安藤敏顕(としあき)さん略歴
1930年(昭和5年)岡山県勝田郡古吉野村生まれ。44年4月川崎造船東山学校入学、6月卒業し金山丸乗船。45年3月金山丸空爆炎上。46年1月復員船リバティー号乗船。52年日鉄汽船(のちの新和海運)入社。62年船舶部員協会設立に参加。64年新和海運職場委員。66年海員組合幹部リコール運動に参加。84年船舶部員協会会長(在職・乗船のまま)。89年新和海運退職。海の平和問題懇談会会員。岡山県津山市在住。
3ヵ月の即席養成
1 0人兄弟の4男、家は百姓で余り裕福でなく、勉強も嫌いだったから、軍需工場かドック職人にでもなるかと漠然と考えていた。
進路が決まらずにいると、職業指導所の指導で日本郵船の元船長が勧誘に来た。修学旅行の須磨の
海しか知らない山育ちの僕らに、船長の話はすごく魅力的で、一辺で惹きつけられた。
まったく新しい世界が開けた気分になり、同級生3人で軽い気持ちで応募した。戦争の怖さなど思いもよらなかった。今思えば、南方で次々と船が沈められて、船員の補給が急務だったんだね。
職業指導所に言われるまま、神戸の川崎造船の東山学校に入学。元々ドックの職工養成校で、川崎汽船が敷地を間借りした格好だった。川造の寮に入り、給料も20円もらえた。尋常高等小学校を出たばかり、14歳だった。
4月に入学、航海術やロープワークを習った後、すぐ舞鶴の軍学校に一ヶ月水中聴音機の講習に行った。他の船会社の学校からも生徒が沢山来て競い合っていたから、段々その気になっていった。
所長は海軍中佐。船員コースは3ヶ月で卒業し、皆な川崎汽船系列の船に乗っていった。
金山丸爆発炎上・14歳
卒業と同時に橋本汽船の新造船金山(きんざん)丸に乗船。2千総トンのデリック船で乗員60人余り。養成所出は一番ボットムで、デッキの僕は最初はボーイ長。飯運びと後片付けが仕事で、物の名前を覚えるのが精一杯、怒鳴られて当たり前の世界だった。僕は夜のワッチにも入り、水中聴音機の前で耳を澄ました。
最初の頃は沖縄から鹿児島に学徒や婦人たちを避難させていたが、45年2月、護衛艦3隻、商船5隻の船団で陸軍士官の頭脳集団65人を運んで「南方方面」へ。
軍の荷物を積んでいるので僕らは目的地も積荷も教えて貰えない。
米軍部隊展開の情報が入り、奄美大島の久慈湾に避難中、突如米軍機の編隊が来襲し船首部に着弾。
船長は陸軍士官を守るためもあって、すぐに座礁させ退船命令を出した。僕らは消火作業を中断、命からがら船を離れると、直後450トンの爆弾を積んでいた一番船倉が爆発炎上、船はスクリューを残して跡形もなく飛び散った。
よく生きて帰れたものだと思う。
マッカーサー命令で乗船
無傷だった僕らは唯一残った一隻で鹿児島・門司を経て神戸に帰った。すぐ出頭命令が来て会社に行く途中の3月14日、大空襲に見舞われ、すんでの所で湊川公園の地下に逃げ込んで命拾いをした。辺り一面焼け野原だった。
家に帰って田んぼの手伝いをしていると村の助役が「兵隊に志願しろ」としつこく来て、9月に海軍入隊が決まった。そうこうする内に天皇のラジオ放送があり、「負けたんだな」と分かった。海軍に行かなくて済み、思わずホッとしたのを覚えている。
何にも連絡がないので、会社に籍があるのも忘れた頃、46年の旧正月だったと思う。突然「マッカーサーノ命ニヨリ乗船ヲ命ズ。会社ニ出頭セヨ」の電報が来た。
危ない目に合ったから、船のことは忘れるようにしていたし、須磨沖でタンカーが機雷で爆発するのを目の前で見たので行きたくなかったが、「命令ならしょうがない」とイヤイヤ出かけた。
神戸に集合して夜行列車で横浜へ。係留中のバラックシップで2日間ザコ寝をして、米軍から貸与された復員船リバティーV39号へ乗船した。8千トン足らずの貨物船で、船倉にバラスト用に土を積み、その上に板とゴザを敷いて、一回に3500人を台湾や上海から博多、舞鶴へ運んだ。
船内が労働学校
組合に入ったのは翌47年のリバティーV17号。米軍の軍需物資をフィリピンやグアムへ運んた。
フィリピン沖待ち中に食料が底を突き始めると、山本久次パーサーが「国際条約で食料支給が義務付けられている」と皆をまとめて渋る船長へ要求。会社もついに折れざるをえなかった。理屈でも一歩も引かず体を張った姿に、凄い人もいるものだと感心した。
戦争で仲間を失いながら、やっとの思いで生き残った苦い思い、それでも我々が船を動かさなければ、という船員の自負心。そういう皆の気持ちが一つになって組合運動に向かっていた。
客船時代の名残りのタンツー制度廃止もこの時。毎朝6時から7時までデッキや通路の掃除で時間外手当はもちろんナシ。セーラー全員で話し合い廃止で一致したものの、船長に要求する前にストーキー、ボースンに話を通すのが大変だった。ようやく始業時間を7時半にすることで妥協した。
佐世保で、田畑義夫の歌にある「泊まり船」もよくやった。
荷物がなくて1ヶ月も2ヶ月も沖待ち。上陸して金を使い果たすとボースンが金貸しになるのはどの船も同じで、ある時大工さんの返し振りが悪いと言ってボースンが金を貸さない。高額な利息はおかしいと怒る大工さん。セーラー全員が応援して、ボースンが降りるかセーラー全員が降りるか、大騒ぎになった。
組合佐世保支部の富岡さんが来船して、利息貸しの慣習そのものの廃止を説いて皆を説得。ボースンは自発的に降りて行った。
富岡さんは九州大学の先生の「経済学講義」に僕らを呼び、社会知識や労働運動のことを手に取るように教えてくれた。V17号の1年半は僕にとって学校だった。
税務署に焼酎配給を要求
48年の正月、「人並みの正月をさせろ」と、鹿児島に停泊中の数隻で地区船員大会を開き、熊本税務署に焼酎を要求した。一人5合だったか、当時は配給制なので相手は税務署。鹿児島の支部長が熱心に旗を振って奔走してくれて良い正月を迎えられた。
食糧難だったから、よく組合に行って食料金値上げの要求をした。
宗谷丸(後に南極観測船に改造)乗船を最後に船舶運営会から橋本汽船に戻ったが、当時は船不足を補うため外国から大量のボロ船を買って運航、おかげで鉄山丸、絹笠丸と2隻連続して浸水、両船で壮絶な脱出を経験した。
イギリスから買ったばかりの絹笠丸は、最初の航海で北米から鉱石を積んで帰る途中、太平洋の真中でサイドに亀裂が入り、懸命に補修するも浸水がひどくSOSを発信。救助船が来たが、船長はあくまで修理を命令、船内で論争しているうちにボートを降ろせない程のシケに突入してしまった。
大風雨の中で船長は徹夜で奮闘し、翌朝なんとか移乗できるまでなったが、今度はひとり船に残ると言う船長。全員の命を救うのが船長の役目と説得して、ようやく退船を決意した。
乗る船が無くなった僕は神戸の弁天浜で仕事をしながら次の会社を探した。当時は喧嘩でクビか、レッドパージで降ろされるかで、クビになった船員達が弁天浜のドヤ街に集まって、皆で立ち上げたバラックに住み、クレーン手など港の仕事で食いつないでいた。
引き揚げ完了後も米軍の物資輸送のため政府は米船運航㈱を作り、要注意船員は米船運航に送られ、自社に帰れなかった人も多い。
日鉄汽船に入社
レッドパージの大量首切りで、どの会社も人が足りず、運よく僕は日鉄汽船に入社した。どの船にも船内委員会があり、船内は実におおらかで自由闊達だった。
辰葵丸の時、年末一時金が余りにも低額で早く妥結したので、船内委員長名で「再交渉セヨ。ワレラ団結シ、ストモ辞サズ」と電報を打った。川崎に入港すると船機長が会社に呼ばれ、船内委員長だった機関長は即下船。僕も電報を作ったことがバレて降ろされ、8ヶ月干された。若かったから気にもせず家の農作業に精を出した。
日鉄と東邦海運が合併して新和海運になった62年、僕は初めて全国委員になった。当時は前任職委が指名するものではなく、船で推薦したり自分から立候補した。
「高点順位」が原則だったが、得票数が一番高いにもかかわらず、僕は職場委員の就任を拒否された。
船舶部員協会の創立
全国委員の先輩達は、年1ヶ月しかない休暇を組合大会に当てていた。大会の準備や地区船代もあるから家に帰る暇はない。僕も大会が終わればすぐ乗船で、家族サービスができず、「お父さんの約束はいつもアテにならない」と子供から言われ放しだった。
61年、組合は定員の中央協定を撤廃。専用船や自動化船、甲機両用化も進められた。組合の大部隊は部員なのに待遇はよくならず、定員も減る一方で、部員協会を設立して運動を起こそうという声が自然と起きた。
「部員のことは部員で決める」主旨は瞬く間に海上に広がり、大手船主や組合の圧力がある中で、その年5月会員7千人で発足した。
数年後、僕は事務局長に推薦されたが、会社が出向を認めずに断念。尾道支部長から執行部になれと言 われたりもしたが、現場の活動の方が大事だから断った。
職場委員時代
僕は先輩達の力で、2年後にようやく職場委員として認められた。何か言ったら組合を通じた問題になるので、会社は何も介入せず、自由に任せてくれた。
臨手の要求も、組合が決めるのではなく、全船30数隻にアンケートを取り、3名いた職場委員で要求を決めて支部に提出する。
当社の要求48割に対して、東京地区は一律43割と支部が決めた。
現場が譲らないから僕らも譲れない。河野支部長に「要求は組合員がきめるもの」と突っ張り、結局地区統一要求は45割になった。
交渉は長引き、各社職委は「新和が先に決めろ」と言い出す。
会社は41割を最終回答。手を打とうとする組合に対し、僕らは「交渉権を職場委員に与えろ」と支部長に交渉。これは認められず、結局41・5割で決着した。
「妥結権を現場におろす」ことに幹部はいつも拒否反応を示した。そのため、執行部への不信が船内に根強くあって、幹部請負の限界とでもいうのか、それが組合の発展をはばんでいた。
「みんなで要求を決め、みんなで行動し、みんなで妥結する」直接民主主義の原理。少なくとも、臨手や賃金制度の変更、雇用の問題は関係組合員の一般投票にかけるというのが、僕が職場委員をしてたどり着いた結論だった。
当時は京浜と阪神の職懇も連絡を取り合っていたから、組合も折れざるを得ない時もあった。
賃金要求を決める時、「船に乗って10年、少なくとも25歳で結婚できる賃金を出せ」と言えば、「賃上げの理論、係数を示せ」と逃げる金子汽船部長。若い人たちは食って掛かっていた。
とにかく組合要求を決めるまでが大変で、船主との闘い以前に、組合との闘いだった。
組合幹部リコール運動
65年の賃上げストの時、成果がないままスト解除したことに現場の不満は大きかった。特に和田春生副組合長、金子汽船部長は、独断専行で、何でも強引な上に口が達者で、あの手この手で僕らの追及をはぐらかす。
耐えかねた僕らは、リコール運動委員会を作って翌年4月に署名を開始。わずか2ヶ月で1万名を超え、必要数5千を上回った。
リコール運動の真の目的は幹部独裁を改め、民主的運営にすることで、現場組合員はそれを期待していた。
ところが組合は「個人の性格の問題や、機関決定で承認を得た役員の行為はリコール理由にならない」と認めず、組合除名を匂わして、職場委員の池田君ら4名の在陸委員を脅かしにかかった。組合の圧力がすごい上に、公安警察まで調べ始め、一人二人と運動から抜けていった。
なんとか収めたい組合は、村上教育部長(後の組合長)が使者として部協に来て妥協策を提案する一方、翌67年6月にリコール責任者の堀次清二さん(東海運機関長)を「虚偽の宣伝で役員を侮辱した」として権利停止の統制処分、4名を戒告処分にして分断を図った。
僕らはリコール裁判闘争委員会を作り現場に宣伝をした。東海運職場委員の松尾榮君や日本塩回送の片岡和夫君はニュース「沖の声」を発行し処分反対を訴えていた。
裁判は地裁で敗訴したが、71年9月に逆転勝利した。
「海員組合の役員リコール制は、主権者である組合員が直接判定できる『唯一の機会』だから、不信任理由の中身に役員は口出しできない。リコール請求は規約を満たしているので、それを理由にした統制処分は無効」と判定した。
組合は上告せず、大会で反省の意を表明。処分を解除した。
しかし、リコールが起きた年の大会で、中地組合長は責任を取る形で引退、金子汽船部長も退任して同盟に出向。和田副組合長も2年後に引退していたから、一般投票をする理由はなくなっていた。
リコール運動の中で部協会員は1万6千名に増え、外航部員3万の半分以上が加入した。
リコール運動の後、組合は部協から執行部に一人上げるというので僕に白羽の矢が立ったが、部協事務局長の僕に汽船部の末席に座れという。責任ある活動は何もさせず、結局利用されるだけだから断った。
土井執行部の誕生
72年頃までは毎年のようにストがあり、いい加減な妥結もあったが成果も大きかった。
69年の賃上げストは若松で沖待中だった。会社は船内委員長に入港を頼み、船側も入港した後ストに入りたかった。支部と話をして入港すると、重役は真っ先に船長でなく船内委員長にあいさつに来た。労働者はストを構えて初めて対等になれると実感した。
組合がよい方向に向かうとツブしたい勢力が必ず現れる。当時は海員民主化懇話会といって、大手の職員を中心に「このままでは組合が共産化する」と言って大宣伝をした。僕ら部員の要求が組合に浸透するのが気に食わなかったのだろう。「左翼勢力」を実名で名指しする怪文書が沢山撒かれ、僕なんか乗船中で太平洋の真中にいるのに、共産党の会議に出席したことになっていた。
海民懇は執行部にも勢力を持ち、土井副組合長ら役員、執行部員、職場委員まで名指しで批判し、中西さんらも中執を落選させられた。
現場だけが頼りの僕らは、船主の圧力もあって、当初は劣勢だった。しかし、春闘で長期就航手当やタンカー手当の実質賃下げを密室で妥結したことが、汽船部委員会で否決されて役員が総辞職。臨時大会で土井執行部を選出することができた。
しかし、世の中は既に流れが変わっていて、労働運動は後退するばかりで、独り海員だけというのは無理だった。土井さんも船主との妥協色がどんどん強くなって、正直いって期待はずれだった。
緊急雇用対策
船員制度近代化では、「実験・実証」と言う言葉に惑わされ、船主や運輸省が敷いたレールの上を歩かされてしまった。一度、国際競争力という算盤勘定に身をゆだねてしまった以上、敵の作戦が緊雇対に代わっても組合には抵抗する力が残っていなかった。
新和海運では毎年地区大会前にクラブの総会を開き、休暇員も入れて50名以上集まった。船内大会で各船の意見を決めて総会で論議し、地区大会、大会へ提起する。
それが気に食わない会社は重役以下一丸となって、「合理化が遅れ、3年間足踏みさせられた」と次々と手を打ってきた。一航機に対して労務管理・部下の指導を徹底し、現場を締め付ける。全社的に役員や陸勤の船機長が訪船して一人ひとり叩きまくった。商船大学人脈を利用した組合対策も都度行った。
職委対策にも余念がなく、組合活動をやるために職委になる伝統は失くされた。結果、あれ程意識の高かった現場に、もはや抵抗できる力が残っていなかった。
肩たたきが始まると毎航のように、海務部長や船員課長が訪船して一人ひとりハンコを付くまで説得。最年長の僕には、「あなたが辞めないから後輩たちが困っている。後進に道を譲れ」などと言って来たけどガンとして譲らずに、とにかく頑張れるだけ頑張れと後輩を励ました。それでも数ヶ月耐えるのが精一杯で、割増退職金を積まれ、結局50代を中心にどんどん辞めていった。
中央で組合が協定して武装解除してしまった以上、もはや止める術はなく、どうにもできない無力を感じた。部員は「免状を取る」ことが生き残る道ではない。免状は運動にはイラナイのではないかな。組合運動の力で部員職を守らなければ結局何も守れない。緊雇対がそのことを証明した。
僕は生涯を甲板手で終えた。趣旨を曲げてまで職長になろうとは思わなかった。
結局、乗組員がまとまらない様に、会社対個人に分断したのが緊雇対だった。
船員には強い力が宿る
退職して20年、外航部員がゼロになるとは思いもよらなかった。僕らに何が足りなかったのか、忸怩たる思いだ。
昨今は金儲け主義が幅を利かせ、労働者が働いて築いた価値が見えなくされている。ドルや株の売り買いが世界経済を支配するかのように言われているが決してそうじゃない。企業を守るのも投機に長けた重役ではなく、労働者が働いた成果で守るものだ。
僕は今も実家の農業を手伝っているが、つくづく感じるのは農業と海運・水産はこの国の両輪ということ。山の畑や林がダメになれば海もダメになる。岡山ではダムをせき止めた結果、瀬戸内の海苔の色が悪くなった。
農林業の再生が漁民の利益と結びついている。陸も海も共同しなければ守れない。単に目の前の生活だけでなく、将来の子孫を守るために、今ようやく団結が始まっている。脱原発はその試金石ではないかと思う。
農協もようやくそれが分かり、TPPは将来をダメにすると運動に立ち上がっている。
現状を劇的に変える特効薬はないが、幸い日本にはまだ内航船員がいる。日本の船は日本人で動かす、日本の海の魚は自分達で採る、という信念で目標に向かって大胆に運動を起こす以外にない。
船員は潜在的な力があるのだから自分を信じて進めば必ず道は開ける。僕達の若い頃もそうだった。
2012年5月、津山にて
(インタビュー・編集部)