伊藤 敏(元外航船員)
第七章 失業船員の運動
前号で失業船員が1万人を超え、失業船員連絡会が、77年に設立されたと述べた。
2009年の正月。テレビは日比谷公園の派遣村の様子を映し出していた。都会へ職を求めて出てきた多くの船員が、港に無料宿泊所をつくれと要求していた77年当時を思い出した。船員はさかのぼること30年前に同じ状況に既におかれていたことになる。
大きな相違点は、陸では切られたのが下請け、孫請け、非正規労働者であったが、海上では仕組船構造が温存され、社員船員が切られたことだ。
大々的に報じられた派遣村は、誰の目にもこの国の抱える深刻な病の象徴と映り、やがて政権交代へと繋がる契機となった。
一方、船員の失業は社会問題化されることなく、放置された。
失業船員の運動は先ず神戸で失業船員連絡協議会として生まれたが、神戸で運動の中心を担っていた元内航船長の吉田盛弘さんによれば、地方から出てきて新開地の労働センターや付近のドヤに寝泊りしている失業船員などのカンパで運動は成り立っていたという。
彼は深刻な失業の苦しみから解放されるためには「失業船員の自覚と行動」が必要と痛感したことが、その動機と語る。
しかし、運輸大臣や組合長へ要請書を再三提出し、現状の改善を訴えたが、なんら顧みられることはなかった。
その後運動は大阪、東京、横浜と広がり、失業船員連絡会が結成された。
手元に77年の組合大会で撒かれた同会のビラがある。
呼びかけ文は失業大量発生の原因を正確に見抜き、この状況を改めるために労働組合の任務を次のように訴えている。
『東南アジア人船員と同じ賃金では到底生活できませんが、それすら乗る機会がなく、失業保険の切れた船員が激増していますのが、失業船員の現状です。
大手船主はオイルショック以降、不況宣伝をネタに脱税脱法の便宜置籍船、仕組船建造に狂奔し、片っ端から海外売船を行い海運市場の支配を強化するための船腹再編成を強行しました。
人減らし首切りを認めず、労働条件の維持、向上のために徹底して闘うことです。海造審や近代化調査委員会から、組合はテーブルを蹴って速やかに引き上げるべきだと思います。1万人を超える失業船員を乗せるために仕組船奪還闘争を組合の命運をかけたストライキなどの具体的行動で敢行しましょう。雇用不安に脅かされている現場船員も、必ず勇気を取り戻すことでしょう』
次に、失業船員の要求をみてみよう。
①失業船員を動員し持続的なデモンストレーションへ発展させる
②労提船にも船員保険を適用
③失業船員に就職までの生活支援制度を
④港に無料宿泊所を作れ
⑤公平な乗船順位のルールを作れ
⑥地方自治体に働きかけて陸上の仕事を斡旋させよ
⑦統一した労働条件を設定せよ
⑧常石海運との劣悪な協約を破棄せよ
―等々である。
他方、組合の失業船員問題への対応はどうであったか。
『執行部員は、世話をしてやっているのだから有難く思え、という態度』『労働組合は弱い者の味方なんて遠い昔の話。組合執行部にニラまれたら乗れる人も乗れなくなってしまう』(関東地区失業船員連絡会ニュース13号より)
支部執行部員ばかりではない。失業船員の代表者が、組合三役・中執に面会を求めても逃げ回っている様子がニュースからは見て取れる。
その結果として、『失業船員は邪魔者扱いされていると感じる』(ニュース19号)のであり、
『組合は信用されていない。その証拠に失業船員は1万人をゆうに超えるのに、離職登録者はたった200名』(ニュース6号)というのが実態である。
産別組合の組織形態の最大の意義は「失業して企業と縁が切れても組合員であること」である。
ニュースが伝えるように、組合執行部が失業船員を邪魔者あつかいして、雇用船員しか眼中にないとすれば、それは産別の意義を全く理解していないといわざるを得ない。
『失業船員は、長い年月の潮風が染み込んで、オカで職を求めようにもなかなか良い職はなく、オカの速いテンポについていけない(吉田氏の大会発言)』という船員同士が抱える共通の困難に直面したとき、そこに互いに助け合い団結する理由を見出した。
この当時に展開された、失業船員の運動は、企業の枠を超えた産別運動そのものであったということができる。
第八章 雇用促進センター
組合は失業船員の要求に応じて、運輸省や船主協会を取り囲むこともなく、ついぞ反失業闘争を社会問題として提起することはなかった。
一方、雇用問題解決の切札として組合が取り組んだのが、船員雇用促進特別措置法を基に78年6月に発足した船員福利雇用促進センター(雇用センター)であり、もうひとつは労働協約や売船協議での個別対応方針である。
雇用センターの初代会長は、海民懇発足時にプロモーター役を買って出た、壺井玄剛氏である。
雇用センターの主たる事業は、次の通り。
①船員の職域開拓及び就職斡旋。2千人の日本人船員を外国船に斡旋する。離職船員枠は1千人
②船員の技能訓練に関する事業
③船員を雇用センターに派遣する。船主に対する派遣助成金
④外国における訓練制度・施設の調査研究
センターの業務を軌道に乗せるためには、船主が仕組船と余剰船員を提供することが条件となるのである。しかも船員費コストはITF・ワールドスタンダードを適用して日本船の3分の1程度。
8月3日付け海事新聞によれば、欧州市場調査を行い帰国した壺井氏は『欧州船主の腹はワンギャング50万ドルでそれ以上は出せないと言っている。今年度の2千名就職は到底不可能。失業船員と騒ぐが、実態は2~300名位だと思う。その中から外航船有資格者はもっと少ないであろう』と述べている。
失業船員が2万人に膨れ上がるこの時期にまさに放言としか言いようがない。
また、センターから乗船する場合は研修を事前にうけることが求められるが、失業中で失業保険が切れた者にとって生活を保障する補助もない制度設計では、研修を受けることなど無理であった。
労働条件について、国会での付帯決議では外航2船団並みが決議されていたが、失業船員については、中小労船員の8割以下で下船後は予備給も失業保険もない。
賃金はマンニングブローカー経由の労務提供船と変わらない劣悪なものであり、1船あたりの船員コストは東南アジア船員並みの50万ドル。
鳴り物入りで発足した雇用センターは、労働条件のダンピングがなければ機能不全状態なのである。
雇用センター設立のために計上された1億数千万の予算は、役人の海外旅行の費用かと、失業船員の中から怒りの声があがる。
やっと出てきたセンター第一船のモービル・ブリリアント号へ乗船を開始したのは年明けの79年1月のことである。
緊急雇用対策以前のこの時期、既に中小非系列、一洋会、愛媛船主会を中心に、ほぼ毎年1万名ずつ、船員が減少していることを見逃してはならない。
第九章 個別対応方針
『会社なくして雇用なしという現実を直視すれば、労働条件引き下げもやむなし。賃上げは二次的問題だ』『個別対応で、労働協約の柔軟対応を。失業予防としての個別対応を』『定員削減に応じて、コスト削減に協力を』
これら発言が、その頃の汽船部関係会議での主流であった。
78年2月の汽船部委員会でのことである。私は、個別対応に反対だ、と発言した。
すると、当時倒産して再建手続き中の企業に所属する私が、個別対応を支持しないのは理解できない、という発言があった。
議場が私を注視している気がした。私は再度立ち、『どうか、みんな頭を冷やしてほしい』と先ず述べて、次のように続けたと記憶する。
『企業の生死は、債務、債権の大きさや内容。系列資本の大小。荷主との関係の強弱。主力銀行の意向で決まるわけで、従業員の協力の度合いなど微々たる要素に過ぎない』『当社の倒産は、大型フェリーへの過剰投資であり、タンカー市況を当て込んだ大量の外国用船の失敗にある。今日の外航問題の元凶は、大量のリベリア、パナマ籍のチャーターバック船、仕組船が市場に流れたことによる過剰船腹だから、このことをどう是正するかが本筋であろう』
以降議場からは何の反論も出なかった。
結局、私の所属企業は、その15年後に清算し、船員は職場を失い離散する。清算の真因は長銀、開銀といった主力銀行の支援の放棄であった。
長銀は、税金を注入しながら外資に乗っ取られた現新生銀行、開銀は現在の政策投資銀行である。計画造船から仕組船建造イコール輸銀融資へと移行する中で、両銀行とも海運への関与を薄めつつあった。
主力銀行のその後の変遷をみれば、会社は潰れるべくして潰れたのであり、乗組員の協力の度合いなどほとんど無関係であると、30数年経た今でも確信する。
経営危機が表面化した時、先ず会社が懸念するのは、従業員の志気の低下である。収入のほぼ全てを従業員の安全運航に託す、海運の特性からいってもそれは当然であり、労働条件の切り下げなどは二の次というのが事実である。
現実に会社が倒産の当時、うつ病のような精神疾患と重大死傷事故が多発した。
私は度重なる死傷事故や精神疾患の多発で人間が壊れる存在である、ということを思い知らされていた。
議場では、『現実を直視すれば、失業予防としての個別対応もやむなし』という意見が蒸し返えされていたが、倒産の現場に身を置く私には、彼らのいう現実には何のリアリティーも感じなかった。失業予防という言葉が、空疎にしか響かなかったことを覚えている。
ノイローゼと診断され、ルアーブルから成田空港へ送り返されてきたA甲板手のうつろな目。
タービン船のガスエアヒーターに挟まれて、ちぎれたK操機長の血まみれの足首。
ペルシャ湾の港でホーサーにはねられて、死亡したH甲板員の飛んだヘルメットを想った。
私には、目や足首やヘルメットこそが現実だった。
理想(論)だけでは、現実は変えられないとよく言われる。
しかし「現実」という言葉が理想を追わない口実に多用され過ぎていないか。そう疑念をもつ。
「現実」をよりリアルに凝視するなら、人の作った仕組の酷薄さや不条理に気付く。その結果、「現実」を変えたいという気持ちは強まりこそすれ、決して弱まることはない。
「現実」という言葉はそのような文脈で使われるべきである。
しかし、汽船部委員会での「現実」はリアルに凝視されることなく、不毛の論議を経て個別対応路線へ収束され、やがて産別協約が崩壊する糸口となっていく。
次号以降、船員制度近代化、緊急雇用対策、そして新マルシップ混乗導入と順を追い、一人ひとりが分断されアトム化して自己責任を負わされいく過程を綴る。
それは国の政策からナショナルが消え、カンパニーが全面に出る背景と重なる。
船員を取り囲む大状況については、海運白書や組合機関紙を通じて把握することも可能であろう。
しかし、今回失業船員の運動を紹介したが、闇にほうられてはならない貴重な「小さな歴史」に光をあてることも、この「羅針盤」のような冊子に課せられたもうひとつの責務と思えてならない。
主として部員協会と通信士組合が、職能の危機として船員制度近代化に真っ向から反対して作った近代化対策連合のこと。
緊急雇用対策の嵐の中で唯一闘われた、竹中不当解雇反対闘争の意義、新マルシップ導入に反対する組合員有志の声明等々。
それらに関わった者として可能な限り今後ふれていきたいと思う。