情報系諸学科(ゼロ免課程)へ転換させることが急ピッチで進んでいました。
しかし、卒業時期とのタイムラグを伴ったことから、教員養成コースの卒業生の多くを一般企業へ就職させる手立ても必要になり、その役割の一端を担当することになりました。そこでは商船高専で経験したことが繰り返され、私は二回目の若者裏切り行為に手を貸したことになります。
教員を目指してきた学生を、卒業時には、別の道へ行くように迫ることほどつらいことはありません。私は、わずかの期間に、こうした体験を二度もしたのですが、おそらく、ほかにもいろいろな形で、若者の夢を打ち砕く事例が、この日本のあちこちで生じていたのではないでしょうか。
そうしたなかでも、商船高専でのことほど鮮烈な印象はありません。その理由の一つは、学生たちの家庭環境などの条件であり、もう一つは、海・船を志向する若者がいったん陸上に職を得ると、二度と海へ向かわないことが分かっていたからです。
教員採用試験の場合は、過年度卒業生の採用工夫や新卒者の臨時教員採用がなされていましたが、商船高専卒業生の場合は、その道を全く諦めさせて、陸上企業へ転換させる指導をしたのですから、当時の若者に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
このように、政策転換のしわ寄せが若者に及ぶことを避けることができなかった場合、世代的再生産に支障がでる可能性は大きく、その後遺症は深刻です。日本の経済社会の構造転換時期に生じた政策が、日本国民へのある程度の痛みになることは共有しなければならないとは思います。
しかし、船員(職業)の場合はその特殊性から考えたとき、構造転換政策のしわ寄せは、長期的視点で、最小限にする工夫に力を注ぐべきでしょう。少なくとも、私が現場で感じたことは、その分野で優秀な人を長期的に獲得していくことに配慮した政策とは思えず、突然、市場至上主義策を突き付け、将来に禍根を残すやり方であったように思います。
今、若者の所得に依存する年金生活者になって、その頃のことを考えると、若者、なかでも船員(職業)への思いを途中で放棄させるような政策は、どのような理屈を弄しても間違いであると言えます。たとえ海運界と商船学校との間に、求人・求職の落差があっても、船員(職業)の特殊性を直視するならば、長期的視点での政策調整を踏まえた船員政策立案は、国や企業の責任ではないでしょうか。
ここでは若者に焦点を当てて述べてきましたが、それは、現役船員に対しても同じことが言えます。
緊急雇用対策というベテラン船員のリストラ策の展開で、多くの日本人船員が海から去って行ったことは、つい最近の出来事のような感じがします。日本人船員を激しく叩きのめしたことについての反省と責任を明らかにしてから、「優秀な日本人船員の確保」をどうするかというステップへ進むべきでしょう。
(4)手荒な女子への門戸開放
もう一つ心に残ることを申し上げておきます。それは女子学生の問題です。
男女雇用機会均等の社会的・政治的動きに押されて、船員になるコースの学科でも、1980年代央から後半にかけ、他の陸向きの工業系諸学科と同様、女子の入学が許され、日本の船員社会も男社会からの転換が急ピッチで行われつつあるという印象を社会に与えて、マスコミも競ってそれを取り上げました。その結果、海・船好きの女子が船員を志願し、入学を許可した学校側は、学寮を含めて手厚い対応で彼女らを迎えたのです。旧航海訓練所も同様です。
しかしながら、航海実習を無事終了して母校に戻り、白の制服で、帽子を放り投げるという恒例の卒業式(取材のマスコミも多い)に臨んだ卒業生の女子を待っていたのは就職難でした。ようやく受け入れてくれた内航等の船社には大いに感謝したものです。
しかし、船社の受け入れ態勢はどのような状態であったのでしょうか?たまたま、学校を訪れた女子卒業生(すぐに退社してしまいました)に、船内の状況について聞いたことがあります。彼女は、ただ一言「よく調べて行けばよかった」と言っただけでした。おそらく女子船員に配慮した船内受け入れ態勢づくりなどの余裕がないままで、女子卒業生を船員として受け入れてしまったのでしょう。
当然のことですが、そのような情報は口コミで瞬く間に、在学生や出身地域、さらに出身校にも伝わり、次第に就職指導の先生も慎重にならざるを得なくなっていったのです。また、今では彼女らも結婚して家庭を持ち、子育ても行っているのですが、彼女たちが、その子どもたちに、海・船へ誘うような言動をすることは極めて慎重にならざるを得ないことでしょう。
教育の役割とその影響は長期的で、世代的にもつながっていくことを肝に銘じておくべきです。その影響は国交省の海技系学校にも確実に響いていることでしょう。
考えてみれば、船員(職業)の特殊性を無視するような展開の始まりの時期に、商船学校への女子の入学・卒業がなされたわけですから、たった一人の女子が、いきなり男子だけの生活と仕事の船内に放り込まれていったことに等しかったと思うわけで、関係者はこのことを大きな教訓にしてもらいたいものです。
女子船員受け入れ条件の整備には思い切った多角的検討が必要なことは言うまでもありません。すでに述べた、船内の仕事と生活の諸々の特殊性に配慮することはもちろん、そのほか、女子船員特有の船内問題に配慮すべきことは多くあります。
たとえば結婚した後の子育てや両親の介護を含む家庭生活や地域コミュニテイとの関係も含めて、男性社会一本やりで形成されてきた船員社会の一大改革を行う決意が必要なわけですが、この女子船員対応の点も、少子化時代の若者確保策と同様、政策の柱に据えておかなければならないことを深く認識しておきたいものです。
(以下次号)