伊藤 敏(元外航船員)

第四章  船員は自壊したのか敗北したのか
 政治や経済のグローバル化という歴史的な流れの中で、国際的な競争力を失った日本人船員は、自然現象として淘汰された、と果たして括れるのだろうか。
 かつて6万人近くいた外航船員が今限りなくゼロに近づこうとしている原因の説明を陸上の労働者に求められたことがある。
 船員の無気力やあきらめ、労使協調を標榜する労働組合の介在、それらの結果として、大量に海上を去り船員集団は自壊したと説明しても誰も納得はしてくれない。
 では、原因はどこにあるのか。前号で船員にとってのメルクマークと規定したのは、1975年であり仕組船認知論、いわゆる菊池構想の打ち出された年である。
 仕組船認知論とはどのような狙いがあったのであろうか。
 第一は、船舶建造資金の調達の変更である。それまでの財投資金の開銀を通じた計画造船から、輸銀や外資による資金調達への変更である。
 第二に船員費の安い外国人船員の配乗導入である。
 第三にそれは政府のコントロールからの脱却を意味するから、伝統的に陸上労働者と区分されてきた船員労働行政や政策の縛りを解き、船員法・船員保険法その他の法律の形骸化を目的とする。
 第四に中核会社を軸に系列・専属会社を定めて、長期積荷保障(それは半面で荷主隷属・安い運賃をもたらした)で雇用を維持してきた海運集約体制の破壊である。
 第五に混乗船の拡大に伴う大手と中小、職員と部員の分断。純日本船が培ってきた技能伝承体系の破壊である。
 以上のように列記されよう。
 結論づけるなら、計画造船方式の裏側に抜きがたく張り付いていた、船員の保護と雇用保障を嫌い、これを規制緩和することが狙いだったのである。
 『日本人船員が混乗を通じて、その優秀な技術をもってASEAN諸国の船員を指導し、相互の協調と理解を深めることによって、日本とASEAN諸国との架け橋になってほしい』 (日本郵船社長菊池庄次郎「経済的安全保障と海運・混乗にかける私の夢」カレント・77年1月20日号)
 前述の仕組船認知論の狙いを見れば、ロマンチックな「架け橋」や「夢」と大きくかけ離れていることがわかる。
 陸上産業では企業間格差が大きく広がり、中小下請けや社外工などの労働者に犠牲を転嫁させ、本体は傷つかずに済む体制を既に完成させていた。陸上に遅れをとった船主にすれば、「使い勝手の悪い」部員や中小企業船員を抱えた現状からの転換は大命題であり、それは、アジアまで見据えた搾取基盤の再編なのである。
 混乗は「時の流れ」というが、海面だけでなく深層海流も見つめた時、これまでの船員政策の抜本的な見直しこそが最大のテーマであり、ここに明確な船主の意思を見ることができる。
 30年を経た今日、時代に流され船員は自壊したのではなく、周到に用意された船主の攻撃に敗北したのである。

第五章 くすぶる現場の熱気
 小山海運の倒産、照国海運の会社更生法適用などの経営危機の顕在化を始め、この時期外航海運は本格的な不況に突入していた。
 そうした状況の中でも現場船員は黙っていたわけではない。
 特に部員は鋭く反応した。部員協会は、船員の職場は船だ、代替船なしに明け渡すな、仕組船に部員も乗せろと要求している。日本船員はコストが高い、といわれても特に部員の現状は「乗船本給を家に送るのが精一杯」であり、「マイカーやクーラーがほしい」という、大衆消費社会からも無縁の生活水準であった。
 現場組合員は、菊池構想に不安を抱きながらも依然として72年の長期ストの余韻の中でいまだ意気軒昂であった。特に50歳以上の世代にはその誇りが残っていたように思う。
大手A社では会社主催の予備員集会で、「戦後は俺たちも貧乏だったが、会社だってゼロから俺らと一緒に大きくなったではないか。今になってお前らは要らない、では納得できない」と、会社幹部に詰め寄った部員がいたという。
 船員労働があってこそ海運資本が存在する、と言いたかったのだろう。船主の利潤と生産過程が全面的に船員に委ねられているという海上労働の本質を見事に言い当てている。
 76年の春闘は各系列が社船の1割を減船するという、異様な雰囲気の中で闘われたが、外航現場は8割超の賛成で、スト権の確立でこれに応えた。組合中央も現場の期待に抗し切れず、例えば労働協約の失効に際し、一般投票によってスト権を確立した上で交渉に臨む、といった方式がその年以降に半ば定着した。
 雇用については、「船員政策協議会で基本問題が解決されない限り、船主から提案されている売船は認めない」という方針を決めた。当時、組合印のない売船を運輸省は認可できなかったのである。
 更に各系列ごとに(各社ではない)具体的な身分保障と職場確保を明確にさせる、という方針も併せて決められた。又、丸シップ奪還で通信士組合や全港湾との共闘も合意された。不十分ではあっても産別の雇用を模索している点に希望がある。
 これら現場の熱気や海員組合中央の雇用方針に危機感を募らせたのが船主であった。そして明確な意思として放った2本の思想攻撃の矢が「企業意識」と「反共主義」であり、その先兵を担ったのが海民懇を結成した職場委員である。

第六章 海民懇と組織分断
 日本郵船社長菊池庄次郎氏が76年の年頭の挨拶で『職場委員を通じて海員組合の中に企業意識を浸透させていく』と語ったことは前号で紹介した。
 天竜ホテルでの海民懇の母胎である勉強会グループと郵船副社長・東京タンカー社長・MO常務との懇談、同盟・和田氏や重枝氏の関与、一部執行部のそれらとの結託、そして12月の全国大会の役員選挙と策動は続くが、ここでは触れない。
 外航船員ゼロへの軌跡の検証が本稿の目的であるので、ここでは海民懇の思想性と仕組船認知論への関わりを述べたい。
 先ず、企業意識を生み出す企業間格差は産別運動の中でどのような変遷をたどったのだろうか。
笹木弘東京商船大学教授(当時)は次のように述べている。
 『戦中、戦後にかけて一元的に管理されていた海運産業は、昭和24年民営に還元され、その後も企業規模間の格差を拡大し、独占化、系列化を深めていった。船員は一面個別企業に雇用されながら、他方では単一組合に組織されているので、この間に当然矛盾が生ずる』(船員政策と海員組合・成山堂)
 その具体例として、御用組合的な色彩を持った親睦団体の続出や昭和25年に各社所属船員の苦情処理を理由に「職場委員制度」が設けられたこと。大手では職別最低保障本給が本人本給との二本立てとなったことなどを挙げている。
 そして『資本の不均衡な発展と格差の増大は、単一組合のなかにいろんな矛盾を持ち込んでいる。結局正しい原則性に立脚した統一と団結の強化こそ真の対応策といえるだろう。』と結論づけた。
 つまり、企業意識や企業間格差は殊更真新しいテーマではなく、産別の中で戦後の時期から止揚されるべき課題として存在してきたのである。
 仕組船認知論のこの時期に強調される企業意識とは、何だろうか。どういう狙いがあるのだろうか。  
 仕組船認知論は、「海運自由の原則」を謳う。だが、自由な競争というからには公平なルールが前提として設定されなければならないが、その実態は『世界の海運の特徴は、やみくもな利益追求であり、便宜置籍船によって規則・技術・社会保障の上での無法地帯となった』(パリ第8大学教授ローラン・カルーエ、雑誌「世界」2000年・5月号)のである。
 無法地帯では、「弱肉強食」へ向かうことは必定である。より大きな海運企業はより大きくなり、弱小海運で働く船員はわが身の不運を嘆け、ということである。「自己責任」として大量の船員が海上を去るきっかけが、作為をもって用意されたのである。
 海民懇の設立趣意書(76年6月22日)を吟味してみよう。

 現状認識については『例え不況から脱出できても船舶の増加需要は期待できず、もろもろの外因により、日本海運を縮小させる要因がある』『われわれ日本船員は国際競争上、現状では経済性においてその存在価値を失いつつあるのが厳粛な実態である』とする。
 つまり、日本人船員が不要になってきたということを船員自ら認知せよ、そして、賃下げどころか場合によっては競争力のない船員は退場せよ、ということである。
 この思想の裏に、合理化や混乗が始まっても自分は残れる、去るのは自分以外の誰かだ、という思惑を読み取るのは容易である。
 仮に合理化協力で会社が勝ち残っても、次に訪れるのは周辺諸国の低賃金労働者との無限の競争である。「会社なくして雇用なし」といっても、従業員の協力の如何で企業が生き死にする訳ではない。背景資本の大小や銀行支援の度合いに規定されるのである。これこそが厳粛な実態である。
 国際競争力の喪失について日本郵船監査役・米里正明氏は次のように述べた。
 『わが国船腹は世界第二位を占め、船隊構成、船舶の質においても世界のトップレベルにある。本質的に国際競争力を保持してきたが故に発展してきたと見るべきだ。
 国際競争力は総合力の相対的な比較であり、一船別の各費目の比較だけでは判定できない。国際競争力の劣弱点のみに捉われず、逆に優位点に目を向けこれをいかに伸ばすかが、問題であることを忘れてはならない。船員賃金の伸びは不可避であり、問題は質の優位性をいかに生かすかだ』(海員ジャーナル・76年7月20日号)
 船主サイドには事態を冷静に見る目もあったのである。
 同設立趣意書は雇用について『産別の最大のメリットは個別企業の倒産によって起こる雇用問題を組織全体でカバーする点にある。
 経済の転換点に突入してから既に3年というのに、未だ見るべき対策は実施されていない』と当時の組合を批判している。
 その指摘に異存はないが、であれば、雇用方針はどうあるべきかを提示すべきであった。
 ところが、組織が有効に機能しない原因は『根本的には労働組合としての理念と物の見方がここ数年来大きく偏向したことにある』とすり替えて結論付け、延々と反共攻撃を綴るのである。
 その後、「海員組合のカルテ」「全貌」「海員組合における共産党組織の実態」といった怪しげな文書が捨てるほどばら撒かれ、大会役員選挙では、海民懇の支持する者が役員当選を果たしていく。
企業の労働組合への支配介入と反共主義の結託が、組織分断にまんまと成功するのである。
 76年秋の組合大会で、海民懇の支持で選出された村上・平郡体制が、示した方針は、労働債権確保、再就職の斡旋、船主への雇用調整給付金の支給を内容とする雇用対策では定番の3点セット。加えて、各社ごとの個別対応による統一労働協約の弾力化であった。
 しかし、労働条件の引き下げで雇用が守れるわけはなく、雇用者の概念を広げ、背後にいる船主・荷主や国の責任を問わない限り、実効性のある雇用対策とはならないのである。
 あらゆる対策が立ち遅れた結果、年明けには失業船員が1万人を超え、翌77年に東京と神戸で失業船
連絡会が結成された。


(次号につづく)