篠原国雄氏略歴
1928年(昭和3年)長野県岸野村(現佐久市)生まれ。43年3月満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所入所、9月渡満。45年8月黒竜江省嫩江訓練所で敗戦、9月シベリア抑留。47年4月帰国。49年日本油槽船㈱入社。60年日本油槽船職場委員。65年集約合併後の昭和海運を退社し船舶部員協会事務局員。以来、船舶部員協会事務局長。海上労働ネットワーク事務局長。戦没船を記録する会事務局長。東京都足立区在住
農家の次男坊
養蚕中心の農家の6人兄弟の4番目に生まれた。春蚕で百貫も穫る程の養蚕農家で、晩秋蚕まで年4回繭を収穫していた。
戦争が激しくなると、若者は軍隊や軍需工場に動員され、働き手が不足したので高等科の子供は一人前の労働力と期待された。当時の高等科卒業生は、中学や農業学校へ編入、軍需工場への就職、少年兵や義勇軍に志願するしか選択肢はなかった。
「行け満洲へ」とか「五族協和」「王道楽土の建設」などのスローガンで、訓練を終わって開拓団に行けば10町歩の農地が貰えると、県も村も学校も積極的に義勇軍を募集して送り出していた。私は軍需工場より満州の方が志望だったので、村の同級生3人と「満蒙開拓青少年義勇軍」に行くことにした。14歳だった。
満蒙開拓と青少年義勇軍
満州事変・満洲国建国の勢いに乗じた昭和8年、兵役を終えた農村の二・三男4百名の武装移民を入植させたのが満蒙開拓の最初と言われる。S12年に国策として百万戸5百万人を20年間で移住させる満州移民政策が決定され、義勇軍もその一環にくみこまれた。
私の所属は長野県の第6次義勇軍3ヵ中隊の一つで、約250名で編成され、中隊長の名前から丸山中隊と呼ばれていた。3月末に茨城県の内原訓練所に入所、9月に渡満して嫩江(のんこう)訓練所に入った。昭和19年には大連や奉天(瀋陽)に勤労動員され、終戦時訓練所に残っていた中隊員は百名足らずだった。
嫩江で迎えた最初の冬は、寒さと屯墾病(ホームシック)に耐えることで精いっぱいだった。
翌春移動した中隊は、見えるものは草原の連なりだけで、冬になると一面の雪景色の向こうに狼の群れが見えた。18頭の馬や牛、豚や緬羊が沢山いて、20町歩の畑で燕麦や大豆、ジャガイモや野菜などを栽培した。仕事のほかに授業や教練や実弾射撃訓練もあった。
敗戦とシベリア抑留
敗戦間際、ソ連軍が攻めてくるからと移動命令が出て、食糧や衣服をリュックに詰め小銃と実弾で完全武装して十数キロを移動したが、一晩で中隊に戻り、嫩江の部隊に収容されることになった。
9月中旬、嫩江部隊が千人単位の2個大隊を編成、丸山中隊から12人が軍に編入され、250キロ先の黒河まで行軍した。シベリア経由で日本に帰国するという噂であった。10日目に黒河の街に入り、黒竜江を船で渡りブラゴエチェンスクに上陸。3日間貨車で運ばれ、「トウ」という村で下ろされた。
ここは「第20地区ブラゴエチェンスク第10収容所トウ駅」であると後で知った。
「トウ」では、最初に村の家を解体しその角材で大きな家を建て、林から切り出した丸太で塀を作って、捕虜収容所が出来あがった。
収容所の食事は満洲から運んできた粟や高粱、燕麦など塩味のおかゆが飯盒の蓋に一杯。夜は缶詰のソーセージや身欠き鰊、ハタハタの煮物が付く事もあった。
そのうち昼食にパンが出るようになった。今風にいえば4枚切りのパン1枚が一食分で、たまにスプーン一杯の砂糖が付いた。食事は日に3度支給されたが、量が少ない上に栄養のバランスが悪く、毎日ひもじい思いをした。
冬の主な仕事は坑木伐採であったが、翌年若い義勇軍が15人ほど農場に派遣され、春から秋まで燕麦やジャガイモ、野菜作りをしたことは楽しい経験であった。
昭和21年暮れ、帰国の貨車に載せられたが、海が凍っているからと途中で帰された。18才になった私は、昼夜三交代で長尺材をトレーラーから降ろす重労働に回され、冬の道が使えなくなるまで続いた。4月にトウ駅から8日間貨車で運ばれてナホトカに着き、米山丸で舞鶴に帰還した。
海員養成所から初乗船へ
帰国後、家の手伝いや土方に出たが、職安の船員職業訓練生募集案内を見て、昭和23年秋に長野市で入学試験を受け、翌1月七尾海員養成所に入所した。親類や知人に船員がいたわけでもなく、全く偶然だった。寄宿舎では何時も腹をすかせていた。養成所の座学は理解できなかったが、投炭訓練やハンマー振り、ヤスリ掛けの実技は乗船して役に立った。
4月に日本油槽船から採用通知が来て、翌5月乗船のため本社に出頭した。事務員さんが迎えに来て、桜木町の生糸検査所の海運局出張所で雇入れ手続きをした。海運局の係員が「あなたはこういう条件で乗船することになったがいいですね」と聞いてきたが、こんな儀式めいた雇い入れ手続きはこれが始めで最後だった。部員は初乗船日が入社日だった。
鶴見の安善の精油所岸壁で、宝山丸2号に機関員見習いとして乗船。機関室では燃料弁の取り換えやクランク調整をしていた。
言われた通りボイラーの前で見ていたら、安全弁がボーと大きな音をさせて噴いた。機関員が飛んで来て燃料ポンプを止めた。ボイラーの脇に玩具のように小さい横置き型の燃料ポンプと給水ポンプがあり、蒸気圧を一定に保つためには、2つのポンプを手動で操作するのだと教えられた。
ボートデッキの両舷の鳥小屋と呼ばれる部屋に甲板部と機関部4人ずつが寝起きしていた。幅1メートル足らずの寝台2つが二段あり、足からもぐり込む式で、1人分の空間は畳1枚も無かった。沖泊まりの夜は電気も蒸気も止まるので、ボーイ長はランプのホヤを磨いたり、蒸気を直接噴きこむ海水風呂沸かしに大忙しだった。
乗船中の思い出
昭和25年2月に鶴見の鋼管ドックで富士丸に乗船した。3600トンの石炭焚き蒸気タービン船で、4火炉の水管缶2基が据わっていた。機関部員だけで23人の大世帯だった。
朝鮮戦争が始まり鹿児島沖で船団を組んで朝鮮に向かった。
朝鮮の港で停泊が長引きバンカーが不足して、A型船の積荷の米軍ストーブ用石炭を貰ったが、火力が弱くアスばかり溜まって苦労した。元山の湾内に待機中、沖合の米軍艦が撃つ砲弾が、一晩中赤い尾を引きながら内陸に向けて飛んで行った。撤退する米軍への援護射撃だといわれ、何も積まずに引き返したこともあった。この時は23カ月乗船していた。
4ヶ月ほど休んでまた富士丸に乗船。スマトラ島のメダンにクズ鉄を積みに行った時は、戦車のキャタピラや大砲など、戦争の残骸をトラックで運んでくるので、満船に1カ月もかかった。その後富士丸は2カ月毎に横浜起こしで日本各地を廻り、門司バンカーの後、香港・サイゴン・バンコック定期に入り、帰りはフィリピンでラワンや鉱石を積んだ。若い私達にはとても面白い航路だった。
次に乗船したのはせりあ丸。戦標船のタンカーでペルシャ湾往復に60日かかった。発電機はシリンダーの直径が高圧・中圧・低圧とだんだん大きくなる3聯成レシプロで、今やどこに行っても見られないエンジンだと教えられた。
外国で積んだ水が原因で蒸気圧が上がらなくなり、片缶ずつ休缶にして機関部オールハンで水管のチューブ突き、という珍しい体験もした。その後せりあ丸は、ペルシャ湾のカフジ沖でステーションタンカーにされたが、石油ガスの逆流で機関室が爆発、当直の機関士と操機手が死んでしまった。
昭和30年代に入って、技術革新の進んだ新しい船にも乗ったが、富士丸やせりあ丸の経験が、大事な基本だったと今も思っている。
当時どの船でも、船内食料が大きな問題だった。乗船中は食事が唯一の楽しみだから、船内大会の議題になり易かった。
あまりガチャガチャやるもんだから、入港中船員課長がやってきて船内委員会と話し合いをしたことがあった。食糧問題はみんなが参加し易い話題で、船内組合活動の学校だったと思っている。
職場委員時代
職場委員になったのは昭和35年で、全国評議会の委員にもなっていた。同じ年齢だが船員経験では6年も先輩の前任者に、「次の職委はお前だ」と言われて、自覚も予備知識もないままだった。
当時は職場委員懇話会(職懇)という各社職委の自主的な組織があった。集約合併以前は職・部や会社間の壁はあまり高くなく、賃金体系・諸手当、定員や厚生面まで、社内の諸問題について情報交換が自然に行われ、各社競いあって労働条件改善に取り組んでいた。
年齢の近い他社の職場委員も大勢いて、いろいろ教えて貰い、お互いに支え合って職委の仕事も覚えていった。それが産別労働組合の活動の基本だと思った。
当時の職懇は極めて自主的で、確か毎月2回定例会議や勉強会があり、その時々の問題を協議し、組合執行部と対等に渡り合って、自分達の要求を実現するために奮闘していたように思う。
翌年、部員団体設立準備会が発足、私は経験のない一番の若造で、使い走りをしながらいつのまにか船部協の設立に奔走していた。
船舶部員協会の創立
船舶部員協会の設立総会は昭和37年5月7日。この日は前年の組合大会で週48時間労働制の要求を決定、交渉が決裂、4月に出た船中労委の斡旋案を船主側が拒否、組合がストに突入中であった。
組合からは青木副組合長が出席し祝辞を述べたが、組合は部協が労働組合として独立するのではないか心配していたと聞いている。総会で採択した「設立宣言」では、部員一人ひとりが尊重されるべきことなどと共に、労働条件の改善や苦情処理は海員組合を通じて行い、組合が要望を達成するよう尽力すること、など4つの原則方針をうたっていた。
部協の目標は会員の親睦融和のもとに、部員の社会的地位向上、生活と技術の向上に向けて、原則方針のもとに目的達成に邁進するとしていた。
前年に3年振りの賃上げがあり、定員の中央協定が撤廃され、部員役付一本化による減員や、ホーサー一本でセーラー一人減員など部員の減員が進められ、自動化船金華山丸が就航するなど、船員の職場環境の急激な変化が予測される様な時期だった。
また部協は、純粋の職能というより、甲板部機関部事務部を統一した組織で、職能団体というより部員という「身分制度」の改善を目指す、労働者の自主的な団体だったと思っている。
2年間の職場委員が終わってからも、下船中は部協の事務所に出て何かと手伝いをしていた。
39年の大会の時の仲間の集まりで、東京に住んでいて通勤可能だからお前が部協の事務局をやれと話があった。那須会長が会社に掛け合ってくれたが会社は、船主協会の申し合わせで、海員組合と船主協会以外は、在籍船員を出向させない事になっているというので、40年3月に昭和海運を退職し部員協会の事務局員になった。
組合幹部リコール運動
私が部協に上がった翌年に組合幹部リコール運動が行われた。
リコール運動は海運2法成立・海運集約により船員合理化が一層推進されていること、協約改定が5カ月延期されたり、職能団体懇談会で検討し組合要求となった一律5千円賃上げ案が5%プラス3千円に終わったこと、汽船中央協約が外航・中小労・内航の3本に分断されたことなど、不満が鬱積する現場から提案されてきた。
当初職能団体懇談会で対策を協議したが、リコール運動準備委員会=のちに運動委員会が結成され、代表責任者に掘次清治(東海運機関長)、責任者代行にいずれも部協会員の上村(日正汽船職委)、池田(新和海運職委)、大竹(昭和海運職委)、篠原(船部協)の4名を選んだ。4月15日に海員組合にリコール署名簿(不信任理由書)を提示し、一斉にリコール署名運動を展開、6月16日の署名中止までに487隻から、組合規約の規定数5千名を大幅に越える11、500名の署名が集められた。
リコールの対象は和田副組合長、金子汽船部長とし、理由は争議の指導や民社党支持と資金提供、組合機関における態度、定員中央協定の廃止、賃金格差の増大、生活態度などを挙げた。「組合幹部リコールの趣旨」や「不信任理由書」は主に二宮淳祐さんが執筆した。
職能団体懇談会は部協の創立を待っていたように航海士会、機関士協会、船舶通信士協会、事務長事務員会による極めて自由な会議で、殆ど職懇のメンバーと重複していた。航海士会から中西昭士郎(日本海汽船)や小野悦夫(ジャパンライン)、機関士協会から篠原陽一といった若手が出てきて賃金問題など一緒に論議をした。
部協の常任委員会はリコール運動委員会に事務所の一部を貸し、連絡場所とすることを承認した。
署名簿は各社職委が全船に配布・回収したり、内航船が大量に持っていって各港で配布したり、サウジのラスタヌラの岸壁で署名して貰ったというものもあった。
リコール署名の中止は、組合の圧力があって、一部のグループが中止を求めたことによる。
組合はリコール運動について中執委の見解を発表、不信任理由は機関決定で行ったもの、生活態度などは感情的なもので、規約の条件を満たさないなどと反論した。
署名運動中止後、組合は署名簿の正規の受け取りを拒否し、中地組合長は4名の代表者代行を呼びつけて、発起人名簿の提出などを求め、統制処分で除名になれば即クビだなどと脅したりした。
組合はリコール運動を統制違反として告発、統制委員会は掘次氏を全権利停止1年、代表者代行4氏を戒告処分にした。
掘次氏は8月、統制処分無効で地裁へ提訴したが、準備が悪くて、判決で篠原の供述は信用できないなどと言われ敗訴した。
リコール裁判支援会は、裁判を負けたままでは終われない、最低でも引き分けへと高裁に控訴。支援会の運動を強化し弁護団を補強して高裁で逆転勝訴した。
リコール運動の行われた年の大会で中地組合長が退任して南波佐間組合長になった。
二人の組合長の辞任
昭和46年の春闘は協約の有効期限を延長して交渉が続けられ、4月9日に妥結したが、賃上げでは率で14・2%と昨年並みであったが、妥結承認を求める汽船部委員会で、組合員の期待を裏切る内容だとして、妥結内容が否決され、南波佐間組合長が責任を取って辞任、臨時大会で村上組合長が選任された。
この当時、ぼりばあ丸、かりふぉるにあ丸その他の沈没事故が相次ぎ、Mゼロ船の就航や甲機両用化、通信士一名体制が論議されるなど深刻な問題が背景にあって、否決になったのではないか。
そのためかこの年は、内航や漁船でもストライキが行われた。
村上体制はその翌年、船員の人間性回復を求めて92日ストをたたかう事になるが、同年船舶通信士組合が結成されている。
昭和52年に船員制度近代化調査委員会が発足し、54年には実験船が動き出している。
こうした中で春闘の継続協議となっていた休暇や定員、タンカー手当、三国間就航手当などの諸手当削減交渉が非公開の場で妥結した。そのため55年1月の汽船部委員会は、妥結結果を否決し、村上組合長が退陣、土井組合長が誕生した。
近代化から緊雇対へ
部員の歴史は合理化の歴史だった。一番凄まじいのは船員制度近代化で、職能が否定された。
定員の中央協定廃止の時、和田副組合長が、定員は労働条件でないと言って大論争になった。定員中央協定では船種、屯数区分により、例えば機関部では操機長、機関庫手、操機手、操缶手、機関員それぞれの定員が明記されていて、各社ごとでは一隻ずつ職務別に人数が明記されていた。それは定員と職務分担・職務範囲は船員の固有の権利で、当然重要な労働条件と考えられていた。それが長、手、員と大まかにくくられて減員が進められる結果になった。
船員制度近代化では、この重要な労働条件が、労使交渉によってではなく、実験、実証、実用というロボットでも作る様な手法で変更されたが、それは部員各部だけでなく職・部員区分も取り払われ、職能は消滅し、職名も一号職務、二号職務と記号化された。
その結果船員は固有の権利を失っただけでなく、自らの職業や職務に対する希望や誇りと、自信や意欲も失ったのではないか。
そういう状況の中に昭和62年に緊急雇用対策が持ち込まれ、僅か2年の間に過半数の船員が辞めて行った。
スパイラル構想とか職務一本化、甲機両用の動きは早くからあったが、部員は雑用化されるだけと反対してきた。自動化や混乗が進む中で、近代化で生き残れるのではと考えた人もいて、断固反対という事にはならなかった。
船員制度近代化は結局、船員労働の人間性を破壊しただけでなく、外航の日本人船員消滅をもたらしたが、今では近代化や緊雇対について語る人もいなくなり、僅かに船員法の中に一号職務などの字句が残っているだけだ。
印象に残る運動
印象にのこるのは、ぼりばあ丸裁判やなだしお事件だ。いずれも海員組合がやらないから、部協がやらざるを得なかった。ぼりばあ丸裁判を始める時、組合大会で組合長は、「あれは遺族のうち一部の不満分子の行動」と切り捨てた。
かりふぉるにあ丸の沈没など多くの海難が続き、海上に大きな支援の輪が広がって、裁判中に協約上の死亡補償金が4百万円から1千万円に、最終的に3千万円に改定する梃になったと思っている。
なだしお裁判では船員の間だけでなく、国労闘争団とも交流して、署名やカンパの支援があった。
初代箱根丸の山口一航士の死亡事故の時は神戸で同窓生などの支援を受け、組合にも相談したが親身になって聞いてくれないので部協に持ち込まれた。藤本正弁護士を立てて船員保険の審査会に不服申し立てをした結果、職務上死亡認定を受けることが出来た。
船員は地域とのつながりが少ないので孤立しがちだから、駆け込み寺が必要だ。部協はその役割を果たしてきたと思っている。
個人的には部協から海上労働ネットワーク、戦没船を記録する会と50年以上も、良くやって来られたものだと思っている。
その間に『船部協』を343号、『海論』は31号、『海労ネットニュース』を24号まで発行した。戦没船を記録する会の『会報』は56号とまだ続いている。
特に毎週月曜日の共同通信のFAXニュース。13字×24行だが正月一回休むだけ。年51回で昭和46年から23年間、よく続いたと思う。多くの人に協力して貰い、船では部協のFAXは分かり易い、月曜が楽しみ、と言ってくれる人も大勢いて、励みになったから長くやれたんじゃないかな。
中国とのかかわり
満蒙開拓義勇軍以来何かと中国には関心があり、早くから日中友好運動に参加して来た。特に46年の海員第一次訪中団の事は忘れられない。
当時総評の組合などは早くから中国と交流していて、中国側が海員訪中団の招聘を計画しているからと、全港湾の兼田委員長から話があった。海員組合にその話を持っていったが、「君たちが無事に帰ってきたら行く」という様な事で、上村部協会長を団長に16人が28日間の訪問旅行をした。
周恩来総理に会うのが決まったのが夜の11時過ぎ。驚いたことにドアを入るといきなり周総理が立っていて、一人ひとりを握手で出迎えてくれた。約一時間半の会見で私も、以前に中国に二回肥料を運んだこと、始まったばかりのコンテナ船の状況などを話した。
周総理と直接会えたのは海員訪中団の中では私達だけだった。
今では満洲開拓のことなどほとんど忘れられているが、何か中国に役立つことをしようと、小さな日中友好協会や義勇軍仲間と寄付金を集めて、JICAが作った中国の牧場に、防風林を寄付する活動をしている。寄付金を柳や松の苗の代金、客土や植樹作業の費用に充て、完成すると現地で植樹祭を行い交流の場としている。04年と09年に植樹祭を行った。
これからは子供たちの時代だからと、元訓練所跡に出来た農場の小学校へ図書を寄付する人がいて、その贈呈式にも参加した。
若い船員への期待
若い人はもっと自己主張があっていいと思う。船員の世界は狭くて井の中の蛙だから、出来るだけ外の世界に眼を向けて、出掛けて行って自分の世界を広げることが大事だと思う。
その上で個人だけではなく仲間を集めてやっていく。羅針盤に書いている里山さんのような内航船員が、1人でも2人でも出てくれば、と期待している。
組合の民主化についていえば、私たちは、組合は組合員のものだとの主張で、船の中でも組合でも会社でも、比較的自由に何でも自分の意見が言えた。組合の会議で金子さんや土井さんから名指しで批判されたが、そういう空気があったからリコールや汽船部委員会の否決があったのだと思う。
いま組合では裁判や人事問題など不透明なことが多く、自由に物を言えない状態に見える。これでは組織が委縮してしまう。
とはいっても海員組合の中の問題は、組合の中の力で変えるしかないし、変わらない。だからその力を何処で作るのかの問題だ。
リコール裁判の時、「沖の声」が発行され、一定の役割を果たした。キチンと現状と主張を述べて現場に訴えることが大切だと思う。
羅針盤も、確実な根拠や見通しを示して、何をどうしたいかを明確にし、現場の人達に分かってもらう活動を続けることが大切だと思う。現場に根ざした幅広い意見を載せて、自由闊達に論議できる場を作って欲しい。
やり残したこと
職場委員にあがって以来50年、船員の運動に係わってきたが、未だやり残した事をやってみたい。
20年前に田舎の家を建て替える時、機(ハタ)織機を貰って来た。これを復元しようと思っている。 戦時中母や叔母が、繭から糸をとり撚り合わせて絹糸にし、ハタにかけて布に織り、染めて反物にして着物に仕上げていた。絹糸は無理でも木綿の糸から布を作ってみたい。3年くらいかけて実現したいが、それは寿命との競争になるだろうと思っている。
(2011年9月)