語り継ぐ海上労働運動史 11

日本共同捕鯨・元機関長 木村利三雄(りさお)さん

【略歴】

1928(昭和3)年1月31日、青森県六ケ所村 生まれ。
1944年3月 小樽海員養成所機関科卒業(写真は入学時15歳、後列右端)。
5月山下汽船に入社して戦時標準船「山珠丸」に機関部員として乗船。8月7日魚雷攻撃により沈没漂流。次に乗船した「大天丸」でも魚雷により撃沈され7時間の漂流の後救助される。
戦後は日本水産、日本共同捕鯨などでキャッチャーボート、仲積み船の機関士、機関長として乗船勤務。その間、企業内組合書記長、委員長。海員組合と合併後は職場委員などを歴任。神戸市在住。


戦時下の海員養成所
 男6人、女1人の7人兄弟の下から2番目で、家は酒屋と農家を兼業していた。親父は特務曹長の経験がある軍人だったが、ワシが10歳の時死んだ。
 もの心ついた時、兄貴たちは皆兵隊に行って家にいるのは母親と姉、弟だけ。当時は、軍事一色の時代で海軍に憧れ予科練を希望し受験した。学科は合格したが色弱で不合格に。それでも船に乗りたいと思い海員養成所を受験した。     
 養成所では、ランプだとかポンプと言っただけで「敵性英語を使った」とか、洗濯物を室内に干しただけで「風紀紊乱」だと精神棒で思いっきり叩かれた。ワシは室長をやっていたせいか特別厳しくやられた。海軍からきた2人の配属将校が威張り散らしていて朝から海軍体操でみっちり鍛えられた。
 先輩達からもよく理不尽に叩かれたな。金がないので夏休みも帰省せず、色気より食い気で外出時50銭で隠れて食うのが何よりの楽しみだった。
 すでに食糧難でまともな食い物はなかった。それでも学科の教官に可愛がられて、教官宅で用事を頼まれては、食べ物を貰って食べたのが嬉しかった思い出だ。

魚雷の待ちうける海へ
 養成所をトップで卒業して3月には、神戸にある山下汽船の本社に出頭し事務手伝いをやらされたが、早期の乗船を強くお願いした。それで乗ったのが海軍徴用船の「山珠丸」(竣工したばかりの戦時標準船、4624総トン)。初航海は5月、既に戦況は後退の一途をたどり、絶対国防圏を死守すべく兵員・軍需物資を満載してサイパンに向かった。すでにサイパン周辺は米機動部隊の制海圏にあり命がけの航海だった。
 当時、焚けたけ(蒸気エンジン)の本船には機関部は職員が4人、部員が16人乗っていて、コロッパス(石炭運び)6人は皆十代の若さだった。三池炭は、火力は強いが燃えた残り(アス)が固まって後始末が大変。摂氏40度を超える南方海域、灼熱の機関室での石炭運びの仕事は余りにも激務で船酔いする暇もなかった。
 仕事で気を付けたのは、日中煙突から煙を出さないように焚き、石炭ガラは夜間にだけ投棄することだった。夜間の燈火管制は特に厳しかった。火力がきつく、中にはブッ倒れる者もいた。
 往航は駆潜艇が複数護衛していて、之の字航行でやっとサイパンにたどり着いた。物資や兵員の揚陸を急ピッチで続け、上陸中のドンキー(操缶手)1人が帰船していないのにも拘らず残したまま慌ただしく出航。既にサイパンは米軍に包囲され、本船が出た直後に陥落、危機一髪で脱出した。

(神戸市須磨区の御自宅にて)

戦地に向かっての船団航海
 二次航は、フィリピン防衛の陸海軍の大部隊と兵器などを横浜、神戸、門司で満載し、高雄港で30隻の船団を組んでマニラに向かった。この時には、10人位の慰安婦も艙内に乗せていた。他船のデッキにも大勢の兵隊が乗っているのが遠望できた。
 バシー海峡に差しかかった7月16日、最初に「志あとる丸」が魚雷攻撃により沈没。船団はクモの子を散らすように逃げたが、夜になっても攻撃が繰り返され、他船も次々と撃沈、「山珠丸」ほか数隻がやっとの思いでマニラ湾に逃げ込むことができた。
 初めての潜水艦攻撃は辛うじて免れたが、魚雷や空爆の危険性とか恐怖よりも、ただ仕事がきつかった印象が残っている。
 数日かかってマニラで兵隊と積荷の一部を揚陸し、ミンダナオ島南部のダバオに向かった。フィリッピンの戦況も急をつげ、かなり緊迫していたが、幸いにも米軍潜水艦にも発見されず、翌日にはダバオ入港という8月7日、ミンダナオ島南西沖合で魚雷をくらった。本船は7分後に水没、海に投げ出された乗組員の大半は、海軍艦艇に救助された。

マニラ湾への大空襲を遠望
2度目の被雷、7時間の漂流

 救助されてからのダバオでは、海軍の要員として連日モッコやスコップで土運び。8月末に機帆船3隻に分乗してザンボアンガ経由でマニラに戻ったのは9月中旬だった。マニラでも内地に帰る船はなく、防空壕掘りや飛行場での魚雷や兵器の運搬、雑用などでこき使われた。部員は、海軍5等軍属で軍慰安婦より階級は下だった。
 マニラは、既に陥落していたサイパンやテニアンさらには敵機動部隊の艦載機の空襲に晒されていて、港内の艦船や輸送船が標的とされ壮絶な戦闘が行われていた。米軍艦載機の連続した激しい空襲は、フィリッピン総攻撃が間近だろうとの情報が流れていた。
 10月中旬、海兵団に入団する予定になっていたからか、ワシ一人だけ大阪商船の「大天丸」で内地まで便乗することになった。10月20日、数隻の船団を組んでマニラ湾を出航したが海は荒れていた。
 「大天丸」は「山珠丸」と同型船で、船内や機関室にもすぐに慣れたが、火はきつく石炭は火夫泣かせの三池炭。船団が、バシー海峡に差し掛かった23日夕刻より魚雷攻撃が始まり、僚船は次々と撃沈された。
 本船は必至で逃げまわったが翌24日午前11時20分、当直中機関室からタラップに昇って出ようとした時、ドッカンと大きなショックでタラップが外れ宙吊りとなった。真っ暗になった機関室下部からは煤煙と水蒸気が噴き出していて、その熱で下半身が大やけどしていたが、無我夢中でデッキに這い上がったのでその時は気がつかなかった。何とか脱出し漂流してから約30分後、本船はルソン・ボヘアドール沖で船首を天にして仰向けになるように沈んだ。
 時化の海で漂流すること7時間。死は覚悟したが、この事実を何とか母に知らせたい、そのことばかり考え耐え続けた。陽が水平線に没するころ駆逐艦「若竹」にやっと救助された。駆逐艦は、その晩も翌日も遭難者の救助を続け、数日後の夜遅く高雄港に入った。
空襲で硝煙の強い臭いがする高雄で帰りの便船を待ち、40日余り経って東亜海運の「日光丸」に乗って出航したのは12月9日。神戸に入港したのは17日だった。
 12月の神戸は夏服では寒く、会社から被服一式と帰省切符を貰って何とか汽車に乗った。一昼夜以上かかって青森に着き、支線に乗り換え最寄りの駅から雪の積もった4里の山道を歩き、家に着いたのが夜9時過ぎだった。年老いた母は、死んだと思ったワシを見て声も出せずに泣いた。高雄の焼けた倉庫にあった砂糖が唯一の手土産だった。

終戦前後の混乱
横暴極まる船長と対決

 海兵団に入るまで家で待機していた。その頃食料は満足に無く、すきっ腹を抱えて家の仕事を手伝った。翌年4月、浜名湖の近くにあった浜名海兵団に入って3カ月半の海軍予備補修生教育を受け7月に終えて一度帰省した。
 帰省中の8月15日、自宅のラジオ前に近所の人たちも集まって玉音放送を聞いた。ラジオは、何を言ってるのかさっぱり分からず、その夜から電気をつけて良いことになったので負けたと分かった。その時、海軍上等機関兵の証書を破って捨てた。
 会社からの連絡を待つが、乗る船もなかったのか何も云ってこないし、仕事もなくブラブラしていても始まらない。そんな時、海兵団で知りあった養成所の下級生から「徴用された朝鮮人乗組員全員が下船して捕鯨船が動かなく困っている。食糧にもなるので是非乗ってくれ」と連絡があり10月18日、北海道・根室の近くの霧多布で「第一太平丸」(100総トン、290馬力の焚けたけ、15人乗り)に乗った。

初めて南氷洋に出漁. 昭和23年,20歳の頃

 本船は、戦時統制会社の日本海洋漁業統制(株) に所属していて北海道・東北沿岸で、日帰りで鯨を捕っていた。船齢40年以上のボロ船で南京虫に悩まされ、停泊中は発電機も止めて灯りはカーバイト。食い物にも不自由したが時折クジラを捕って入港すると町中の人が寄って来て喜ばれた。勿論、本船の乗組員も腹一杯クジラを食べた。調味料らしいものは何もなかったが、とにかく美味かった。捕鯨船乗り人生の始まりだ。
 「第一太平丸」に乗っていた46年には食料事情が益々悪化し、救済策としてGHQより南氷洋捕鯨
が許可され第1次南氷洋捕鯨船団が大阪を出航した。捕鯨操業の再開は、当時の飢餓寸前の日本にとって動物性タンパク資源の確保・供給に大きな役割を果たした。
 「第一太平丸」には2年以上も乗ってクジラを捕り続けていたが、その間に死亡事故があったり、その事故責任を乗組員に押し付けるなどする横暴極まる砲主・船長に対して全乗組員一丸となって会社に直訴して船長を下船させたこともある。その頃はまだ労働組合に入っていなかった。
 前後して会社は、水産統制令の廃止により日本水産(株)に社名変更、大型船や捕鯨母船の乗組員、事業員そしてキャッチャーや仲積み船など部門別に分かれてみな海員組合に入っていた。われわれ捕鯨船船員も当初は全員海員組合に入っていたが、多くの船がゼネストに参加する中、組合長派はスト指令を出さなかった。 
 こうした海上ゼネストへの対応や、その後反組合長派であった中闘派を排除した海員組合に嫌気がさして48年、ワシら捕鯨船乗組員は、「日本水産捕鯨船員組合」として海員組合から独立した。
 当時の捕鯨船員組合指導部には共産党の人もいて、いろんなことを熱心に教えてくれた。炭労などの先進的な組合と交流したりして組合活動は活発だった。船に来る組合幹部の人達は、「海員組合のダラ幹とはやってられない」とよく話していた。
 ワシが組合書記長になった頃、日本水産捕鯨船員組合は長く景気が低迷する中で交渉は行き詰まり、第12次南氷洋捕鯨船団は、神戸で出漁を前に単独ストライキを敢行した。捕鯨船員組合旗が振られ組合歌「起て捕鯨の我が同志よ」が高らかに歌われた。


日本水産捕鯨船員組合歌
一 起て捕鯨の我(わ)が同志(とも)よ
   すくらむ組もうがつちりと
  団結と平和をたたえつつ
   暴虐の嵐を超えて行く
  我らは海の労働者
二 恐るな同志よ肩組んで
   闘うものこそ幸ぞうる
  打ち降る旗は赤い旗
   われらの血汐だまごころだ
  いざゆかんわが同志よ
三 鯨すなどるわが同志よ
   四海の同志と手を組んで
自由と平和を守り抜く
   闘う怒りはわが力
  団結団結わが命
(佐藤金太郎作詞 いずみたく作曲)


南氷洋での操業、そして組合活動
 上級免状を取って機関士、機関長として乗船し、南氷洋そして北洋へと操業を繰り返した。とにかく冬期間の北洋の低気圧、暴風圏での時化は半端ではない。
 山ほどの大波に船首を突っ込みブリッジには大波が押し寄せ、やっと船がはい上がると再び谷底に落とされ、潜水艦なみに船橋だけが海面に浮き、激しい動揺の繰り返し。さらに南下するとデッキは氷で固まっててんこ盛り。
 氷点下30度以下の寒気の中、鯨を追いかけ探鯨、捕獲。寒さと眠気とのたたかい。氷山に激突や船火事の発生、時化の中での機関故障で不眠不休の修理、暴風圏操業での海中転落など数え上げたらキリがない、商船乗りとは全く違った体験の連続だった。船内の居住環境も悪く仕事はきつく苦しかったが、全員一丸となってクジラを追いかけ、捕獲目標を達成した時の喜びは何にも代えがたかった。
 57年に、組合幹部に口説かれ書記長として2年間組合の専従をした。当時は漁獲高に応じた歩合給の割合が大きかった。そのため組合は、漁獲量が低くても生活が脅かされることがないよう、基本給制度や定期昇給、乗船手当、長期出漁手当などの賃金体系の整備に力を注いだ。
 歩合給のため、鯨を見つけると各船とも我先にと全速力で向かっていくので、僚船同士がぶつかり合い、乗組員が海に落ちることもあった。こうした悪習を改めるために組合内で話し合いを続け、歩合給制度を改善することにした。
 漁に参加した全船の合計仕切り額の約6%を全捕鯨船の歩合総額とし、定員数と操業日数に比例して各船に公平に配分する制度を作ったんだ。事故で操業できなかった船にも、平均歩合金の8割以上を支給することにした。無駄な競争もなくなり、乗組員全体の志気も上がって会社も喜んでいたね。独自組合だからスムーズにできたんじゃないかな。
 会社との交渉では、とにかく海員組合が妥結した内容を少しでも上回って決めることを意識的に取り組み、組合員からもわれわれの組合への信頼は厚かった。結局68年から2年間は副委員長、70年からは委員長もさせられた。

捕鯨事業の縮小と会社合併
海員組合と合同、職場委員に

 IWC(国際捕鯨委員会)で年々の捕鯨漁獲量が削減された結果、76(昭和51)年には経営的に成り立たなくなった日水、大洋、極洋の三社が合併して日本共同捕鯨が国策的に設立されることになった。
 同時に三社の乗組員も移籍し、それまで何かと共同歩調をとるようになっていた海員組合に対する反発もなくなっていたことから、わが組合と正式に合同・合併した。当時の海員組合長は、村上行示さんだった。
 ワシは合同した2年目には職場委員となって、再び労働運動に参加した。当時の土井副組合長(80年から組合長)は、ワシと同じく戦禍の海を体験したことから、話しもよく合った。水産関係に詳しく捕鯨船乗組員に対して理解もあり何かと世話になった。土井さんとは、亡くなるまで年賀状のやり取りが続いた。中西さん(88年から組合長)も幹部で、気さくな人だった。組合本部でクジラを肴によく飲んだな。
 米国を中心とした反捕鯨国の理不尽な提訴が続き、商業捕鯨は86(昭和61)年には中止に追い込まれ、調査捕鯨になる前年に定年退職した。監視船「第21興南丸」を最後に、南氷洋出漁回数24回、北洋出漁10回の40年間の捕鯨船人生を終えた。

戦争法「成立」に思う
そして若い人たちに伝えたい

 あの戦争で日本の商船隊は壊滅したが、科学技術が発達し探査性能が向上した今日、いかに強力な護衛艦に援護されても水中からの魚雷攻撃を100パーセント防ぐことは体験上不可能。むしろより精巧に標的を捕捉し攻撃できるようになったはずだ。
 図体が大きく防衛能力のない商船・漁船を撃沈させる性能は大戦時より格段に向上している。そんな船に乗っていく船乗りのことを考えると、今の安倍内閣は何を考えているのか。
 あの戦争の恐怖の海、生死の境を漂った息づまる苦しい体験は若い者に二度と繰り返えさせたくない。米国に迎合するためのものかあるいは軍事予算を増大するための手段なのか。いずれにしても危険極まりない法律だ。船乗りだけでなく徒らに人命を犠牲にするこのような法律には断固たる反対の態度を表明して、廃案することが必要ではないか。
 それを大きな声で叫べるのは、悲惨な体験を持つワシたち海の男の他に誰がいるのか。


(2月5日取材)