語り継ぐ海上労働運動史 8(続き)
全日本海員組合・元組合長
中西昭二郎さん
― 人間性回復・92日スト
S46年の春闘妥結結果が汽船部委員会で否決され、南波佐間組合長ら三役が辞任することになった。俺は「辞めちゃいかん」と言ったけど、南波佐間さんはNYKの昔堅気の船長、頑固で責任を取る時も潔かった。
臨時大会で村上体制になった翌年、72年の春闘は長年懸案の要求をぶつけ不退転の決意で臨んだ。臨まざるをえないわな、現場が一歩も譲っちゃいかんと言うんだから。河野新介さんが汽船(外内航)の実質的な責任者で外航交渉は俺がまかされた感じだった。ストの細かい戦術はほとんど俺が決めた。
船中労委の職権斡旋は、賃上げを認める代わりに合理化に協力するというやつだから話にならなかった。斡旋は不調に終わり、ストが長くなって荷主やマスコミも騒ぎ出した。川崎あたりの精油所が原油不足でストップして船主は音を上げ始め、国に仲介を頼むようになった。
運輸大臣が伝家の宝刀である緊急調整を抜くという話もあったが、俺に対しては経営側からも圧力は一切なかった。あったのかも知らんが、ヤメロと言われても受け付けんから気付きもしなかった。当時はそういう雰囲気だったな。
7月に入って東京湾が船でビッシリ埋まった所へ、大型台風が来るというんで保安庁が厳戒態勢を引き、総理大臣まで乗り出して大変な騒ぎになった。
組合は避難が必要な船に限定してストを解除、実際に沖縄では避難させた。台風が関東に直撃するかというギリギリのところで、組合最終案をほぼ認める大臣仲介案(1万3829円の賃上げ、家族呼び寄せ費新設、タンカー・専用船の内地1泊確保、有給休暇増など)が出てストを打ち切った。
当時NYKは一貫してストに反対の立場だったな。会社は表立って何も言わないが、職場委員なんかを通じて色々言ってきた。NYKの職場委員がスト収拾派のリーダーだったんじゃないかな。これは組織だからしょうがない。組合員には色んな意見があるからな。
他方商船三井は元金子派が多く、職委が変なことをすると現場から怒られたんだろう。細川さんなんかは「ヤレー、ヤレー」と煽り、変な妥協をすると怒る口だった。
当時の中執委はみなスト貫徹で固まっていたから俺も自由に振舞えたんだろうな。
― 政党支持自由化を決定
ストの翌年には政党支持の自由化を決めて、生産性本部も脱退して役員派遣を引き上げた。
これにも当時の中執内全員が賛成した。反対や棄権は一人もいなかったな。
それまでは民社党一党支持が組織決定だから、執行部は全員民社党に加入させられ、確か党費も給料から天引きされていた。組合から選挙費用や動員も沢山出していた。それをやめたから、民社党が怒るわ怒るわ。
「左翼偏向路線。海員組合が共産党に乗っ取られた」という本やマスコミを使ったニュースが次から次にバラ巻かれた。サンケイ新聞なんか酷かったな。「海員組合左傾化」と大騒ぎしていた。すぐに民社党や同盟から抗議が来て土井さん(当時副組合長)が呼びつけられたりした。
それはそうだ、海員組合は民社党・同盟を結成する時に率先して動いた立役者で、中地さんが同盟の初代会長になった位だからな。
でも俺たちはナンチャなかった。政党に関係なく政策で一致する議員を応援するのはあたりまえだし、むしろ遅すぎたと思っていた。抗議があっても、村上組合長なんか平気で「同盟も古いねえ」と記者に語っていたくらいだから。
それが報道されてよけい反発を買って、同盟大会では袋叩きにあった。口下手な村上さんに代わって土井さんが釈明したけれど収まらない。でもこっちは筋を曲げなかった。
新しいことをやると必ず叩かれるのは世の常だ。それを恐れていたら何も出来ない。この時政党支持自由化をしっかり決めたのが正しかったことが今証明されている。
海洋基本法の制定や本四架橋などの政策問題もそう。海のことに関してはどの政党も真っ先に海員組合はどう言っているか、と聞いてくるだろう。民社一党支持だったらそうはならない。
今新しく執行部に採用された若い者が、無理やりある政党に加入させられたらどう思うか、考えて見ただけで分かる。
― 海民懇旋風・中執落選
民社党や同盟から叩かれてもナンチャなかったが、組織内は簡単にはいかなかった。現場の職場委員や組合員もそれを真に受けて、「なぜ社会党や共産党の議員を推薦したのか」と言ってくる。
現場組合員の大方は支持してくれたが、職場委員の中は賛成と反対で真二つ。
マスコミが騒いだこともあって、「中道路線を放棄するのか」「階級闘争至上主義だ」と極端に捉えて、機関会議で発言する職場委員が沢山出てきた。
その典型が海民懇だな(海員民主化懇話会)。NYKと坪井玄剛(元運輸官僚、当時東京タンカー社長)の合作だと俺はニラんでいるが、東タンの船員課長なんかは盛んに動き回っていた。背景には造船疑獄の汚職軍団が関係しているのだろう。大きな政治的意図がプンプンしていた。
S51年の大会前には怪文書が沢山出た。「土井・河野・斎藤・中西は共産党員だ」、「アカを追い出せ」といような、批判じゃなくて誹謗・中傷の類だな。その年の役員選挙では海民懇の戦略が成功して、河野さんや俺は落とされ、土井さんより票の多かった平郡さんが組織担当副組合長になった。
結局、40年ストから始まり47年の92日スト、政党支持の自由化と、海員組合があたり前の組合になるのがケシカランという勢力、経営側だけでなく官僚や政党も入れた大きな陰謀が、共産党アレルギーを利用したということだろうな。
― 清水支部長の頃
大会が終わると落選した河野さんと俺はすぐ平郡さんに呼びつけられた。河野さんは船員制度近代化協議会に出向してラインから外され、俺は、「お前すぐ清水へ行け」と言われた。「覚悟はできている。何処にでも行くわ」と思った。
清水は古株の元幹部連中が仕切っていて他の執行部じゃ勤まらんからお前が行って収めろと言う。俺は負けたとは思っていなかった。
ストをしない幹部を現場が最後まで応援するわけがないから、新たな気持ちで一から執行部活動をやり直した。清水は焼津が担当だから組合員も多くて活気がある。
地方は労使関係が遅れていると思ったら大間違いで、清水の船主の方がはるかに勉強していた。ストに対しても割り切った考えだった。「これしか出せん。ヤルならヤレ」と。だから現場オルグを必死になってやらないと対抗できない。
どんな回答でも俺はすぐ船に持っていった。組合員もハッキリしていて、すぐ反応が来る。「ウチの親方こんなこと考えているのか。フザケルナ」とストに入った。そのうち今度の支部長は乗組員の心をよく知っていると、船主が腹を割って話すようになった。現場の信頼が船主との信頼にも繋がった。清水に行ったおかげで、組合全体を見る目を養うことができたな。
中執を落選したのは悔しかったけど、負けてたまるかという気持ちで現場を歩き回ったことが、後々の役に立った。
― 船員制度近代化
土井さんが組合長になったのは、昭和55年か。あの頃はもう雰囲気が変わっていた。倒産や失業が増えて、仕組船の混乗も認めなきゃしょうがなくなっていた。組合の力(スト)で日本人船員を守れる状況じゃなかった。
だから近代化をやるのはしょうがなかったけど、俺はどちらかというと疑問を持っていた。近代化に名を借りた単なる合理化、人減らしの要素が多分にあったからな。
欧米には甲機両用で定員を極限まで減らして、競争に勝つという発想はなかった。むしろ最初から賃金の安い途上国船員との混乗という発想だ。それに対して、日本の船員関係者は、日本人のみで動かす考えだった。
ところが近代化が順調に進んでいたところへ、一気にプラザ合意の円高が来た。
船主は悠長な進め方じゃ円高に追いつかないと、突然パイオニアシップ(11名の極少定員)を言い出した。官労使で取り組めば特別の予算が国から出るはずだと。
ところが、きゃつらの方が一枚上手。いざとなったら国の予算は出ない。役人のカラ手形だったわけさ。運輸省や船主は近代化は金が掛かるだけだと急に方針変更して、フィリピンやベトナムを使えと言い出した。宣伝や根回しがうまく、アッと言う間に外堀を埋められてしまった。
気が付いたら何処を向いても、近代化撤退論一色。一斉に、ここらが潮時と言い始めた。組合が幾ら抵抗しても、もう無理な形勢だった。近代化を進めていた川村さん(副組合長)は面白くなかっただろうな。ゴマ化されたのが分かったから。
しかし、それ以上どうにもならなかったな。俺は組合長になってその後始末をすることになった。
組織として決定した以上、やるべきことはやって、何処かで収拾せないかんかった。
国の予算をつぎ込んであれだけの実験をやったのに、結局役人は誰ひとり責任を取らなかったな。
― 緊急雇用対策の苦渋
最初、船主協会の会長(日本郵船・宮岡社長)が船員一万人が余剰とブチ上げた。緊雇対の申し入れがあった時、中執内では、「労働組合が組合員の首切りを容認するのは間違っている」という意見も出たが、結局受けて立つことになった。当時は「スト=悪」という雰囲気で、もうストができる組合の状況ではなかったな。
プラザ合意で一気に1ドル200円を切り、NYKはやっと1円、商船三井はゼロ配当だんじゃないかな。バブルが始まった頃で陸上には幾らでも仕事があった時だから、「減量やむなし」という考えが急に広がった。
緊雇対の担当は外航局長の田尾さんだったが、土井さんが直接指導していた。俺は港湾担当だったから直接はタッチしなかった。
俺も含めて当時の幹部全員が、緊雇対をやってもそれ程まで酷くなることはないだろうと思っていた。甘かったなあ。
当時はNYKの現場も、当社で首切りなんてもってのほかという考えだった。職場委員もしっかりしていたし、あからさまな首切りはそんなにヤランと読んでいた。
ところが実際に緊雇対が動き出すと妙に機能しちゃった。あれよあれよという間に俺たちの予想を超えて転がり始め、止めようがなかった。船主側は例外なくやるということで、NYKでも反対運動が起きたけれど結局潰された。
「緊雇対は二度とやってはいけない」というのが組合の総括だ。結局、組合がいつでもストを打てる状況でなければダメというこっちゃ。「そういう労働組合を作ろうじゃないか」というのが俺の結論。そういう気持ちでずっとやってきた。
― 非居住組合員のこと
緊雇対で混乗船が多くなり、外国人組合員が一気に数千人単位に増えた。当時は確か組合費は船主が払ってITFに収める形だったな。彼らの規約上の位置づけをハッキリさせる必要があったから、俺の時に規約を改正して非居住特別組合員制度を作ったんだ。
最初の組合費は確か20ドル位。彼らの声を反映するためにインスペクターや外国人スタッフ制度、退職金制度も作った。労働条件や権利を拡大する運動のために、組合費を40ドルに上げて、本人が払うようにしたんだ。時代に遅れないよう、制度もどんどん変えていかなければいかん。
今の非居住の問題は何と言っても、組合費に見合った見返りを彼らに与えること。金を一番払っている者が何も言えないのが今の状況だ。彼らにきちんとした権利を与えなければ、このままでは組合が大泥棒にされてしまう。
以前大会でも話題になったが、非居住が黙っているのをよいことに、執行部が胡坐をかいているようじゃそのうちダメになる。非居住問題のカラクリを研究して、大会でハッキリ答えさせなければダメだ。
規約の問題で現場から追及されたら本部はかなわない。「規約違反だ」と言われて、「違反してない」と答弁しても、執行部にはどうしても弱さが残るからな。
昔から「されど規約」って言ってな。一番強いのが規約、一番弱いのも規約。解釈権は最終的には中執にあるからな。
規約上発言権がある外国人執行部員がいるだろう。彼らを指名して答弁できるようにすればいい。
彼らは日頃訪船して、非居住組合員からしこたまやつけられているから、良く分かっているはずだ。
今の職場委員には非居住の問題を発言できる人間が少ないことも問題だな。日頃船上ではパートナーと言っているクセに、彼らの状態を最も良く知っているはずの職場委員が何も言おうとしない。子羊になってしまったな。
― 組合長時代の思い出
一番大きかったのは財政不祥事の後始末だなア。一時期は損失が40億位まで昇り、どう後始末を付けるか大変だった。
当時どの労組も資産活用で財政を潤すのがあたり前の雰囲気だった。山本万里さん(副組合長)なんかも運用で9億円儲かったなんて大きな声で自慢していた。これがルーズになる元だった。
土井さん(元組合長)も資産運用しなければもったいないと考えて八木田中執の案に乗った。少数の幹部に任せて、他の幹部は余り介入できない体制だった。
あの頃は現場の突き上げがきびしくて、執行部はお金に対してみな神経質になっていた。船主とおおっぴらにゴルフをやる雰囲気でもなかった。組合の金が流用されたとか、組合員の金で家作ったとか、色々噂が多くて執行部同士が神経質になってお互い監視する雰囲気だった。俺も資金流用はおかしいとニラんでたが、確証がなくて言い出せなかった。
そういうこともあって執行部の持ち家制度を作った。執行部も一応サラリーマンだから、生活を確立することが第一だからな。組合員の金を扱っている以上変なことされたらかなわんからな。
幹部の独断で組合財政を動かすと大変なことになる。現場が常に監視して物を言える体制でなけりゃいかんということだ。
新マルシップ混乗のことはよく覚えてないなあ。すぐ出てこんな。
― 組合人事というもの
昔の中執はサムライが多かったから、結構自由に反対意見が出た。俺が組合長の時も同じ。俺の意見がすべて通るとは限らない。反対意見も沢山あった。
俺はどちらかと言えば強気でイケイケどんどんの方だから、組合長の言うとおりやったら危ない、セーブしろと反対意見も出るわな。そういう時はちょっと考えさせてくれとか、今日決めるのはやめたと言うわけだ、俺が。そういうことは良くあった。
海員組合の規約上、人事提案は組合長の専権事項だが、俺が組合長の時は、他の役員に相談したり、案を書いて貰ったこともあった。昔は色々アドバイスをくれる代貸が沢山いたものだ。中執クラスにも地方にも。
組合の団結をおかしくしないよう、個々の執行部の転勤には特に気を使ったな。家族関係をおかしくしたり、その人間の居場所をなくすような人事をしてはダメ。根に持つような人事をするのは下の下だよ。団結を削いでしまう。
組合長が何でも独りで決めたんでは通らんよ。組合長が自分の配下で徒党を組んでいると思われたらそのうち誰も従わなくなってしまう。今だって同じだろう。
現役の若い執行部がよく辞めていくらしいが、官僚主義が強すぎて、「俺は何のためにやっているのか」と疑問を持つのじゃないかな。若い執行部がどう活動したら良いか、自由に発言できる環境を上の連中が作ってやらなければいかん。
若い連中からどんどん声が出て来ないと組織は良くならんからな。
辞めていくということは、そうなっていないというこっちゃ。組合員のために働く熱意ある人間を採用すること。若い人のヤル気を引き出すことが最も大事だな。
― 今の組合に思う
このままではどうなってしまうんかなあ。正直途方に暮れてしまうよ。今起きていることは俺の理解の範疇を超えている。なぜこんなことになるのかさっぱり分からん。人がついて来なくなったら組織は終わってしまうよ。
この10年、すっかり変わってしまった。むなしいのう。だんだん労働組合らしさがなくなっている。だって労働者の権利を言わないのだもの。権利を主張しない。たとえば賃金。来年はこれだけ取ろうとか。実際には取れなくてもいいよ。これだけ取ろうという組合としての強い主張がない。
結果として取れなくても、それはしょうがない、取れるようにするためみんなで頑張って今から準備しようじゃないかと。俺もそう思うっていうのがみんなから出てくれば次に繋がる。こういう組合にしようと、みんなで申し合わせる。そういう話を現場から広げていくしかないな。
たとえば、組合員ひとり一人が、自分の要求を自分で作る。これは無理だけどこれ位なら取れると自分で査定して構わないから、お互い要求を出し合ってみようじゃないかと。手紙交換というような形でそれを比べる。そういうことから始めるほうがいいな。遠慮して出さないという発想じゃだめだ。
結局労働運動の原点に戻るということだ。
労働者が苦しいって言っている時に、それを汲み取るのが労働運動だ。現場に行けば、みんな苦しいって言ってるはずだよ。
組織について言えば、全体が上意下達で官僚化してしまってはダメ。執行部一人ひとりが自由に意見を言えるようにしなければ。平等感を大切にしないと、大きなシッペ返しが来る。労働組合というのはそういうものだ。
何もどこかの親分が組合を支配している訳ではなく、トップはあくまで組合長なのだから、周りが「おかしいことはおかしい」と言わなければダメ。何も命を取られるわけじゃないんだから。それくらいできんと話にならん。
それとな、なんと言っても今は現場が弱いんだよ。それが最大の問題。変な大会運営をしたら現場が怒らなきゃいかん。時代がそれを許しちゃってんのかなあ。全くおとなしくなった。
昔は職場委員や現場代表が執行部の規約違反を突いて、たじろがせたものだ。「規約違反を平気でする執行部はクビだ」と。今はそんなこと誰も言わないし、現場が遠慮しているから何でもできると思っている面がある。
結局、なぜこうなったかと言えば、こういう風に仕向けたのは会社だよ。意図的にやったわけではないにしろ、組合を弱くしようと目先のことだけ考えて会社が現場を制圧してしまった結果だな。
現場は会社にモノを言わないだけでなく、組合にも言わなくなった。
― 海員組合の将来
どうしたら良いんかなあ。難しいなあ。日本人船員のなり手はいなくなる、外国の安い労働力に期待する人達が多くなる中で、どうやって船の仕事に目を向けさせるか。
これからは海のない地域や、根っからの船乗り育ちでない人間も海の仕事へ就けるようにする。そういう若い衆を組織するリーダーシップが組合に必要となるのは間違いない。そのためには高い理想と遠大な視野が必要だな。
そういう若いリーダーをどれだけ組合に集められるか。積極的に志願して組合にきた人間でなければとうてい物にならない。若い衆が組合に来て、「組合に人が集まらん」「どうしてだろう」と侃々諤々、自由に意見を出し合える環境を作ることだな。
外航は少なくなって余り期待が持てない。でも内航にはまだ元気のある若い衆が沢山いる。
海上技術学校や水産高校を出て内航の未組織船に乗り、失望してやめて行く若い衆が多いんだろう。そういう諸君をしっかり組織していくことのできるメンバーが育たないとダメだ。そのためには遠大な方針が必要だな。
内航の若い衆が一生安心して船に乗れるようにするためには設備に金も掛かる。もちろん今のような一杯船主が主流じゃダメだ。企業体質の強化が必要。そのためにはどうしても国を動かさなきゃしょうがない。
しかし内航の方が既成概念にとらわれない、自由な絵を画くことができる。
「今後の内航海運をどうすべきか」という様な議論が組織内でどんどんできる様になれば会話も生まれる。そういう構想力を持った若いリーダーが組合から出てこなければいけない。熱意がないと何も始まらない。出世や保身といった打算を捨てて、執行部になった時の初心を思い出して欲しいな。
昔の組合には政策論があった。学者やOBを講師に呼んだりして勉強する場があったから、職場委員や執行部が一緒になってよく議論した。新米執行部が食ってかかることもできた。
意見の違いがあるのはあたり前。考え方が違っても、みんなで海員丸という一つの船に乗っているという気持ちが欲しいな。
― 自らの人生を振り返って
満足。大満足だな。目標に向かってやれるだけのことはやった。
ただ、組合のことだけが気掛かりだな。
2013年7月
(インタビュー編集部)