伊藤 敏(元外航船員)
第十四章 大日インベスト闘争
大日闘争の経緯
1987年緊雇対の労使中央合意を契機に中小海運の職場では一気に雇用破壊が加速する。
大手船主の庇護を受けず、雇用促進機構の事業会社になれない中小船主はいっせいに組合に対して緊急対応を迫った。その典型が「反田方式」といわれるものだ。
全員解雇(退職金清算)し第2会社へ移籍、乗船希望者は期間雇用、労働条件については緊雇対受け皿のガイドラインを更に下回る、という図式である。「反田方式」での全員解雇を目論んだ船主のひとつが大日インベストだった。
大日インベストの前身は大日海運。日本郵船系列のオーナーとして一時は最大10隻程の船舶を所有していたが、海運不況の中、社名通りインベスト(投資)へ経営主体を移して不動産やリース業(船舶・航空機等)を行なう。
会社は交渉の席で、昨今の海運界における1万人余剰論を持ち出し「今さらまじめに船員を抱え海運業をやっていくことなどナンセンスだ、退職金を払えるだけましではないか」として、公然と肩叩きに乗り出した。
このような状況下の86年8月、大日インベスト名義の最後の船舶である「赤石丸」の売船と「オアシスアルタイル号」の返船問題が浮上し、赤石丸は乗組員が乗船したまま広島県常石造船所が所有するドルフィンへ係船する。
最終的に会社は、「新しい職場としてオ号の代替船を確保、赤石丸の代替船の具体化、配乗計画の早期確立」の組合提案に同意したため、オ号の乗組員は下船。身分は従来通り大日インベストの雇用となった(86年10・29全日海、11・1船通労との確認書)。
ところが翌11月、現場との論議もないまま海員組合神戸支部は一転して「退職者への加算金の上積み、大日が立ち上げた第二会社であるワールドワイドシッピングへの移籍、期間雇用での配乗」で合意。87年1月23日会社と海員組合は赤石丸からの組合員下船を強行した。一方、船通労は2度にわたり同社分会員7名の投票による意志の確認を行い、1月23日から池田晃通信長の下船拒否のストライキに入った。
行動する海員組合員
赤石丸を下船した海員組合員も漫然と状況を受け入れたわけではない。2月5日午前、小雪交じりの寒風を切って東京へと向かう新幹線の車中にひとりの海員組合所属の船員がいた。大日インベスト二機士、皆川慶一さんである。
彼はいわゆる組合活動家ではないが際だった行動力の持ち主だった。皆川さんの東京での行動を追ってみる。その日の朝、仲間たちの意志を改めて確認し、午後には東京駅から芝浦の船舶部員協会と船通労へ向かい状況を説明して支援を訴え、18時には六本木の組合本部で土井組合長に面会。
組合長に対して、「返船に伴うキチンとした確認書がありながら、議論もなしに急に別な対応をして、判断の時間的な余裕も与えずに何故組合までもが移籍か、退職かを現場へ迫るのか」と質した。
組合長は内容把握のために時間がほしいと即答を避け、それでも汽船外航局長と神戸支部長との話し合いの場の設定を約束した。
2月6日10時、東京支部で他人事ではないと集まってきた主として中小労所属16名の職場委員と意見交換。出席者からは「組合は何故会社の代弁ばかりするのか」「労働組合が協定無視を認めるべきではない」「なぜ大日のような資産のある会社で船員の雇用が守れないと組合支部は判断したのか」などの意見や疑問が出された。
13時本部で論議した結果、外航副部長は86年10・29確認書合意に戻るべき、という皆川さんの意見に同意した。更に川村副組合長へ組合の努力を要請した後、15時に部員協会へ。そこへ神戸から駆けつけた支部長と議論、本・支部間の不統一を指摘された支部長は本部へ行き、神戸から呼ばれた担当執行部員を伴って再び部員協会へ。最終的に皆川さんは、「会社に残りたい人はあくまでも大日の船員として船へ帰る」ことを求め、支部長も努力を約束した。
2月7日10時組合本部で田尾外航汽船局長と面談。局長はそれまでの現場組合員との意志疎通の不充分さを認めた上で、今後は86年10・29確認書合意の主旨に沿って、現場組合員との充分な話し合いで解決するよう支部長へ指示したことを明らかにした。皆川さんは神戸で待つ仲間への報告のため昼過ぎの新幹線で東京を発った。
皆川さんの行動力を支えたのはこのままでは退職か、期間雇用の二者択一に押い込まれてしまう、という切迫した危機感であり、共通の目標で常石沖への回航から下船までの138日間をともに闘った通信士との一体感であった。
下船前夜の1月22日、ある海員組合員は涙ながらに「船通労に入れてくれ、一緒に残って闘いたい」と訴えたという。
たったひとりのストライキ
厳寒の中、人里離れた常石沖の横島で海運・船員史上例のない、「たったひとりのストライキ」が大日分会の通信士の支援を得ながら始まった。
「まさか船通労組が単独ではやれないだろう、海組が合意して従えば、ごちゃごちゃ言っても最終的には船通労組は判を付く、という会社の計算違いから始まった」(無線通信87年11月号・特集座談会)。
「飲料水は他の乗組員が下船前に汲んでくれた溜め水を使い、トイレの水は15メートル以上も下から海水をバケツで汲み上げて流しています。照明は持ち込みのポータブル発電機、調理はLPGボンベです。会社は食べ物をよこさないので買出しも、15メートル下の岸壁をジャコッブで上り下りし、 風の強い日はまさに命がけです。暖房を切られ外気と同じくらいに冷え込む鉄のかたまりには石油ストーブがひとつです。風呂も週に1、2回山道をかき分け2キロ、更に自転車で2キロ先の旅館までゆかなければなりません」。(通信士組合ニュース224号)
池田通信長のストライキは、NHKテレビ「朝のニュースワイド・中国版」の放映や神戸新聞、朝日や読売の各紙で紹介され、注目をあびるようになる。ストを知った地元、常石の人たちもいろいろと便宜を図ってくれるようになっていく。例えば「常石にある旅館・谷荘は宿泊者以外でも風呂を使えるようにし、郵便・電話等の連絡手段の確保に便宜を図ってくれた。又、なじみの船食や飲食店も協力してくれた。そのうちの一人がストの話を聞き、料理の指南書として『毎日のおかず百科・主婦と生活者発行』を贈呈してくれ、料理が得意ではない男たちのなかから、名コックが誕生した」(船舶通信士運動70年史より抜粋)
ストライキの収束と成果
神戸船員地方労働委員会の斡旋、その後の労使協議の合意によって池田通信長のストライキは87年10月7日終止符を打つ。スト突入以来258日ぶりの解除である。
合意内容は、①移籍会社であるWWS(ワールドワイドシッピング)での終身雇用。②WWSの株式の50%を大日に保有させ、役員も派遣させて大日の責任を明らかにし、WWSの存続及び大日による経営支援を10年間保証。③下船中の賃金は、基本給・通信長の職務手当の80%プラス家族手当とする。職位は二通士でも乗下船を通じて通信長の基本給とする。(船舶通信士運動70年史より抜粋)
船通労が特に拘ったのは、大日の保証による終身雇用の維持と下船中に生活できる賃金確保の2点であった。この合意は、紆余曲折を経ながらも98年3月の全員退職まで、実に10余年にわたって堅持されていく。
緊雇対合意の受け皿(雇用開発促進機構の事業会社)が雇用形態は期間雇用、下船中の賃金は有給休暇の間だけとされたことと比較すれば、格段に前進した合意内容であることはいうまでもない。
あくまでも辞めず、4年に一度と予測される乗船機会を分け合うことを選択した船通労組合員。それは、コンチネンタル航空乗務員労組が、5名の解雇通告を受ける中で月収の半減に耐えれば5名の雇用は守れるとして、解雇撤回を勝ち取った例を彷彿させる。
ふたりの現場船員の総括
船通労のストライキ解除からほどない10月24日、芝浦の部員協会事務所へ報告に訪れた皆川慶一さんは次のように述べた。
「移籍にしろ、労働条件にしろ組合の緊雇対中央合意が最後までたたった。6月以降、会社は一人一人の自宅を訪ね猛烈な切り崩しを始めた。その際、会社はあろうことか海員組合が1月26日に全員移籍について合意した協定書を見せ、組合は移籍に合意しているから突っ張ってもだめと説明して回った。1月27日の全員集会では組合はこの協定には一言も触れていない。残った12名のうち5名が、もうあかんと上積みをもらって退職したのが残念だった。第二会社移籍阻止はできなかったが、この結果は船通労の人たちがストライキをやり抜いたこと、海員組合の7人が最後まで団結してお互いに助け合ったことにあると思う。」
10年後の退職までWWSへ残りぬいた3名の通信長のひとりである渡辺正之さんは当時を振り返り次のように総括する。
「上からの指令ではなく、自分たちで闘うしかないと決めて始めたことも長期に及んだストを闘いぬくことが出来た要因だと思う。
当時自分は未だ若かったが、それでも勇気が要った。妻子を抱えた先輩通信士の決断には今振り返っても頭が下がる。
スト開始の最初の夜、電気も暖房も止まった寒い船室であるだけの毛布をかき集めてベッドにもぐったが、緊張と不安だけでなく高揚感も入り混じり、ななかなか寝付けなかったことを昨日のことのように覚えている。ストライキから学んだことは、闘わなければ権利も雇用も守れないということ。理不尽だと感じたら先ず声をあげることが大事だと思う。」
人間的な連帯の復権へ
この闘争の発端は、80年12月、日尚丸の代替船の半年での返船、八洋丸の代替船確保の不履行など職場確保の約束が、次々にホゴにされた経緯までさかのぼる。決して偶発的なものではない。
「八洋丸下船の時、会社にストも出来んじゃないか、やれるものならやってみろといわれた」桜田通信長(無線通信87年11月号)
猛烈な肩叩きの中での「男らしくさっさとやめたらどうだ」という挑発。「お前はダニみたいな奴だ」という侮蔑。「今この時期にストをやることは社会的に非難される」という有形、無形の圧力。
この時代、鎌田慧は『国鉄、炭鉱、造船、鉄鋼。「過員」は意識的に作り出されている。労働運動に不足していたのは、資本主義への怨みであり、仇討ちの思想だった。だからお目こぼしの賃上げさえ拒否されるまでにナメられたのだ。人間を解体する合理化に対置する人間的な連帯の復権は、人間的な運動スタイルでしかつくりだせない』と、書いた。(87年・労働情報・労働者への手紙・激辛の時代)
瀬戸内海の片隅で始まった「小さな」ストライキは、怨みと怒りをバネに人間としての誇りを賭けた闘いであった。団結が、雇用機会の分かち合いという思想まで高められたこと。そして、中小職場の特長である互いの関係の緊密さが生かされ、船通労と海員の組合員同士が所属組合を超えて連携したこと。総じて人間的な連帯の復権を求めて闘った貴重な例と総括できる。
87年のこの年、重厚・基幹産業の大労組は、職場労働者への「過員・余剰」攻撃を放置したまま、全民労協(後の連合)発足へと走る。翌年から始まる金融・資産バブルは国のかたちをも変えていく。