語り継ぐ海上労働運動史9
宮崎カーフェリー・元船長
小林佳孝さん

ブリッジにて操船中

略歴
1942年:(昭和17年)11月東京都北区生れ
1967年:東京水産大学専攻科卒業
1971年:新栄船舶を経て日本カーフェリー入社
1979年:海員組合在籍専従執行部員
1982年:復社後、自衛隊の乗船研修に反対して懲戒解雇。3カ月後に解雇撤回され復職。
1986年:同社職場委員に就任
1990年:新会社への移行に乗じて不採用(=解雇)。
    船地労委の調停により不採用取り消し・復職
1996年:関東船地労委「船長へ昇進させよ」と命令
1999年:船中労委で逆転敗訴。直後船長に昇進
2001年:定年退職。同社川崎支店長(嘱託)
2004年:小型船舶免許講習の講師となり現在に至る


― なぜ船員に
 親父は海軍軍人で潜水艦乗り。僕が生まれる2週間前に南洋で戦死してしまった。その後すぐ家族そろって埼玉県の浦和に移り、僕はそこで育った。
 中学3年の時、水産大学の練習船海鷹丸が南極観測船宗谷に随伴して南極を航海。そこに中学校の先輩が学生として乗船し、遠洋実習が終わって帰港すると、中学校の講堂に全校生徒が集まり先輩の話を聞いた。
 その制服姿がカッコ良くていっぺんに憧れて、水産大学に入ろうと決めた。単純だったね(笑い)。

― 水産大学の頃
 高校の頃から水泳が好きで、すぐ水泳部に入り、そこでの活動がメインだった。ただ、夏休み以降は実習のため活動できないので、水泳部の活動は4月から8月まで。あとは寮からアルバイトに通う毎日だった。
 一年後輩の川島弘行(元太平洋海運航海士・職場委員。海員組合元組織対策室員)は、昔から人なつこい良い奴で親分肌だった。彼と一緒に日韓条約反対の集会やデモによく行ったものだ。
 後に京浜安保共闘のリーダーになった川島豪も同級生で同じ水泳部。彼は知識だけでなく、人のため労働者のために生きるという献身的なところがすごくあった。ノンポリで世間知らずの僕は、彼にいろんなことを教えられた。
 卒業後は学校に残り、海鷹丸の航海士になることが内定していた。ところが、甲2(現在の三級海技士)の筆記試験に落ちて内定はパア。航海科の卒業生40人のうち、受かったのは5人だけだった。
 当時は高度成長のまっただ中で、外航の会社からたくさん求人が来ていた。内定すれば会社から奨学金が出る時代だったから、皆なバカにして海技試験勉強なんかしなかった。ひとつ上の学年はだいたい受かっていたから、シッペ返しを食らった感じだね。

― 新栄船舶に入社
 2回目でどうにか甲2の試験に合格して、学校の一年先輩のいる第一中央汽船を訪れ、暖かい地域でのんびり航海できたらと思い、「オーストラリア航路のある会社」へ入社したいと言ったら新栄船舶を紹介された。どんな会社か知らないまま即入社となった。
 当時は、ただ船に乗れればいいという感じで、会社の規模や中身にみんな無頓着だった。先輩や学校から紹介されるまま入社するのが普通にあったのじゃないかな。
 新栄船舶は自由な雰囲気で乗組員も和気あいあいとしていた。組合活動が盛んで、どの船でも船内大会があったけど、僕はあまり興味が湧かず、横で見ているだけだった。斎藤義さん(後に職場委員・船長)が陸上勤務員で、よく船に回って来たのを覚えている。

― 短い乗船期間に憧れて日本カーフェリーへ
 新栄船舶には3年余りで4隻ほど乗船。のほほんと乗っていただけだった。だんだん仕事を覚えてきた頃、できたばかりの日本カーフェリーが、川崎―木更津航路に続いて宮崎航路の大型船4隻を作るというので、新人を大量に募集していた。
 ちょうど結婚間近で、2カ月乗船・15日休暇という短いサイクルが魅力で、これ幸いと応募した。最初の船は「ブーゲンビリア」、
 入社と同時に日本鋼管の清水ドックに3~4カ月の艤装に行った。外航に負けないくらいの大きさで、当時としては破格の豪華フェリーという触れ込みだった。客船は初めてだったので、小綺麗な内装にいたく感心したのを覚えている。

― 在籍専従に使命される
 会社は湾内と宮崎航路で配乗を完全に分けていて、僕が配属された宮崎航路は組合活動が何もなかったと思う。船内大会も聞いたことがない。90日ストの時も、ストに入った記憶はないからフェリーはスト対象外だったと思う。
 逆に湾内は組合活動が盛んで、船の要求をどんどん組合に上げていたらしい。職場委員も代々湾内から出ていた。
 だから、日本カーフェリーに入っても組合運動とは無縁で、組合の「く」の字も知らなかった。
 ところが、社員数がどんどん増えて700人位になり、職場委員も湾内と宮崎航路と日本カーフェリーサービス(事務部の別会社)の計3名になっていた。
 宮崎航路の最初の職場委員は川崎さん(のちに船長)で、彼は東京支部で「ローテーションの川崎」と呼ばれるほど、船員の権利は休暇のローテーションを守ること、が信条だった。定期的な休暇が魅力で外航から転身してきた人も多かったので、年間130日の休暇を守るために、川崎職場委員と航海士の増田明彦さんが中心となって現場を固め、17労11休のローテーションを確立させていた。
 社員数が多くなり、組合にも常時在籍専従を出すようになった頃、前任者が任期満了で船に戻りたいと言うのに交代者がいない。
 そこで、川崎職場委員から推薦されて、「しばらく陸の暮らしもいいかな」と軽い気持ちで在籍専従を引き受けた。
 それが運の尽きで、当時東京支部には、川俣恭平副支部長や堀内靖裕さん、在籍専従で中本槇夫さん、飯野の渡邊文星さんらがいて活気があった。僕は吉田恒則班長の商船三井班。各社それぞれ問題を抱えていて、いつもみんなで真剣に討論していた。それが面白くてハマってしまった。

― 部員協会のおでんと焼酎
 組合に上がって最初にぶつかったのが東京タンカー麻里布丸の定員問題。麻里布丸は鹿児島県の喜入基地から横浜に原油を二次輸送する10万トンクラスのタンカー船。当時最新鋭のMゼロ船で、機関部定員1名(定員総数20名)という大幅減員を野平東京支部長が、独断で調印してしまった。
 組合の定員内部基準に違反するし、一社で認めれば他に飛び火するので大問題となり、結局野平さんは責任を取らされる形でヒラの執行部員に降格されて、同盟に出向となった。
 当時まだ外航には部員の人達が沢山いて、部員が組合運動の主流だった。船舶部員協会に結集する人達の発言には、芯に独特の強さがあって、初めて本物の「労働運動」に接した気がした。特に二宮淳祐さん(後に名誉組合員)には、弁舌の鋭さ・凄さもさることながら、人間性の深さには感銘した。
 以来、芝浦にあった部員協会の事務所に足繁く通い、二宮さんや篠原さんが作ってくれるおでんをつついて、夜が更けるまで口から泡を飛ばしながら焼酎談義に励んだ。在籍専従の3年間、焼酎を飲みながら言いあったことが、僕にとって組合運動の学校だった。
 当時既に政党支持自由化になっていたけど、依然として海員組合は同盟の主力単産だから、選挙の時はいつも民社党の応援動員が掛かった。僕は、「民社党は嫌いだから行かない」と断っていたけど、誰からも文句言われなかった。
 「船員制度近代化」は組合の大方針だったけど、僕が部員協会と一緒になって反対しても、組合の中で圧力を感じたことはなかった。「思想信条の自由」というか、何で言える自由な雰囲気だったから、在籍専従の3年間はためになったし、面白かった。
 ただ、在籍専従は誰でも一度は日本郵船班に入るけど、僕は担当したことがない。在籍を経験したあとプロ執行部になる人が多かったけど、任期満了になっても僕には一度もプロへの声は掛からなかった。当時から嫌われていたのかな(笑い)。

― 自衛隊反対で懲戒解雇
 在籍専従が終わって復社してすぐの1982年10月18日、高千穂丸が川崎の浮島ターミナルに入港すると、陸上自衛隊輸送学校の教官3名と初級幹部課程の学生16名が研修で乗船してきた。
 ついひと月前、「機械」を積んだトレーラーのキャンバス覆いの隙間から、戦車のキャタピラーを乗組員が発見したばかりだった。
 研修を事前に知った僕らは船内大会を開いて、「自衛官による本船の見学は有事法制研究をはじめとした船員徴用の下準備であり、それは船員を軍事に加担させ、船員の生命さえも危険な状態に導くものである。」と決議して、職場委員や組合にも送った。
 船内委員長の増田明彦さん(二等航海士)と、僕(一等航海士)の二人で舷門に立ち、乗船してくる自衛隊の前で船内決議を読み上げて、「私たちはあなた方の見学を歓迎しない。それを承知で乗船して下さい。」と発言した。
 即刻船長命令で下船させられ、翌日には本社呼び出しで懲戒解雇。理由は「営業妨害、会社の名誉棄損」だった。

左から中山淳雄さん(新和海運)、小林さん、
吹田勲さん(日本マリン)、後藤軍司元執行部員

― 解雇撤回の就労闘争
 僕らは、部員協会や在京各社の職場委員に相談、解雇を撤回させるよう組合に苦情申立すると同時に、勇気を出して「就労闘争」をやることにした。
 現場から離れれば会社の思うツボだし、社内の仲間が立ち上がらなければ組合も動かないだろうから。とにかく「現場にへばりつく」ことが大事だと思った。どうなることかと最初はおっかなびっくりだったけど、この「就労闘争」が後になって効いた。
 高千穂丸は一万トン。全長160mで、乗用車と8トントラック計240台と乗客千人を積んで28ノット(時速52キロ)で走る。当時としては世界一速い船脚が売り物で、解雇の翌日の午後3時には再び日向から川崎に戻って来た。
 増田さんと僕は切符を買って乗船するや、すぐ制服に着替えて職務についた。その日の夕方6時に出港すると、当直や作業を終えたみんなが戻って来て夜遅くまで話し合い。その日のうちに5万円のカンパが集まり、翌日の航海中には再び船内大会を開いて、解雇撤回の船内決議を組合に送ってくれた。
 他の5隻も直ぐ同じ決議を上げてくれたことで、組合の態度は一変した。当初組合は、自衛隊乗船に対する組合方針が決まっていない、他社も自衛隊を運んでいる、組合の指令に基づかない個人の単独行動、等の理由で苦情申立の受付を保留にしていた。
 船内決議に続いて、部員協会や職場委員の有志がすぐ支援体制を作って組合に申し入れ。船舶通信士労組や全港湾、川崎のゼネラル石油労組に協力を頼んで22日の川崎入港日には岸壁に集まり集会を開いてくれた。そこにはマスコミ各社が来て増田さんと僕のインタビューが夕方のニュースに流れた。
 すぐさま組合本部の古田中執から電話が来て、「苦情を受け付けた。不当解雇を撤回させるため組合は全力で取り組む」と確約。すぐ交渉を開始するというので僕らは下船に同意した。18時の出港直前のことだった。
 交渉に当社の職場委員は余り協力的じゃなかったけど、副支部長の堀内さんと担当の大西さん(のちの関西地方支部長)は正義感が強く、「やった行為は賛成しないが、不当な解雇は必ず撤回させる」と一生懸命やってくれた。
 しかし会社は硬直した態度で頑として応じないため、神奈川県の僕は川崎港で、宮崎県の増田さんは日向と宮崎港で、入港に合わせて訪船という形の就労闘争を継続。社内では二人を守る会、陸では陸上労組も入れた支援する会を作ってくれて、東京本社や川崎ターミナルでの抗議行動、カンパや署名活動をしてくれた。

― 船地労委が解雇撤回
 組合は僕ら二人を出席させないまま交渉を続けた。しかし、なかなか進展せず、そのうち支援運動が広がり始めると、組合は全てを一任するよう言ってきた。変だと思っていたら、会社と組合は揃って11月5日に労働協約の仲裁条項を使い関東船地労委に仲裁を申請した。
 その間も支援運動は僕らの予想を超えて広がり、大阪や九州でも陸の人達が集会を開いてくれるようになり、東京の集会には小田実や中山千夏、市川誠、日高六郎らも来てくれた。運動の広がりを恐れたのか、12月24日、急きょ船地労委は仲裁裁定を出した。
 「記 会社は両名に対する懲戒解雇処分を取り消すこと。ただし、他の相当の処分を決定することを妨げるものではない。」という簡単なもので、理由は何も書かれていない。審議は密室で行われ、僕らは何も知らされなかったが、会社の不当労働行為(船内大会決議を伝えたことに対する報復処分)を不問にし、解雇以外の処分は認めることで組合とも話がついていることは容易に予想できた。
 案の定会社はすぐに3カ月の休職処分を出した(4項目の誓約書を提出すれば見直すという条件付き)。これに対しても組合に苦情申立すると、会社は慌てて誓約書を引っ込め、休職開始の日も解雇日に遡って変更した。結局処分の実害はほとんどなく、二人とも1月末には現場復帰できた。
 あとで聞いたことだが、11月10日の組合大会で、支援してくれる人達が解雇撤回闘争の緊急動議を出してくれた。土井組合長が、「組織を挙げて撤回させるから動議を取り下げてくれ」というのを聞いていた労担は、思わず「負けた」と言ったらしい。会社は、組合が動くかどうかが勝負の分かれ目と踏んでいたようだね。

― 職場委員に就任
 4年後の86年僕は職場委員に就任した。社員数は減っていたのでその頃の職場委員は2名、最初は通信長の増田敏治さん、二期目は航海士の上田賢一君とペアだった。担当班長は確か山下昭治さん(のちにITFインスペクター)。その後鷹島重雄さんになった。
 外航では緊急雇用対策が始まり首切りの嵐が吹き荒れていたが、カーフェリー業界も円高で大変だった。当時どの会社も旅客主体の営業方針を取っていて、集客のために高速力高馬力(燃料消費大)のエンジンと豪華な内装の新造船をどんどん就航させた。銀行が幾らでもお金を貸したから。
 ところが円高で燃料費が高騰する上に、過当競争もあって旅客需要は一気に低迷。見通しを誤った経営側は、すぐに船員費に目を付けた。
 ベースアップは殆どなく、年間臨手の率も下がる一方で、大型カーフェリー労務協会との中央交渉では賃金アップは望めない。そこでみんなで考えたのが運航管理規程通り車を搭載する順法闘争だった。
 車両と車両の間隔を規定通りに搭載すると予約の車を全部積めなくなる代わりに、焦って仕事をする必要もなく、人が通る幅も確保できるので安全になる。これには会社も文句の付けようがなかった。
 当時の大きな問題に木更津航路の新造船の定員があった。従来7名のところ、会社は高速の新鋭船ということで定員4名を提案。
 スチュワーデスの解雇に直結するため僕らが反対すると、5月の連休前なのに会社は、「定員が決まらなければ就航できない」と言いだして艤装中の乗組員をロックアウト。メインバンクの長銀(現新生銀行)から送りこまれた新社長(長銀の副社長で関東運輸局の天下り)が、赤字の原因を職場委員のせいにして現場との分断を図ったのだね。
 僕らは、「暫定5名でいいから船を動かせ」と要求。結局、「会社が意図的に船を止めた」ことが誰の目にも分かり、新社長は策に溺れた格好になった。最終的にはスチュワーデスを含め定員6名・暫定7名で決着することができた。

― イ・アイ・イが買収、2度目の解雇
 一隻90億円もする豪華フェリー2隻を発注したツケで、98億円の負債を抱えていた会社は、「会社清算」で脅かしたため退職者が出始めていた。
 90年の夏頃になって案の定、清算ではなくイ・アイ・イ・インターナショナルに営業譲渡することが分かり、急きょ交渉を始めた。
 海外のリゾートホテルを次々と買い取り一躍バブルの寵児に成り上がった高橋治則が、日新汽船(新しい名前はシーコム)を買収したのに続いてフェリー業界にも参入を図ったのだね。もちろんバックに長銀がいて、大量の資金を用立てていた。
 新会社といっても包括継承で、社長と副社長以外は、労担重役を含めて陸員も船員も同じ顔ぶれだから、僕らの真の相手が長銀であることに変わりなかった。
 8月から12月までかけて、日本カーフェリーとシーコム相手の三者交渉で、退職金清算・希望者全員移籍・新会社の労働条件の全てで合意が成立し一括調印の文章も出来上がった。
 ところが、12月19日の調印式当日、突然会社は全員雇用の協定書に限って調印を拒否し、僕ら4名(前職場委員の増田敏治さん、現職場委員の上田賢一君、長年船内委員長を務めた増田明彦さん、11月に職場委員の任期を終えて現場に戻っていた僕)を不採用にした。不採用理由は、会社の誹謗中傷・謝罪拒否。
 組合が一般投票にかけてスト権を確立すると、会社は関東船地労委に斡旋を申請。正月を挟んだ斡旋で会社はウンと言わずに斡旋が打ち切られると、会社はまたも同じ関東船地労委に「調停」を申請。組合も生ぬるくて、最初から実力行使はする気がなく、船地労委で解決を図るという態度だった。
 調停期限が設定された2月21日、組合が用意した赤坂の京王プラザの一室で僕らは待機した。夜が更けても何の連絡もなく、「何か変だ」と感じた僕らは、心配して集まっていた他社の職場委員と共に調停の会議室にいくと既にもぬけの殻。「騙された」と悟った時には遅かったね。すぐ六本木の組合本部へ直行したけど、夜10時を廻っており、門は閉まって誰もいない。
 翌朝知らされたのは「全員採用の協定書の調印、争議の終結、4名は3年間の陸上勤務」。調印前に僕らの了解を得るという約束はものの見事に裏切られた。
 結果、上田君は職場委員を解任されて大阪へ単身赴任、宮崎の増田さんは東京本社へ単身赴任、僕は神奈川の自宅から本社通い、相模原の増田さんは木更津へ単身赴任。4人バラバラに乗組員から隔離されてしまった。

― 海上復帰、昇進差別の不当労働行為申立
 その後も組合に海上復帰を要求したが、職場委員の解任さえ受け入れた組合に期待する方が間違っていた。陸上勤務は任期2年で本人同意を必要とするという陸勤協定があったけど、僕らは対象外というのが組合の解釈だった。
 僕らが陸勤を始めてすぐイ・アイ・イは事実上倒産、高橋治則は失脚して再び長銀が支配するようになり、社名もシーコムフェリーからマリンエキスプレスに変更された。
 あとから考えると、全員移籍を標ぼうしているのに、組合が個人面接を認めたことが不思議だったし、雇用協定の調印拒否も、斡旋不調で調停に移ることも、全て出来レースだったことを陸勤になって知らされた。
 船員労働委員会の発行物に船地労委での組合の発言が出ていて、「組合側は、4名の行為が不採用理由に当たるかどうか疑問がある、4名が行動した狙いは当人でなければ分からないので4人から直接聞いてほしいと述べた」と書いてあった。僕らに対しては勇ましいことを言っていたのに、実際は全然違っていたんだね。
 3年後船に戻った僕と増田さんは、昇進差別の不当労働行為を関東船地労委に申し立てた。増田さんは二航士を18年、僕は一航士を19年続け後輩が続々と追い越していた。すると何と会社は、申立の3日後に増田さんを一航士に昇進させた。これにはビックリ(笑い)。
 審査委員長は調停の時と同じ理科大の加藤俊平さん。僕らを嫌っているのがありありしていたけど、現場から同期の田中船長や橋本船長が証人に出てくれて、昇進差別が認められ、2年後の96年に救済命令が出た。
 ところが船中労委に移ると雰囲気がガラっと変わって逆転敗訴、あの時は悔しかったね。敗訴の理由がアイマイで、会社の人事権をそのまま認めるだけだったから。
 会社はもっとビックリしたみたいで、命令後すぐ浦田乾道弁護士と一緒に坂本社長から呼ばれた。
本社に出向くと、長銀から来ていた社長は「2人とも昇進させるから、闘いは終わりにしよう」と切り出した。僕も増田さんも現場では超ベテラン、船長の方がやりづらい位だった。組合の方は「人事権は会社にある」と決め込んでいたけど、むしろ会社の方が困っていたんだね。
 東京湾アクアラインが出来て木更津航路は廃止、神戸航路も廃止したけど、経営状況は一向に改善せず、賃金カットもずっと続いており退職者が止まらない。そういう社内状況が背景にあったと思う。

右は増田敏治通信長、左が小林さん。
船長昇進の頃

― 定年退職・嘱託勤務
 その後、僕も増田さんもすぐ船長に昇進。僕は01年1月に58歳で定年退職したあと、どういうわけか川崎支店の支店長(嘱託)の誘いが掛かった。乗組員の雇用を守り乍ら、経営再建したいから協力してくれと社長から言われて、ついその気になってしまった。
 最初の内は僕の言うことをずいぶん聞いてくれた。会社は、京浜航路の宮崎線を那智勝浦に寄港したり、日向線を高知に寄港したり、新しい案を出す時は、必ずといって良いほど僕の意見を聞きに来た。
 色々な手を打ったけど肝心の客が集まらない中で、長銀の意向で方針は次々と後戻りして行った。とにかく資金だけは回収するという長銀のやり方について行けず、60歳の時に辞任した。
 その後、船長が足りなくなって僕らOBにも声が掛かり、田中船長と僕は一時貝塚航路の「ひむか」に嘱託で乗船した。しかし、OBの乗船を組合が認めて置きながら、それが表に出そうになると、業界に顔の知れ渡っていた僕だけが降ろされてしまった。
 謝罪に来た海務部長は、不本意ながら僕を降ろさざるを得なかった経過を教えてくれた。組合が会社に圧力をかけたことを知った僕は、落胆・憤慨して関東支部に苦情を申し立て抗議したが門前払いされた。04年のことだったね。
 その後貝塚航路・京浜航路も廃止され、大阪―宮崎一本になってしまい、社名も宮崎フェリーに変
わったけど、会社と乗組員に対する愛着はなぜか残っている。なぜなんかね?

― 生涯現役?
 その後、小さなフェリーに乗ったり、元組合長の土井さんに誘われて小型船舶操縦士免許の講師になったりした。内航船にも乗りたくて幾つか応募したけど、何処も雇ってくれないので、小型船舶の講師を今も続けている。
 70歳を過ぎた今も、いつか内航船に乗ろうと虎視眈々と狙っているけど、難しそうだね。
 若い人には、思う存分船に乗り、思う存分遊び、思う存分上司や会社にモノを言って、自由奔放に生きて欲しい。そういう若い人が少なくなったし、気が弱い僕にはできなかったことだから。
 組合の若い人は、幹部にペコペコせずに、おかしいこと、言いたいことがあれば、どんどん言って欲しい。そうでなければ人生つまらないし、いつまで経っても何も変わらないんじゃないかな。


(5月17日談)