伊藤 敏(元外航船員)
第十七章 竹中解雇撤回闘争(一)
史上初の船員救済命令
1998年5月29日大西洋を米国東岸に向け航行中、共同通信FAXニュース速報は横一段の大見出しで、「船員の解雇は不当労働行為」と伝えた。頼りない微弱な電波は活字を歪め、黒々とした文字が大きく踊っていた。
紙面を手にしたあの時の指の震えを忘れない。それは緊急雇用対策(緊雇対)の中で闘われた唯一の争議の勝利であり、船員中央労働委員会が出した史上初の船員救済命令だった。
船員統制・支配の頂点にある船中労委が太平洋汽船と途中から争議を引き取る形となった日本郵船を断罪し、一方では竹中解雇を労働組合運動への攻撃として捉えきれなかった海員組合の姿勢をも糺したのである。
船中労委命令が地裁での勝利的和解を導き、翌年1月の解雇撤回、原職復帰へとつながる。会社の攻撃から10年の年月が流れていた。
竹中解雇を巡り、2009年組合大会で大内副組合長による「腐ったリンゴ」発言があったが(裁判で北山元中執に対する名誉棄損が確定)、執行部員を含めて当時を知る者はほとんど現役を去った。
今号では、竹中解雇問題の経緯をたどりながら労働組合運動とは何かを改めて問い直したい。
緊雇対の職場での実態
1987年3月海運労使は緊雇対に合意する。この頃、既に多くの会社で、表向きは「職域開拓チーム」などの名称で肩叩きを行う、俗にヒットマンと呼ばれる組織が暗躍していた。担当者の多くが船員出身者のため、「船員が船員の首を切った」といわれる所以である。
太平洋汽船は関西電力・昭和電工・日本冶金を荷主に持ち、安定した専用船経営を続けており、本来緊雇対とは無縁であった。しかし同社はこの時とばかりに外国人配乗に方針を転換し、組合に秘密裏にクビ切りを始めた。
「家庭訪問」「重役による訪船面接」「本社呼び出し」が執拗に行われ、一度狙われたら最後、辞めるまで繰り返される。留守家庭への電話、傷病者の訪問など、非情さにおいて徹底していた。
その結果3百名のうち1年で百名が辞めていった。心臓が悪い甲板手は、ひと月に一度横浜へ戻る航路を希望し会社もそれを認めていたが、退職に追い込まれた彼は直後に自ら命を絶った。
船主団体との中央交渉で緊雇対に合意し、人員整理を認めておきながら、強制的な肩たたき・解雇は認めないという組合方針の矛盾。労担対個人という構図から組合員は逃れようもなかった。
現場の意識が高いとされた新和海運でも、「肩たたきが始まると、毎航のように海務部長や課長が訪船して一人ひとりハンコを付くまで説得。中央で組合が協定して武装解除してしまった以上、もはや止める術はなく、どうにも出来ない無力を感じた。結局、乗組員がまとまらないように、会社対個人に分断したのが緊雇対だった」
(本誌7号新和海運元甲板手・安藤敏顕さんインタビュー)
組合員分断と自己責任論
竹中さんの首を切った太平洋汽船伊藤専務は、関東船地労委の審問で自己弁護を繰り返した。
人権などものとも思わない厚顔ぶりには驚愕したが、唯一リアリティを感じたのは、運輸省の外航海運問題研究会の83年答申や、86年の海造審中間答申の船員余剰論に言及するくだりである。
「会社の窮状を救う最後の手段としての緊雇対の労使中央合意は、国の方針のもとで行われた。誰も反対出来ないことであり、いわば世論である。」と。そこには、首切りを本筋で認めながら、肩叩き=ルール違反という「手続き」にこだわる海員組合への彼なりの論理と批判があった。
本誌創刊号で75年の「菊池構想・仕組船認知論」を外航船員社会崩壊のメルクマークと規定した。その後船主は着々と戦略を進め、その仕上げが緊雇対であった。
一方、われわれ船員の側は船員制度近代化や海技資格取得競争による選別化を許し、混乗船の導入を認めることで部員の職場を奪うことになる。立場の弱い者から順に首を切られ、結局、船員社会の分断を許したのである。
会社対個人の闘いである肩叩きの場で、会社が展開する自己責任論に対して、既に団結が解体された職場では船員個々人が判断し、それぞれが責任を取る途しか残されていない。外航船員ゼロへの軌跡は、そっくりそのまま自己責任論が闊歩した歳月と重なる。
船員やめない会の運動
太平洋汽船ではヒットマンの横暴に対して抗議の声を上げた。数名の乗組員が水面下で電話や手紙のやりとりをし、各船に文書を回していった。会社が察知する前のわずか4~5ヵ月で全船に広がりカンパが続々届くようになる。
やめない会の活動は情報を集め、肩たたきに怯える船の仲間へ伝えること。ひとり一人が踏ん張るための知識を提供する。それが唯一無二の活動だった。
87年8月、船員やめない会の会報は次のように結ばれている。
「乗組員全体としての対抗力はまだ十分ではない。しのぎ切れない人が毎月少しずつ退職していくかも知れない。しかし我々は弱い人を励まし、一人ひとりを助け合うことを通じて、徐々に育っていく絆を大切にしよう。個人個人の反発を船内全体の抵抗力へと高めよう。今後の会社の方針を誤らせないためにも、できるだけたくさんの人が残り、当社を健全な海運会社として残し、社船を日本人船員の職場として守ろうではないか。
非常体制はいつまでも続けられるものではない。ヒットマンの崩壊は近い。」
それは、極めて初歩的で真っ当な運動だったことが分かる。
後に竹中さんは、「それは労働運動と呼ぶのもおこがましいほど幼稚で素朴なものでしたが乗組員にためらいと波紋を投げかけながら、次第に共感を得ていきました」と述懐する。(勝利報告集・10年の経験を船で生かしたい)
それでも乗組員の抵抗には限度があった。ヒットマンチームの暗躍を止めさせるためには直接海員組合に申し立てるしかなく、竹中さんが乗組員の気持を代弁して、会社の数々の悪行を労働協約に基づく苦情として訴えた。
組合(北山班長)との交渉の結果、87年10月会社は要求の殆どを飲み、復職希望者の復職、他社と同等の割増退職金の支給、職長昇進人数等を確約した。併せて謝罪文の提出、日本郵船からきた常務とヒットマンを解任させた。
会社の報復と人権
緒戦の勝利もつかの間、直後に組合は2隻の海外売船に同意したため、乗組員の職域は狭められた。そして船員やめない会への報復が一気に始まることになる。会社はやめない会の存在を組合執行部から聞いたのだった。
竹中さんは連日本社に呼び出されて喚問。家族丸ごと北海道の牧場へ出向を強要。出向拒否に対する数々の報復。奥さんは脅迫電話により精神的病いに陥り長期間入院。会社専務から実家の母親へ「ご子息の件で話がある。会社まで出て来られたい」と呼び出し電話。
病気の奥さんを抱え、乗船できなくなった竹中さんは能力開発研修制度で2年間の出向研修。
その後も会社は手を緩めることなく報復を続ける。組合集会での発言に対する脅迫電話。組合活動で迷惑を被ったと謝罪文を要求。謝罪を断ると乗船させずに長期自宅待機。実家母親への再度の脅迫電話、「会社の言うことを聞かなければ裁判で10年。良く考えよ」と。終いには本社呼び出しで重役以下数名が取り囲んでの査問。
竹中さんの苦情申し立てにより、組合は乗船を求めて交渉を始めたが、煮え切らない交渉が続く中の1991年5月、交渉の最中に突然懲戒解雇が発令された。
罪状は数年前に乗船中の時間外手当・作業手当の不正取得、やめない会のビラ等による会社の誹謗・中傷であった。(以上、勝利報告集より抜粋)
詳細に会社の報復行為について述べたのは、解雇という労働問題が、重大な人権侵害と裏表の関係だからである。
仲裁か不当労働行為か
竹中さんは、組合の支援がなく個人で闘うことになった経緯を次のように語る。
『解雇された時の担当は藤澤班長(現組合長)。不当労働行為だから必ず撤回させる、撤回しなければ仮処分申請と組合からの生活資金貸付を本部に申請すると言って、連日一生懸命交渉してくれた。
ところが交渉決裂が決定的になった時、支部長と副支部長が出てきて連日深夜まで打ち合わせ。そこで組合の態度が急変した。
「協約の条文に解雇は仲裁とあるので仲裁で行く。個人に対する解雇は労働争議ではないから、仮処分申請や生活資金の貸付はしない。
不当解雇だが不当労働行為かどうか分からない。仮に不当労働行為としても長くかかるから本人のためにならない」と。班長以下は黙してしゃべらない。
長く掛かっても構わないし、仲裁でもいいが、解雇撤回のために組合が全力をあげると約束してくれと言ったら、「約束できない。仲裁に預ける以上結果に全て従う。仮に仲裁で負けたらその時は諦めてくれ。それ以上のことを組合はやらない。組合が組合員に対して約束しているのは組合規約と協約の規定まででそれ以上の義務はない」という返事だった。
組合員を最後まで守るのが組合ではないかと言ったけど、あとの祭り。労働組合に対する考え方が根本的に違っていた。仕方なく個人で不当労働行為を申し立てた。
その後、組合は解雇撤回闘争から手を引いた。支援会の運動の結果、組合が執行部個人の証言や証拠提供、傍聴で協力することになるのは3年後のことだった。』
シーコムフェリー不採用問題
同じ年の1月、日本カーフェリーからシーコムフェリーへの経営権譲渡にあたって、職場委員2名を含む組合活動家4名の不採用問題が起きる。
不採用理由は「いわれない誹謗中傷の文書を配布、会社の信用を傷つけ名誉を棄損。かかる言動は全日海とも労働運動とも関係なく、謝罪と反省を求めたが一片の誠意、反省もなかった。」であった。
これに対して組合はスト権を確立して関東船地労委での斡旋に臨むが、不調におわり会社側が直ちに調停を申請した。その結果4名の不採用は撤回されたが、組合は3年間の陸上勤務という懲罰的調停案に勝手に調印。4名を近くのホテルに待機させたまま、さっさと雲隠れしてしまった。
日頃の4名の行動が、組合執行部の統制を逸脱していると考えていたからに他ならない。
それは竹中さんの解雇撤回闘争を労働協約を逸脱した闘争と見なした土壌と地続きなのである。その後4名は竹中支援会の主力メンバーとなって活動することになる。
労働組合運動とは何か
今号では組合員の分断が、自己責任論へと転化した道筋を追ってみた。それは同時に、ひるまずに会社への謝罪を拒否する活動家は、人権蹂躙と村八分を余儀なくされる過程でもあった。
労働組合運動とは何かと問われれば、ほとんどの人は「労働組合を通じて生活と権利を守ること」と答えるだろう。しかしそれは、「自らの手で生活と権利を守る」ことではない。
竹中さんは個人で不当労働行為と闘う決意を固めた時、申し入れ文書を海員組合本部へ提出した。 「支部の対応は組合として間違っている。組合員に対する不当労働行為は組合そのものの弱体化、挑戦でもあるから共同して不当労働行為の救済を申し出るか、全面支援をするよう指示してほしい」と。
「自らの手」による闘いの覚悟を決めながらも、これは労働組合に対する解体攻撃ではないかと問い、あくまで労働者の団結を基盤に闘う、という意思表示であった。
組合は当然のことのように却下したが、今にして思えばこの申し入れの意味は深い。
「労働組合を通じて」と、「自らの手で」との間に横たわるキーワードは団結権であろう。それは憲法28条に裏打ちされた労働基本権を求める要求であり、労組法の精神の具現化にほかならない。
竹中さんやシーコムフェリーの活動家たちを励まし続けた二宮淳祐さん(海員組合名誉組合員・元船舶部員協会事務局長)は、戦前、戦中、戦後と海員組合の運動を振り返りながら、「労働組合の弾圧から軍国主義へ。6万を超える船員が海の藻屑となった苦い戦争経験の反省の証しとして存在するのが憲法28条の団結権である。」と力を込めて語っていた。
労働協約の仲裁条項
「協約では船労委に仲裁を申し立てることになっているが、果たして船労委はそれを受理しただろうか。労働争議ならともかく今回のように争議はしない、個人に対する解雇問題だ、と組合が言う場合は船労委に権限はなく仲裁は受けない筈だ。協約が法的におかしい」と浦田弁護士は疑問を呈する。
竹中支援会は、船中労委へ文書で質問したところ「労働委員会がやるのは労働争議の仲裁だけ。労働争議による解雇や、労働争議が発生するおそれがある場合は仲裁できるが、組合が争議をしないといっている場合は仲裁の申請は受け取れない」と返答したという。(勝利報告集・座談会より抜粋)
「協約の条文に則り個人に対する解雇は労働委員会の仲裁に預け、その結果に従う。労働争議はしない」という組合の主張は法的には通用しないのだ。労働協約の仲裁条項は、組合の最終的責任を回避するための安全弁にすぎない。
その一方で、船労委がその権威を守るために、ルールを曲げてまで仲裁裁定を引き受けている現実もある。組合と船労委があうんの呼吸で船員を管理するために、不当労働行為を労働争議としないシステムを作り出しているのである。
船労委は、日本で最初の労働委員会として、労組法が制定される前の1945年秋、当時勃発する海員争議を収拾するため官のテコ入れで作られた。
そのため労働者救済機関の側面と、船員を支配・管理する側面の2つの顔を合わせ持つ。労働協約に仲裁条項が規定されて既に60余年、後者の足カセに今も手は付けられていない。それは船労委が廃止された今も同様である。
カギは組合への信頼
太平洋汽船では、組合活動を踏絵にして、会社への謝罪を乗船の条件にすることを許し、シーコムフェリーでは謝罪を採用条件とすることを許した。これでは組合活動の担い手が現れるはずもない。
過疎化が止まない山陰地方の僻村の村長が、「いま問題なのは人が減ることより、村づくりの気力が萎えること」とテレビで話す。
組合員数が減ったから海員組合が力を失ったのだろうか。
むしろ組合員の信頼を失ったから、力が無くなったのではないだろうか。外航船員ゼロへの軌跡をたどる時、そう思えてならない。
新聞報道によれば、最近労働者の相談のうち職場のいじめ、ハラスメントに関するものが解雇を上回ったと伝えている。
それは、労働問題が人権問題へシフトしたこと、この国のあらゆる職場の傷みの深刻さを、そして何よりも多くの労働組合の機能不全を示している。
昨今の海員組合では、排除の論理が横行している。統制処分や解雇・降格が乱発され、組合従業員と執行部員の人権が侵害されている。海員組合は組合民主主義を見失い、結成以来の危機の渦中にあると言って過言ではないと思う。
モノを言えない状況の打開には組合員と執行部員のいま一歩の勇気が不可欠である。竹中解雇反対闘争を語ることがその一助となることを願わずにはいられない。