伊藤 敏(元外航船員)

第一六章 産別海員の雇用闘争
相互扶助の具現化

 前号までに、ジャパンライン、大日そして昭洋と個別企業の終局をたどりながら、それぞれの現場組合員・活動家の奮闘も描いてきた。しかし、いずれも企業の枠の中での闘いに過ぎなかった。
 「現場に依拠して闘う」というのは決して誤りではない。だがそれらの傑出した闘いも、産別レベルの闘いへ発展しない限り、どれ程の意味があるのだろうか。個人個人の「抵抗の歴史」としての価値はあっても、船員全体にとって、実りある果実には成り得ない。
 一方、現場がアテにした産別海員も雇用確保については殆ど無力であった。いったん企業の籍を失えば、組織船に次の就職先を見出す幸運に恵まれない限り、組合員ですらなくなる。
 長い年月、律儀に組合員を続けてきた者が、裸同然で放り出されても見過ごす他はない。
 大手中小に限らず、それが緊雇対の実態だった。果たしてそれで産別組合といえるだろうか。
 企業で徹底して闘い、矢尽き弓折れた組合員が、雪辱を期す闘いの場を設える必要があった。
 雇用の場についても、全員の座る椅子が無いと判断すれば、椅子を捜す間、順番に座れるように交代制にする、窮屈でも一つの椅子に二人掛けをする、というのが産別の発想であろう。産別組織の雇用対策とは、本来「相互扶助」の思想の具現化に他ならないのだ。

共同雇用提案
海造審船員対策部会で、余剰船員整理が中心テーマとされた1986年、船員の苦境をみかねた笹木弘東京商船大教授の「元気を出せ船員諸君」という特別インタビューが、3月25日海運労働新報に掲載された。

 ①船員福利雇用センター(SECOJ)の業務を再教育・職場紹介から内航も含めた共同雇用主体に切り替える。相当思い切った提案だが、一考に値すると思う。雇用安定機構としての役割をここで果たす。最近の船社の倒産のような不可避的な問題が起きても暫定的であれ雇用を継続させる。雇用に対する企業責任の問題はあるが、それができない状況のために、このような工夫は必要だろう。
 ②共同で雇用していくとなれば、経費もかかる。各社の応分負担に加えて、失業保険財政を投入する。離職船員がFOCに乗る時は船員法や船員保険法が適用されない。雇用センターを法律でつくり雇用主体になれば、日本の法律が適用される。このことは重要である。
 ③配乗、船内規律、採用、解雇及び船員と船主間の苦情は船員労働委員会の権限で処理する。そうなれば船主、船員双方の不安が解消されるのではないか。
以上がその骨子である。

船員のプール化を巡って
 一時は、船員の「雇用制度の抜本改革」に意欲を示していた運輸省だが、仲田国観局長は、86年6月6日記者会見で「船員をプールする制度の断念」を発表する。
 期間雇用とはいえ日本人船員の賃金は高い、各社に船舶提供が義務付けられる、プール化が恒常的になれば終身雇用が崩れる等々、船主内部からの異論が相次いだ為であった。(船部協・286号)
 そこには、船員の雇用には二度と責任を負いたくない、という船主の固い意志表示をみる。
 1987年3月労使合意の緊雇対は、退職加算金を中心とする特別退職制度と雇用開発機構(受け皿)設置の2本柱で構成され、外航船員雇用促進協会が設置された。
 しかし、『その存続期間は「当分の間」とし、陸上就職に必要な準備をさせることが、調整過程としての現実的な方策である。(設立趣意書より)』と、設立当初から限定的な役割のため、「共同雇用」とは、似て非なる組織である。1993年1月、協会登録者99名の抹消を行い業務に終止符を打つ。

海運版の使用者概念の拡大
 1974年6月27日、外航2船団と海員組合の間で、海運再建整備法にもとづく中核、系列と専属会社の位置付けを根拠に画期的な確認書が取り交わされる。
 内容は以下の通り。
1.系列と非系列の雇用協議会の構成会社は売船、係船、解撤等に伴う所属船員の雇用安定について共同して、必要な具体的な措置を講じ雇用を確保することを明確にする。
2.外航中小労の非系列会社は、万一倒産により所属船員の雇用を継続することができなくなった場合には、当該会社所属船員の再雇用について、次の通り措置する。
 ①当該会社が責任を持って再雇用させる。
 ②前第①号によって措置できなかった場合は、外航中小労の系列、非系列の双方が共同して再雇用するものとする。
 ③前第②号によっても措置できなかった場合は、外航2船主団体加盟会社が共同して再雇用するものとする。

 系列雇用協議会は、その後の船員の雇用について重要な役割を果たす。特に専属オーナー会社の船員にとっては命綱であった。
 一方、確認書のインクもまだ乾かないうちの75年に解散した流通海運では、中核体・山下新日本の責任は不問とされた。又、確認書の字義通り運用すると、中小非系列の倒産船員も郵船や商船三井へ再雇用されるが、そのような救済例を知らない。
 系列雇用協議会が、雇用確保に大きな役割を果たした理由は、処分船1隻に対し、代替船1隻の1対1の原則。組合の押印が無ければ、運輸省の窓口が海外売船を認めないこと等具体的な運動の存在である。
 確認書の有効性を保障するのは、背後にある団結の力にかかっている。

共同雇用の歴史
 戦後幾たびか海運不況に見舞われ、完全雇用(それは予備員制度に顕著だった)が不安定になる度に、外航の中小職場や内航から上がった声が「共同雇用」である。
 従って「共同雇用」は船員にとって決して耳新しい言葉ではない。
 戦後の民営還元までの船舶運営会を記憶に留める組合員にとって、専属雇用へのこだわりは薄かったこと、会社は変わっても船での仕事内容は変わらない、という船員労働の横断性に理由がある。
 1959年の組合大会は「共同雇用方式要綱」を採択し、「漸進的に推進する」ことを目指すが、ついに具体的な運動課題として登場することなく終わる。
 その理由は『内航や外航オーナーに所属する船員からは積極的な賛同が得られたものの、オペレーター所属船員の反対は根強く、それは企業間格差が存在していることの反映であった。また、一部活動家からは、組合執行部の統制力が過大になるおそれがあるとして反対意見が出された』(全日本海員組合40年史より抜粋)

組合主導の自主再建
 共同雇用と並んで、組合員が雇用を守る術のひとつが、組合主導による自主再建である。
 『組合が争議金庫を開放しながら船舶を管理運航し、乗組員の雇用と生活を守るかたわら、債権者会議を組合支部の主導の下に召集して会社の再建あるいは整理を断行した事例も多い。具体的には鏑木汽船、日本海運、和栄海運、商船運輸、中内商船の各社である。』(笹木弘著「船員政策と海員組合」、成山堂)
 組合の管理運航船の中内商船・第12幾久丸の船内委員長の吉田さんからは次のようなメッセージが組合へ寄せられた。(船員しんぶん662号からの抜粋)
 『経営不振からの停船のようにありがたくない問題をはらんだ船こそ、最も船内統一を必要とするのだが、現実はむしろ逆で、船内は落ち着きを忘れ喧騒となり、何かにつけ〝和〟が失われていった。正直言ってこれは船内組織の未成熟を意味した。
 しかし、管理運航の後は幸いに〝理性〟が甦り、船内融和を至上とし、節度を守り、船費の節約に全員が心掛けた。この一致協力は「運航能率の向上」というスローガンを現実の実態として成し遂げた。その結果生まれたのはお互いの〝明るさ〟と〝和〟だったし、ひいては組合存在の意義をお互いがその皮膚に感得することができた。』
 『管理運航の間、港みなとの組合支部を通じて給食料はキチンと入手できた。働いて給料を受ける、
この当たり前のことが、どれ程大きい価値を持ってわれわれに迫ってきたことか。ことに寒い北航路に、今まで用いたこともなかった上質の毛布各2枚ずつの支給と、温かい激励を受けたことは、何ものにもまして、われわれの心を打つものだ。「労働」と「感謝」の渾然一体の姿を、誰あろうわれわれと組合とが造りだしたのである。』
 『弱小船主の底の浅さをとことん知ったわれわれは、この種の企業の下にある限りは、共同雇用こそ職務安定の基礎であることを切に知った。これは大きい収穫だ。それだけに「共同雇用」の早期確立を念願してやまない。』

関ナマ労組の地域ゼネスト
 以下、紹介するのは現段階での日本の労働運動の到達点に在る、とされる全日本建設運輸連帯労組関西生コン支部である。
 『2010年7月、大阪駅前の梅田北ヤード再開発工事を始め、トップゼネコンの3つの大現場がストップし、大阪府下の8割の建設現場の工事が止まった。関西生コン支部は関連労組とともに11月の解除まで139日間に及ぶ長期のストを打ち抜き、企業横断的な職種別賃金を集団交渉によって実現させた。』(雑誌「世界」2011年3月号・「反貧困の賃金論」木下武男)
 この闘争を可能にした関西生コン支部の運動の特長は何なのだろうか。
 『先ず、生コン業界の特徴がある。大手セメントメーカーとゼネコンの中間にあって、景気に一番左右されやすく社会的地位が低く劣悪な条件で働かせてきたのが生コンの業界。これら中小企業の業者を組合主導で協同組合へ結集させ、ゼネコンに対して生コンの適正価格を要求してストライキで闘う。ストライキ突入の決起集会には2千3百人ほど集まったが経営者と労働側が半分ずつ参加した。』
 セメントメーカーとゼネコンをオペレーターと荷主と換え、「協同組合」を「零細・未組織船主」へ、「適正価格」を「運賃・傭船料」と置き換えれば、そのまま内航海運の闘いの構図に当てはまる。
非人間的な生活と労働が宿痾のようにまとわりつく内航船員。関西生コンの闘いは内航問題解決へのヒントに成り得る。
 『ゼネコンには解決できない根本的な矛盾がある。生コンを買い叩こうとすれば(ストに参加しない)アウト業者から買うことになる。買い叩いた安い生コンはセメント量を落とすから、ひび割れのような不良生コンが発生する。時には加水、シャブコンといって水を多目に混ぜる。大林組や竹中工務店のなどは歴史的にアウト、つまり訳のわからないところから買うことはなかったが、組合との対峙の中 で、アウト業者から買い、越境して買うような綱渡りをする。
 ところが生コンというのは形や結果が残るから、半年、1年経てばすぐ品質がわかる。相手の中には、そのような大きな矛盾がある』
 関西生コン支部では、「品質管理」に万全を期す。
 安全・安心の生コンを提供するため組合が自前でコンクリートの研究所を作り、「マイスター塾」を開き技能やモラルを高める努力をする。
 「品質管理」を「安全運航」と置き換えれば、ここでも海運への転用が可能である。船員が生コン労働者に学ぶことは多い。
 関西生コン支部では『討論会や学習会を山ほどやる。組合員の共通認識の獲得には苦労しながら時間を割く。春闘の前に1年くらい時間をかける』
 『組合結成以来、延べ100名以上が逮捕、拘束された。暴力団によって組合員が犠牲になったこともある。威力業務妨害容疑と損害賠償ということで年間を通じて弾圧に晒される』
かつての海員がそうであったように時代を切り開く運動には本気度と覚悟が試される。
こうして長い年月の闘いの結果、
『タコ部屋に寝泊まりし、安い賃金に能力給。休日は正月の3日間だけであったかつての生コン労働者は現在、年間休日125日、年間労働時間1,600時間、平均年収750万から800万という労働条件を獲得した』
 産別運動の意義について、関西生コン支部柳充副委員長は次のように語る。
 『産別と名乗る以上はその産業に責任を持つ、責任を持つということは産業のありかたについて代案を出すこと、そしてそこで働いている人たちにすべての責任を持つということ。』(以上、研究会「職場の人権」会誌70号から)

関ナマ運動の原型は産別海員
 19歳で奄美・徳之島から大阪へ出て来た生コン運動のリーダー武健一氏が、最初に大きな影響を受けたのが、生コン共闘会議の専従役員・石井英明氏である。組合役員となったばかりの武氏は石井氏から組合運動に携わる者の「視点」の持ち方を学んだという。
 「産別統一組織が必要ではないのか」。石井氏の呼びかけに、武氏ら若い活動家は大きく気持ちを揺さぶられる。
 武氏や石井氏は、議論し、模索した先に次の具体像を見出す。
*企業の枠を超え、同じ業界で働く労働者が同じ目線で資本と対峙すること。
*個別企業を相手にするだけでなく、その企業を動かしている背景資本への闘いの強化。
*個人加盟を原則として、外に開かれた多数派を形成する。

 かつて大槻文平日経連会長に「資本主義の根幹に関わるような運動」「関ナマの運動は箱根の山を越させない」と言わせた関生スタイルはこうして生み出された。
 個人加盟の産別単一組織である海員組合を思い描きながら、産別の組織と運動を若い生コン活動家たちに説いた石井氏は、元船乗りであり海員組合の組織化に奮闘した活動家という前歴の持ち主であった。産別海員は関ナマ型労働運動の生みの親と言っていい。
(安田浩一・告発!逮捕劇の深層・アットワークス社 参照)


戦前通信士の反失業運動
 生前の大内義夫さん(船通労顧問・海員組合名誉組合員)は、戦前の不況期に経験した船舶通信士の反失業運動について繰り返し、大略次のように語っていた。
 「100円以下では乗らないというワンハンドレッド運動や乗船順位の厳密な遵守。条件に合わなければ、海事共同会から求人がきても拒否した。スキャップ(抜け駆け)がでると船まで押しかけていって強引に下船させた。
 求職者同盟というのは本来、求職者の世話をするだけの組織ではない。求同活動によって組合が労働組合らしい内容のものに生まれ変わり発展していくものだ。
 労働組合とはもともと希少な雇用機会を分かち合うための実践組織である。産別組合では仮に失業しても組合員だということを忘れてはいけない。」と。
 この言葉は、今なお多くの示唆に富み古びてはいない。


次号へつづく(元外航船員)